sou uma japonesa
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23年前の今日

なごり雪が降っていた。

卒業式シーズンと重なり車で信号待ちの度に忙しく行き交う人を助手席で横目で見ていた。

私は前日に泣き過ぎて生まれて初めて目を開けるのが痛いと思う程に瞼が腫れていた。

この世にある物が現実的で無い様に感じていた。

こんな日が来るなんて夢にも思わなかった。

でもやっぱり現実で私の周りには喪服を着たいとこや親戚が居る。


ひとつずつ当たり前だった日々の思い出が蘇る。
ずっとこんな日が続いて行くのが当たり前だと思ってた。
でも、そうじゃなかった。

最後に私は祖母の遺影を抱えて大声で泣いていた。

全部が嘘であって欲しいと。

火葬場に到着して最期のお別れを済ませて職員の方達が棺を炉に収める為に運んで行く。

「…ないで、…行かないでぇぇぇっっ!!」
ホールに響き渡る様な大声で叫んだ。

私の周りにいたおじやおばや母がたちまち泣き出した。

「まだいっぱい一緒に居たいの、また買い物行こうって言ったじゃん、こんなに早く私の前から居なくならないでよ」

とにかく色んな事を捲し立てる様に叫んでた。

誰かがふと隣に来て、優しく慰めてくれた。
「人間はね、みんな順番なんだよ。辛いけど、順番なんだよ。だから泣かないで。辛いけど、泣かないで」

その仕草や顔や手の感触は、亡くなった祖母に不思議な位にそっくりだった。

「お前があの時あんな事を言うから、泣いてはいけないと思っていたのに我慢出来なくなったよ」
あの当時の私の行動は大人になってからも語り継がれる様に言われた。

今はその言葉すら懐かしい。

"順番"でみんなを見送って来たけれど、みんなが居たあの頃に時々戻りたい。

私は気付いたらもうこんな年齢になってたよ。
こんなに早くみんなの順番が来るとも思ってなかった。

でも私の目の前の空に今はなごり雪は降っていない。

あの頃には戻れないね。

独りきりの夜

父の体調は相変わらず良くなく、ついに先日もうあまり長くないかも知れないと医師に告げられた。

私はひどく落ち込んだ。
心がざわざわして涙が止まらなかった。
夜中に誰かに話を聞いて貰いたくて何度かいのちの電話に掛けて話を聞いて貰ったりしていた。

そして何をする気力も無くなってしまい電気のコードを結び付け、頭から布団を被り、その上から首に電気コードを巻き付けて横になり、頭から枕を引き抜いて首を吊ってしまった。

ちょうど主人の母がそんな状態の私を見つけて救急車を呼んだら消防車やパトカーまで来てしまい大変な騒ぎを起こしてしまった。

なんでそんな事をしてしまったのか自分でもよくわからない。

そしてはっきり言えばまだ気持ちは落ち着いてはいない。

そんな状態もあってか娘との親子関係も良くなくなり、主人の勧めもあり、主人が出張から帰るまで暫く娘を施設に預ける事になった。

本当は離れたくない。

娘は今日ニコニコしながら嫌がりもせず市の職員の方と一時保護施設へ行った。

車に乗って窓から手を振る娘の手が小さくなっていった。
その手が見えなくなる頃、私は堪えていた涙を流していた。

娘はちゃんとご飯食べたかな?
ちゃんと寝てるかな?
寂しがってないかな?

ただただ寂しく辛い。
今までみたいに数日会えないとかじゃない。

ただ主人も願っている。
私と娘の成長を。

悲しくて泣きそうだけど、次に会う時には私も娘も成長している事を願いたい。

私は娘には依存したくない。
だからもし娘に捨てられても悲しいけど仕方ないと思っている。

娘を私のようにはしたくない。
母に完全に依存されてた私はガラクタの様に心を闇に蝕まれてしまった。
だからと言って母の事は嫌いじゃない。

私が子供の頃に感じていた学校にも家にも居場所が無い様な息が詰まる様な思い出ばかりの子供にしてはいけない。

私は子供の頃、毎日死にたいと思ってた。

何も楽しいと思えなかったし、なんで生きてるんだろうって思ってた。

今思えば親に対して非常に失礼でバカな子供だった。
今もそれは変わらない。

娘の可愛い笑顔が目の裏側に焼き付いてる。

言葉を発する事が出来ない寝たきりの父が必死で私を見つめる姿が浮かぶ。

今は泣きたいくらいに辛いけど少しづつ前に進んで行こうと思う。



25年前の思い出

実は今、私は宮城県にいます。
主人が去年の年末から震災復興の仕事で出張しているのです。

3年前の震災が起きた当時、私は本当の幸せをやっとの想いで娘と掴み希望を胸に抱いて引っ越しの準備をしていました。

そんな時に主人から電話がかかってきて「川が波打って揺れてる。テレビつけろ」と言われてもう引っ越しの準備も終盤でテレビなどの家電はありませんでしたので急いで車に行きカーナビのワンセグ放送を観ました。

そこで目の当たりにした風景は言葉にならない悲しいものでした。

精神科の病院へ行った時に震災の映像観てパニックを起こして同じ言葉を何度も何度も言ってる人もいました。

本当に衝撃的でした。

そして、その場所が父が生まれ育った地や思い出が詰まった場所である事にもショックを受けました。

一晩中テレビでは震災の様子を伝え続けていて、テレビの前で何も出来ずに観ている事しか出来なかった無力な自分…。

「写真撮るよ、並んで」
そう言われて私はちょっと飽き飽きしていました。
(もう何枚写真撮るんだろ…)
当時9歳だった私は心の中でそう思っていました。

だんだん面倒になってきてカメラの前でふざけてみたり、バカなポーズをとってみたり。

幾つも色々な場所へ連れて行かれてその度に写真を撮る…。
子供だったから分からなかったのかも知れない親からの愛情。
今はずっしり重くそれがどんなに幸福な事だったのか思い知らされています。

写真を見た今の私は泣いていました。

私はそのつまらないと感じた時にふと思ったのです。
(これから先、何十年も経って、私はこの幸せな思い出を振り返る日が来るのかな?)
想像もつきませんでした。

だけど私は泣いていました。

父に電車に乗せられて連れて行かれた海岸。
自衛隊のヘリが沢山飛んでいて音で戦争みたいに思って怖かったこと。
電車から見える緑色の田んぼの車窓。

それがどこなのか思い出せず主人の停泊しているアパートの近所のスーパーで地元の方にお聞きしてそこが野蒜海岸である事が判りました。

翌日、主人と一緒にその場所へ行きました。
確かにあの場所でした。
涙が出そうでした。
野蒜駅から伸びる一本道。
確かに私はそこを25年前に歩いたのです。
でも実際の風景は津波で様変わりしてしまっていました。
それでも大切な人とまたここに戻って来られた事がある意味両親への恩返しかも知れません。

母は東北の震災の5ヶ月後にわずか54歳で亡くなりました。
父は母が亡くなってから一年後に体調を崩し、私がこちらへ来る少し前に脳出血を起こし手術をしましたが誤嚥の調子が悪く、高熱が出たり下がったりの状態で、これ以上の回復は見込めないと言われました。
寝たきりでチューブからの流動食です。
一生家には帰れないかも知れないと言われました。

私はただただ泣きました。
独りで居るとずっと泣いていました。
父の事を言葉にすると涙が勝手に流れました。

けれど母が亡くなってからも必死に私や弟に頼らまいと電話すら私には掛けて来ない人でした。

私が泣いて父が良くなるなら、幾らでも泣く。
でも、私が泣いたって父は治る訳じゃないし、今まで通りの生活が出来る訳でも無い。
…私は笑っていなくちゃいけない。
幸せでないといけない。

私は父の代わりに父の目になって、父の思い出の場所へ足を運びました。

そして沢山笑いました。

帰ったら厳しい話が色々と待っていると思います。
だけど、父にはとびきりの笑顔で思い出の場所の写真を見せてあげたいと思います。

子供だった私には難しいことだった
だけど今はよく判る
どれだけの愛情を貰ったか
どれだけ愛されていたのか
自分が犠牲になるなんて間違ってた
お父さんの中ではいくら私が歳を取っても私は子供なんだろうね
それで良いよ
ただ今はもう無理もしなくていいから
幸せな時間を一緒に過ごそうよ
お父さんありがとう
こんな素敵な場所へ導いてくれてありがとう
大好きだよ
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