『トンでもオヤジ』対して、母親はどうかというと、案外と普通の人です。
 父親よりも4歳年上の女房です。ワタシに対しても姉に対しても公平で、ごくごく平凡な人でした。あれだけ家庭で口うるさく、時に暴れる夫と離婚もせずにいたわけですから、我慢強いといえるかもしれません。逆に考えると、母親が我慢強く、逃げ出したりする可能性がゼロだからこそ、父親はあれだけ好き放題にやっていたとも言えます。
 ワタシが子供の頃から数えると、何回の夫婦喧嘩を目の当たりにしたか?
 ん~数え切れませんな。

 イチバン派手な喧嘩は、今でもよーく憶えております。
 あれはワタシが小学校3年生のころだったでしょう。
 当時父親は会社を興して波に乗りかかっていた頃で、さらに事業を拡大しようとアジア大陸からの輸入を試みようとしておりました。このあたりのことは、ワタシが大人になって記憶の糸を手繰ることで、当時の父親の仕事の繋がりや挫折が見えてくることになります。
 
 そして、その日は父親がアジアの国に乗り込んで直談判する前日だったようです。情勢の読み違えが原因だったのか、渡航前にその交渉の失敗、事業そのものが失敗に終わる可能性が見えていたようです。まあ父親としてはイライラしますわな。つぎ込んだ金はパーっになるし、これからの無駄な渡航を憂いていたのでしょう。そこに年上女房がいらんことを口を挟むわけですな。
 いや~この時の夫婦喧嘩すごかった。
 近隣住民が110番通報しなかったのが、今から考えても不思議なくらい。
 この時、父親はあろうことか、直径30センチはあろうかというガラスの灰皿をブン投げましたから。
リビングの空を舞うガラス製の灰皿は、見事に暖房器具にヒットして、ガラス片が飛び散る。
 さらにオットロシイことに、父親は台所にある包丁を持ち出しました。
包丁をリビングにあるテーブルに突き刺し、何事かわめいておりました。東映ヤクザ映画の世界です。
 『 昭和残侠伝  死んで貰います、、、』

 母親を刺殺しようなどというわけではなかったのでしょうが、非難めいた言葉を終わりにしないことに気持ちがあらぬ方向に昂ったのでしょうな。

 当時中学2年生くらいだった姉は泣きだして自分の部屋に引きこもり。
 行くあてのないワタシは、ジッとその夫婦喧嘩の光景を眺めておりました。
 どうしよう、、、コワイ、、、、止めさせようなどと思ったのではなく、ワタシはこの時に、こう思っていました。
 『なんで、母親はあそこまで父親に逆らうのだろうか? そうか、これは母親が年上女房だからに相違あるまい。年上の女だということで、ハイハイそうですか、、、仕方ないわねと優しい声をかけて、ササくれだった父親の気持ちをなだめることができないのだろう』っと。
 小学3年生ながら、なかなか鋭い視点を自分でも持っていたと思います。
 大好きだったウルトラセブンの最終回は、『史上最大の侵略』という題名でしたが、『史上最大の夫婦の喧嘩』を、ワタシは冷徹な目で眺めていたのをよく憶えています。

 ワタシの母親も、こどもの頃に父を亡くし兄弟5人母子家庭で育ちました。ただ下町育ちだったせいか暗いところは微塵もなく、あっけらかんとした人間で、それは今も変わりません。小さな物事にクヨクヨせず、『なんとかなるわよ』と開き直ったところがあるのでしょう。
 このあたりの母親の性格は、実はワタシの妻とよく似ています。こちらが小言を言っても、右から左にに抜ける感じで、まとも聴いていないあたりは、まるで同じです。

 父親がガミガミと五月蠅いせいなのか、母親に怒鳴られたりした記憶はほとんどありません。もちろん怒られることはありましたが、絶叫したり、終わってしまったことをいつまでのクドクドと叱られることはなかったですね。
 こうやって、母親のことを記していると、実にワタシの妻とよく似通ったところがあることに気づきます。実際のところ、ワタシは自分に関係のない人でも、母親が怒鳴ったりするのを目の当たりにすると気分が悪くなります。ワタシの中の母親像や、理想とする女性というのは、少なからずワタシの母親の影響が大きいのだと思います。

 母親は、まあケチでした。ケチというのか質素というのか、、、、自分自身も贅沢なことは一切しませんでしたし、子供であるワタシや姉に対してもケチでした。ワタシは小学校の3年生くらいまでは、ジーンズにはそこかしこにツギが当たっていました。『破れていても、直せばまだはける』っと、破れたジーンズの膝小僧の部分に黒い糸でミシン掛してしまうのです。おかげで、ワタシのジーンズは膝の曲がりがきつく、ゴソゴソしていたのを憶えています。ツギの当たっていないジーンズなんてなかったのではないでしょうか。『よそ行きの服』と名付けられた洋服があったくらいなので、普段着は無茶苦茶だったのだろうと思います。いまどきは、ツギの当たっているジーンズを身に付けてい子供なんて、めったにお目にかかれないでしょうな。

 あと、よく記憶にあるのは『おでん、カレーの法則』。
 何のことかと言いいますと、夕食のおかずが『おでん』だったりすると、翌日の晩飯は『カレー』なのです。このことは、ワタシが中学生くらいになってハタと気づいたことで、レパートリーの少ない晩飯のおかずが事務的ににローテーションで回ってくるに等しいような晩飯メニューのなかで、母親が自覚のないままに『おでん』→『カレー』というふうになっていたのです。
 いろんなモノを作ってくるくれる優しいお母さん、、、、、、とは言えない主婦だったでしょう。
 
 よくよく考えると、このあたりも、ワタシの妻によく似ているかもしれません。

 まあ、つまらんことに母親からはガタガタ言われなかったおかげで、父親のいないときは自由にノビノビと家庭ではすごさせてもらったと言えるでしょう。

 
 まあ、今から考えても、オットロしい厳しい父親でした。
 
 小学生くらいのころに、ごく稀に父親が陽の暮れる前に帰宅していることがありました。玄関の扉を開け放つと、父親が帰っていることを漂う空気ですぐに察します。
 なんでしょうか、動物の勘でしょうかね? 草原でライオンが近づいていることを感じて、草を食むのを止めて首をもたげるシマウマみたいなもんでしょうか。
 玄関の扉を開けて『んっ?』となるのです。
 おかしい、この空気っと感じます。次に玄関にならぶ靴を観察。そこで父親が脱いだであろう靴を発見すると『ゲッ!帰ってきている、、、』っとなるのです。平静を装って自分も靴を脱ぎつつも、『どういうこっちゃ?こんなに早い時間に、、、、くわばら、くらばら、、、』となるのです。
 テレビに出てくるような、『わあ~♩ お父さんが帰ってきている~♩ ただいま~♩』なんてことには絶対にならないわけです。まあ、あんなふうに子供の緊張を強いるモノを漂わせている父親ってのも、なんだかヘンでしたね。

 ただ、いくつかの印象的なイイ思い出もあるといえば、あります。
 ひとつは、保育園に入る前までは、よく肩車をしてくれました。このことは強烈に記憶として残っています。写真でもワタシを肩車している父親の姿がいくつか残っているので、よく肩車をして連れてくれていたのでしょう。
 父親の肩車がうれしかった記憶というのは、ワタシの子供が生まれて彼らを自然とワタシも肩車をして連れて歩く行為につながっています。娘、長男、次男いずれもよく肩車をしておりました。彼らの記憶の中にもワタシに肩車をされたという記憶が残るのか、、、どうなんでしょうかね。

 ワタシが高校生くらいの頃、『どうしてウチ親父は、あんなふうなのだろうか?ふつうの父親ってのは、もう少し自分の子供に対して、優しさみたいのもの見せるのではないだろうか?』と疑問に考えていた時期があります。いろいろ考えて、たどり着いた答えがあります。
 『ワタシの父親には、父親像というものが一切ないのだ。自身の父親(ヨタ者だという祖父)を幼児の頃に畏れ、そして失ったことで、具体的な父親像を持ち合わせてなく、あのような態度になるのではないかと』そう思うようになりました。そう考えるようになるまでは、理不尽に殴られたり、気分で怒鳴られたりしたりすることに憎しみに近い感情を抱くことがありましたが、「父がいなかった父親」というふうに思えるようになると、不思議と父親の心の中を理解できるようになりました。手本というか見本というか、そんなモノが頭のなかにイメージとして持たずに自分の子供と接することは、多くの迷いや戸惑いが生じて、自らの感情にまかせるままになってしまうのかなと。父親を憐れむ、、、、というと語弊があるかもしれませんが、中学生を過ぎたワタシが、そう父親のことを考えていたことは間違いありません。

 腕っぷしの強いのが自慢で、酔っぱらうとよく自宅にきた親類といわず、いろんな人と腕相撲をしてましたね。当然、ワタシもよく父親と腕相撲をしていました。無論、小中学生のころは敵うハズもなく、貧弱な腕力を小馬鹿にされてました。
 ワタシの腕力が強くなってからは、1度も腕相撲をしたことはありません。たぶん大学生のころには、力ではワタシ方が上だったでしょうが、父親からもワタシからも『腕相撲をしよう』と言いだすことはないまま現在に至っております。父親との腕相撲は勝率0割。300戦0勝300敗のままです。
 この勝率は、このまま両者がこの世から消えるまで、このままでいいのだろうと思っています。

 
 ワタシの父親は、寝床でよく色々な話をしてくれました。
 こう書くと、まるでいろいろな物語を聴かせてくれたりする、やさしい父親のような印象になってしまいますが、まるで違います。
 夢物語を聴かせてくれるわけではななく、自分の生い立ちや、目の当たりにした、焼け野原となった東京の様子、疎開した先での苦労話などなど、聴くも悲しい、気持ちの暗くなるような話ばかりなのです。何度も聞かされた話があるので、ワタシの脳ミソには、父親の生い立ちについての流れの記憶がカビのように張り付いています。
 幼少の頃に父親を亡くしたので、トンだ貧乏暮らしが続いていたことの具体的なエピソードを繰り返し聞かされました。亡くなった父親(つまりワタシの祖父)というのもロクでもない男だったそうで、ワタシの父親は年中折檻されていたそうです。寝小便を垂れたといって、押入れに閉じ込められたこと。理不尽に張り倒されたこと、、、、まあ、楽しい思い出はなかったようです。
 父親が小学生なってすぐに病気で亡くなってしまったらしいのですが、その時に父親は「オヤジが死んで良かった」っと、本気でそう思ったというのです。
 父親が死んで微塵も悲しみがない、、、、これは、ワタシの祖父にあたる人物が余程ロクでもない男だったということでしょうかね。
 父親曰く『今で言う与太者だった、、、、』と聞かされたのをよく憶えております。まともに働きもせずに、よく奥さん(つまりは、ワタシの祖母)に暴力を振るっていたらしいのだ。父親の家は貧しかったので家族の写真なんていうものは残存していなく、正確にいうと写真撮影する余裕など生活になかったのでしょうが、1枚だけ写真をみたことがあります。
 ワタシの祖父、祖母、そしてワタシの父親が3歳くらい子供の時の写真。父親の兄弟も一緒に撮影されいたような記憶がありますが、定かではありません。ワタシの記憶にあるのは、ワタシの祖父にあたる男性の姿形です。
 着流しの着物を着て、スラリと背が高く、眼光鋭くキリリとした表情の男性が、その写真には写っておりました。ワタシが子供のころに数回その写真を見ただけなのですが、現在の職業に置き換えるとワタシの祖父はおそらくチンピラだったのでしょう。
 ワタシの父親は『与太者』と表現しておりましたが、正確には『ヤクザ者』だったのではないか。病気で死んだというのも、実は何がしかのトラブルで命を落としたのかもしれません。まあ、その与太者の祖父が死んだおかげで、父親の家族は、祖母が子供4人を女手ひとりで育てるという貧乏暮らしがはじまったそうです。
 小学生になって太平洋戦争がはじまり、祖母の親類を頼って福島に一家で疎開することになったらしいのですが、これがたまた悲惨な暮らしだったらしい。田舎での貧しい生活を強いられたことを、ワタシは父親から、暗い寝床のなかで何遍きかされたことか。
『食べるもの皆無で朝飯もなく、イカの足を1本だけ食べて学校に行き、腹が減ってフラフラした』
『田舎の学校の同級生に東京から来たことで苛められ、毎日喧嘩をしていた』
『子供ながらに働いて手伝いをしていたら、報酬に渡されたのが腐ったジャガイモだった』
『着るものもなく、真冬で裸足で下駄を履いていた』
『あてがわれた住居は牛小屋の隣のボロ小屋で、夜寝ていると、牛のクソが落ちる音が響いていた』
『あまりに毎日学校で喧嘩をするので、学校なんぞには行かなくなった』
などなど、悲しい貧乏暮らしのさまを、ワタシはよく聞かされてました。

 今から考えると、よくぞ、そんな話を小さな子供であるワタシに繰り返し聞かせていたものだと思います。おそらく、その貧乏暮らしの体験が、父親がその生活から脱出するための努力の糧になったとの自負があったからなのかもしれません。『貧乏』だけは、大人になったら絶対になるまい、、、そう日々の暮らしのなかで念じ続けていたのでしょう。

 まともに学校もいかず、新制中学の義務教育なんてのも制度としては始まっていたはずですが、ワタシの父親が中学校に通ったという話は聞いたことがないので、中学校にはまともに通わず、小僧に入って働いたのでしょう。小僧に入って労働していたころの苦労話などは、まるで江戸時代の小僧制度のような話で、朝6時から夜の10時まで働きづめで、わずかに貰える小遣い程度の給与と、月に1日だけの休日が楽しみだったと。
 
 学の皆無な父親は、ワタシに『勉強しろ』と言ったことは、ただの一度もありません。まあ、自分が一切勉強せずにいたわけですから、自分の子供にそれを強いることもないわけです。ワタシが小学生になって成績表を持ち帰っても一瞥くれるだけで、なんの興味も示さなかったですね。このことは、ワタシが中学生、高校生になっても同じでした。学業の成績の良し悪しについて口を開いたことは皆無でした。 『何事も努力を怠るな』とただ繰り返し言われていたように思います。『一生懸命に何かをやらないと、道は見えてこない』と。阿呆のように毎日をダラダラ繰り返していると、見えてくるものが見えなくなってくると。
 
 寝床で聞かされたこれらの話は、少なからずワタシの人間性に影響はあったのではないかと思います。父親を反面教師として眺め、その生きざまの反対を行く部分もありますが、ワタシの身体に流れる血の半分は父親から貰ったもので出来上っているわけで、そのあたりのことは自分が親になってますます強くかんじていたりするわけです。            
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 人間ってのは何歳くらいから記憶という脳の働きがはじまるのだろうか?
 ワタシの場合は、たぶん4歳くらいから記憶がはじまっている。生まれた当初の住居は東京都の江戸川区だったらしいのだが、その家の記憶は一切ありません。ワタシの住居の記憶というのは、3歳か4歳くらいのころの千葉県の柏市の集合住宅に住んでいたころからはじまる。
 たしか建物は「ロイヤルカツラ」という名前で、傾斜地に建設されていた3階建くらいの集合住宅で、傾斜地のまさに斜めになっている半地下みたいな、すき間にあった居住区でした。
 近いところに湿地のような場所があって、夏になると蛍が網戸に止まっていることがあったのをよく憶えています。カブトムシやクワガタなんてのも網戸にいるやつを簡単に捕まえることができました。
 不気味な出来事だったのは、よく窓を開け放した先によく蛇が現われたこと。
 父親が蛇に向かって石を投げて追い払っていた記憶がなぜか今でも強烈に残っています。

 たぶん、この柏の集合住宅に住んでいたころの記憶というのは、3歳から5歳くらいまでの2年足らずのはずなのですが、この頃の記憶がずいぶんとハッキリと残っています。
 手賀沼につながる大津川という名前の小さな小川に釣りにいったこと。当時父親は釣りが趣味だった、、というか釣りくらいしか楽しみがなかったのかもしれませんが、何度も足を運んだ記憶があります。

 春の日の土手で、父親が釣り糸を垂れているとなりに寝転んでいると、ヒバリが青空を上下に落っこちそうになりながら飛んでいる様子。あのヒバリの鳴き声や飛んでいるさまは、今でも目をつむると浮かんでくるほどです。
 何ゆえか、魚が釣れてその魚体を見た記憶はなく、当時の情景ばかりが記憶に残っています。川に架かる橋が木製で、橋の床が抜けている場所があり、そこを跨ぐのビビりまくっていたことや、生活排水が流れ込んでいたのでしょうが、川の一部が淀んで水面が泡立った箇所あったこと。父親が使っていた竿は、竹製の延べざおで、黒塗りに朱色の模様が入っていたものだったとか。
 ドビン釣といって、透明な樹脂でできた瓶状のものに練り餌を詰めこむと、タナゴやクチボソがゴッソリ捕れたこともありました。

 当時の最大のヨロコビは、『ファンタグレープ』が飲めるヨロコビでした。
 親戚の子ども(いわゆるイトコ)が自宅に来たりすると、公園に遊びに連れて行ってくれて、母親がその時だけはファンタグレープを買ってくれるのです。ふだんの日常で母親がその手のものを買ってくれることは皆無でした。年に数回、その親戚がやってきたときだけの、特別な出来事だったのです。
 炭酸の入った紫の液体を口にする、、、あのヨロコビ。
 なぜファンタグレープが選択されていたのかわかりませんが、ワタシは今でもファンタグレープを見たり飲んだりすると、特別な味がします。
 贅沢というよりは、夢の飲み物の味がします。
 柏に居住していた頃に何回ファンタグレープを口にしたのか、、、、、たぶん、5,6回の出来事なのでしょうが、ファンタグレープへの憧れは深くワタシの心に突き刺さりました。
 中学生のころにファンタグレープを1リットルくらい飲んでみたことがあるのですが、あの公園の柵に座って飲んだファンタグレープの感動は蘇ってきませんでしたね。

 この柏に居住していたころの記憶は、楽しいものだけしか残っていません。まあ、幼少のころなので、その手のヨロコビの類しか脳ミソに残らないのでしょう。
 玄関口にあった井戸水のポンプで水をくみ出して遊んだことや、柏駅に向かう途中にある神社に上手ある銀杏の木が秋になる実を落として強烈なニオイを発していたこと。
 数の少ない、いくつかの場面を思い出す情景が、深く頭の中に残っています。

 こうやって考えると、その後のワタシ人生における趣味嗜好というのは、この柏の土地で育った期間が大きく関与していることがわかります。その後の子供時代の遊びや行動は、それらの記憶によって司られているのかもしれません。                     

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 1966年5月21日にワタシは生まれました。
 
 ワタシが生まれた時に父親は29歳、母親は父より4歳年上なので32歳のハズです。
 ワタシには5歳上の姉がおりますが、どうも聴いたところによると、ワタシの両親はデキ婚だったようで、母親が子供を身ごもったことで結婚したらしい。このことは、ハッキリと両親から聞いたわけではないですが、ワタシが中学生くらいの時だったでしょうか、父親と母親の結婚のことについて訊ねたことがありました。父親は『オレは年上の女(つまりは母親のこと)にだまされて、若い身空で結婚するハメになった、青春返せっ、青春返せっ、青春返せっ!』っと言っていたのに対し、母親は『責任を取ってもらった』という言葉を発したのをよく憶えている。
 責任をとってもらう→イッパツの責任→妊娠の責任→結婚、、、、うーむ重い責任だ。
 よーく考えれば、いや考えるまでもなく、ワタシも父親と同じ責任をとって結婚したのだ。
 父親もワタシも、責任を放棄しない立派な人間と言えよう。

 が、しかし、ここで大きな問題があるのだ。
 たしか、父親から聴いた話では、結婚したのは自分が19歳のアンちゃんの時ということだった。ワタシが生まれたのは父親が29歳の時、5歳年上の姉が生まれたのは、24歳の時のハズ。ということは最初に母親が身ごもった子供は姉ではない。つまり、父と母の結婚のキッカケとなった子供は、この世には生まれてこなかったということになる。
 想像するに、経済的理由からの堕胎ではなかったかと。というのも、これもワタシが中学生くらいのころに聞かされた話なのだが、『もしかしたら、お前はこの世にいなかった可能性もある』と父親から言われたことがあるのです。最初の子供、姉、ワタシの他にも母親はもうひとり妊娠をしたことがあるらしいのだ。
姉とワタシのあいだに、もう1回妊娠していたというのだ。もし、その子供を産んでいれば、おそらくお前は生まれてこなかった、、、、、っと、そう告げられたことがあるのだ。
 しっかし、今から考えるとトンでもないことを自分の息子に告げるクソ親父だと。まあ当時は堕胎というのは案外と普通に行われていたことなのかもしれません。

 まあ、とにかく生まれてきたよかった。
 はあーめでたし、めでたし。

 父親は、当時でいえば174僂梁臺舛蔽砲如∪犬泙譴織錺織靴癸械僑娃娃臘兇梁腓な赤ん坊だったそうです。おかげで、保育園、小学校、中学校、高校と背の順に整列というと、必ず後ろから2番目でした。ワタシより大きなヤツがクラスに必ずひとりは存在してましたが、案外とイチバン大きかったヤツというのは、途中で並のサイズになったりしてクルクルと入れ替わっておりましたが、背の順の後ろから2番目はワタシの定位置で、このことは成人するまで続いていると言えます。

                                     

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