大東亜戦争に関するテレビ番組を見ていると、昭和天皇の玉音放送が流れて国民が敗戦を悟るという映像がよく流れる。
そこで引用される箇所は、決まって「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」である。
戦争、特に米軍による民間人大虐殺という戦争犯罪の映像の後にこの一文が流れるため、視聴者は、この堪え難い、忍び難いこととは、この戦争を指していると印象づけられると思う。
そこで、原文を見てみると、意外なことが分かる。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/017/017tx.html
「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
「【現代語訳】
朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾しようと思い、ここに忠良なる汝ら帝国国民に告ぐ。
朕は帝国政府をして米英支ソ四国に対し、その共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させたのである。
そもそも帝国国民の健全を図り、万邦共栄の楽しみを共にするは、天照大神、神武天皇はじめ歴代天皇が残された範であり、朕は常々心掛けている。先に米英二国に宣戦した理由もまた、実に帝国の自尊と東亜の安定とを切に願うことから出たもので、他国の主権を否定して領土を侵すようなことはもとより朕の志にあらず。しかるに交戦すでに四年を経ており、朕が陸海将兵の勇戦、朕が官僚官吏の精勤、朕が一億国民の奉公、それぞれ最善を尽くすにかかわらず、戦局は必ずしも好転せず世界の大勢もまた我に有利ではない。こればかりか、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、多くの罪なき民を殺傷しており、惨害どこまで及ぶかは実に測り知れない事態となった。しかもなお交戦を続けるというのか。それは我が民族の滅亡をきたすのみならず、ひいては人類の文明をも破滅させるはずである。そうなってしまえば朕はどのようにして一億国民の子孫を保ち、皇祖・皇宗の神霊に詫びるのか。これが帝国政府をして共同宣言に応じさせるに至ったゆえんである。
朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力した同盟諸国に対し、遺憾の意を表せざるを得ない。帝国国民には戦陣に散り、職場に殉じ、戦災に斃れた者及びその遺族に想いを致せば、それだけで五内(玉音は「ごない」。五臓)引き裂かれる。且つまた戦傷を負い、戦災を被り、家も仕事も失ってしまった者へどう手を差し伸べるかに至っては、朕が深く心痛むところである。思慮するに、帝国が今後受けなくてならない苦難は当然のこと尋常ではない。汝ら国民の衷心も朕はよく理解している。しかしながら朕は時運がこうなったからには堪えがたきを堪え忍びがたきを忍び、子々孫々のために太平を拓くことを願う。
朕は今、国としての日本を護持することができ、忠良な汝ら国民のひたすらなる誠意に信拠し、常に汝ら国民と共にいる。もし感情の激するままみだりに事を起こし、あるいは同胞を陥れて互いに時局を乱し、ために大道を踏み誤り、世界に対し信義を失うことは、朕が最も戒めるところである。よろしく国を挙げて一家となり皆で子孫をつなぎ、固く神州日本の不滅を信じ、担う使命は重く進む道程の遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、道義を大切に志操堅固にして、日本の光栄なる真髄を発揚し、世界の進歩発展に後れぬよう心に期すべし。汝ら国民よ、朕が真意をよく汲み全身全霊で受け止めよ。
(以下略)」
- 別冊正論24号「再認識『終戦』」 (日工ムック)/日本工業新聞社
- ¥1,200
- Amazon.co.jp
「【公開】玉音放送 原盤音声 2015年8月1日」 YouTube2015年7月31日
https://www.youtube.com/watch?v=UGcOEyakDGI
どうだろう。
少なくとも、大東亜戦争そのものについて「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」と仰っているのではないということはわかるだろう。
空襲を受けて堪え難かった、という話をしているのではないのである。
いわば、そういう過去を述べたのではなく、今後の、未来に向けた話だ。
わが国は終戦を決断した。
戦争では多くの人が死に、傷ついた。
戦後復興は苦難の道だ。
しかし、子々孫々の太平のために努力しよう。
この将来に向けた苦難の道を歩む努力が、「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」と解してよいと考える。
「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」の直前に「時運ノ趨ク所」とある。
ここは原案では「義命ノ存スル所」だった。
起草者の迫水久常氏は、「義命の義というのは忠義の義、命というのは運命の命の字。筋道がそうなっておるから、ここで戦争を止めるのが筋道である」という意味だという(迫水久恒「詔勅余話 「義命」を「時運」で戦後は「義」欠く」(別冊正論24号、産経新聞社)95ページ)。天皇が誰に忠義を尽くすのだろうと、いまいちわかりにくいところがあるが、「皇祖皇宗ノ神霊」ではなかろうか。
迫水久常顕彰会会長の和泉豊氏は、「終戦を、大義天命の然らしむ所、つまり正しい道であるからこそ、止めるのだという思い」であり、これは「指導者としての主体的な責任ある判断」が表れているという(和泉豊「迫水証言を世に広めて 義命と時運―先生が強調されていたこと」同上120ページ)。
結局、「義命」という言葉は辞書にもほとんど載っておらず、国民に理解できないということで、ある閣僚の提案で「時運」という言葉が使われることとなった(迫水同上)。
しかし、「時運」と言ってしまうと、成り行き任せの行き当たりばったりの意味合いが生じてしまい、責任ある主体的判断の意味合いがなくなってしまう(迫水同上96ページ、和泉同上)。
「義命」を用いることを提案した安岡正篤氏は、「時運」にしたことによって戦後政治が筋の通らない行き当たりばったりになってしまったと批判した(迫水同上、和泉同上)。
言われてみれば、1つ前の段落を見ると、民族滅亡や人類文明破滅を避けることが皇祖皇宗の意思に適うから降伏を決断した、という意味合いにも読める。まだ戦おうと思えば戦えるけど、それはしないという選択とも考えられる。
上で「わが国は終戦を決断した。」と書いたのは、かかる起草経緯を鑑みてのものである。
ついでに書くと、最終段落の「国体ノ精華」に聞き覚えがある人もいるだろうが、これは教育勅語にも出てくる文言だ(http://www.archives.go.jp/ayumi/photo_flash.html?id=51_1)。
昭和天皇は、国民と共にあるべく、質素な生活をした。
自分だけが楽をしていたわけではない。
昭和天皇がマッカーサーに対して「自分の命はどうなっても構わない。一億の民を飢えさせないで欲しい。」と言ったということは前回の記事で紹介した(http://ameblo.jp/bj24649/entry-12066723106.html)。
「敗戦後の荒れた日本
昭和天皇は慎ましい生活を送っていた。住まいも防空壕として建てられた吹上御文庫を長らくそのまま使っている。食事にしても、その頃は主食のコメなどは国が統制し配給していたが、敗戦の年は凶作で配給が遅れ、ヤミ米がまかり通っているような状態で、昭和天皇もコメの代わりにうどん・すいとん・イモなどを食べていた。
ところが、配給が遅れ物価も高騰したことから、各地で「米よこせ」デモが発生する。
昭和二十一年(一九四六)五月十九日には、宮城前広場に二十五万人が集まり、食料を要求する「飯米獲得人民大会」が開かれた。このとき、「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードが掲げられ、不敬罪で逮捕されるという事件も起こっている。
しかし、昭和天皇は決して「タラフク」食べていたわけではない。それどころか、農林大臣の松村謙三に、手持ちの宝石を供出するから国民のために食糧を輸入してはどうか、とさえ言っていたほどである。
昭和天皇は五月二十四日、こうした食料事情を慮り、あの終戦を告げた八月十五日の放送についで二度目の玉音放送を行う。それは、祖国再建の第一歩は食生活の安定にあり、食糧難というこの惨状を切り抜けるためにお互い助け合っていこうと、ラジオを通して直接国民に訴えかけたものだった。
宮城内も荒れ果てていた。空襲で焼け落ちた明治宮殿はガレキの山であり、お濠も雑草で覆われていた。終戦処理にあたった東久邇宮内閣で国務大臣を務めた緒方竹虎の秘書官をしていた長谷川峻は、このような惨状を見かねて、郷里の宮城県栗原郡にいる青年団に呼びかけ、勤労奉仕を願い出る。
終戦の年の十二月八日、「みくに奉仕団」と名乗った六十三人の青年男女が、許可を得て長谷川とともに宮城内へ入り、明治宮殿の焼け跡の片づけを開始する。
このとき、思ってもみないことが起こった。野良着姿の彼らの前に昭和天皇が現れ、声をかけたのだ。さらに皇后もやってきて、同じように声をかけて励ました。それは天皇・皇后が一般庶民と対話した初めてのことだったかもしれない。これが、現在もなお続くボランティアの皇居清掃作業「勤労奉仕」の始まりである。
また、この同じ日、東久邇宮総理と面会していた秋田県農民代表の鈴木弥五郎が、天皇の行幸を初めて陳情する。地方は米騒動も起きかねない情勢になっており、この危機を脱出するには天皇の力が必要だというのである。
GHQの内部でも、天皇が国民の前に姿を現し、直接声をかけてはどうか、という意見が持ち上がっていた。」
- 初心者にもわかる昭和天皇 (メディアックスMOOK)/メディアックス
- ¥905
- Amazon.co.jp
「【公開】食糧問題に関するお言葉 原盤音声 2015年8月1日」 YouTube2015年7月31日
https://www.youtube.com/watch?v=CJuHnTvheqs
ツイッターにこういう情報があった。
飯米獲得人民大会の一週間前の出来事ということになる。
皇室の悠久ツイッター 2015年8月27日
https://twitter.com/dankeidanshi/status/636903207076167680
【共産党の反天皇戦術①】共産党は天皇陛下に“暴君”のレッテルを貼る為に、1946年5月12日、赤旗を乱立させて皇居内に乱入し、陛下の食生活の贅沢三昧ぶりを暴こうと台所を探索した。しかし思惑とは逆に、庶民並みの質素きわめた昭和天皇の私生活の実体が広く知られ、この戦術を直ちにやめた。
— 皇室の悠久 (@dankeidanshi) 2015, 8月 27
飯米獲得人民大会は、昭和天皇を貶め、「人民」という言葉を使い、25万人も動員しているが、背後に共産党はいなかったのだろうか。
と思ってウィキペディアを見てみたら、この大会は社会主義運動の1つで、不敬プラカードを掲げていたのは共産党員の松島松太郎とのことだ(http://qq1q.biz/nCjt)。
テレビ番組での「終戦の詔勅」の一般的な引用の仕方は、文脈を無視した間違ったものだと言ってよいと思う。
「戦争は悲惨だ」という先入観から、「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」は大東亜戦争そのものを指していると思い込んでしまうのだろう。
原文を確認していない番組製作者が大半ではないかと思う。
いわば、今後の復興に向けた文脈の言葉が、戦争を回顧する意味合いになっており、前向きか後ろ向きか、ほとんど反対の意味になっているとさえ言えよう。
かく言う私も、最近まで原文や現代語訳を見たことがなかった。
しかし、インターネット上にある終戦の詔勅の現代語訳を読んでみたら、「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」のところで驚いた(https://twitter.com/tarareba722/status/367856340133109760、http://weemo.jp/s/96afd465)。
今までテレビから得ていた印象は何だったのかと。
東日本大震災が起きた時、今上陛下は玉音放送を流された。
この記事を書いていてふと思ったのだが、大東亜戦争を振り返るテレビ番組では、昭和天皇の玉音放送が一応一部分でも流されるのに対し、東日本大震災を振り返るテレビ番組では、今上陛下の玉音放送が流れたという記憶がない。
東日本大震災を語る上で、というより、わが国の歴史を語る上で一大事であるにもかかわらず、ほとんど報道されなかったし、ほとんど振り返られてもいない。
昭和天皇の玉音放送は、「戦争は堪え難く苦しい。平和憲法を守ろう。」といった感じでテレビ局の社論に利用できるのに対し、今上陛下の玉音放送は、テレビ局が嫌う自衛隊を一番にねぎらっており、反感を持っているということだろうか。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/tohokujishin-h230316-mov.html
「 この度の東北地方太平洋沖地震は,マグニチュード9.0という例を見ない規模の巨大地震であり,被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています。地震や津波による死者の数は日を追って増加し,犠牲者が何人になるのかも分かりません。一人でも多くの人の無事が確認されることを願っています。また,現在,原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ,関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避されることを切に願っています。
「【東日本大震災】天皇陛下のお言葉[桜H23/3/17]」 YouTube2011年3月16日
https://youtu.be/mOERcHmrCkA?t=55s
「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」
確かに、当時のラジオは音質が悪く、この部分しかまともに聞き取れず、アナウンサーの補足説明と合わせて、多くの人が敗戦を悟ったというのは事実である(伊藤之雄監修「実録昭和天皇」(宝島社、2015年)53ページ)。
なので、この部分を敗戦の記憶と重ね合わせるのは間違いとは言い切れない。
しかし、やはり誤解を続けるより、正しく理解した方がよい。
これは、戦争の辛さを回顧してうつむくのではなく、顔を上げて日本人の誇りをもって復興を頑張ろうという励ましの文脈の文言だと解してよいと思う。
「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」
民がテレビ番組により誤解を刷り込まれれば、昭和天皇の「意」は伝わらず、「体」することもできない。
- 実録 昭和天皇 (別冊宝島 2320)/宝島社
- ¥972
- Amazon.co.jp