平成15年2月13日、バレンタイン前日。

主人、息子ともチョコレートが嫌いな我が家はいつも違う物をプレゼントしていました。

でも今年は私自身があまりそういう気分になれずにいたのでプレゼントは買っていませんでした。義母から電話が入り今から行くとの事。

なんだろうと思っていると主人と息子にバレンタインのプレゼントを持ってきてくれたのです。

息子がチョコレートを食べれないのを知っているのでクッキーを持ってきてくれました。

私なんかより義母は主人や息子に気遣いを払ってくれています。

帰宅した息子はおいしそうに食べお礼の電話をしていました。

義父・義母とも健康に気をつけて二人でしっかりとした生活を送ってくれています。長男である主人が私の両親と同居する時も心良く了解してくれました。

私は両親との同居がなかったら仕事を続けることは出来なかったと思います。なので、皆の理解があったからこそここまで来れたと思います。

母の介護休暇で自宅にいるようになってから、今まで当たり前に思っていた事が周りの協力あってこそと実感することが多くなりました。今まではそう分っていたつもりだったのに、分ってないことも多かったです。

 

母が病気になるまでは、家は本当に奇麗でした。

例えば流しに私が洗わず置いていたコップは必ず奇麗に洗われていました。

母が台所に立てなくなってから、私のコップは朝までそのまま、それがとても寂しく母がテキパキと動けなくなったことを象徴しているようでした。


入院中は食堂に行くと急にしんどくなったら困るからとベッド上で食事をしていました。

退院後自宅ではよほどの事がないと台所まで来ていた母が

自室での食事をとるようになりました。

それまでも食事の時間は皆と合わせる時は一緒にしていましたが、そうでない時は夜の10時になった時もベッドで食べることはほとんどありませんでした。

確かに部屋を移動して食事をとる事は気分を変えることにもなります。

しかし、今の母では場所がどうであれ食事をとることのほうが優先です。

心の中では皆と一緒に笑いながら食べてくれる時がまたきたら嬉しいと思っていますが、“その時その時の母の状態に合わせる”が一番!



平成15年2月12日、朝宅配便が届きました。Nさんからでした。

中には春を思わせる奇麗な和菓子と飲み安い粉末のお汁粉が入っていました

気遣いが伝わってきて涙がでそうになりました。

Nさんは、私が勤務していた病院で子どもさんを亡くされました。

子どもさんのために本当に頑張られ、亡くなられてからも子どもさんが書かれた絵画などの展示会を開き、最後には自宅に作品を展示するためのログハウスを建設されました

ご自身も大学院に入られ勉強され、子どもさんを亡くされた悲しみと隣り合わせになりながら前向きに頑張られています。亡くなられてからも病院に足を運んでくださり今では友情という気持ちがお互いにあると思います。看護師をしているからこそある出会いに感謝しないといけません。

母が亡くなった後も桜の花の入ったそれは綺麗な花束を持ってきて下さいました。






※手製の缶。テープが使用しやすいように紐をつけて通している。




平成15年2月10日、A病院退院時、保健会社に提出する書類の記載を依頼していました。出来たという電話があったので取りに行きました。朝一番で取りにいく予定が私が子供を送り出し母の点滴を終了させてから寝てしまい、母の内線電話で起こされました。なんと11時55分!でも母は行く気になっていました。

 

母は三日に退院してから外出することが出来ず家で過ごしていました。初めてこんなに長く外出しない日が続きました。本人が一番自分の身体の調子を理解しているので私も無理強いせずにいました。

今日は4月並みの気温だったこと、明石まで約50分かかるのでちょうど良いドライブになるので母も乗り気でした。在宅中、私と母だけが分かる言葉がありました。“日向ぼっこ”とは母が車の助手席に寝ながら日に当たるという意味です。

「今日は日向ぼっこできそうやから行こうかな。」

「ほんと。良い日向ぼっこ日和よ。」

少し長い距離を走る時は必ず食べ物を用意していました母は食事時間に食べれる時は食べましたが、無理な時は気の向いた時に自宅でも食べていました。いつもベッドのテーブルに必ず食べ物を用意していました。今日の車への持ちこみは今母のお気に入りの食パンでした。スーパーで売っている物ですが他の物と違い、柔らかく高級感のある味です。

車で走っている間母はゆっくり食べていました。場所が変われば食欲が増すもので、まして眺めの良い車の中ではピクニックのような気分になっているようです。 

 

病院で書類はすぐ貰えました。係りの人が

「中の書類を確かめて下さい。よければ会計しますから。」

というので、封筒を開けました。入院証明書は良かったのですが、通院証明書はこちらが希望した期限以外の日まで記入されていました。まだ確認中なのにもう会計で名前が呼ばれています。『確認してから会計じゃないの?』と心の中で叫びながらまだ会計は出来ないことを告げに行きました。

さっきの人はもういなく別の人にわけを話しました。

「こちらがかいたこの依頼用紙にちゃんと記載してもらう期間を書いたんですけどこれは医者に見せてないんですか?」

「はい、カルテを見て書きます。」

埒が開かないので書類について担当の方をよんでもらいました。その方に希望日以外の日を記載しているから訂正印をおしてほしいと頼みました。暫く待ってほしいと言われ待っていました。結局訂正印は押さずに戻ってこられたのです。

「保険会社はちゃんと調べるので向こうは余分なお金は払わないのでこう書いてても大丈夫ですよ。」

「明らかにこちらが希望した期限と違うところまで記載してて訂正はしないということですね。」

「ですから。こう書いてても向こうは多く払いませんから。」

「私が言いたいのはなぜこの時点で間違いが分かっているのに訂正しなかということです。そうしたらもし保険会社から訂正が求められてもこちらは一切関係しないので病院と保険会社で処理して下さいね。お名前聞いてていいですか?」

と、いうことになった。

他のひとはどうも思わないのかもしれませんが、私にはとても不思議でした。

これを記載したのは医師であり病院の受けつけの判断で訂正をしなくてよいのか?わざわざ、依頼した時点で記載する期間を書いているのに、その期間を医師に明示しないと言いそれもおかしいことだと思いました。絶対それは分からずに私に対応しただけだと思いました。私の職場ではこことシステムが異なり直接家族がどこからどこまでの期間をだと医師に言います。期間を言わないと医師も書けません。分かっているのは患者・家族だからです。

 

あまりいい気持ちがせず帰りました。今回の入院はなぜか気になることが目につきました。今までの入院ではそういうことがなかったので残念でした。

別に意地悪な目で見ていたわけでもありません。だんだん、自分が意地悪な人間になっていくようで嫌でした。複雑な思いを抱きながら、時間が掛かり車椅子に座って来ていた母が腰痛を訴え始めたので急いで車に戻りました。

車椅子を直しながら、本当にこれでこの病院には来ることがないのだろうと思うと、青い空の下にある建物に有難うと言いました。


私は平成14年5月から職場でアレルギー外来の担当になっていました(厳密には火曜日のみ。月・木・金は精神神経科)。

せっかくアレルギー検査に看護師が関わり始めたので以前から同僚のTさんと院内の看護実践報告会にその内容を提出しようと言っていました。その期限が迫っていたため久しぶりに勤務病院に足を運びました。母のお昼ご飯を早めに作り調子が良い事を確認してから12時に出掛けました。姉が仕事から戻るのが13時30分なので約1時間30分母一人になります。心配でしたか、母も私が行けるように気を使っている様子が分かったので思いきって出掛けました

 

Tさんとは2ヶ月ぶりの再会でした。メールや電話ではお互い連絡を取っていたのですが直接会うことは久しぶりでした。久しぶりの再会に2人して泣いてしまい2ヶ月間の空白を埋めるように喋りました

。彼女とは歳が近く職場でもプライベートでも仲良くしていました。お互い会わなくなってから色々あり思わず感情的になったのです。暫くお喋りをしたあと本題の原稿に取り掛かりました。一日で出来るものではないので今度は私の自宅に来る約束をして別れました。

 

それ以外にも久しぶりに同僚に会えました。I看護長、A主任、O看護師、です。母の経過、日々の暮らし、色々な思いを話すうちに自然と涙が流れました。やはり同じ看護職なので状況も理解してくれます。特にA主任は私が介護休暇を取得する以前から励まし続けてくれていました。

「私はもし母が死んで職場に復帰したら、患者主体の看護師になれるか不安です。患者さんも無理難題を主張する時もあるから必ず百%要望にこたえなくていい場合もあると思います。でも患者さんの気持ちになって最後まで看護に責任をもってしっかりできるか。」

「今は良い経験だとおもうよ。復帰したら状況に応じて判断して患者さんに関わっていったら良いと思うよ。」

「仕事を休んでいるので社会に取り残されているようで。」

「何言ってるの。最先端をいってるのよ。」と、皆が異口同音で言ってくれました。

「私は今までも自分の周りの人に恵まれていると思っていたんです。母の命が限られてきて、今はでそれ以上に何をするにも感謝の気持ちを自然に持つようになったんです。心からです。自分達の周りの人がいてこそ私も頑張れているんです。仕事も休ませてもらって皆が働いてくれているから私が休めてるんです。だから今私がしていることをしっかり記録して残さないといけないと思います。」

 

看護長は私の気持ちを聞いて「強いね」と遠くを見ながら言いました。仕事の終わった静かな外来で皆で暖かい空気に囲まれているようでした。

介護休暇が終わった時、それは母との別れを意味します。でも私はまた看護師として復帰した時、こうやってはげましてくれる同僚のためにも“看護とは”を問いつづけ患者・家族に関わりたいと強く思いました。

 

自宅に帰ったのは夜の7時でした。なんと母は姉と息子と姪のFの4人で入浴していました。母が姉と入浴するのは、初めてだったので心配しました。母の衣服の着衣を手伝った後階段を這いながら上がる母が私に言います。

「もう入ろう入ろうってうるさくて!にぎやかだったわ。でももういいわ。もう入らない。○○待っとくわ。」

 

姉にしてみれば私が楽なように気をきかせてくれたのだとおもいました。でも段取りも説明せずに出掛けていたので母にとっては十分ではなかったようです。どちらにも悪かったなと思いつつ、それでも今日同僚にあえた事は私にとってまた明日から頑張ろうという気持ちにさせてくれました。しかし、母との1日の流れが変わる日は母にとっても私にとってもリズムが変わりストレスになるのは事実でした。母の用事で変わることはなんということではないのですが、それ以外だと修正に時間がかかります。暫くは母の意思のみの変更は控えようと思いました。





開けた様子。



遺骨の入った指輪の実際 遺骨用の私の指輪。エメラルドにダイヤ。


平成15年2月7日、退院後まだ外出する気にならない様子。

それでもお風呂だけは楽しみのようで入りたいと言います。湯舟につかっている母と今後なにか処置や検査があれば近医の六甲病院でできるから楽だと話しだしました。

「もう遠くまで行く必要ないものね。」

「お母さん、でも手術はあそこでしてもらってよかったやん。」

「そうよ。でも手術は上手くいったのにどこでどうなっちゃったのかな?」

「お母さん、胃は自覚症状がでた時はかなり進んでるねん。だから40歳過ぎたら胃カメラしたほうが良いっていわれてるねん。お母さんが手術した時は自分でも食べられないとか吐いてしまうとかあったでしょ。あの状態であの手術はとても丁寧にしてくれたんだよ。でもなんでって思うよね。普通に生活できていたし。」


手術が上手くいったのは母のあの時の状態の一番ベストな手術であって、再発の可能性がないわけではありませんでした。私にはいずれ訪れるだろうと考えていました。

しかし母には再発の可能性はあまり話してなかったため、それが結局こんな言葉を出させることになってしまったのです。割と楽観的な母は、そういう事を話してもその時元気にできていたら将来起こりうる可能性はあまりくよくよしない面があります。

悪くいえば、良くない状態になってはじめて、「なんで、こんなふうに!」となってしまいます。今はまだ身体が動ける状態ですが、今後黄疸がでたりして全身状態が悪くなり『死』が近づいたときもっと色々な感情がでるはずです。その時は、思いっきり母が感情を出せるように私が傾聴して共感してあげないといけないと感じました。

       ※母の命の綱・・

平成15年2月5日、退院の次の日、母は調子が芳しくありませんでした。

点滴が終わると、顔を拭くタオルでいつも気持ちいいと連発しました。

しかし今日はタオルをいらないと言います。

朝食もほしがりませんでした。結局、昼頃まで寝つづけ昼食も食べませんでした。

最近はこういうことが少なかったのでさすがに私も心配になりました。

母は「昨日、病院に行ってから帰るまで随分待ったから疲れたかな?なにもすることなかったし、だらだら待つだけだったから。」と言いました。

母は自宅では母なりに役割があり責任も持って動こうとしています

動けなくても孫のことで私に助言したり、掃除はここをもっと綺麗にとか自分が食べなくても食事の内容を一緒に決めたりします

確かに、私自身病院の椅子に朝から晩まで座ると次の日は決まって腰痛です。昨日も結局10時についてから退院まで5時間30分、一つのことが済むまで看護師が代わるとまた一からの伝言ゲームになりました。

 今の病院のシステムでは仕方ないのかもと思いながら、退院の余波が次の日まで続くとは思いませんでした。

自分が看護師ながら、もし母が亡くなったらまた看護師として働けるだろうか心配でした。

患者・家族の主体ではなく、病院のシステムに流されたり、クールな人間になったりしていつしか医療者主体の看護師にならないか…。自信をなくした日でした。

 

今日も夜10時から高カロリー輸液を始めました。その後私は台所の片付けや明日のお米を洗ったりしていました。

母は、「いつもごめんね。遅くまで大変。」と言います

私は心の中で思いました。

今までずっとお母さんがしてたやん。無理させてたのは私。本当にごめんね。』と。

主人、私、息子Tは阪神・淡路大震災で両親が自宅を再建したので一緒に住むようになりました。私が働いていたので息子の朗史の保育所の送迎は母がしてくれました。病院通いも母でした。

私達家族のせいで両親が病気になったのではと思ってしまうのです

だから、母の介護は私が最期までどうしてもやり遂げたいと思います。今母を看ないと一生後悔するでしょう。もう病院に入院することはないので、自分に言い聞かせました

『在宅が終わるときは母が亡くなった時。毎日母のしたいように私が支えよう。』と。


退院の日、私達は笑顔で帰りましたが、本当は色々考えてほしい面を言えたら良かったかな、と思いながら帰路につきました。

私も看護師自分の職場に戻ったら流されず、相手の立場を考えれるだろうか

逆の立場に立っているからこそ今はそう感じれるかもしれないなどと考えさせられました

決して、悪く言うつもりではありません。今自分は患者側に立っているから自然に考えるのだと思います。でも医療者は言われ慣れていないのも事実だと思います。

もっと、患者・家族が医療・看護について声を挙げなければ気付かない面もあるかもしれません。

帰宅した日は、節分の日でした。孫と豆を投げる母は退院した事が嬉しそうでした。でもきっとこの先の自分の身体の事が心配だと思います。私達が豆まきをしている写真を撮る主人を見ながら、これからも母をみんなで支えようを思いました。


主治医のムンテラの3日後の平成15年2月3日、外泊の形を取っていたので母も病院に向かい退院になりました。

結局、退院まで3時間ほど掛かり(約束の時間に帰院したが主治医の話が終わらないと退院出来ないということでずっと待つことになった。)母は憔悴しきってしまいました。

 

お母さん、もうずっと大好きな家だからね。帰ろう・・・  

面会時間は平日午後3時~8時です。

事前に朝から付き添えるように看護長にお願いしていました。

入院の次の日、専用の用紙“患者付添許可願”の記入をするように持って来られました。

私としてはこの書類を記入すれば駐車場代が減免され一日百円になるのでとても助かります。

看護長に聞けばこの控えの用紙に看護長と主治医の印鑑を押し、この用紙と駐車券を守衛室で見せれば良いということでした。

看護師はこの用紙はあまり使用しないということでシステムはよく知らないといっていました。

入院の日はこの用紙をもらってなかったので1200円払いました。

次の日今日からは100円!と思い帰宅する午後8時に詰所にもらいにいきました。しかしまだ用紙に印鑑が押せてないということでその代りに準夜の看護師が駐車券に看護長の印鑑を押しました。

 

次の日、もう印鑑は押しているだろと思い貰いに行くとまだでした。

しかしその次の日はもうこちらに渡したといいました。誰も貰っていません。結局、毎日こちらが声掛けして印鑑を押してもらいました。

退院の日看護長が、「用紙は先生が持っていたんです。でもこちらに声掛けしてもらって印鑑押してもらっていましたよね。」と。

言葉には出しませんでしたが、じゃあいったいなんのための用紙だったのか、声掛けして駐車券に印鑑をもらうんだったら元々控えの用紙をこちらに渡すシステムを作らなければいいのにと思いました。

しっかり誰がこの控えを患者・家族に渡すまで責任を持つか、日々交代勤務の職場の問題だと思います。忙しい看護師にとってもいちいちいん印鑑を押すことは時間の無駄かもしれません。でも私も同じ看護師なので、なかなか本心は言えませんでした。