
Roots of TWO-J #12 "Just do it"
あの男のあの一言で、
ラッパーとしてそのイベントに"出演しなければならない"
という事態になってしまった俺は、
焦りながらも、どこか強い覚悟が生まれ始めていた。
てか、そうするしかなかった。
まあ、今になって言える事だが、あの男の無茶振りがなければ、
自分からラップを初めていたかどうかわからない。
いや、やれてなかったと思う。
結果あの時から自分で覚悟は決めてた。
ひとまず何をしたかといえば、当時の日本語ラップのアーティストの曲をいろいろ聴いてみた。
なんだかんだずっとLAスタイルを見てきた俺は日本人による日本語ラップをほとんど聞いてこなかった。日本語ラップがあるのも当然知ってたし、その当時のアーティストは今の日本のHIPHOPシーンの礎を築いた様なレジェンドクラスに値する人々ばかりだ。
けど、俺はほとんど日本語ラップを聴いていなかった。
96年頃、ベストオブジャパニーズヒップホップというオムニバス形式のCDがシリーズ化されて出ていた。現在も活躍してるアーティストの楽曲の超初期の頃の作品といってもいい様な楽曲が収録されてた。
手始めにこれを聴いてみたんだけど、いろいろ聴いても、
当時は "カッコいい!" とまでは思えず、やはりそこまで興味をもてなかった。
(まだ勉強不足だったと言う事にしよう。ちなみにこのアルバムにはDS455の曲も収録されてて、今改めて聴くとこの時からPMXサウンドは驚く程クオリティが高い。)
けどその中で、唯一、耳を持って行かれたアーティストがいたのだ。
GANXSTA D.Xだ。
"NATURAL BORN GANXSTA" という曲にロックされた。
(この曲はのちにNATURAL BORN GANXSTA2002としてもリリースされるが、
それより前の物だ。)
この時初めて、"LAの事を歌ってる日本語ラップ"を聴いたのだ。
これだっ! と思って驚いた。
説明するのが難しいけど、日本の曲の中で、海外、特にLAを感じる曲など全然なかったし、 現にLAに居た体験を持つGANXSTA D.X氏のリリックは、俺に突き刺さった。
"カッコいいっ!"
やはりいつになろうと俺の好きなものの基準は単純明快にそこだ。
それにしても話は少々ずれるが、俺ってやつはどうやらやっぱり"運"がいいのでは無いか?
何かを始めると意外とちゃんと道が開けると言うか、必ず何か思ってた事に繋がる。
宝クジや懸賞などといったものなど当たったこともないが。そっちの運は全てこっちで使っているのだろうか??
そしてまた、このGANXSTA D.X氏とも後に出会わせてもらい、
たくさんのエピソードが生まれる事になるのだ。
GANXSTA D.Xの声やフロウもやばかったのだが、何より耳触りが良かったのは、英語(時にはスパニッシュも)と日本語が、綺麗にマッチングして、それでいてリリック(歌詞)
の流れの意味もしっかりと続くスタイルが俺にはめちゃくちゃカッコよかった。あと当然、ある種の"ワル"の匂いがプンプンと漂っていたのも魅力だった。
もう一回言う、 "これだっ!!" と思った。
その後、英語と日本語を駆使したストーリーをラップでトライすることから始めた。
それだけでも容易ではないが、何とかクリア。(自己採点)
次はこれをビートに乗せてラップすると言う段階が必要になる。
ここだよ、重要なのは。
まあ基本初めて、本当に初めてラップなどしたら9割以上、いや100といってもいいだろうが、"ダサ" ってなるだろう。それは否めない。もちろん最初の俺だって、自分でやってみて、"クソダサ"かったし、キモかったなあ。良くあの壁を越えたなと過去の自分を褒めてやりたい。
だが幸いな事に、音楽には山ほど触れてきたつもりだったので、
ビート感を掴むのは自分でも驚く程早くかった。
そしてその仕組みが体で自然に掴めたときの気持ち良さは、
今まで体験した快感とはまた別の良さがあった。
その、ある種俺が好きだった "ドーピング" のジャンルとは全く違う快楽なのだ。
当時、HIPHOPのシングルのアナログレコードのB面には、
大体その曲のインストゥルメンタル (ボーカルを抜いた音だけの物)
が収録されてた。
オリジナルビートなど持っていない俺は、その"インスト"を使い、その上にラップを乗せるのだ。
HIPHOPにはよくある手法だし、当時そうして歌うのは普通だった。
今でこそオンライン上にはフリートラックとか、安価でダウンロードできるインストは山ほどあって、ある程度楽曲クオリティもいいから、それを使って楽曲を発表してる人も多いが。
当時の俺の様な駆け出しは"在り物"のインストを使ってライブしたものだ。
それなだけに"在り物"のインストのチョイスは重要だった。
当時使ってたインストに DJ QUIKのインストがあった。
彼はロサンゼルス、コンプトン出身の有名なラッパーだが、ラップだけではなくビートメイク、プロデュース等、も自分で手掛ける天才的なアーティストだ。
俺に言わせれば、彼を知らずとしてWEST COASTのHIPHOPなど語れない。
いや、"絶対に語るべからず" な人物の一人である。
かなりフライング気味で話を出したが、さっきも言った様に、俺の宝クジ運は、
完全にこっちに全て使われてるのだ。 この世界的レジェンドとも、のちに一緒に楽曲を製作する事になるのだから。
といっても 初めてのラップを試行錯誤して練習しまくってる俺にはあまりにもほど遠く、まだまだこの先長い道のりのそのまた先にある話なのだが。
勉強などせずに高校も中退した様な俺が、一番一生懸命"勉強"したのは間違いなくこの頃だったと思う。
驚異的な速さで、
4,5曲書き上げた。
多分3週間程度だったと思う。
驚異的な速さだよ、本当に。
一人で練習して、歌いこなせるところまでにはなった。
"どうせライブやるなら、一人でやるより、誰かにサポートでマイク持たせたほうが良いよな、多重感もそうだし、見栄えも。"
そんなことまでこの短い期間で考える様になっていたのだから、
俺の勉強量と集中力とまい進力は半端なかったと自分でも思う。( was not doping! )
お、そうだ、あいつに頼もう。
と、俺があの時 彼に無茶振りされラップを始める事になった様に、
俺も、一人の後輩にターゲットを絞る事にしたのだ。
2000年から2001年頃の話だ。
Roots of TWO-J #11 "爆弾"
この当時の自分にとって日本におけるWEST COASTスタイルの先駆けだったのは
名古屋のDJ MOTO氏率いる W.C.C. (West Coast Connection)や、
横浜のDS455。 後にこのDS455からも自分にとって革命的な恩恵を授かる事になる。
もっと遡ればその上の先駆者たちも勿論存在するが、まずここが自分にとって外せない始まりだった。
同県の俺は勿論、真っ先に名古屋のHIPHOPシーンを追いかけた。
当時からMOTO氏は "S.C.F"という言葉を提唱していた。
Sound(音楽),Car (車), Fassion,(服装) でS.C.Fだ。
カッコいい曲、カッコいい車、カッコいいファッション、
この3つが整ってこそ、理想の本物に近いライフスタイルなのだ。
言わば極みだね。
この理想型が出来上がってる人が名古屋には多くいた。
多くといっても当時の俺レベルからみた多くであって、
厳密にはそりゃ少ないが。その存在感のかっこよさは、
やはりガキでは真似できない様な領域だった。
WESTスタイルだけでは無く、当時の名古屋のHIPHOPは強烈に濃厚で、
DJ刃頭 氏とTOKONA-XのILLMARIACHIはもっと前から活躍していたし、
M.O.S.A.D.にしたってそう。他にも様々居て、レベルの高いアーティストが多くて、他とは明らかに一線を画していた。これが現代でも語り継がれる "052 HIPHOP"だ。
この時代に自分はその "特別" なフィールドに足を踏み入れて行った事になる。
そんな中でも俺は、"GANG STORIES"というイベントに良く通っていた。
W.C.C.のDJ陣による選曲は特に濃密でいつも圧倒されたし、魅了された。
知らない曲を勉強できる場でもあった。
いかに彼等が "真剣に" 音楽や文化を探求してたのかは
現場での"それ"をみれば一目瞭然だった。
PHOBIA OF THUGのLIVEを初めて観たのもその頃だったかもしれない。
当時 PHOBIAの "Click Da Trigger" を聴いてくらったのは俺だけなわけがない。
PHOBIAのLIVEを観ては刺激をもらい、熱狂的になった。
ここで #10での服屋の話に戻るが、当時全国的にストリートスタイルのドメスティックブランドに人気が集中した時代でもあった。
ひとつ年上の仲間がやってたドメスティックブランドも勢いをつけて全国的にもかなり売れてた頃だった。彼はハードコアも好きでヒップホップも好きで、音楽にしろ、ファッションにしろ、ストリート文化がすごく好きな人だった。
ある日彼が、地元で当時では規模が大きめのイベントを計画してて、
そこにPHOBIAやM.O.S.A.Dや、ハードコアバンドのCALUSARI 等、他にもゲストを迎えたラインナップで開催する事になった。
"すげーじゃん、めっちゃいいじゃん!"
とテンションが上がってた俺に彼は、
”いや、お前も出るよ"
と言い放ってきた。
"は?" と聞き返した俺に、
"いや、だからお前も出るんだって。"
"どういう意味??"
"地元でやるのに地元のラッパーがおらんじゃん、だもんでフライヤーに載せる名前決めとけよ。"
ちょっと待て。
"ラップで出ろって事?ラップやれって事?"
"うん、だで、名前決めといて。もう時間ないで。"
"はぁっ!?"
これが、
ラップする俺、後に言うTWO-Jが生まれる事になったあっけない"瞬間"だった。
当然、ラップなど一度もやったことなど無かった。
Roots of TWO-J #10 "スタートライン"
というわけで、ある意味また、本来の自分の居場所に逆戻りした。
が、自分でやるなんて言ったものの、何をやっていいのかすら解らない。
また坊主頭にして髭を伸ばすのだけはすぐに出来たが。
元々バイトさせて貰ってた服屋の先輩オーナーには相談に行かなかった。
でも、なんかやろうと思って、仲間たちに前職を辞めた事と、これからこうしようと思うみたいな話はしていた。
"実はLA行って服買い付けて店とかやりたいんだ"。
なんて話してる中、ある先輩が、
"実は俺も服屋始める。"
と。。
まただ。また先輩だ。
マジか。しかも同じテイストだし。
その先輩の計画はもうとっくに動いてて、
俺は財力的にも経験的にも太刀打ち出来る状態では無かった。
"うわ、、遅かったか。"
自分の計画が一瞬で閉ざされた様な感覚だった。
けどその先輩は、
"その店お前に店長任せようと思ってるんだけど、どう? やってくれない?"
と予想外の言葉をくれた。
マジで予想外だった。
正直、ある意味勘ぐった。
(これはちょっとした特有の症状だと思ってもらえれば。。)
よーく考えたし、スゲー迷ったけど、
すぐにでも何かしたかった俺は
それを引き受けさせて貰う事にした。
この辺から微かに思うけど、昔から不思議と俺は、
言わば人の "縁" みたいなものに助けられてる気がする。
いや、そうでもないか?
勘違いな部分も多いかもしれないが。
いや、結果助けられてる。
"縁" にはやっぱり助けられてる。
店がスタートしたのは2000年だったか、2001年だったか、その辺りだ。
(何度も言う事になるが、俺の当時の時系列の記憶はご存知の通り曖昧すぎる。この辺は本編ではしっかりリサーチしなければ。)
90年代半ばからのWEST COASTにおけるHIIPHOP、特にギャングスタラップがものすごい勢いで世界的に広まってた時代。 (#3)で"木こり"が放った言葉などどこにも無い時代が来ていた。
店では、LAインポートウエアは勿論、ミックステープやジュエリーまで販売してた。
ブラックスタイル、チカーノスタイルまで混同してロサンゼルスのスタイルを扱っていた。
勿論CDは流通してる時代だけど、
ミックステープに関してはその名の通りカセットテープだった。
DJ PMXのLOCOHAMA CRUISING 001を始め、DJ MOTO率いるWCCのDJ陣のミックステープまでガッチリ取り揃えてた。
この時期にもなれば、全国各地にしっかりとした先駆者たちによる、WEST COASTスタイルのショップが既に存在していた。それでもまだ少ない方だったと思う。
(後にわんさか増えるけど。)
今思ったけど、俺この時、もうラップやってたっけ?
やってた時期も店にいた記憶があるし、やってなかったけど店は始まってた記憶もあるし。
まあ、最初やってなくて、やったんだろうな。いや、逆か?まあ、いい。 (症状)
とにかくこの頃は目まぐるしく進んだから。
でも何でRAP始める事になったかは、しっかり覚えてる。
次は遂にその話に移ろう。

