【昭和天皇】何が「堪え難き」だったのか【玉音放送】 | 独立直観 BJ24649のブログ

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流行に浮かされずに独り立ち止まり、素朴に真っ直ぐに物事を観てみたい。
そういう想いのブログです。

 大東亜戦争に関するテレビ番組を見ていると、昭和天皇の玉音放送が流れて国民が敗戦を悟るという映像がよく流れる。
 そこで引用される箇所は、決まって「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」である。
 戦争、特に米軍による民間人大虐殺という戦争犯罪の映像の後にこの一文が流れるため、視聴者は、この堪え難い、忍び難いこととは、この戦争を指していると印象づけられると思う。
 そこで、原文を見てみると、意外なことが分かる。

 

「終戦の詔書」 国立国会図書館HP
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/017/017tx.html

「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負イ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ
 
御名御璽
 
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣 男爵 鈴木貫太郎
海軍大臣 米内光政
司法大臣 松阪広政
陸軍大臣 阿南惟幾
軍需大臣 豊田貞次郎
厚生大臣 岡田忠彦
国務大臣 桜井兵五郎
国務大臣 左近司政三
国務大臣 下村宏
大蔵大臣 広瀬豊作
文部大臣 太田耕造
農商大臣 石黒忠篤
内務大臣 安倍源基
外務大臣兼大東亜大臣 東郷茂徳
国務大臣 安井藤治
運輸大臣 小日山直登」

 

 

「詔書(大東亜戦争終結ニ関スル詔勅) 昭和天皇」 (別冊正論24号(平成27年7月)、産経新聞社) 75,76ページ

「【現代語訳】
 朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾しようと思い、ここに忠良なる汝ら帝国国民に告ぐ。
 朕は帝国政府をして米英支ソ四国に対し、その共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させたのである。
 そもそも帝国国民の健全を図り、万邦共栄の楽しみを共にするは、天照大神、神武天皇はじめ歴代天皇が残された範であり、朕は常々心掛けている。先に米英二国に宣戦した理由もまた、実に帝国の自尊と東亜の安定とを切に願うことから出たもので、他国の主権を否定して領土を侵すようなことはもとより朕の志にあらず。しかるに交戦すでに四年を経ており、朕が陸海将兵の勇戦、朕が官僚官吏の精勤、朕が一億国民の奉公、それぞれ最善を尽くすにかかわらず、戦局は必ずしも好転せず世界の大勢もまた我に有利ではない。こればかりか、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、多くの罪なき民を殺傷しており、惨害どこまで及ぶかは実に測り知れない事態となった。しかもなお交戦を続けるというのか。それは我が民族の滅亡をきたすのみならず、ひいては人類の文明をも破滅させるはずである。そうなってしまえば朕はどのようにして一億国民の子孫を保ち、皇祖・皇宗の神霊に詫びるのか。これが帝国政府をして共同宣言に応じさせるに至ったゆえんである。
 朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力した同盟諸国に対し、遺憾の意を表せざるを得ない。帝国国民には戦陣に散り、職場に殉じ、戦災に斃れた者及びその遺族に想いを致せば、それだけで五内(玉音は「ごない」。五臓)引き裂かれる。且つまた戦傷を負い、戦災を被り、家も仕事も失ってしまった者へどう手を差し伸べるかに至っては、朕が深く心痛むところである。思慮するに、帝国が今後受けなくてならない苦難は当然のこと尋常ではない。汝ら国民の衷心も朕はよく理解している。しかしながら朕は時運がこうなったからには堪えがたきを堪え忍びがたきを忍び、子々孫々のために太平を拓くことを願う。
 朕は今、国としての日本を護持することができ、忠良な汝ら国民のひたすらなる誠意に信拠し、常に汝ら国民と共にいる。もし感情の激するままみだりに事を起こし、あるいは同胞を陥れて互いに時局を乱し、ために大道を踏み誤り、世界に対し信義を失うことは、朕が最も戒めるところである。よろしく国を挙げて一家となり皆で子孫をつなぎ、固く神州日本の不滅を信じ、担う使命は重く進む道程の遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、道義を大切に志操堅固にして、日本の光栄なる真髄を発揚し、世界の進歩発展に後れぬよう心に期すべし。汝ら国民よ、朕が真意をよく汲み全身全霊で受け止めよ。

(以下略)」
 
別冊正論24号「再認識『終戦』」 (日工ムック)/日本工業新聞社
¥1,200
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「【公開】玉音放送 原盤音声 2015年8月1日」 YouTube2015年7月31日
https://www.youtube.com/watch?v=UGcOEyakDGI



 どうだろう。
 少なくとも、大東亜戦争そのものについて「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」と仰っているのではないということはわかるだろう。
 空襲を受けて堪え難かった、という話をしているのではないのである。
 いわば、そういう過去を述べたのではなく、今後の、未来に向けた話だ。

 わが国は終戦を決断した。
 戦争では多くの人が死に、傷ついた。
 戦後復興は苦難の道だ。
 しかし、子々孫々の太平のために努力しよう。
 この将来に向けた苦難の道を歩む努力が、「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」と解してよいと考える。

 「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」の直前に「時運ノ趨ク所」とある。
 ここは原案では「義命ノ存スル所」だった。
 起草者の迫水久常氏は、「義命の義というのは忠義の義、命というのは運命の命の字。筋道がそうなっておるから、ここで戦争を止めるのが筋道である」という意味だという(迫水久恒「詔勅余話 「義命」を「時運」で戦後は「義」欠く」(別冊正論24号、産経新聞社)95ページ)。天皇が誰に忠義を尽くすのだろうと、いまいちわかりにくいところがあるが、「皇祖皇宗ノ神霊」ではなかろうか。
 迫水久常顕彰会会長の和泉豊氏は、「終戦を、大義天命の然らしむ所、つまり正しい道であるからこそ、止めるのだという思い」であり、これは「指導者としての主体的な責任ある判断」が表れているという(和泉豊「迫水証言を世に広めて 義命と時運―先生が強調されていたこと」同上120ページ)。
 結局、「義命」という言葉は辞書にもほとんど載っておらず、国民に理解できないということで、ある閣僚の提案で「時運」という言葉が使われることとなった(迫水同上)。
 しかし、「時運」と言ってしまうと、成り行き任せの行き当たりばったりの意味合いが生じてしまい、責任ある主体的判断の意味合いがなくなってしまう(迫水同上96ページ、和泉同上)。
 「義命」を用いることを提案した安岡正篤氏は、「時運」にしたことによって戦後政治が筋の通らない行き当たりばったりになってしまったと批判した(迫水同上、和泉同上)。
 言われてみれば、1つ前の段落を見ると、民族滅亡や人類文明破滅を避けることが皇祖皇宗の意思に適うから降伏を決断した、という意味合いにも読める。まだ戦おうと思えば戦えるけど、それはしないという選択とも考えられる。
 上で「わが国は終戦を決断した。」と書いたのは、かかる起草経緯を鑑みてのものである。
 ついでに書くと、最終段落の「国体ノ精華」に聞き覚えがある人もいるだろうが、これは教育勅語にも出てくる文言だ(http://www.archives.go.jp/ayumi/photo_flash.html?id=51_1)。

 昭和天皇は、国民と共にあるべく、質素な生活をした。
 自分だけが楽をしていたわけではない。
 昭和天皇がマッカーサーに対して「自分の命はどうなっても構わない。一億の民を飢えさせないで欲しい。」と言ったということは前回の記事で紹介した(http://ameblo.jp/bj24649/entry-12066723106.html)。

 

 

 

 

 

所功監修 「初心者にもわかる昭和天皇」 (メディアックス、平成25年) 86ページ

敗戦後の荒れた日本

 昭和天皇は慎ましい生活を送っていた。住まいも防空壕として建てられた吹上御文庫を長らくそのまま使っている。食事にしても、その頃は主食のコメなどは国が統制し配給していたが、敗戦の年は凶作で配給が遅れ、ヤミ米がまかり通っているような状態で、昭和天皇もコメの代わりにうどん・すいとん・イモなどを食べていた。
 ところが、配給が遅れ物価も高騰したことから、各地で「米よこせ」デモが発生する。
 昭和二十一年(一九四六)五月十九日には、宮城前広場に二十五万人が集まり、食料を要求する「飯米獲得人民大会」が開かれた。このとき、「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードが掲げられ、不敬罪で逮捕されるという事件も起こっている。
 しかし、昭和天皇は決して「タラフク」食べていたわけではない。それどころか、農林大臣の松村謙三に、手持ちの宝石を供出するから国民のために食糧を輸入してはどうか、とさえ言っていたほどである。
 昭和天皇は五月二十四日、こうした食料事情を慮り、あの終戦を告げた八月十五日の放送についで二度目の玉音放送を行う。それは、祖国再建の第一歩は食生活の安定にあり、食糧難というこの惨状を切り抜けるためにお互い助け合っていこうと、ラジオを通して直接国民に訴えかけたものだった。
 宮城内も荒れ果てていた。空襲で焼け落ちた明治宮殿はガレキの山であり、お濠も雑草で覆われていた。終戦処理にあたった東久邇宮内閣で国務大臣を務めた緒方竹虎の秘書官をしていた長谷川峻は、このような惨状を見かねて、郷里の宮城県栗原郡にいる青年団に呼びかけ、勤労奉仕を願い出る。
 終戦の年の十二月八日、「みくに奉仕団」と名乗った六十三人の青年男女が、許可を得て長谷川とともに宮城内へ入り、明治宮殿の焼け跡の片づけを開始する。
 このとき、思ってもみないことが起こった。野良着姿の彼らの前に昭和天皇が現れ、声をかけたのだ。さらに皇后もやってきて、同じように声をかけて励ました。それは天皇・皇后が一般庶民と対話した初めてのことだったかもしれない。これが、現在もなお続くボランティアの皇居清掃作業「勤労奉仕」の始まりである。
 また、この同じ日、東久邇宮総理と面会していた秋田県農民代表の鈴木弥五郎が、天皇の行幸を初めて陳情する。地方は米騒動も起きかねない情勢になっており、この危機を脱出するには天皇の力が必要だというのである。
 GHQの内部でも、天皇が国民の前に姿を現し、直接声をかけてはどうか、という意見が持ち上がっていた。」
 
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「【公開】食糧問題に関するお言葉 原盤音声 2015年8月1日」 YouTube2015年7月31日
https://www.youtube.com/watch?v=CJuHnTvheqs



 ツイッターにこういう情報があった。
 飯米獲得人民大会の一週間前の出来事ということになる。


皇室の悠久ツイッター 2015年8月27日
https://twitter.com/dankeidanshi/status/636903207076167680

 

 

 

 

 


 飯米獲得人民大会は、昭和天皇を貶め、「人民」という言葉を使い、25万人も動員しているが、背後に共産党はいなかったのだろうか。
 と思ってウィキペディアを見てみたら、この大会は社会主義運動の1つで、不敬プラカードを掲げていたのは共産党員の松島松太郎とのことだ(http://qq1q.biz/nCjt)。

 テレビ番組での「終戦の詔勅」の一般的な引用の仕方は、文脈を無視した間違ったものだと言ってよいと思う。
 「戦争は悲惨だ」という先入観から、「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」は大東亜戦争そのものを指していると思い込んでしまうのだろう。
 原文を確認していない番組製作者が大半ではないかと思う。
 いわば、今後の復興に向けた文脈の言葉が、戦争を回顧する意味合いになっており、前向きか後ろ向きか、ほとんど反対の意味になっているとさえ言えよう。

 かく言う私も、最近まで原文や現代語訳を見たことがなかった。
 しかし、インターネット上にある終戦の詔勅の現代語訳を読んでみたら、「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」のところで驚いた(https://twitter.com/tarareba722/status/367856340133109760http://weemo.jp/s/96afd465)。
 今までテレビから得ていた印象は何だったのかと。

 東日本大震災が起きた時、今上陛下は玉音放送を流された。
 この記事を書いていてふと思ったのだが、大東亜戦争を振り返るテレビ番組では、昭和天皇の玉音放送が一応一部分でも流されるのに対し、東日本大震災を振り返るテレビ番組では、今上陛下の玉音放送が流れたという記憶がない。
 東日本大震災を語る上で、というより、わが国の歴史を語る上で一大事であるにもかかわらず、ほとんど報道されなかったし、ほとんど振り返られてもいない。
 昭和天皇の玉音放送は、「戦争は堪え難く苦しい。平和憲法を守ろう。」といった感じでテレビ局の社論に利用できるのに対し、今上陛下の玉音放送は、テレビ局が嫌う自衛隊を一番にねぎらっており、反感を持っているということだろうか。

 

 

 

 

「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば(平成23年3月16日)」 宮内庁HP
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/tohokujishin-h230316-mov.html

「 この度の東北地方太平洋沖地震は,マグニチュード9.0という例を見ない規模の巨大地震であり,被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています。地震や津波による死者の数は日を追って増加し,犠牲者が何人になるのかも分かりません。一人でも多くの人の無事が確認されることを願っています。また,現在,原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ,関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避されることを切に願っています。
 現在,国を挙げての救援活動が進められていますが,厳しい寒さの中で,多くの人々が,食糧,飲料水,燃料などの不足により,極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより,被災者の状況が少しでも好転し,人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません。そして,何にも増して,この大災害を生き抜き,被災者としての自らを励ましつつ,これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。
 自衛隊,警察,消防,海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々,諸外国から救援のために来日した人々,国内の様々な救援組織に属する人々が,余震の続く危険な状況の中で,日夜救援活動を進めている努力に感謝し,その労を深くねぎらいたく思います。
 今回,世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き,その多くに各国国民の気持ちが被災者と共にあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。
 海外においては,この深い悲しみの中で,日本人が,取り乱すことなく助け合い,秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え,いたわり合って,この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。
 被災者のこれからの苦難の日々を,私たち皆が,様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく,身体を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう,また,国民一人びとりが,被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ,被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。」

 


「【東日本大震災】天皇陛下のお言葉[桜H23/3/17]」 YouTube2011年3月16日
https://youtu.be/mOERcHmrCkA?t=55s



 「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」
 確かに、当時のラジオは音質が悪く、この部分しかまともに聞き取れず、アナウンサーの補足説明と合わせて、多くの人が敗戦を悟ったというのは事実である(伊藤之雄監修「実録昭和天皇」(宝島社、2015年)53ページ)。
 なので、この部分を敗戦の記憶と重ね合わせるのは間違いとは言い切れない。
 しかし、やはり誤解を続けるより、正しく理解した方がよい。
 これは、戦争の辛さを回顧してうつむくのではなく、顔を上げて日本人の誇りをもって復興を頑張ろうという励ましの文脈の文言だと解してよいと思う。
 「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」
 民がテレビ番組により誤解を刷り込まれれば、昭和天皇の「意」は伝わらず、「体」することもできない。

 

 

 

 

 

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