sou uma japonesa -3ページ目

絵と針と糸 1

080707_0153~01.jpg
6歳の時。
私は初めて保育園で描いたお父さんの絵が何かのコンクールに応募して入賞した。
なんか母が大喜びしてた記憶がある。
集会で皆の前で表彰されて、後ろで見ていた弟が嬉しすぎて「僕のお姉ちゃんなんだぜ」とかずっと大きな声で言ってて、「うるさい」と先生に怒られてたのが微笑ましい記憶。

それよりずっと前によく11PMっていう番組を見ながら母がスケッチブックを持って来て、ロングドレスを着たお姫様の絵をカラーでよく描いてくれた。
父が仕事でいない分よくこうして母と弟と夜を過ごした。
私は母の描いた絵をとても上手だと思い、真似をして絵を描き始めた。
保育園でも絵が上手である事をよく言われた。
絵は今でも私の中でかなりの範囲を占めて生き甲斐になっている。
でも当時はもっと感性を大事にして描いてた気がする。
今は誰かに注目されたり、相手にして欲しくて描いてる一面もあるから。

結局人はそういう事で孤独を避けるのかな
絵に没頭していれば自分の世界に浸っていられる
絵に没頭していれば興味を持った誰かが声をかけてくれる

自分を表す表現手段
私はとても自分の性格上絵を描く様な人間には見えない。
絵は私の気持ちを素直に表現してくれる。
繊細な部分とか、本当は気が弱いとか口で言えない事を絵は伝えてくれる。

だからこそ時々ものすごく葛藤したりもするんだけどね。

ただ、絵が無ければ今の私は存在していない。

絵が言葉を超えて人との繋がりを作ってくれたから。

悪夢の始まり

3歳くらいの頃だったと思う。

母に弟と二人自転車に乗せられ、大きな公園へ遊びに連れて行ってもらった。

確か夏か秋だった。
母は幸せそうだった。
現実には、頭痛がする様な心配事や悩みはあったと思うけど、あの瞬間から全てが変わってしまった。

一通り遊んで私達は家へ帰った。

家へ帰り、二軒続いた長屋の借家に当時住んでいて、隣の家におばあちゃんが一人で住んでいたのでそのままおばあちゃんの家へ行ったと思う。

ところどころしか覚えてないけど、私が忘れられないのは母の言葉だった。
「何で?…どうして?!」
おばあちゃんの家には見たことの無い知らないおじさんが二人座っていた。

…それは初めてh伯父さんと会った瞬間だった。

実は母とおばあちゃんはh伯父さんからの暴力から逃げる為に何度も引っ越しを繰り返していた。

h伯父さんに家がバレてしまう度に転々と住居を変えては暴力から逃げていた。

h伯父さんは、ある時は街に用事で出てきていたおばあちゃんを偶然見つけて跡をつけて住居を探り当てたり、車の免許を持たないおばあちゃんと母はタクシーを利用する事もあるので珍しい苗字という所を突いてタクシーの運転手から居所を聞き出したりしておばあちゃんと母を追い詰めて来たのだ。

そして当然酒を飲んでは暴力を振るい、おばあちゃんや母を殴るという事を続けてきた。

今回は、私を産んだ病院の傍の喫茶店の女主人から聞き出したらしい。
母は口止めをしていたらしいが、その女主人はバラしてしまったのだ。
母は今でもその女主人を恨んでいる。

私は産まれて初めて怯えるという事をh伯父さんから学びました。
目の前で繰り広げられる信じられない様な光景。
ガラスが飛び散る音、人々の罵声、泣き声。
飛び散る血、倒れる仏壇、テレビ、テーブル、クローゼット。
母の切れた腕の傷口、そしてh伯父さんを止める為にやって来る当時近所に住んでいたm伯父さん。
m伯父さんしか車の運転が出来ないので母は泣く泣く頭を下げてm伯父さんにh伯父さんを帰らせる為に頼み込んでいたが、m伯父さんはいつも母にくどくどといつまでも文句を言ってばかりいた記憶がある。
m伯父さんは母と一番歳が近い兄だ。
今なら"お母さんが悪い訳じゃ無いんだから責めないで!!"と言い返してあげられるのに…。

私達はいつも走っていた。
靴を裏口に持って行き、物陰に隠れて足音を忍ばせ、連れ込みホテルまでタクシーを拾い家で寝られないという日々を私は20年間何度も繰り返してきた。

当時は警察なんて何の役にも立たなかった。
一応は来てはくれるが…来るだけである。

DVなんて言葉が無い時代だもんね。

母は相当h伯父さんを恨んでいた。
本気で殺したいと思っていたんだろう。
まだ子供だった頃に偶然開けたクローゼットの引き出しに人型に切られた厚紙にh伯父さんの名前が書かれ、更にはその厚紙一面に物凄い本数まち針が刺されていたのだ。
恨みが深い事が滲み出ていた。

世の中ってどうしてこうも上手くいかないんだろう…
不幸になりたくて不幸になる人なんていない
皆、幸せになりたくて生きてるだけなのにどうして私の周りは私の気持ちをズタズタにするんだろう…
悲しくて苦しくて泣いてる母も見たくなくて、悲しそうな表情でただ暴れるh伯父さんを座布団に座ったまま見つめるおばあちゃんがもっと私の胸を痛め、私は頭を抱えて叫びたくなった
このフラッシュバックは後に大人になってから再現される事になった
私の病気、適応障害を作ったひとつの基礎だね
私は不幸な中で幸せだと思える事は、誰もが体験した事の無い不幸…いやあれは全部地獄だ、地獄を知っているって事だ
だってね、そういう事を知っているからこそ、私は人に優しくしたいの
誰にも同じ想いを抱えて欲しくないの
私みたいな人間になって欲しくないの…

おばあちゃん

私にとってある意味人生のキーワードになってる人。

おばあちゃんだけはいつも私の味方だった。

私の母は、h伯父さんのせいで成人して次々と兄姉達が家を出て行くのをおばあちゃんと見てきた。
だからこそ、かわいそうなおばあちゃんを残して嫁には行けないと母は養子に入ってくれる人としか結婚しないと決めていた。

私の父は養子に入った。

優しかったおばあちゃん。
母がずっと昔に母の日にプレゼントした緑色のがま口財布を使ってた。
私が学校にいじめられて行けなかった日も私の手を引いて学校まで連れて行ってくれた。
風邪がお腹に入って母に放って置かれた時もおばあちゃんが病院へ連れて行ってくれて点滴が終わるまで一緒に片時も離れず居てくれた。
内孫の私を特に可愛がってくれた。
脳血栓を患って左半身の自由が利かなくなって、誰かに手を借りなければ歩けなくなった時も隣に居たのは私だったね。
心臓が悪くなってからは、突然認知症になってしまい、訳も分からないはずなのに私の名前をずっと呼んでくれていたね。

早朝に叩き起こされ、おばあちゃんが亡くなった事を聞かされ病院へ行くとおばあちゃんは閉じていた目を開いて私を見てくれたね。

母は唯一の親を亡くして泣いていたけど、私はおばあちゃんが亡くなった日は亡くなった事がずっと信じられなかった。

でも一番おばあちゃんが居なくて泣けたのはお通夜の夜でした。

おばあちゃん、私はこんなダメな孫だけど、おばあちゃんが居たから死ねなかったよ
おばあちゃんが居たから優しい気持ちが持てる様になったんだよ
私は今でも足の不自由な人や老人の人を見るとおばあちゃんの姿を重ねます
もちろん手助けします
私がもう少し早く産まれていれば、って思う事が多々あるよ
今なら大好きな温泉にも私の車で連れて行ってあげられるのに
今ならおばあちゃんが見たがってたひ孫もここにいるのに
今なら何にも怯えず平穏な生活が出来るのに
苦労ばかりだったおばあちゃんの人生、私と逢えた事少しは幸せに思ってくれますか?

私はおばあちゃんに対して後悔ばかりです。
もっと恩返ししたかった…。