【安倍談話】今さらながら戦後70年談話の感想【村山談話】 | 独立直観 BJ24649のブログ

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 8月14日、安倍晋三内閣総理大臣が、戦後70年談話を発表した。


「安倍内閣総理大臣記者会見」 首相官邸HP平成27年8月14日
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0814kaiken.html

「内閣総理大臣談話-平成27年8月14日」 YouTube2015年8月19日
https://www.youtube.com/watch?v=Ys840kc79h4


 
 今の今まで感想を記事にしてこなかった。
 というのは、他のネット保守の方たちが私が思いつくような話は即座に記事にされおり、識者の論評が出てから記事を書こうと思っていたからだ。
 また、和田政宗、藤井実彦、藤岡信勝、田沼隆志「村山談話20年目の真実」(イースト・プレス、2015年)を読んでから述べた方がよいだろうとも思っていた。
 談話が出てから2カ月が過ぎ、月刊誌でも安倍談話の論評が出てきて、「村山談話20年目の真実」も対談部分以外を読んだし、そろそろ感想を述べてもよいだろうと思い、記事を書くことにした。

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 ちなみに、私が安倍談話を聞いた直後にGoogle+に書いた感想は↓。


https://plus.google.com/+BJ24649/posts/K9RQAnPp5gL



 談話序盤で、20世紀前半の欧米による植民地支配や、日露戦争の偉業を述べ、気分が盛り上がる。
 終盤で、謝罪を後世に引き継がせないということを述べる。
 序盤と終盤は好感を持った。
 しかし、やはり中盤の、先の大戦の経緯を語る部分が物足りない。
 いくらなんでも端折りすぎている。
 安倍総理大臣にこの場でソ連の工作活動について明らかにしてほしいなどというのは高望みだとしても、ハル・ノートなど、わが国が戦争に追い込まれていったという教科書レベルの話はしてもよかったのではないかと思った。
 あと、ウィルソンの提唱した民族自決を持ち上げるところに違和感があった。わざわざこんなことを言う必要があったのだろうか。
 とはいえ、注目されたキーワードの盛り込み方が巧みで、朝日新聞が喜ぶような盛り込み方にはなっておらず、安倍総理大臣がキーワードに触れる度に胸をなで下ろし、無難に乗り切ってくれたと思った。
 核廃絶の話は、8月6日の広島の慰霊祭でも出ていて(http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0806hiroshima_aisatsu.html)、この場で重ねて言ったということは、しかもよりによって安倍総理大臣が言ったということは、わが国の核武装の可能性はなくなったと思った。それにしても、この場で言う必要があったのか(この点を問題視する人はほとんどいない。私が見た範囲では華昇宝さんのみ。http://ameblo.jp/um-cachorro/entry-12061826840.html)。
 こんなことを考えて、Google+の投稿をした気がする。
 なお、村山談話を改めて読み返してみたら、核廃絶に言及されていた(http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/07/dmu_0815.html)。だから安倍総理大臣も核廃絶に言及せざるを得なかったということだろう。村山談話の足枷は重い。
 なぜ「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」がキーワードなのか、安倍談話を聞いた当時は知らなかったのだが、戦後60年の小泉談話にも盛り込まれている言葉だということで、キーワードになっていたようだ(http://www3.nhk.or.jp/news/sengo70/article04.html)。

 安倍談話が出た直後、安倍支持者は概ねこれを歓迎した。
 決め手となったのは、村山富市元総理大臣が「『村山談話』とはだいぶ中身が違うという印象で、談話が引き継がれたという印象はない」と述べたことだろう(http://www3.nhk.or.jp/news/sengo70/news/news20.html)。
 朝日新聞「安倍談話は出さない方がよかった」と書いたそうだ。
 村山談話を出した本人や朝日新聞がこう言うのだから、安倍談話はいいものであるに違いないという推測が働く。
 加えて、安倍談話に先立つ8月12日に鳩山由紀夫元総理大臣が韓国で土下座謝罪をしたことが(http://www.sankei.com/world/news/150812/wor1508120035-n1.html)、謝罪を後世に引き継がせないという安倍談話と好対照となり、安倍談話の支持を強める結果をもたらした。

 安倍総理大臣を支持している識者の間でも、安倍談話については様々な評価がある。
 チャンネル桜は、談話が出た直後に識者を集めて特番を放送した(https://www.youtube.com/watch?v=EO62j9NBuZIhttps://www.youtube.com/watch?v=J74p2Jx1a1c)。
 談話を概ね好意的に受け止めていた。
 ただ、西岡力氏が、共産主義の脅威についての指摘が抜けていることを批判していたのが印象に残っている。
 点数で言えば、渡部昇一氏は100点満点と言い(WiLL2015年10月号)、藤井厳喜氏は80点(大学の定期試験では優)と言い(https://www.youtube.com/watch?v=_TL7tSpBZXI)、倉山満氏は50点(大学の定期試験では不可)と言う(https://www.youtube.com/watch?v=9HDCzaFalhc)。
 私がよく参考にしている識者の間にも評価にバラツキがある。
 さすがに0点だと言う人は見かけられないのだが、いしかわじゅん氏はWiLL同号の巻頭連載で「この程度のものなら、出さないほうがよかったんじゃないの」と言っており、考えようによっては0点もしくは50点以下だとも受け止められる。
 「正論2015年11月号」は、安倍談話に批判的な意見を前面に出している。
 チャンネル桜が概ね好意的な見解を示したと述べたが、西尾幹二氏は「GHQ焚書図書開封」のコーナーで安倍談話を強く批判しており(https://youtu.be/XUuBOaRyKZo?t=9m6s)、西尾氏の論考も「正論」同号に掲載されている。
 「村山談話20年目の真実」の著者の間でも安倍談話の評価は分かれていて、和田政宗参議院議員(次世代の党)が安倍談話を称賛する一方(https://www.youtube.com/watch?v=8Qz9IY_5jSE)、藤岡信勝氏は批判的な態度だ(https://www.youtube.com/watch?v=IxIDi-sB2l0https://www.youtube.com/watch?v=hfQhttK7piE)。藤岡氏が所属する「新しい歴史教科書をつくる会」でも評価は分かれているとのことだ。

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 なぜこれだけ評価にバラツキがあるのか。
 主に原因は3つあると思われる。
 1つ目は、安倍談話が村山談話を乗り越えているか否か、東京裁判史観を乗り越えているか否かの理解だ。
 2つ目は、安倍談話が政治文書として優れていることをどう評価するのかという点だ。
 3つ目は、第一次安倍内閣に多くを求めすぎたことの反省だ。

 渡部昇一氏は、安倍談話は村山談話を吹っ切り、東京裁判史観を払拭したと評する。
 他方、西尾幹二氏は、安倍談話は東京裁判に屈服したと評する。「正論」同号で、伊藤隆氏は、安倍談話は基本的に東京裁判史観だと評する。
 たとえ安倍談話が東京裁判史観に沿っているとしても、WiLL同号で西村幸祐氏が指摘しているように、中国・韓国・北朝鮮批判に結び付く、巧みな構成になっている。「4つのキーワード」もうまいこと処理した。
 歴史観で妥協したと考えるにしても、制約された状況の中で、ただでは妥協しなかった点について、高く評価するか否かで評価が分かれる。
 第一次安倍内閣の時には、安倍支持者が安倍総理大臣に多くを求めすぎ、あっという間に同内閣が倒れてしまい、このトラウマがあって、支持者からは不満の声を上げにくいということを、中西輝政氏が「歴史通2015年11月号」で指摘している。
 安倍総理大臣を支持する識者から安倍談話批判が少し遅れて出てきたのは、いきなり批判を強めると倒閣に繋がりかねないということで、批判を控えていたからだろう。
 なお、雑誌での保守側からの安倍談話批判の嚆矢は、佐伯啓思氏の「新潮45 2015年10月号」の論考だ。

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 いろんな論評を聞いて、うまくまとまっていると私が思ったのは、WiLL同号の堤堯氏の「総括」だ。
 政治や歴史に関心の薄い普通の国民の感覚を、的確に捉えているのではないかと思う。


堤堯、久保紘之 「蒟蒻問答第113回 憲法九条死守論者は安倍に感謝しろ!」 (WiLL2015年10月号、ワック) 88~90ページ

 俺が注目したのは二つ。冒頭で、かつて植民地主義が横行したことに触れた。白人による切り取り自由の植民地争奪戦が展開され、アジアで独り、日本がこれに対抗して立ち上がったというくだりだね。
 もう一つは、その後、日本は針路を誤り、孤立を招いた。迷惑をかけたところもあると認めたうえで、後半で「先の戦争になんら関わりのない世代に、謝罪を続ける宿命を背負わせてはいけない」と結ぶくだり。
 この二つを挟んで、注目の四つの文言――侵略、植民地支配、反省、お詫びの言葉をちりばめたけど、文言の前後を読めばどうにでも受け取れる。練りに練った実に巧妙な含みの多い言い回しで、各方面に気を配りながら、それでも従来の自説、主張を少しも譲っていない。
 早速、やれ「過去形で語っている」とか、やれ「首相自身がどう考えているのか、自分の言葉で語っていない」などと批判が出た。この種の手合いは、キリスト教でいう「告解」にも似た内心からの「告白」をせがんでいる。宗教裁判の場じゃないんだからね。だけど、首相が自身の歴史観をあからさまに語る必要は毫もない。子供じみた要求だよ。
 大事なのは冒頭と後半の二つ。こんなセリフは、談話の踏襲を迫られた村山富市や小泉純一郎のどこを押しても出てこない。とりわけ後半のくだりは、ワイツゼッカーやエドマンド・バーク、あのパール判事らを念頭に置いたものだろうね。三人とも、「何の関わりもない者に謝罪を押しつける正義は誰にもない」と言っている。
 パール判事にいたっては、ヒロシマの石碑「安らかにお眠りください、過ちは繰り返しませんから」を見て、「原爆を落としたのは日本人ではない。落とした者の手は汚れている。『過ち』が先の戦争を指しているなら、それも日本の責任ではない。戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いた。一つの国民が心に重い罪を背負わされれば、その民族に進歩・発展はない」
 とまで言い切っている。いかにも東京裁判で「被告全員無罪」の判決を書いたパール判事らしい。
 村山は早速、自分の談話が「踏襲された気がしない」と言った。バカヤロー、お前の談話なんか踏襲するわけねえだろうが!安倍が踏襲したのはパール判事だよ。だから冒頭と後半の次第になったんだ。それも巧妙な言い回しで、しかし核心は外さずに言った。
 まあ、国を率いる首相の立場としては総じて合格、あれでいいんだよ。ホンネは行動で示せばいいんだ。もともと「政治は言葉ではなく行動だ」が安倍の持論なんだからね。これにて儀式は終わり。以上が俺の総括。」

同101ページ
 (中略)最後に付け加えるが、安倍が談話を発表した当日の夜、若い女性ディレクターから電話があった。「先の戦争になんら関わりのない世代に、謝罪を続ける宿命を背負わせてはいけない」と結ぶくだりを聞いて、「なんかホッとして明るい気分になりました」という。若い人から何か重苦しい思いを取り除いた。それだけでも談話を出した意味は大いにある。


 学校やマスメディアから「戦前の日本はひどいことをした」と教えられても、歴史の教科書を開けば、仮に日本がひどいことをしたと認めるにしても、白人たちの方がもっとひどいことをしているのは誰でもわかる。
 橋下徹大阪市長は、「慰安婦問題で日本だけが責められるのはおかしい」ということを言ったが(http://www.sankei.com/west/news/130515/wst1305150047-n1.html)、学校で勉強していてこういう感覚を抱いたことのある国民であれば、安倍総理大臣が白人による植民地支配に言及したことを肯定的に受け止めるだろう。
 人に好印象を与えるためには第一印象が肝心なので、安倍談話は上々の滑り出しだったと言える。
 そして上の対談で久保氏曰く「オリンピックの体操競技で規定の技を次々決めていく」かのように技巧的な歴史話をし、悶々としたところで、安倍総理大臣は「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」と言い、スカッとした気分になる。
 安倍談話を聞いた国民に特に印象に残っているのは、ここらへんではないか。
 思い返してみれば、第一次安倍内閣が誕生した時、安倍総理大臣は、「戦後初の戦後生まれの内閣総理大臣」と言われた。
 戦後生まれの安倍総理大臣だからこそ、こういう談話を出すことができたと言える。

 渡部昇一氏はWiLL同号で安倍談話を高く評価しているが、自己の主張に引き寄せすぎた、もしくは安倍総理大臣の真意を忖度しすぎた解釈になっていると思う。
 安倍談話の行間を渡部氏のように埋めることも可能と言えば可能なのだが、そんなことを渡部氏以外の人が考えるのかが問題だ。
 安倍談話の東京裁判史観に関する部分は、
「 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
であるが、これをもって東京裁判史観を脱却したというのは言いすぎではないか。
 行き詰まった日本は、力の行使による解決を試み、満州事変を起こし、国際連盟から脱退し、世界に迷惑をかける挑戦者になり、無謀な戦争をした、と解するのが素直で、「日本は悪い国だ」という東京裁判史観の枠内ではなかろうか。
 もちろん、渡部氏が言うように「経済のブロック化」による経済封鎖はわが国に対する侵略の一種であり、安倍談話はわが国が戦争に及ぶ正当性の一端を示してはいるのだが、たったこれだけの記述に依拠して、大東亜戦争は自衛戦争だったと言ったに等しいと解釈し、東京裁判史観を払拭したというのは、無理筋だろう。
 ブロック経済を指摘した後に「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。」と言っている以上、大東亜戦争は(自衛戦争ではなく)誤った戦争だったということになり、東京裁判史観の枠内と解釈するのが素直ではなかろうか。
 ブロック経済の指摘に着目するならば、同時に、この部分で「侵略」の文言を使わなかったことに着目した方がよいと思う。
 考えようによっては、「進むべき針路を誤り」と「戦争への道を進んで行きました。」の間に、いろんな事情を差し挟む余地があり、「進むべき針路を誤り、(いろんな事情があり、自衛)戦争への道を進んで行きました。」と読めなくもない。自衛戦争と解する余地を残した。
 また、もう1つ着目すべきだと思うのは、村山談話の「わが国は・・・国策を誤り、戦争への道を歩んで」という印象深い部分が、安倍談話では「日本は・・・進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」と書き換えられている点だ。表現を変えるということは、そこに何らかの意図があるはずだ。
 「国策」だと、開戦の決定そのものが誤りだという印象が強いが、「進むべき進路」だと、開戦の決定に到る経緯に、たとえば朝日新聞などが開戦を煽ったことなどに誤りがあり、国民が政治的意思決定を誤り、国全体が進むべき針路を誤り、戦争に到った、という読み方がしやすくなるということだろうか。
 とはいえ、「大東亜戦争」の文言すら出せず、正当な自衛戦争だと明言できず、「日本が悪い」という論調が強いのに、東京裁判史観を脱却したと解するのは、やはり早計ではないかと思う。
 安倍談話の表現は曖昧で、行間の埋め方次第でいろんな解釈ができる。保守論壇に関心のない国民の間に、東京裁判史観脱却に資する解釈をいかに浸透させるか、保守勢力に今後の努力が問われることとなったのだと思う。
 渡部氏はこの論考の冒頭で、「いまできる範囲の総理談話では最大限の内容になった」と言う。とすれば、政治にできる限界には既に到達したということになる。今後は、民間の努力が問われる。

 中西輝政氏は、安倍談話の参考となる報告をする「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想する有識者懇談会」(21世紀構想懇談会)の一員だったが、上記「正論」「歴史通」において、同会がいかなるものであったか、内部告発をしている。
 中西氏は、「歴史通」において、渡部氏のような解釈を「希望的解釈」だと批判する。
 中西氏は、朝日新聞などの左派は内心、安倍談話を熱烈歓迎していると言う。左派からは強い安倍談話批判が出ていないが、これは彼らにとって都合のいい内容だったから容認しているに過ぎないとのことだ。
 「歴史通」にはどのように左派に都合がいいのかが明言されていないが、「正論」で中西氏は伊藤隆氏と共に「談話がうたう戦後平和主義まる出しの歴史認識のままで果たして憲法改正ができるのか」という懸念を示す。
 21世紀構想懇談会だが、脱東京裁判史観論者は中西氏と宮家邦彦氏の2名だけで、残りの14名は東京裁判史観論者だった。そしてこの14名は、外務省が選んだとのことである。これは私見だが、あらためて考えてみると、安倍総理大臣自身が「安倍内閣としては、村山談話を含め歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる。そして、引き継いでいく」と言っている以上(http://www3.nhk.or.jp/news/sengo70/article05.html)、こういう人的構成になるのは仕方ないのかもしれない。脱東京裁判史観論者で同会を固めたら、引き継ぐ気なしということになってしまう。
 それにしても、議事の進行が卑劣だ。議論をする気などなく、北岡伸一座長代理の「日本は侵略戦争をした悪い国だ」という歴史観を承認するという結論先にありきで進行される。
 中西氏は報告者の地位を与えられず、ヒラの委員として、1回の会議で1分しか発言できなかった。外務省や北岡氏に考えの近い報告者が次々と報告を行う。6回目の会合で報告書案を議論するのだが、報告書案は約40ページもあるのに、事前に検討できる時間は1時間半ほどだけで、会合では全ページを検討したとのことだ。ただでさえ時間がないのに、肝心な点の議論は先送りして、句読点の位置や比喩表現などくだらない話で時間を潰す。
 中西氏はろくに発言することができず、大東亜戦争にはアジア解放の理念があったという議論を提起できなかった。
 報告書は侵略戦争論で染め上げられるところだったが、中西氏は官邸に辞表を送り、安倍総理大臣に直訴して、なんとか、脚注を設けて、侵略戦争論について異論が出たということをこれに載せることができた。
 北岡氏と外務省の卑劣さたるや、常軌を逸している。中西氏は危うく「保守派も承認した」というアリバイ作りに利用されるだけに終わるところだった。
 彼らは卑劣なことに、紛糾した第7回会合は非公開としている。紛糾した点にこそ、国民が考えるべき事柄があるのではないか。靖国神社のいわゆるA級戦犯分祀論や慰安婦問題でのさらなる謝罪と賠償などが議題に上っていたとのことだ。
 安倍談話が大東亜戦争に関する最後の内閣総理大臣談話になるかもしれないし、次に談話が出るとしても10年以上先のことになるだろうが、かかる重要な談話の参考にされる議論がかくも杜撰に行われていたのである。大問題だ。
 北岡伸一とは、一体どういう人物なのか。誰の利害で動いているのか(ちなみに、藤岡信勝氏は、北岡氏は中国共産党に外交カードを与えるべく、中国共産党の対日政策を合理化していると批判する。「村山談話20年目の真実」155,156ページ)。

 反日歴史観に保守派も賛成したというアリバイ作り。
 これは村山談話の閣議決定も同様である。
 村山談話は、従来、閣僚たちにきちんと根回しをした上で閣議決定されたものだというのが定説だった。
 しかし、和田政宗議員らの検証により、事実はそうではないことが明らかとなった。
 たとえば、平沼赳夫衆議院議員は村山内閣においては運輸大臣であったが、根回しなどなく、また、初入閣であったため議事の進行がどのようになされるかもわからず、異論を述べることもできず、気がついたら村山談話を承認したことになっていたという旨を証言する。
 内容に問題があるのはもちろんのこと、手続き的にも杜撰な村山談話など踏襲に値しないのは明らかだ。
 その村山談話が、安倍総理大臣を含め、なぜ継承されているかというと、平成10年に、小渕恵三総理大臣と江沢民国家主席が出した「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言」に根拠がある。
 この宣言に「双方は、過去を直視し歴史を正しく認識することが、日中関係を発展させる重要な基礎であると考える。日本側は、1972年の日中共同声明及び1995年8月15日の内閣総理大臣談話を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した。」と書かれている(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_sengen.html)。「1995年8月15日の内閣総理大臣談話」とは、村山談話である。

 佐伯啓思氏は、安倍談話は日本国憲法に沿った、戦後レジームそのものだと批判する。
 渡部氏とは逆に、佐伯氏は、安倍談話は戦後レジームを完成させたと評する。
 わが国は自存自衛のために戦ったのに、安倍談話は、わが国は平和を愛する諸国民に挑戦したとし、これを悔悟して武力による紛争解決はしないと、同法9条の理念に従ったことを言っているとのことだ。
 確かに、安倍談話を聞いていて、同条を彷彿とさせる言い回しが出てくるところは気になってはいた。
 しかし、法治国家である以上、内閣総理大臣とて、憲法を逸脱することはできない。安倍談話が日本国憲法の理念に沿っているというのは、当然ではないだろうか。
 内閣に法律発案権が認められているように(日本国憲法72条前段)、私は内閣総理大臣が憲法改正の議論を喚起すること自体は是としている。しかし、改正されるまでは、現行法に従わなければならない。
 そう考えると、安倍談話は必然的に東京裁判史観の枠内におさまるものになってしまうわけだが、白人による植民地支配やブロック経済を指摘することなどにより、安倍総理大臣はできる限り東京裁判史観脱却につながる布石を談話に込めた、と言えないか。
 そして、単に「日本は悪い国だ」という東京裁判史観に則ってしまうと、軍備増強反対の世論を強めてしまい、目下の課題である安全保障関連法案の成立に支障を来してしまうから、「かつて日本は悪いことをした。でもお隣の大陸や半島に、かつての日本のような危ない国がありますよ。」というような論法で、自国批判を特定アジア批判に転換した(だから村山元総理大臣は「談話が引き継がれたという印象はない」と述べたのだろう)。
 安倍談話の軸になっている歴史観には問題があるとしても、次に繋がる要素はあって、有害無益ではなかったと思う。
 では、害と益のどちらが大きかったのだろうか。
 中西輝政氏や伊藤隆氏など、当初から「談話を出す必要はない」という意見があった。害の方が大きかったならば、この安倍談話不要論が正当だということになる。
 安倍談話を出さなければ、今後、お詫び談話を出すという慣習はなくなる。出してしまうと、戦後80年談話を出すことになる。しかし、出さなければ、内閣総理大臣が村山談話を踏襲すると言わされる慣習が続くことになる。
 安倍談話は、村山談話・小泉談話の表現をぼかした上で、東京裁判史観脱却に繋がる布石を付け加えたものだと解される。今にして思えば、東京裁判史観に反しなければ、いろいろと言えることがあったということなのかもしれない。
 日露戦争も白人による植民地支配も(おそらくブロック経済も)東京裁判に直接関係なく、東京裁判史観に反する事柄ではないし、東京裁判の判決に服して刑を終えた以上、謝罪はこれ以上必要ないということは東京裁判史観でも言える。だから「談話の踏襲を迫られた村山富市や小泉純一郎のどこを押しても出てこない」これらのセリフを盛り込むことができたということだろうか。

 安倍総理大臣は「安倍内閣として、歴史認識に関する歴代内閣の立場を、全体として引き継ぐことを前提に作成する」と言い(http://www3.nhk.or.jp/news/sengo70/article09.html)、この点については特に批判はない。歴代内閣には、それこそ岸信介内閣も含まれるし、村山富市元総理大臣のような歴史認識の総理大臣の方が少数派だろう(戦後37年の昭和57年に、鈴木善幸総理大臣が、日本は外国から侵略したと言われている、というような発言をしたが、自らの意思で主体的に、日本は外国を侵略した、とは言っていない。それまで戦後の歴代内閣は一貫して「侵略」「植民地支配」の文言の使用を避けていた。「村山談話20年目の真実」45ページ)。村山内閣以外の内閣の歴史認識を談話に盛り込むことには国民的合意があると言えるし、それは村山談話を修正してよいという国民的合意があるとも言えよう。
 安倍談話によって、「4つのキーワード」は死文化した。
 また、この安倍談話も、歴代内閣の立場の一部をなすことになる。安倍談話を踏襲すれば、この布石も踏襲することになる。
 戦後80年談話は、出すことを迫られるとしても、それが東京裁判史観に沿ったものになるにしても、「4つのキーワード」の拘束は緩くなり、より裁量のある談話になるのではないか。
 安倍談話を出した益と害のどちらが大きかったのかの判断は難しいが、一応、益の方が大きかったのではなかろうか。

 ところで、先日、DHCシアターの番組をちょっと見てみようと思い、堤堯氏と加瀬英明氏の「つつみかくさず」の第1回を見てみた(https://www.youtube.com/watch?v=3vzaOWpeF7k)。
 話題は、4月29日(アメリカ現地時間)の、安倍総理大臣の米国連邦議会上下両院合同会議での演説だった(http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0429enzetsu.html)。
 この動画で、安倍総理大臣のこの演説では、先の大戦で激しく戦った日米が共に協力して共産主義陣営を相手にして冷戦を戦い、そして勝利したという歴史が語られたと解説されていた(「日本は、米国、そして志を共にする民主主義諸国とともに、最後には冷戦に勝利しました。」)。
 安倍談話が出る前、この演説を踏まえた内容の談話が出ると予想されていなかったか。
 にもかかわらず、西岡力氏が指摘するように、安倍談話では共産主義との戦いという点が抜け落ちてしまっている。
 これは不思議な話で、日本の内閣総理大臣が、日本国内の首相官邸よりも、アメリカの議会での方が、よりまともな歴史を語ることができるらしい。
 アメリカでは日本国内の反日メディアや特定アジアにあまり遠慮する必要がないが、日本国内だとこれらの勢力に遠慮しなければならないということだろうか。
 20世紀を振り返って21世紀を構想する談話を出すのであれば、冷戦こそ振り返られるべきではなかったか。
 安倍談話にはこういう疑問は残る。冷戦も東京裁判とは関係なく、東京裁判史観に反する事柄ではないから、談話に盛り込めそうな気はする。
 戦後80年談話を出す頃には、共産主義の脅威を内閣総理大臣談話で述べられる政治状況になっているだろうか。

 水島総氏は、確か、安倍談話は英霊切り捨てだということを言っていた(https://twitter.com/KikuDr/status/632374037834936321)。
 しかし、安倍談話が東京裁判史観に沿っているとしても、この解釈には違和感がある。
 なぜ内閣総理大臣が靖国神社に参拝して英霊に感謝を捧げることが困難なのか。
 中曽根康弘内閣総理大臣までは、総理大臣が問題なく靖国参拝をしていたのである。
 ところが、中曽根総理大臣は、戦後40年の昭和60年に、中国からいわゆるA級戦犯合祀について批判されると、同年の秋季例大祭から靖国参拝をやめてしまった。
 後藤田正晴官房長官は、近隣諸国の国民感情に配慮したという旨を説明した(渡部昇一「渡部昇一、靖国を語る 日本が日本であるためのカギ」(PHP研究所、2014年)92~95ページ)。
 いわば、中国に対する謝罪の感情が、靖国参拝中止の要因になっている。靖国参拝を控えるのは、謝罪外交の一環だと言える。
 中曽根総理大臣こそ、日本はアジアに侵略戦争したから反省するということを、公的な場で言った初の総理大臣である(同年10月の参議院本会議にて。「村山談話20年目の真実」46ページ。渡部氏は上記WiLLで細川護煕総理大臣がかかる歴史認識を述べた初の総理大臣だと言う。「村山談話20年目の真実」161,162ページによれば、中曽根総理大臣は表現をぼかす努力をしていたが、細川総理大臣は明言してしまったとのこと。ちなみに、下記の通り、今では中曽根元総理大臣は明言する。)。
 そして今年、中曽根元総理大臣は、21世紀構想懇談会が報告書を出した翌日である8月7日の読売新聞に「侵略だと私は確信している」と寄稿した。
 安倍晋三内閣総理大臣は戦後70年談話でこう言う。
 「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」
 また、安倍総理大臣は、わが国がアジアを侵略したという明言は避けた。
 安倍談話は、靖国参拝を阻害している無用の謝罪感情を払拭しようとしている。
 これが払拭されたらどうなるか。謝罪外交が終わればどうなるか。
 靖国参拝をしやすくなるのである。

 奇しくも、7日の内閣改造について、共産党の志位和夫委員長が「第3次安倍改造内閣/自民閣僚全員が『靖国』派」だと警戒心を示している(https://twitter.com/shiikazuo/status/653378957975285760)。
 志位委員長は、安倍総理大臣の靖国参拝への意欲を敏感に感じ取っているのではないか。
 堤堯氏によれば、「「政治は言葉ではなく行動だ」が安倍の持論」とのことである。
 安倍談話により、謝罪外交が終わりに向かい、今後、内閣総理大臣が靖国参拝をするのに不自由しなくなれば、この談話は価値あるものだったと言える。
 安倍総理大臣には、もう1度靖国参拝をして、「安倍談話を出してよかった」ということを行動で証明していただきたい。
 靖国神社の秋季例大祭は17日からだ(http://www.yasukuni.or.jp/schedule/shuki.html)。
 この談話を出したとはいえ、日中韓首脳会談を開くために、安倍総理大臣は秋季例大祭には参拝しないだろう(http://www.sankei.com/politics/news/151010/plt1510100025-n1.html)。
 しかし、その後、残りの任期中に必ず、安倍総理大臣には靖国参拝を果たしてほしく思う。
 安倍談話は、いわば「画竜点睛を欠く」状態であり、「点睛」を欠いた現段階でも一応それなりに価値はあるのだが、安倍総理大臣が再び靖国参拝をすることにより、「点睛」が書き込まれ、仕上げられるものなのではないかと思う。

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