平成15年3月4日、1時、腹部はどんどん熱くなり末梢〔手先〕は冷たく暗紫色になる。

 

3時8分、「うーうー」と、いう母に

「お母さん、安心してよ。家族仲良くするからね。」

 鎮静〔薬で眠らせている〕している母の顔がかすかに微笑む。

ずっと無表情だった顔が微笑む。

 

私は母の手をつなぎ続ける。

6時25分、姉が伯父と交代するために来る。そして伯父が寝に別室へ。

 

その直後母の呼吸が徐々にゆっくりになり・・・

 

もう亡くなるんだ。』・・・

私は皆を起こしに行きました。今寝たばかりの伯父もやって来てました。

主人祖母伯父私の息子T姉の子供Fそして私・・・皆で囲んで。

そして母は呼吸をしてももはや肺に空気を送ってはいませんでした。

 

ゆっくり、ゆっくりと止まりました

とうとう母が亡くなりました。大好きだった母が亡くなりました

望んだ通り自宅で亡くなりました。

 

平成15年3月4日、6時40分。くしくも姉の誕生日でした

まるで母が自分を忘れないようにこの日を選んだようでした。

夜中、1時50分ドルミカムR(静脈麻酔剤)とセレネースR〔抗精神病薬〕の入っていたボトルが終了。

手の末梢冷感が出現する。今まで測定出来ていた手先でもサーチレーション〔酸素飽和度〕が測りにくくなる。

透明鼻汁、よだれ。

 

4時20分、手先とは反対に頭部の発汗が見られだす。姉が拭く。

 

5時、「痛い、痛い、痛い」と完全に覚醒していないが大声で叫ぶ。腹部はもう緊満強い。フェンタネストR〔麻薬〕側注。定期の鎮痛剤など側注。

 

9時、S医師からかなり危ない状態だろうと。

 

9時40分。「痛い、痛い、熱い。」終了したボトルに少量残っていたものを指示のもとに側注。

 

11時10分、H看護師が来る。不穏で「痛い、痛い。」またベース〔点滴本体〕の残りを側注。パジャマを交換しようとしても

「いたーい、あーあーあー。」

 

焦点は合わず大声で言う。

もうこの状態では母は前のように沈静を止めても痛みが落ち着くことはないと感じていました。

H看護師とも話し、母なら痛みと止めてほしいはずと判断し

「痛みなくそうね。」

と辛い決断をした。

母も頷く。

12時最期なるであろう沈静開始。

姉や伯父と交代し隣の台所で泣きながら夕食を作る・・・

泣いてばかりでは駄目。最期まで母には明るく・・・

19時50分、S医師往診。先生はおだやかな顔でゆっくりと母の側に座り話し始める。

「○○子さんは偉かったわね。お孫さんのことも最期まで気にしていたし、そして最期まであなた達のお母さんだったわね。○○さんが〔私〕が26日にした判断はよかったわ(長期の沈静をせず短期の作用の薬剤を選択してその後母が意識がもどり数日過ごせたこと)。いい時期に介護休暇を取ったわね。やっぱり看護師さんやわ。」

 

毎日が走馬灯のように過ぎた3ヶ月でした。

※母の主治医がこのブログをHPで紹介してくれました

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再度、皮下注射〔痛み止め〕を止めてで様子みる。

私が掃除中、部屋の戸を閉めるのが不安だからすぐに開けてほしいと言い、大好きな石川 さゆりさんのカセットテープを掛けてその間に掃除。

便が少量付着し陰部を洗浄しオムツからパンツに履き替える。

午後より私の小学校時代からの友人のNさんとTさんがお見舞い。母も久しぶりなのでしんどい体に無理をして精一杯明るくしているようでした。外にも出掛けられなくなって大分経っていたので母も嬉しかったのかもしれません。

 

夜、皮下注射の刺入部が硬くなっており発赤も見られ差し替え。

失便〔便をもらす〕してしまいトイレをいきたがったがトイレまで歩けず。隣のTさんのところに亡くなったお母様が使用されていたポータブル便器があるかもしれないと思い、電話して持ってきてもらう。

そこで排尿・排便できたので尿のバルーンを抜く。

しかし、その後ベッドの横のトイレまで行くことも難しくなりバルーンを抜いたことを後悔。

2日の朝方、カテーテルで導尿して尿を出すがどんどん腹痛が増す。16時10分、H看護師到着。

バルーンの留置セット持参してもらい再度尿官に挿入してもらう。

16時30分S医師到着。

ブスコパンR〔消化性潰瘍治療剤〕側注後にドルミカムR〔静脈麻酔剤〕、セレネースR〔抗精神病薬〕を混注し希釈したものを側注、そのボトルをベースにする。母が何か言っているが聞き取れない。

どうしても訪問しないと行けない患者さんがいるということで家族だけになる。

 

17時45分、「痛いー」。S医師にコールしてフェンタネストR〔痛み止め、麻薬〕即注。

 

17時50分母が「もう止めて。出して。」ドルミカムR/セレネースRの入っているベースから抜いて側注〔点滴の横から注射器で入れること〕する。

 

痰を出したそうだが出にくい。吸引は嫌がる。

主人と祖母は私の作るはずだった餃子をたんたんと作ってくれている。子どもたちは伯父が遊んでくれており私と姉が側に付く。

うつろな目で遠くを見る母を忘れない・・・

 

19時10分、完全な鎮静にならず開眼するためS医師にコール。ベース〔点滴の本体より薬液を抜いて〕より側注。ベース〔点滴の本体〕の滴下量も増やす。閉眼。

 

鎮静後はベースの滴下量を戻す。今日来てくれた友人からメールをもらう。こんな状態だったがなんとか返信。

 

23時30分、口が開くとよだれが出る。

関本 雅子
在宅ホスピスハンドブック

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痛み止めの皮下注射の注入ラインを止めて様子を見る。

皆がそれぞれ出掛け母と二人になりました。

 「元に戻ってよかった。」

私 「私は大丈夫だと思っていたよ。」

母 「尿の管は前もすぐに取れたから一回だけ付けたまま試してそれから抜いてね。」

嬉しそうでした。

H看護師が昼過ぎに往診

一緒にパジャマと足の下に敷いていた汚れたオムツを換えてもらいました。明日も皮下注射をロックすることになりデュロテップパッチ〔痛み止め〕は17.5ミリグラムになりました。

息子は今日気分転換に姉の家にお泊りに行きました。

母  「なんで、こんなしんどいのかな。直らないな。」

母の言葉が心に刺さりました。

一進一退する毎日・・・辛い。

関本 雅子
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終日、母はウトウトしていました。

目を覚ますと姉に貯金を降ろしてきてほしいと言っていました。

ひなまつりが近づいていたのでおやつに買っていたひなあられを数個孫達と食べていました。

24日からオムツを使用していましたが、パンツにして便が漏れたらしんどいからとそのままオムツを使用すると言いました。

 

夜S医師の往診。

「表情が○○さんだわ。皮下注射も少しづつ止めていきましょうね。おしっこの管も取れるようにリハビリしてもいいしね。」

母はうなづくだけでしたが、孫たちが部屋に入ってくるとパッと表情が変わり大きな声で話しかけだしたので

関本医師は

「孫が一番!」

と言って帰って行きました。

朝10時30分、ドルミカムR〔静脈麻酔剤〕終了。いつもの点滴を少量で持続しました。定期の痛み止めも使用。

昨日帰った親戚のSさんが再度来てくれました。息子を学校に送り出してから姉達に交代してもらい朝2時間ほど仮眠を取りました。終日、母は薬の影響で寝ており夕方S医師やH看護師が来てもすぐに帰りました。H看護師が必要になったら使用するようにと吸引器を持ってきてくれました。

 

20時前、母が覚醒しました。

23時頃、

「なんとかして。痛い。」

 

すぐにS医師に連絡してフェンタニストR〔静脈麻酔剤〕を側注。

以後も覚醒続き、無理なのに自力でベッドに座ろうとしたりしました。

26日の朝5時にはまた不穏な状態になりました。この時、私はドルミカムRで長時間の沈静よりフェンタニストRを使用したほうが母疼痛が収まったら母の意識が戻るかもしれないと考えました

ある点、母を毎日側で見ていた勘かもしれません。

 

7時20分、母の意識がまだはっきりせず「あーあー」と言うばかり。10時前、疼痛が消失し、水分をほしがりだしました。

私に「寒くない?」と母が聞くほど落ち着いた状態になっていました。

 

嬉しかった。ただそれだけ。感謝。

 

往診があり皮下注にフェンタニストRを追加し暫く続行。セレネースR(抗精神病薬)も続行。尿管に入れているバルーンも明日まで様子を見ることに。

母は、

「有難うございました。」

とはっきり言い、師は母の生命力にただ関心していました

「決して医師や看護師の力じゃないよ。」と言って帰られたのでした。

母が急変した24日、母の代わりに株を売りに証券会社行きましたが本人確認が必要ということで2人で来られました。点滴をしている母の様子を見てびっくりした様子でしたが、その後スムーズに株の件は運びました。

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 まずは、側管からドルミカムR〔静脈麻酔剤〕を注入しました。ブスコパンR〔消化管潰瘍治療薬〕も入れ、そしてセレネースR〔抗精神病薬〕、フェンタネストR〔静脈麻酔剤〕も入れました。母が少し落ち着いてきました。

 

持続的に沈静を掛けるために、ドルミカムR・セレネースRを持続的に開始しました。そして皮下からもフェンタネストRを持続で開始しました。しかし、波のように痛みは繰り返してはやってきて完全には落ち着きませんでした。

 

S医師・H看護師は、もうひとつどうしても往診しないといけない患者さんがいるため一旦

離れなければいけませんでした。

もう一度来るまでの間の指示をもらい、自分一人で母の状況を把握しながら側についていないといけませんでした

姉が子ども達を台所で見てくれながらこちらの様子を伺ってくれています。

 

16時40分、私がフェンタニストR、セレネースRを即注しました。母はウトウトしています。

 

17時10分、尿意を訴えました。到底起きてはできないため、オムツを挟み促してそのまましてもらいました。失便もしています。

 

小さい声で「うーん、うーん。」と言っています。

 

18時、H看護師が再度訪問してくれました。尿管にバルーンを入れる〔トイレに行かなくていいように管を入れる〕ことにしました。オムツに便がでていたため交換しようとすると、

 

「辞めて下さいー。」

と、母が大きな声で怒鳴りました。18時15分、ドルミカムRを注入します。そしてバルーンを入れました。

18時45分、定期のロピオンR(非ステロイド消炎鎮痛剤)・ガスターR(消化性潰瘍治療剤)を注入しました。

19時30分、S医師が到着しました。

ドルミカムR・セレネースRの注入速度の指示をもらいました。そして、S医師・H看護師が帰ってから私がしないといけない不穏時・疼痛時の薬液の支持ももらいました。

自分で理解出来るように指示を用紙に綺麗に書き、そして定期の薬液もチェックリストを作成しました。

自分ひとりしかいないのに《申し送り事項》と書いていました。もし私が倒れるようなことがあっても姉が出来るような意味もありました。

またこれからはきっとあまり睡眠時間が取れないかもしれないと予想しました。薬液を間違わないようにしっかり管理するためにチェックリストは必要とも判断したからです。

関本医師から、親戚に連絡したほうがいいと言われ、姉が親戚に電話をしてくれ皆が集まりました。

 

クリニックからサーチレーションモニター(酸素飽和度を測る、血液の中の酸素の濃度)を貸してもらいました。

自宅の母の部屋が病室になった感じでした。

朝までバイタルサインが急変することはありませんでした。帰れる親戚は自宅に帰って行きました。



※この状態では家族だけて自宅ではみることは出来ないため一般的には入院の適応だと思います。

私は最期まで在宅を望み、そして国家資格を持つ看護師だったため私が母への医薬品の使用の行為をS医師が配慮して下さいました。

※母の主治医の先生が御自分のHPでこのブログを紹介してくださっています。

   

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関本 雅子
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玄関に着くと姉が玄関まで出ていました。

「もう、すごく痛がってる、どうしよう。」

部屋に入ると、

「○○〔私の名前〕―、駄目、あーん、あーん。痛い、痛い、痛い、痛いよー。なんとかしてー。」

と母のもがく姿が眼に飛び込んで来ました。

『冷静に考えないといけない。』と、思う自分がいました。

これは、恐らく腸の何処かが穿孔を起こしているのではないかと考えました。

15時27分、事前にS医師からもらっていたセルシンRを舌下させました。

「もう、○○。苦いわ、苦いわ、あー」

と咳き込んでしまいした。

もうこの状態では完全な沈静を掛けなければ痛みを除去することは無理でした。

15時35分、S医師とH看護師が到着しました。

「○○さん〔母の名前〕、痛みを止めるために少し眠りますよ。いいですね。」

と、S医師が穏やかに母に説明しました。

「はいぃー。」

母が言いました。

『もしかしたら母はこのままもう目を開けないかもしれない。』

私の中では、母を早く痛みから解放してあげたい気持ちと、もう永遠の別れかもしれないという気持ちが複雑に交差して医療者というより母の娘という立場でいる自分が分かりました

日頃は、私は周りから娘というより医療者という見方をされていました。それが時として頑張る気持ちを高めてくれたり、逆に重荷になる時もありました。そんなことを考えていて、ふっと我に返りました。

S医師が薬液の注入を開始しました。


関本 雅子
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昨日から引き続いて母の調子はすこぶる良いものでした。

朝、息子Tが台所で朝食をとっていると、トイレからの帰りにこちらに母がやって来ました。孫をニコニコ見ながらお互い数語話していました。

そして部屋に帰ろうとしてスリッパを脱ごうをした瞬間に母がしりもちをついてしまったのです。母はもちろん私も息子もびっくりして息が止まってしまいました。しかし母の体重が軽いこともあり怪我はありませんでした。本当にホッとしたのは事実です。これで骨折でもしたら大変なことになるところでした。

部屋に戻り「買い物いきたいけど雨降ってるから辞めるわ。」と残念そうに言いました。

朝食は昨日の残りのお鍋のトロトロの白菜、お豆腐、つみれでした。

「清美、これくらいのやわらかさがいいわ。いつものほうれんそうは少し硬いわ。」

といいながら嬉しそうに食べていました。

母が朝食を食べた後は、私は寝不足なこともありは母のベッドの横でウトウトしていました。

母は「寒くない?疲れてるもんね 。よく寝てね。」と優しい言葉を私に投げかけていました。

ウトウトする中で、母がサスペンスを見ながら「犯人はこの人よ。」と言っているのが聞こえていました。

昼前に2年前に手術をした時の同室のTさんから電話がありました。こんな状態になっていることを知らない相手に母は元気な声で逆に相手を気遣う言葉を掛けていました。

「清美、ジャムパンが食べたい。何処のでもいいから。」

ジャムパン?最近そんなこと言うことないのに、どうしてだろう・・・とそう思いながら姉に電話をしました。

結局、ジャムパン四分の一、ピーナッツ数個、姪っ子のFがどうしても自分の買ってきたプリンを食べてと言い一口食べていました。

14時頃に母は「食べ過ぎたかな?」とつぶやいていましたが、私は食べたい時に食べたらいいわという気持ちがあったので母の言葉をあまり気にしませんでした。それから、私は母が証券会社で株を売ってきてほしいと言っていたので姉に母を頼んで一人で近くの会社に売りに行きました。証券会社では、売りに来たのが本人ではないので確認に時間が掛かっていました。

15時11分、携帯が鳴りました。

清美、お母さんがお腹を痛がっている。」

「すぐ帰るから待ってて。」

 

暫くするとまた電話がありました。

「清美、トイレでうんちしたらもっと痛がり出した。」

「分かった。今から出るからお姉ちゃんはS先生に電話して来てもらって。」

 

尋常ではありませんでした。

母のお腹の中でなかでなにかか起こっている。

昼食のせいだろうか?色々と頭の中で考えながら私は走っていました。

歩いても10分も掛からない道のりが長く長く感じました。

こんなことだったら雨が降っても買い物に連れてあげたらよかったと後悔の念が起きました。

平成15年2月23日、私が連絡したので伯父夫婦が滋賀から来てくれました。

朝から伯父夫婦が来るのが分かっていたので母は自分なりにベッドの机の上をゆっくり片付けていました。

伯母とは血のつながりはありませんが、子どもの年齢が近くお互いの年齢も近いので仲良しでした。

来ると気をきかせて母と伯母の二人だけにします。今日も色々とはなしているようでした。

ふすまの向こうで

「3月8日の伯母さんの法事まで私生きているかな。」

という声でした

伯母も元気づけてくれましたが母は逆に暗くならず自分の刺した刺繍をまるで形見分けのように伯母に渡していました。

お昼はお寿司の出前をとり母は大好きな松前寿司を二切れも食べていました。

 

夜にはトイレの帰りに台所まで来て、伯父夫婦のお土産の大阪の阪神百貨店の名物のイカ焼きを少し食べていました。

母の落ち着いたいい一日でした。

この後の急変を誰も予想しませんでした。

※母の主治医だったS医師がこのブログを御自分のクリニックのHPに載せて下さっています

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※遺骨を入れるために作成した指輪。プラチナにダイヤとエメラルド。右は開けた時。遺骨を入れてあるのが見えますか?