平成15年2月22日、母の調子が良く入浴もしました。

「気持ちいいわ。もう入れないと思っていたからまた入れて嬉しい。」

点滴は昼すぎから量を減らして開始してしんどさもありませんでした。

昼・夜も大好きなテレビのサスペンスを見て夜中はほうれん草とにゅうめんを食べれました。

毎日変わる母の体調は私達家族を喜ばせたり不安がらせたりするものでした。

昨日、あんな用紙〔死の前後の患者さんの状態とその対処法〕をもらったばかりなのに、今日は楽しく入浴してテレビも見てと・・・

※母の主治医だったS医師のホームページでこのブログが紹介されました!

       http://www.homehospice-sekimoto.com/

エリザベス キューブラー・ロス, Elisabeth K¨ubler Ross, 鈴木 晶
死ぬ瞬間―死とその過程について
エリザベス キューブラー・ロス, Elisabeth K¨ubler‐Ross, 鈴木 晶
死、それは成長の最終段階―続 死ぬ瞬間


私が寝坊し息子の登校がぎりぎりになってしまい、息子はご飯も食べずに怒って行ってしまいました。

 

朝、すでに点滴は終了していたので、簡単な針で非ステロイド性消炎鎮痛剤・ステロイド剤の投与。視線・会話ともに問題なし。祖母は民謡教室に行き家には私と母だけになりました。

「○○(私の名前)、株券はそこ。家の登記簿はあっちだからね。」

そう言う母に、私は涙をこらえて背を向けながら「うん、分かった。」と言いました。

「○○、風邪ひいたんじゃない。大丈夫。」

と、言うので,

私は母が遺言のように書類の場所を言うことに悲しんでいるのに背中を向けていたため母は風邪と思ったようでした。

昨日の『死にたい』という言葉を思い出して一番辛いのは母なのに書類の場所やましてや娘をまだ気遣うしぐさに母親の偉大さを痛感せずにはいられませんでした。

 

久しぶりの入浴はあまり嬉しそうでなくしんどそうでした。

階段を這って上がる時も片足づつを上げてあげないと独力しては自分の足を持ち上げれなくなっていました。

昼間から点滴を開始しましたが全量は苦痛のようでした。夕方往診に来たS医師と今後の方針を話し合いました。

今の時点では、

・ 痛み止めの麻薬のパッチ〔体に貼るシール状の物〕は継続

高カロリーの点滴も逆にしんどくさせるので量を減らす

点滴の開始と終了時に非ステロイド性消炎鎮痛剤の使用

抗精神病薬の使用の継続

ステロイドは増量する。

疼痛コントロールが出来ない場合の他の指示も色々ともらう

入浴OK

会いたい人に会わせる

というものがおおまかな内容でした。

閉眼している母に向かってS医師は

「○○さん、血圧・脈はいいですからね。しっかりした娘さん二人がついているから言いたいことがあったら言うんですよ。もししんどかったら少し眠くする薬がありますから言って下さい。勝手にはしませんからね。」 

一番大切なこと・・・・勝手にはしませんから・・本人のことだから私達ではなく母の意向で薬を使用するということです。

本当に大切なことなのになかなか医療者達は患者には言えないのではないでしょうか。

主体は母だから当たり前のことですが私にはS医師がたくましく思えました。

帰り母のいないところで、『死の前後の患者さんの状態とその対処法』という用紙を手渡されました。

《死が切迫した時の兆候》、《実際に死が訪れた時の兆候》、《亡くなられたと考えられる時の対処

そして『大切なのはほとんどの変化が死に至る自然の経過であり、ご本人にとっても苦痛な事ではないとおいうことです。』と書かれていました。

とうとうもらったか・・・私の持っていた本にも書かれていた内容でした。確かに医療従事者でなければ死を迎える兆候や亡くなった時の対処などは慣れていません。こういう用紙が必要でしょう。

しかしそういうことよりも私はもらったことが悲しく記録ファイルの一番後ろにしまいました。

この日も22時に息子が寝ぼけて怒り牛乳を飲ませて落ち着かせました。もう息子も3ヶ月近くなるる在宅ホスピスに強いストレスを感じているのだと思いました。

でもお母さん、死んでほしくない・・・

死ぬ1ヶ月前。節分の日。母・私・息子

※母の主治医だったS医師のホームページでこのブログが紹介されました。

 有難うございます

    

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朝6時、点滴終了。

インフルエンザの可能性があったため非ステロイド性消炎鎮痛剤を中止していましたが腰痛・腹痛が出現し再開しました。

今日は頬の紅潮なくしんどくもなさそう。ただ、腰痛はすっきりしませんでした。以前のように錯乱したら困るからとしぶりましたが、久しぶりにフェンタニール水を飲みました。結局、日中2回内服しました。

姉の子供Fが4月の入学式で着るワンピースを母の前で試着しランドセルも背負って母は嬉しそうに見ていました。しかししきりにげっぷをしていました。

 15時30分からの点滴開始をいつもならパジャマの前を開けて用意している母が寝てしまっています。なんとか促して点滴を開始しました。

 21時頃、悪寒戦慄〔寒気と振るえ〕が見られる。げっぷを繰り返す。

 22時半、体温38.2度。

 

「○○どうしていいか分かんない。あーあーしんどい死にたい。手をつないで側にいて。どうしよう。マーちゃん(以前飼っていた犬の名前)。」

 

私の手をさすりながら一点を見据えるのです。

 

以前と同じ症状でした。母の不安が的中してフェンタ二ール水による錯乱が出てしまいました。すぐS医師に連絡して往診してもらいました。抗精神病薬を点滴から使用して落ち着きました。

S医師によれば、もう腰痛がパッチや内服でコントロールできる限界を超えれば完全な沈静を掛けたほうがよいのではないかということでした。

「○○さん、死にたいとM子さんは言われたけど、M子さんが本当に思ってたことじゃないかしら。毎日が不安なんだと思うわ。お孫さんが夜に起きてしまうのも本当は望んでないのよ。でも、自分も不安だからあなたには側にいてほしいのよ。夜は本当に怖いんだと思うわ。お姉さんと交代で側で寝るようにしてもいいし。今がご家族が一番しんどい時よ。これを超えたら沈静を掛けてしまうからご家族は寂しく感じるわ。あと数週間かもしれないからM子さんに会わせたい人を会わせてあげてね。」

母のベッドを下げれるまで下げ、手をつないで寝ました。目の前に迫る死を恐怖に思って当然です。

母がどんなに毎日不安に過ごしているか・・・理解しようとしても無理なのでしょう。

出来る限りのことをしてあげるだけ。悲しいけれど私にはそれしか出来ません。でも最期まで絶対自宅で看ることの気持ちは変わりませんでした。

※亡くなる2ヶ月前。最期の旅行で姉と孫と。行けて良かったけれど、もっと長生きしてほしかった。

関本 雅子
在宅ホスピスハンドブック

今日も頬の紅潮、頭部の発汗あり。

熱の出現の仕方が不安定なため昼前にH看護師が血液培養の採血に来られる。

結果は48間後。

H看護師に母は、

「お風呂入っていいですか」

と尋ねる。

ちょうどS医師から電話があり暫く様子を見たほうがいいということで母は残念がっていました。

それでも昼にはにゅうめんと姉が仕事の帰りに買ってきてくれた肉まんを4分の1個食べました。

 

夜、S医師の往診がありました。

いつもならどんなにしんどくてもS医師の前ではしっかりしようとしていました。

今日はよほどしんどかったようで終始閉眼していました。

午前中に血圧などはH看護師が測っていたため医師は何もせず

 

「調子のいい時に診察しようね。」

と、優しく言い帰って行きました。

同僚のTさんと看護実践報告会の原稿書きを結局23時から日が変わった4時までやりました。

息子がまた5時前に覚醒し寝かしつける。

看護と仕事の両方で体力も限界かな・・・・と感じた日でした。

今日も点滴が終了の頃になると頬が紅潮し頭部も発汗が見られました。体がだるいと言います。発熱は一日出ることはなく昼ごろから少しは元気になりました。

しかし予約していたおじょママのローソンのお弁当は食べることは出来ませんでした。残念・・・

 

まだ症状が改善しないようなら血液培養を実施するというファックスが昨日の採血の検査結果と供にS医師より届きました。採血では炎症症状が見られていました。

 

23時からまた同僚のTさんと看護実践報告会の原稿書き。やっと終わったと思うと、息子が、

「ママ、また下で寝るの?」

と泣きながら降りてきました。

申し訳ない・・・

これが心からの言葉でした。父の闘病の時も息子は寂しい時間を過ごしましたが結局今回もそうさせてしまいました。また狭い母のベッドの隣で二人で寝ました。

 


明橋 大二
輝ける子―100メートルを10秒で走れと言われてもさ、いっくら努力しても走れない奴っているじゃん


平成15年2月17日、朝、点滴が終わりかけると顔だけが赤くなり汗も出ます。

でも身体は冷たく胸は重いと言います。

やっぱり点滴の量が負担な感じがしました。H看護師が解熱剤とインフルエンザの薬を持って来てくれました。18日の夜まで内服するためです。採血もしました。

昼食は4日ぶりに素麺(にゅうめん)を食べることができました。日中はテレビを見ることも出来、大分しっかりはしてきました。でも、顔を拭くのも舌の清掃も嫌!奇麗だった舌にまたかびが出てきました。

夜は37.6度の発熱がありました。インフルエンザにしては薬で押さえられているのか、熱の出方が違うようでした。

いったいなんの熱なのか?

様子を見るのみ。

買い物も行かず、入浴もないので歩行することが少なく、ほんの2メートルほどのトイレまで足がしびれて母が不安がりました。生活に張りがなくかわいそうでした。

 

母の事が気になりながらも私は変わらず看護実践報告会の原稿を3階で書いていました。書いた原稿をファックスで職場に送り、夜またTさんとお互いの家事が終わった23時から電話での検討会です。結局、夜中2時までしました。

原稿の事が一番ですが、お互いが気分転換になり眠くても頑張りました。

平成15年2月16日には高い熱こそでませんでしたが、終始寝たままで食事は一切入らず水分も薬のときだけでした。

どうしても職場の看護実践報告会の原稿書きが最終段階に入っていたので今日も同僚のTさんに自宅に来てもらいました。

Tさんは3人の子どもがいるのですが義母さんに預けて来てくれました。彼女は母の状態を知っていたので今日は資料だけもらったら帰るつもりでいたようでした。でもやはり肝心な個所は2人で話し合うことが大切だと思ったので入ってもらいました。

 

結局、12時ぐらいから18時過ぎまでやりました。事前に姉に連絡をしていたので朝から来て母を看てくれていました。母も顔つきが昨日と違いかなりしっかりしていたようです。

息子は主人が水族館に連れていってくれました。息子とは必ず来週の日曜日に映画を見に行く約束をして納得してくれました。

 

この日、熱は出ることはなかったので快方に向かうだろうと思っていました。正直ここ数日は母の熱と自分の仕事、子どものことでクタクタでした。息子を寝かしつけて今日も母の横でまだできていない仕事をしてから寝ました。しかし、また息子は夜中の3時に起きてきたのです。母に必ず何かあったら呼んでほしいと告げ息子と上に上がりました。

とうとう息子はまたまた神経質の虫がムズムズと出てきたようでした。





※当時の息子。今から考えたら本当に幼い。寂しさにも限界があったのかも・・・・

平成15年2月15日、今朝もしんどいと。もしかして点滴の量が母にとって負担なのか?

病院に電話する。S医師学会のため休診だったが、H看護師に伝言。夜の点滴までにS医師から電話をもらうことになった。

私は職場の看護実践報告会の原稿書きに難航していて息子の習い事の送り迎えを姉に頼む。

結局、母は寝つづけ何を言ってもちゃんとした答えが返ってこない。脈、血圧も正常、眼球横染なし、熱感ない。しかし、夜7時に38.6℃。8時には39.3度に。S医師の電話を待てずH看護師に電話する。今朝と状況が変わり熱が出始めた事を告げる。

S医師より電話。風邪症状の有無、インフルエンザの関節痛に有無など聞かれる。鼻汁は13日に、関節痛はない事言う。用心のため、アセトアミノフェンの解熱剤とインフルエンザの薬であるタミフルRを内服するようにしようということになる。21時過ぎにS医師到着。突然の訪問に母はびっくりした様子。

バイタルを測定、全身状態診る。12日の採血結果で肝機能問題ないため肝臓からではなくやはりインフルエンザかもしれないと。用心してタミフルR、カロナ―ルR内服を開始。朝のロピオンRは非ステロイド炎症剤のため中止。カロナ―ルRで代用する。S医師がはっきりと母に「お薬飲んで下さいね。」と言ってくれる。「はい。」と言うが多分上の空の様子。

私が送ろうとS医師を送ろうとすると「私は一人で帰れるから先に薬飲ませてあげて。」と。大きな声で「お母さん飲んで。」と言いながら薬を口に入れてやっと飲む。

点滴は予定通り22時から始めるも一向に仰向けになってくれず仕方なく大きな声で言う。

点滴が始まり20分ぐらいで今日初めてはっきりした口調で「点滴始まったん?」と聞く。

「もうしたよ。先生がね、もしかしたらインフルエンザかもしれないって。だからくすり飲まないといけないって。」

「飲むの?」

「もう、飲んだよ。」

と言うと、また寝始める。

看護実践報告会の原稿をどうしても書き上げ、職場の同僚のTさんに渡さないといけないため部屋に机を持って行き徹夜のつもりで始める。Tさんは、母優先で言いと心から言ってくれるが、彼女一人に任すなんて出来るわけがない。協力してくれる人がいてくれるならともかく、いままで一緒にしてきた事なのにどうしても彼女だけに負担を掛けたくなかった。同僚であり親友なので当然でした。

 明日は息子がどうしても私と主人と三人で出掛けたいと言っていました。行けそうにない事を言うと、

「ママは僕にたくさん悪い事をしてる。」

「どんな?」

「遊んでくれなかったり。」

「そっか。ほんとやね。ごめんね。」

辛かった。

母も次に仕事も大切で息子がその次になっていました。私はいつもそうでした。主人と息子より母や仕事、それ以外のことに重きを置いていたような気がします。寝顔を見ながら複雑な気持で、母の部屋に行きました。 

 次の日、私が一緒に寝ていないことに気づいた息子が降りて来ました。私が寝ている幅70センチほどの所に自分も寝ようとします。ぬいぐるみまで持って本格的です。これから息子は自分が寝たら下の母のところで寝るということが分りだしました。今まで途中で起きなかったのが起きるようになりました。

いずれ母がもっと状態が悪くなり終始側にいないといけなくなった時、どうしようか少しだけ不安でした。その時私が息子のことも気に掛け、かつ母の対応も出来ないといけない・・・母にとったら娘であり、息子にとったら母である私のそれが使命だと思うからです。自分に両方できるか?この私が?


平成15年2月14日、退院してから外出する機会がめっきり減りました

母自身が身体がだるく行きたくないと言うようになりました。3日に退院してから今日まで1日しか出ていません。

 

今日は朝から身体が熱っぽく、体温は36.9度だったので医師に連絡こそしませんでしたが元気がありませんでした。

昼前には発汗があり、熱っぽさは取れましたが顔も拭きたくない、食事もいらない、でした。

こういう時は、薦めたら外出する気になったり、食事をする気になったりする場合と、ぜんぜんその気にならない場合に分れました。

退院してからは薦めても頑なでした。母への対応では、一度薦めて駄目な場合はそれ以上薦めないという決まりを私の中で持っていました。強制される事はしんどいし、自宅では何も無理する必要もないからです。

自宅から出ない時は、気分転換に3階の私達の部屋に布団を用意して母に寝てもらうようにしています。太陽の光が燦燦と入るので、それだけで気分が良くなるようで、

「気持ちいい。気持ちいい。」

を繰り返します。

その言葉を聞くと私まで爽やかな気持ちになるのです。不思議!

 しかし、今日はそれもいいということでした。もしや、肝臓の状態が悪くなっているのではとさりげなく身体の皮膚の状態を見ましたがそれはないようでした。

私がずっと側にいても母もゆっくり出来ないので、自分の部屋で締め切りの迫った職場での看護実践報告会の原稿の続きを書きました。私の職場のM医師も惜しみない協力をしてくれているのでどうしても妥協出来ませんでした。

しかし、なかなか会えないので時間があると連絡を取り合っていました。ほとんど、家事が終わった夜の10時を過ぎてから12時頃まで話し合っていました。本当は今日も職場に行きたかったのですが、母を一人(祖母は民謡を習いにいっており不在)に出来ずこちらの資料40枚あまりを自宅のFaxで送り、別々で仕上げていきました。介護休暇を取って、2ヶ月あまりが過ぎていました。原稿を書きながら自分がしてきた仕事を振りかえりながら私はやっぱり仕事が好きなんだと感じました。母の入院で看護師に復帰することの不安を感じていましたが、もし復帰したら暁には…と考えていました。

 

息子が学童保育の先生からチョコレートを貰ってきました。暫くしてから3階に来てほしいと言います。上がってみると、そのチョコレートにリボンを掛けて私に

「ママ、プレゼント!」

「わぁー、○○有難う。すっごくうれしいよ。愛してるよ。」


と、思わず抱きしめてしまいました。“子は親を見て育つ”と言いますが、祖母を取り巻く環境の中で寂しい気持を持ちながらも暖かい心を持つ息子に感謝しました。○○有難う!



関本 雅子
在宅ホスピスハンドブック


胃癌の手術入院をした時、姪のFが母に小さい頃の夢を聞いたことがありました。

F〔姪っ子〕  「○○さんは、小さい時の夢はなに?」  〔うちの家族は母のことをお母さんやおばあちゃんと呼ばず、名前で呼んでいた。〕


「私はね、お母さんになりたかったのよ。だからもう夢はかなったのよ。」

私はそう言った母がとても自信に満ちているように見えました。

そして涙が止まりませんでした

“子育てより仕事”を優先にしていた自分が恥ずかしくなりました

子育てよりももっと自分の生きがいを、と考えていました。

それが良いと鷹をくくっていました

私は両親が大好きで両親のような家庭を築きたいと思っていました。それはやはり両親の育て方がそう思わせたのでしょう。息子が私達のような家庭のような家庭を築きたいと言ってくれるか、正直自信はありません。

母が病気になって私自身を考える今日この頃です。

そして母はやっぱり素晴らしい人だと感じる今日この頃でもあるのでした。






今は亡き大好きな母・・・・・