25年前の思い出
実は今、私は宮城県にいます。
主人が去年の年末から震災復興の仕事で出張しているのです。
3年前の震災が起きた当時、私は本当の幸せをやっとの想いで娘と掴み希望を胸に抱いて引っ越しの準備をしていました。
そんな時に主人から電話がかかってきて「川が波打って揺れてる。テレビつけろ」と言われてもう引っ越しの準備も終盤でテレビなどの家電はありませんでしたので急いで車に行きカーナビのワンセグ放送を観ました。
そこで目の当たりにした風景は言葉にならない悲しいものでした。
精神科の病院へ行った時に震災の映像観てパニックを起こして同じ言葉を何度も何度も言ってる人もいました。
本当に衝撃的でした。
そして、その場所が父が生まれ育った地や思い出が詰まった場所である事にもショックを受けました。
一晩中テレビでは震災の様子を伝え続けていて、テレビの前で何も出来ずに観ている事しか出来なかった無力な自分…。
「写真撮るよ、並んで」
そう言われて私はちょっと飽き飽きしていました。
(もう何枚写真撮るんだろ…)
当時9歳だった私は心の中でそう思っていました。
だんだん面倒になってきてカメラの前でふざけてみたり、バカなポーズをとってみたり。
幾つも色々な場所へ連れて行かれてその度に写真を撮る…。
子供だったから分からなかったのかも知れない親からの愛情。
今はずっしり重くそれがどんなに幸福な事だったのか思い知らされています。
写真を見た今の私は泣いていました。
私はそのつまらないと感じた時にふと思ったのです。
(これから先、何十年も経って、私はこの幸せな思い出を振り返る日が来るのかな?)
想像もつきませんでした。
だけど私は泣いていました。
父に電車に乗せられて連れて行かれた海岸。
自衛隊のヘリが沢山飛んでいて音で戦争みたいに思って怖かったこと。
電車から見える緑色の田んぼの車窓。
それがどこなのか思い出せず主人の停泊しているアパートの近所のスーパーで地元の方にお聞きしてそこが野蒜海岸である事が判りました。
翌日、主人と一緒にその場所へ行きました。
確かにあの場所でした。
涙が出そうでした。
野蒜駅から伸びる一本道。
確かに私はそこを25年前に歩いたのです。
でも実際の風景は津波で様変わりしてしまっていました。
それでも大切な人とまたここに戻って来られた事がある意味両親への恩返しかも知れません。
母は東北の震災の5ヶ月後にわずか54歳で亡くなりました。
父は母が亡くなってから一年後に体調を崩し、私がこちらへ来る少し前に脳出血を起こし手術をしましたが誤嚥の調子が悪く、高熱が出たり下がったりの状態で、これ以上の回復は見込めないと言われました。
寝たきりでチューブからの流動食です。
一生家には帰れないかも知れないと言われました。
私はただただ泣きました。
独りで居るとずっと泣いていました。
父の事を言葉にすると涙が勝手に流れました。
けれど母が亡くなってからも必死に私や弟に頼らまいと電話すら私には掛けて来ない人でした。
私が泣いて父が良くなるなら、幾らでも泣く。
でも、私が泣いたって父は治る訳じゃないし、今まで通りの生活が出来る訳でも無い。
…私は笑っていなくちゃいけない。
幸せでないといけない。
私は父の代わりに父の目になって、父の思い出の場所へ足を運びました。
そして沢山笑いました。
帰ったら厳しい話が色々と待っていると思います。
だけど、父にはとびきりの笑顔で思い出の場所の写真を見せてあげたいと思います。
子供だった私には難しいことだった
だけど今はよく判る
どれだけの愛情を貰ったか
どれだけ愛されていたのか
自分が犠牲になるなんて間違ってた
お父さんの中ではいくら私が歳を取っても私は子供なんだろうね
それで良いよ
ただ今はもう無理もしなくていいから
幸せな時間を一緒に過ごそうよ
お父さんありがとう
こんな素敵な場所へ導いてくれてありがとう
大好きだよ
主人が去年の年末から震災復興の仕事で出張しているのです。
3年前の震災が起きた当時、私は本当の幸せをやっとの想いで娘と掴み希望を胸に抱いて引っ越しの準備をしていました。
そんな時に主人から電話がかかってきて「川が波打って揺れてる。テレビつけろ」と言われてもう引っ越しの準備も終盤でテレビなどの家電はありませんでしたので急いで車に行きカーナビのワンセグ放送を観ました。
そこで目の当たりにした風景は言葉にならない悲しいものでした。
精神科の病院へ行った時に震災の映像観てパニックを起こして同じ言葉を何度も何度も言ってる人もいました。
本当に衝撃的でした。
そして、その場所が父が生まれ育った地や思い出が詰まった場所である事にもショックを受けました。
一晩中テレビでは震災の様子を伝え続けていて、テレビの前で何も出来ずに観ている事しか出来なかった無力な自分…。
「写真撮るよ、並んで」
そう言われて私はちょっと飽き飽きしていました。
(もう何枚写真撮るんだろ…)
当時9歳だった私は心の中でそう思っていました。
だんだん面倒になってきてカメラの前でふざけてみたり、バカなポーズをとってみたり。
幾つも色々な場所へ連れて行かれてその度に写真を撮る…。
子供だったから分からなかったのかも知れない親からの愛情。
今はずっしり重くそれがどんなに幸福な事だったのか思い知らされています。
写真を見た今の私は泣いていました。
私はそのつまらないと感じた時にふと思ったのです。
(これから先、何十年も経って、私はこの幸せな思い出を振り返る日が来るのかな?)
想像もつきませんでした。
だけど私は泣いていました。
父に電車に乗せられて連れて行かれた海岸。
自衛隊のヘリが沢山飛んでいて音で戦争みたいに思って怖かったこと。
電車から見える緑色の田んぼの車窓。
それがどこなのか思い出せず主人の停泊しているアパートの近所のスーパーで地元の方にお聞きしてそこが野蒜海岸である事が判りました。
翌日、主人と一緒にその場所へ行きました。
確かにあの場所でした。
涙が出そうでした。
野蒜駅から伸びる一本道。
確かに私はそこを25年前に歩いたのです。
でも実際の風景は津波で様変わりしてしまっていました。
それでも大切な人とまたここに戻って来られた事がある意味両親への恩返しかも知れません。
母は東北の震災の5ヶ月後にわずか54歳で亡くなりました。
父は母が亡くなってから一年後に体調を崩し、私がこちらへ来る少し前に脳出血を起こし手術をしましたが誤嚥の調子が悪く、高熱が出たり下がったりの状態で、これ以上の回復は見込めないと言われました。
寝たきりでチューブからの流動食です。
一生家には帰れないかも知れないと言われました。
私はただただ泣きました。
独りで居るとずっと泣いていました。
父の事を言葉にすると涙が勝手に流れました。
けれど母が亡くなってからも必死に私や弟に頼らまいと電話すら私には掛けて来ない人でした。
私が泣いて父が良くなるなら、幾らでも泣く。
でも、私が泣いたって父は治る訳じゃないし、今まで通りの生活が出来る訳でも無い。
…私は笑っていなくちゃいけない。
幸せでないといけない。
私は父の代わりに父の目になって、父の思い出の場所へ足を運びました。
そして沢山笑いました。
帰ったら厳しい話が色々と待っていると思います。
だけど、父にはとびきりの笑顔で思い出の場所の写真を見せてあげたいと思います。
子供だった私には難しいことだった
だけど今はよく判る
どれだけの愛情を貰ったか
どれだけ愛されていたのか
自分が犠牲になるなんて間違ってた
お父さんの中ではいくら私が歳を取っても私は子供なんだろうね
それで良いよ
ただ今はもう無理もしなくていいから
幸せな時間を一緒に過ごそうよ
お父さんありがとう
こんな素敵な場所へ導いてくれてありがとう
大好きだよ