【ノーベル賞】大村智と北里柴三郎【栄光なき天才たち】 | 独立直観 BJ24649のブログ

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そういう想いのブログです。

 大村智氏がノーベル医学・生理学賞を、梶田隆章氏がノーベル物理学賞を受賞した。
 喜ばしいことだと思う。
 ただ、世界遺産登録でも似たような感覚があるが、外国人が、白人社会が評価してくれたことをありがたがるのもどうなんだろうな、という複雑な気持ちもある(関連記事としてhttp://ameblo.jp/bj24649/entry-12031272340.html)。
 上島嘉郎氏の↓の動画と似た感覚を持っている。


「【ノーベル賞】梶田隆章教授が物理学賞を受賞[桜H27/10/7]」 YouTube2015年10月7日
https://www.youtube.com/watch?v=WgPS2930ZbI



 大村智氏は、旧帝大出身者ではない、異色の受賞者だ。


「【ノーベル賞】大村智・北里大学特別栄誉教授が生理学・医学賞に[桜H27/10/6]」 YouTube2015年10月6日
https://www.youtube.com/watch?v=JhPlBtPEUO8



 ところで、文部科学省幹部が、今回のノーベル賞受賞について、「地方大は気楽でいいね」みたいなことを言っている。


「相次ぐ地方大卒の受賞…文科省幹部「地方大はプレッシャーが少ない」」
http://www.sankei.com/life/news/151006/lif1510060073-n1.html

「 今年のノーベル物理学賞の受賞が決まった梶田隆章さんは埼玉大、医学生理学賞に決まった大村智さんは山梨大の卒業といずれも地方の国立大出身だ。昨年の物理学賞も徳島大出身の中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授に贈られた。

 相次ぐ地方国立大出身者の栄誉に、文部科学省幹部は「地方大は東京大や京大と違って成果を求めるプレッシャーが少なく、自由に研究に打ち込める雰囲気がよかったのではないか」と話す。

 しかし、3人の学生時代とは異なり、今の日本の大学を取り巻く研究環境は厳しい。国立大の運営費交付金は、法人化後の10年で約1300億円削減された。若手研究者のポストは終身雇用ではない任期付きが増えており、主要国が研究者数を伸ばす中、日本は若手が参入せず、横ばいとなっている。特に地方大は入学者数の減少傾向に歯止めがかからず事態は深刻だ。」


 地方大に対する侮辱にしか聞こえないのだが。
 大体、東京大学も京都大学も、莫大な予算を持っている。
 上記記事が運営交付金について触れているが、これが国立大学の収入の3~4割を占め(http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/222151.html)、東京大学が圧倒的1位を占めている(http://blog.goo.ne.jp/la_old_september/e/c080e5e934b7c569e59751203add2df4)。京都大学は2位だ。
 この予算の差を埋めて余りある研究成果をあげたことについて、「プレッシャーが少ない」で片付けてしまってよいものか。
 もっとも、研究は様々な分野にわたって行われており、大学全体として見れば、東京大学も予算に見合った研究成果を挙げているのかもしれないが。

 文科省が今回のノーベル賞受賞をちょっと面白くないと思うのは、わからないでもない。
 大村氏が所属していた北里研究所の沿革はこのようなものだ。


「北里研究所のあゆみ」 北里研究所HP
https://www.kitasato.ac.jp/houjin/history/index.html

「 北里柴三郎は、私立伝染病研究所(のちに国立)の初代所長として、研究の成果を予防・治療につなげることを信念に、伝染病の撲滅に向けて尽力しました。ところが、伝染病研究所が内務省から文部省に移管されたことから、本来の目標の遂行に懸念を抱き、1914年に現在地(東京都港区白金五丁目9番1号)に北里研究所を創立して信念を貫きました。この地は、福沢諭吉の多大な支援により、1893年に我が国初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」が開設された場所にあたります。

 その後も、北里柴三郎の精神は脈々と受け継がれ、北里研究所は社団法人の時代を経て、生命科学系総合大学の北里大学をはじめ、2つの医療系専門学校を擁する学校法人として現在に至っています。」


 北里柴三郎は、文部省と対立していたのだ。
 内務省系の伝染病研究所と、文部省系の(東京)帝国大学は、対立関係にあった。
 こういう因縁を考えると、文科省が大村氏のノーベル賞受賞について負け惜しみのようなことを言うのもなんとなく腑に落ちる。
 ちなみに、私立大学医学部の最高峰は慶應義塾大学であるが、福澤諭吉は伝染病研究所の設立を援助し、北里は慶應義塾大学医学科の設立に尽力したという経緯がある(https://www.kitasato.ac.jp/kitasato/index.html)。

 以前に野口英世の話をしたときに紹介した(http://ameblo.jp/bj24649/entry-11818306293.html)、伊藤智義作・森田信吾画「栄光なき天才たち 第4巻」(集英社、1997年)に、北里柴三郎も描かれている(30ページ以下)。
 1980年代の「少年ジャンプ」が黄金期扱いされることがあるが、この時期に「ヤングジャンプ」でこの作品が掲載されていた。
 北里柴三郎を語る「ヤングジャンプ」など、今では考えられないだろう。
 野口の方が知名度が高いが、本作を読む限り、日本医学界に残した功績は北里の方が大きいと思う。

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 本編が始まる前に、北里についてこのような概説がある。
 実は、北里もノーベル医学・生理学賞に関係がある。


「北里柴三郎
(1852~1931)

 明治中期に突如として出現した巨人・北里柴三郎。日本の近代科学は、北里により、医学の分野からスタートする。その突出した実力は、たとえば第1回ノーベル医学・生理学賞は、ドイツのベーリングが受賞するが、その研究内容は、ほぼ北里によるものだといわれていることからも、十分に推察できる。だが、当時の日本はあまりにも未熟であった。誰ひとり、日本人の業績を信用せず、北里を真に理解できる者はいなかった。
 外国追従と主体性の放棄――日本の医学界の権威は、その上に形成されていた。”権威の象徴”青山胤道は、ドイツ医学を盲従し、ありとあらゆる独創性を踏みつぶした。
 帝大を追われ、伝染病研究所を奪われた北里は、その後、慶應医学部の創立に尽力する。
 師の緒方対北里で始まったささいな対立は、東大対慶應という、ふたつの大きな流れとなって、以後良きにつけ悪しきにつけ、日本医学界に多大な影響を与えていったのである。」


 北里がノーベル賞を逃したことについては、このように説明されている。


「1901年(明治34年)
科学界のビッグ・イベント ノーベル賞が開始!
その第一回目から早くも日本の医学者北里が医学・生理学部門の候補にあがっていた――
だが結局北里は受賞せずその代わりになんと候補にもあがっていなかったドイツのベーリングが『ジフテリアの血清療法』という北里の研究成果をそのまま利用したものによって受賞したのである
ベーリングは当時登龍の勢いをもつドイツ帝国をバックにして賞を獲得してしまったのである


 北里が逃したノーベル賞を、後輩の大村氏が1世紀を超えて受賞したということになる


「北里大学 大村 智特別栄誉教授がノーベル生理学・医学賞を受賞決定」 北里大学HP
https://www.kitasato-u.ac.jp/news/n20151006.html

「 学校法人北里研究所の顧問で北里大学特別栄誉教授の大村智博士に2015年ノーベル生理学・医学賞の受賞が決まりました。大村教授に、心よりお慶びを申し上げます。

  翻って思い起こせば、北里研究所創設者の北里柴三郎博士が、1880年代のドイツ留学中に破傷風菌の純粋培養に成功し、さらにその血清療法を確立したことで、第1回のノーベル賞候補になっていたと聞き及んでいます。その時は、残念ながら受賞を逃しましたが、1世紀を超えて、大村教授がその栄誉あるノーベル賞を受賞されることは、北里柴三郎先生の学統を受け継ぐ者として、感慨深いものがあります。

  昨年11月に北里研究所は創立100周年を迎え、今年は新たな50年、100年の第一歩の年となりますが、その記念すべき年にこのような慶事に巡り会えた事も、偶然だけでは言い表せないものと考えております。

  ノーベル財団から受賞が伝えられた10月5日の記者会見で、大村先生は、「常に人のためになる研究を目指していた」と語られ、また、「人の真似をすると人を超えられない」とも話されていました。そして若い世代の成長を楽しみにされていました。

  大村教授におかれましては、これからも、後進の育成と世界の保健衛生向上にますますご尽力されることを祈念申し上げます。


学校法人 北里研究所 理事長
藤井 清孝

北里大学 学長
小林 弘祐」


 ところで、先月の関東・東北豪雨の後片付けの際、破傷風になってしまった人がいる。
 東日本大震災でも破傷風感染が問題になった。


「茨城の豪雨被災地で破傷風を確認 注意呼びかけ」 NHKニュースウェブ2015年10月5日
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151005/k10010258781000.html

「「関東・東北豪雨」で大きな被害を受けた茨城県常総市で自宅の片づけをしていた男性が傷口から菌が入る「破傷風」と診断されたことを受け、被災地では、行政関係者などが住民やボランティアに感染への注意を呼びかけています。
(以下略)」


 既に上で引用した北里大学のHPに書かれてしまっているが、北里がヨーロッパ医学界で名声を得たのは、破傷風研究およびその血清療法研究だ。
 北里は、ベルリン大学に留学中、当時は不可能だと考えられていた破傷風菌の純粋培養に成功し(1889年、明治22年)、その上、破傷風の免疫療法・血清療法まで発見したのである。
 ベーリングによるジフテリアの血清療法研究は破傷風のそれの応用であり、北里は彼に助力した(http://challengers.terumo.co.jp/challengers/31.html)。
 にもかかわらず、ノーベル賞はベーリングの研究に与えられてしまった。
 ドイツの悪口を言ったが、ドイツ帝国は北里が帰国するに際し、外国人初の「大博士」の称号を贈った(明治25年、1892年)。

 ヨーロッパで偉業を為した北里だが、帰国後、日本医学界からは歓迎されなかった。
 北里が留学中に師である緒方正規の脚気研究の誤りを学会に発表したため、帝大医科は北里を嫌ったのだ。
 北里は帝大から締め出され、研究者生命を絶たれた。
 かに思われたが、北里は福澤諭吉と内務省の支援を受け、明治22年(1889年)、伝染病研究所を設立するhttp://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/50.html)。
 帝大医科の青山胤道は、伝染病研究所の国費補助を妨害しようとする。
 しかし、北里は実力の差を見せつける。
 明治27年(1894年)、香港にペストが流行し、日本政府が北里・青山を含む調査団を派遣したところ、北里がペスト菌を発見した。
 世界は北里を称賛した。当時はペスト菌は未発見だったのだ(同時期にフランスのアレクサンドル・イェルサンも発見。http://hanoirekishi.web.fc2.com/yersin.html)。
 対して青山は、自らがペストに感染して生死を彷徨った。

 明治30年(1897年)、伝染病研究所は志賀潔により、赤痢菌を発見する。
 明治43年(1910年)、同研究所の秦佐八郎が、ドイツのエーリッヒと共に梅毒の特効薬であるサルバルサン606号を発見する。
 伝染病研究所の功績は目覚ましいものであったが、青山が逆転の一手を打つ。
 青山は、時の内閣総理大臣である大隈重信の主治医であり、大隈総理大臣に働きかけて、伝染病研究所を文部省の所管にしてしまう。
 これは伝染病研究所が帝大の下に置かれることを意味し、北里は青山の部下となった。
 北里の功績は青山のものとなる。

 北里にもはや打つ手無し。
 北里は青山に対し辞表を提出した。
 すると、所員たちもそろって辞表を提出した。
 これが大正3年(1914年)の伝研騒動である。

 その後、北里は私費で北里研究所を設立する。
 昭和37年(1962年)、北里研究所は、北里研究所創立50周年記念事業として学校法人北里学園を設立し、北里大学衛生学部(化学科・衛生技術学科)を開設する(https://www.kitasato-u.ac.jp/daigaku/enkaku.html)。
 大村氏は、昭和43年(1968年)に北里大学薬学部助教授となる(https://www.kitasato-u.ac.jp/news/download/20151005_Satoshi_Omura.pdf)。
 そして、大村氏は、平成27年(2015年)、ノーベル医学生理学賞を受賞することとなる。

 明治34年(1901年)、日本人である北里柴三郎はノーベル賞を受賞できなかった。
 同時期にオリザニン(ビタミンB1)を発見した鈴木梅太郎もノーベル賞を受賞できなかった。同様の研究でオランダ人のエイクマンらが受賞することとなる(この話も同じく「栄光なき天才たち 第4巻」に載っている)。
 昭和24年(1949年)、湯川秀樹が日本人として初のノーベル賞を受賞する。
 なぜ日本人が受賞できるようになったのだろうか。
 白人たちがある日突然、聖人君主となり、人種的偏見を捨てたのだろうか。
 私はそうは思わない。
 日露戦争を経て、大東亜戦争を経て、日本人の科学技術力、文明力を認めようという気運が、白人たちの間にも出てきたのではないかと思う。

 大村氏は昭和10年(1935年)生まれであり、10歳の時に大東亜戦争終戦を迎えたということになる。
 今一度、終戦の詔勅を思い返すに、交戦継続なら民族滅亡のみならず、人類の文明を破滅させることになるということ、これからは総力を将来の建設に傾け、道義を大切に志操堅固にして、日本の光栄なる真髄を発揚し、世界の進歩発展に後れぬよう心に期すべきことが述べられている(http://ameblo.jp/bj24649/entry-12066616959.html)。
 大村氏の研究は、アフリカをはじめとして、多くの人々の命を救い、人類の文明の進歩発展に貢献した(http://www.nikkei.com/article/DGXZZO92470530V01C15A0000000/)。
 大村氏は、自宅前で記者の取材に応じ、今後やりたいことについて、
国をあげて人を育てるということは、化学ができるとか数学ができるとかではなくて、本当の人間を育てないと。
今までどおり、できるだけ、世の中のために役に立つことがあればやっていきたい。
それを貫いていったらいいんじゃないか(というように思います)。」
と答えた(「NHKニュース7」10月6日。
 なお、NHKニュースウェブには、「さらに今後何をやりたいですかと聞かれると「今、私は80歳ですが、まず81歳まで生きることです。その間に少しでも、特に山梨の郷里のためになることをやりたい」と話していました。そして「国は地方再生などといっていますが、いちばん、やらなければいけないのは教育です。それは科学ができるとか、数学ができるとかじゃなくて、人に尊敬される、徳をもった生活をしたり、仕事をしたりできるような人、そういう本当の人間を育てたい」とみずからの今後について語っていました。」と書かれている。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151006/k10010260521000.html)。
 大村氏は、「本当の人間」を育てることの必要性を言う。
 化学や数学以前の、人に必要な精神とは何か。
 徳があり、尊敬される人格とはいかなるものか。
 大村氏は、昨年、日本科学未来館の田村真理子氏に「敬神崇祖」と書いた色紙を贈ったとのことである(http://blog.goo.ne.jp/erumita-jyu/e/369000500d97e5edc3bd9424457f401c)。
 また、大村氏は、高校時代のスキー部の後輩には、「人のまねをしていたら、その人以上には絶対になれない。」「苦しい時に一歩出なければ絶対にだめだ。」と厳しく指導した(「NHKニュース7」10月6日)。
 自然や祖先に対して謙虚であること。
 克己の心。
 そういう徳を育んでこそ、「本当の人間」を育てることとなるのだろう。
 大村氏がいかなる教育を受けてきたのかは知らないが、大村氏自身の人柄および彼が育てたいと言う「本当の人間」は、「修身」と重なり合うように思える。
 「修身」は今で言えば「道徳」に相当し、「道徳教育は価値観の押しつけだ」という道徳教育反対論者もいるが、「徳」を持たねば、「本当の人間」にはなることはできない。
 大村氏は、「私の仕事は、微生物の力を借りているだけで、私自身が難しい事をしたわけでも偉いわけでもなく、微生物から勉強していました。私は微生物がやってくれた事を整理しただけです」「私は微生物を研究してきたので、微生物にあげたらいいのではと思います」と言う(http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2015_1006.htmlhttp://www.sankei.com/life/news/151005/lif1510050045-n1.html)。
 「修身は戦前の軍国主義教育だ」などと思っている人もいるだろうが、修身の3年生の教科書の「生き物をあはれめ」の項目には、こういうことが書かれている。
 馬子の孫兵衛が、僧を乗せた馬を引き、悪路に入ると、馬に対して「親方あぶない、あぶない。」と言って馬を助ける。
 不思議に思って僧が尋ねると、孫兵衛は「私ども親子四人はこの馬のおかげでくらしてをりますから、親方と思つていたはるのでございます。」と答える。
 そして、孫兵衛は僧が支払った賃銭で餅を買い、これを馬に食べさせる(渡部昇一「国民の修身」(産経新聞出版、平成24年)181~184ページ)。
 大村氏の、微生物のおかげでノーベル賞を獲れたから微生物にこれをあげればよい、という考え方は、修身に沿っていると思う。
 そして、こういう考え方は、ヨーロッパの人間中心主義からはなかなか出てこない。
 日本精神を持ち、世界の進歩発展に貢献し、北里柴三郎が逃したノーベル賞の栄光を掴んだ大村智氏は、わが国が誇るべき立派な科学者だと思った。

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