入院までの間、母は色々と考えていたようです。その中で出来れば入院までの間に京都の知恩院に行きたいと言い出しました。

平成13年10月のある晴れた日に車で2時間弱掛かる道のりを、私たち親子との4人で出掛けました。母はすこぶる上機嫌で知恩院や清水寺、京都の町並みを歩いて周りました。最近の母の状態からは想像も出来ない行動力でした。きっと将来の自分の事をお祈りに来たのだと思います。まばゆい太陽の光の中で私と母が笑顔で主人のカメラに向かって笑っている写真が残っています。ずっと続いてほしい家族の光景でした。


 母の死後、母の遺品の中から京都の寺で書いてもらった写経の冊子が出てきました。私達が知らない間に一人で幾度となく京都を訪れていたようでした。母がどんな思いで京都を訪れていたかと思うと胸が痛み、その冊子を胸に一人泣きました。


在宅になってからお世話になったSクリニックのS先生は母の癌が分かった時、六甲病院の緩和ケア病棟を辞められて開業の準備をされていました。

新聞にその記事が載っており姉が以前、何かの役にたつかもしれないと切り取って持って来てくれたのを保管していました。メールアドレスが記載されていたため私は藁をも掴む思いで相談のメールを遅らせてもらったのです。返事は迅速に実に丁寧なものでした。そこに県立の病院のある先生の名前が書かれていました。私は看護師なので自分の職場の医師にも聞いていました。結局、全員の医師が同じ名前を言うのです。迷いはなくその医師宛てに紹介状を書いてもらいました。

 後日、S先生にその先生の受診に決めた事をメールで報告しました。先生から、「遠い将来お母様を診させていただきたいと思います。」と書かれた返信をいただき、本当に遠い将来に診てもらえたらと思いました。その時はわずか一年でお世話になるとは思いもしませんでした。

 こうして母は誰もが良いと薦めるA医師の診察を受けることになったのです。病院はA市にあり自宅からは30キロぐらいで、車では1時間の距離でした。父を最初に転院させようと考えていた病院の1つでした。あの時は自宅から遠いだけで行かなかった病院でした。でも、今回はもうそんな理由で辞めようとは思いませんでした。父の事があったからこそ余計に病院の距離など考えませんでした。若くして亡くなった父ですが母のために自分がそんな思いをして私達に病院選びは距離ではなく医師の腕だと分からせれくれたのかもしれません。なかなか本当に良い医師を探し出すのは難しいと思います。でもここで妥協したら父の時のように後悔すると思い、情報を得ました。私は看護師だから確かに探しやすかったかもしれません。でも今はインターネットで色々な情報は得られる時代です。セカンドオピニオンをしてくれる医師達のホームページがあるぐらいです。実際、その医師に会わないと合う合わないは分かりませんが事前準備は必要だと思います。

関本 雅子
在宅ホスピスハンドブック



 平成13年、私の息子が小学校に入学しました。1歳から3歳までは私の職場の保育室に入れていました。その後は小学校に入るまでは、自宅の近くの公立の保育所に母が毎日送り迎えをしてくれました。小学校入学後は、学童保育に通いました。孫をとても可愛がっていた母は夏休みの間、通学の途中まで付いて行ってくれていました。そのせいか、夕食になるとしんどいと言って部屋で横になるようになったのです。胃の不快も訴えるようになり掛かりつけの病院から消化器内科の受診をすすめられた母は、掛かりつけの病院でできないのなら様子を見たいと言い、内服で様子を見ていました。9月に入り、一向に回復しない母を見て私と姉は、消化器内科での胃透視を薦めました。この九月は母にとって特別の月でした。父の3回忌だったのです。色々と法事の手配が済んでから母も落ち着いたのか検査に行く気になりました。 

 当日、私と姉が付き添って受診しました。胃透視が終わると予定外の胃カメラをすると先生が言ったのです。この時点でもう嫌な予感はしていました。検査が終わると家族だけが呼ばれました。本当にテレビドラマのように先生は

「胃癌ですね。かなり進んでいるから早く手術したほうがよいでしょう。病院はそちらで決めてもらったら紹介状は書きますから。」

と、言いました。悲しむ間もなく母の所に戻らないといけません。できるだけ普通を装い

「詳しい検査がいるから大きな病院に行かないといけないって。」

とだけ会話しました。もう私の頭の中は何処の病院に腕のいい医師がいるだろうかに切り替わっていました。

※息子の卒園式。亡くなったときの体重はこの頃の半分だった。


母の指輪

 父の死後、今となってはなぜあんなに父の遺骨に執着したか定かではありません。でもいつも身に付けておきたいと強く思っていました。最初は適当な市販のピルケースを探していました。しかし、遺骨を入れるとなると安価な物に入れる気がしませんでした。そこで主人の母の代からお世話になっている宝飾店を訪れました。創業百年のその宝飾店の経営者の方は、私達の唐突なお願いを嫌な顔一つせず快く引き受けてくれました。母、姉、私はそれぞれ希望のデザインを告げてその日は帰りました。その後、その案を基に丁寧な指輪のデザイン画を作製して下さいました。数ヶ月間、出来あがるのを楽しみに待ちました。

 出来あがりは見事なもので、職人の方の心遣いが伝わる物でした。母は大きなプラチナだけの指輪、姉は母と同じタイプの小さめで周りにダイヤが入っている指輪でした。そして私は一面にパブェのダイヤとエメラルドの散らばった花びらの形の物でした。宝飾店の方が最後に一言、「創業百年で始めてのご注文でした。」と言われ思わず親子で苦笑いしました。その指輪は何年経っても私の指を満足させてくれる品質の物で、食事や旅行にいつもはめています。そして食事の時は食べ物の前に指輪を置き、心の中で「お父さんの食べてね」と、言うのです。

 母がお世話になったSクリニック(六甲病院緩和ケア病棟勤務後平成十三年開業)のS先生に往診時に指輪の事を話すと感激してくれました。同じように遺骨を側に置いておきたいがなかなか良い方法がないといわれる遺族の方がいるそうです。他の場所でこの指輪の事を話してよいかと聞かれ二つ返事で承諾しました。

 宗派やお坊さんによって遺骨についての考えはまちまちです。最近は海上などで散骨をする方もいますが、遺骨は大切にする心があれば、どんな方法でも良いと私は思います。

写真は母の作成した指輪。プラチナのみで後になってダイヤを入れておくべきだったと後悔していた!

 

父が亡くなる4年前、平成7年1月17日阪神淡路大震災がありました。神戸市H区に住んでいた私の両親・祖母の自宅は全壊し、自宅再建までの1年以上を当時私達夫婦と子どもが住んでいた神戸市灘区で暮らしました

自宅再建までは近隣の問題やあまりに多い住宅再建のため思うように進みませんでした。近隣との問題で母と息子を連れて弁護士会館まで足を運ぶこともありました。私の住んでいた灘区の公団住宅は幸い大きな損傷はありませんでしたが 、水道・ガスが止まりました。主人は復興事業の仕事に従事していたので毎日朝早く出勤、両親は暫く自宅から荷物を出すために出かけていたので、私が子どもをおんぶして4階までの水の運搬・家事全般を担っていました。息子は川の水をガスコンロで沸かして衣装ボックスで入浴させていました。父の勤めていた会社は関西でも大手の鉄鋼会社だったため職を失うことはありませんでしたが、激務を強いられました。仕事や自宅再建の問題、慣れない場所での生活が重なり平成8年3月に脳梗塞を煩いました。幸い大事には至らずすぐに退院の運びになりました。この地震が数年先の父の死に大きな影響を与えたことは言うまでもありません。全てがあまりに衝撃的な事だったので当時の細かいことは記憶が飛んでいるのですが、小さな息子の笑顔やしぐさに家族の皆が救われたものでした。平成八年四月に自宅が再建されました。家具をわざわざ自宅の庭にプレハブを建てて保管してくれた伯父や岡山に住んでいた姉には色々と力になってもらいました。

暫くは母との旅行を重ね、孫とも暮らしていたため父にとっては幸せな日々でした。平成11年の7月には日本を船でクルージングする旅行に出掛けました。その時、私と息子が港まで送って行きました。船が小さくなるまで息子と2人で手を振り続けました。これが2ヶ月後に本当に父との最期の別れになる予感にようにずっと手を振り続けました。そしてその年の9月、最愛の父を白血病で亡くしました。59歳の誕生日を迎えたばかり、発病から2ヶ月余りでの死でした。阪神・淡路大震災からわずか四年でした。掛かりつけの医院から紹介された病院では治療が出来ないということである病院を紹介されました。その時は一刻も早く治療を開始しないといけない状態でした。私としてはこの近辺にある病院を紹介してくれると思っていたのですが、紹介された病院はN市の私立大学病院でした。そして次の日には一転私達の住んでいるH区の隣、N 区の病院に紹介すると言われました。私としてはC区にある公立の病院なら免血病棟があるので出来ればそのほうが治療に適していると考えましたが無理と言われました。その時は自分が看護師でありながら父の白血病という病気にショックな事と早期の治療を開始しなければならない事、付き添う母を考えれば結局は近くの病院に決めました。しかし、後になって後悔し続けたことはそういう選択で病院を選んだことでした。もう少し最初に入院した主治医に転院先を強く希望してC区の公立病院に転院できなかったんだろうか。そして私の勤務している公立病院系のA市の病院に転院したほうがよかったんじゃないだろうか。それは父が亡くなって何年経っても思うことでした。

結局父は、初回の抗がん剤治療後、副作用や肺炎に苦しみながら最終的には多臓器不全で亡くなりました。お世辞にも私達と入院先の医師・看護師達との関係は良いとは言えませんでした。白血病のことを「厄介な病気になりましたね。」と転院初日に言った主治医、父の体を拭いてくれている看護師二人に向かって「どっちが先にお昼に行くのか決めてくれないとこっちが困るんだけど。」と言いに来た年配の看護師、「ねえねえ、○○さんってターミナルだよね。」とオープンフロアのナースステーションで事も無げに父の事を話す看護師・・・医師と看護師との指示請けミス。精神的な面を全く無視し、人間を患者という物でしか見なかった主治医と一部の看護師達・・・・なんで、こんな医師と看護師がいるんだろうと、憎しみもを持つ感情抱く日々でした。穏やかだった父の性格はどんどん変わり、娘の私を病室に入ってきた泥棒と間違えて打ったり、自宅に帰りたいとポケットのないパジャマの胸からお札を出そうとしてタクシーを呼んでくれと懇願していました。どうしても、入院先の病院で父の最期を迎える気になれずK区の緩和ケア病棟〔人生の最期を痛みを出来るだけ除去しその人らしく過ごすというスタンスの基に作られた病棟〕がある病院に主人と相談に行きました。数少ない緩和ケアの病棟でありもちろん入院待ちの患者さんもいました。突然予約もなく訪れた私達をその病棟医と看護長は静かに諭されました。しかし、私が大泣きをして今までの思いを話す姿を見て先生は、

「転院するまでの救急車の中で死を迎えてもいいなら明日の入院をうけましょう。」

と、言ってくれました。元の病院に戻ったとき、日頃からどうしても受け入れることの出来なかった看護師が、

「入院は受けてくれなかったでしょ?」

と、意地悪く言ってきたことが今も忘れられません。結局、父は転院する日になった0時を暫くまわってから亡くなりました。転院は出来ませんでした。

その日は母と姉と伯父が病院に泊まっていましたが、私が姉から電話を受けて病院に駆けつけた時は、母も姉も伯父も廊下に出され沢山の医師と看護師が父を囲んでいました。父はもう動く力もなく、頭を下げられ挿管チューブをまさに挿入されるところでした。

「もう、いいです。」

と、私が言い家族を病室に呼びました。

「お父さん、好きだったよ。有難う。」

と、言う私の横で、若い医師が父の胸を叩いて心臓を動かそうとするので

「もう辞めて下さい。」

と、私は力なく言いました。結局、転院は出来ませんでした。こんな2ヶ月の入院生活で私、母、姉は父の死がなかなか受容できませんでした。あんなに大好きな父がなぜ苦しんで死ななければならなかったのか?人は生きてきたように死ぬというが、なぜ善良な父が生きてきたように穏やかに死ねなかったのか?晴れた空を見上げると、父が死んだのになぜ空は晴れているの?と、自問自答を繰り返していました。医療者との関係も同じ医療者としてショックで、自分は患者さんの気持ちを考える看護師であらねばと強く感じました。状態は決して良くなかったので他の病院に入院しても同じような経過をたどったかもしれません。でも対応の違いがあればもしかしたら、入院生活をこんなに辛く送らなかったかもしれません。その後、知り合いの医師に父の主治医〔実際は主治医の上の医師のこと。主治医は研修医だったため上に医師がいた。〕の事を話すと、評判の良くない医師だったのになぜ掛かったのか、と言われ余計悔やみました。父の死は何年たっても受け入れることは出来ませんでした。年月は父の死を少しは忘れさせてくれますが、あの病院の医師・看護師は今でも憎んでいることに関しては否定できません。

 入院中の2ヶ月余り仕事を休んでいた私は、忌引きが終わった10日後より職場復帰し、また以前の看護師、主婦、母親の忙しい日々に戻りました。しかし『人の死』について、特に病院で人が死ぬことの意味について考えるようになったのです。人によったら自宅で死ぬこともひとつの選択ではないかと考えるようになりました。本屋で死についての本を探す日が続きました。その時、出会った本が末期医療、死の科学の第一人者であるエリザベス・キューブラ・ロスの『人生は廻る輪のように』の訳書(角川書店)と、当時聖ヨハネ会総合病院桜町病院ホスピス科部長、山崎章郎先生の多くの著書でした。看護師でありながら、ホスピスついて無知だった私に衝撃を与えました。患者が主役であること、癌患者の疼痛コントロールを含む症状コントロールはできる、痛みは死の恐怖からでも感じるときがあるなどを読み、そのような医療が受けられていたら父も穏やかに死を迎え、私達家族もいつまでも悲しみに更けることはなかったかもしれないと思ったのです。また、私が感銘を受けたエリザベス・キューブラ・ロス先生の本を読み他科からホスピスを目指したと、山崎医師が書いていたことに共感しました。自分が共感した医師の本を読んで本当にホスピス医になった医師がいたんだとびっくりしました。自分がロス医師の実践してきた医療に感銘を受けたと同じように山崎医師がそれで自分の担当科を変えてホスピス医師になったことに、自己解釈すぎますがある点共通点を感じたのです。

 母は読書が趣味だったため父の死後、死に関する本を読んでいたようです。ある日私に「私が死ぬ時は、痛いのは嫌だからね。だから、最期は痛みが取れる病院に入れてね。」と、いいました。幸いなことに近隣に緩和ケア病棟を有する病院があり、近い将来母が病に倒れるとは考えもしていなかった私は「もちろん」と、軽く答えました。しかしその時に私は父の事もあり、もし本当にそういう時が来たら最期は自宅で看取ると心には決めていました。

エリザベス キューブラー・ロス, Elisabeth K¨ubler Ross, 鈴木 晶
死ぬ瞬間―死とその過程について


山崎 章郎
病院で死ぬということ

山崎 章郎
僕が医者として出来ること―ホスピスの歩み、これからの夢
山崎 章郎
僕のホスピス1200日―自分らしく生きるということ





はじめに


 最愛の夫や両親、子どもが亡くなった時、遺骨をお墓に納めたくないと思われことはないでしょうか?現実に納骨をされていないご家庭もあると思います。
父が亡くなった時、私達家族は心の底からそう感じました。そして無理をお願して宝飾店で指輪をデザイン・作製してもらいました。そして今、父の遺骨を入れていつも付けています。きっと遺骨をそんな物に入れてだの、分骨してだの、罰あたりだのと言われる方もいると思います。でも、遺骨が入った指輪をして私達は父の死を乗り越えようとしました。そうやって遺骨を側において置かなければどうにかなりそうな精神状態だったと、今冷静になって考えてもそう思えます。

 その時、父を一緒に看取った母の骨も、今は一緒に仲良く指輪におさめられています。胃癌により父の死後三年半で母も帰らぬ人になりました。父の死が私達家族にとってあまりに衝撃的だったため、母の最期は在宅で看取ろうと考えていました。ある医師に日本の国民性はホスピスを受け入れられにくいと言われました。確かに最期は自宅で迎えたいと望んでいる人は八割いるが、実際在宅で死を迎えられるのは二割だと読んだことがあります。あの医師の言葉を聞いた時、すでに在宅で緩和ケアを行いながら母を看ていた私は、それだったら母がどんなふうに在宅で過ごし人間として尊敬され、母らしく最期を迎えられたか書き残そうと考えたのです。

そして将来、出来るなら住み慣れた自宅で最期を迎えたいと考えている方々に少しでも勇気を持っていただけたらと思いました。ぜひ、このブログを読んで在宅ポスピスの良さ、そして日々奮闘している医師・看護師の方々がいることを知って下さい。

先日、聖ヨハネ。パウロ二世が亡くなられました。彼も最期は自分が長年過ごした部屋で息を引き取られたと新聞で読みました。きっと、穏やかな死に顔であったのではと思いました。

この画像は私が実際に作成してもらった指輪です。プラチナでダイヤとエメラルド。中に両親の遺骨が入るようにロケットのように空洞になっています。35万でした。遺骨なのでしっかりした物を作成したらこの値段になりました。




あの阪神淡路大震災後、自宅が再建したわずか3年で父が白血病で亡くなりました。主治医・数人の看護師と上手く関係が持てず父の死を受け入れることが出来ませんでした。

その2年後母が胃癌になり母の強い希望で最期は在宅ホスピスとして娘の私が自宅で点滴・麻薬の管理をしながら平成15年3月4日家族に看取られながらこの世を去りました。

確かに両親供が亡くなったことは悲しいことでしたが、母の時は素晴らしい開業医に恵まれました。患者・家族主体そして痛みを無くす医療に重点を置き、母は最期まで患者ではなく一人の人間として自宅で役割を持つ日々を過ごすことが出来ました。

在宅で病気の人間が生活を送ることは家族の協力なくしては実現しません。けっして感動的なことばかりではありません。しかし、という最期の一瞬の場所を選択することで人間が人間らしく過ごし最期を迎えれる選択があることを少しでも多くの人に知ってもらいたいと思いこのブログの開設に至りました。

この3月に看護師生活14年に一旦ピリオドを打ちました。暫くは現場ではなくこのブログから沢山の人に‘自分の死’について考えて頂ければ、そして在宅で最期を看取るために奔走している医師・看護師がいることも知ってほしいと思います。


野木 裕子
「ホスピス」という選択