
Roots of TWO-J #18 "ネクストレベル"
ファーストアルバムリリース後の作品の制作は東京では無く愛知県で作った。
2021年現在いまだにお世話になっている自分にとって先生のような大ベテランのエンジニア師匠との制作だ。
師匠との制作はものすごくやり易く、自分のやりたいスタイルを更に広げてくれたし、
自分にでは気がついていなかったような作風を沢山引き出してくれた。
この師匠こそが、 Masao"SWING"Okamotoこと、
サウンドエンジニアの岡本正男 氏 である。
師匠の所で制作をするアーティスト達には、ACKEE & SALTFISH、SEAMO、nobodyknows+ , PHOBIA OF THUG、M.O.S.A.D. B-ninjha&AK-69, といった東海エリアを代表するようなのアーティスト達が他にも沢山いた。ジャンルも様々でオールジャンルのアーティストの作品が制作されていた。
俺はここでプロの制作スタイルをたっぷりと学んだ。師匠との時間は自分の制作作業面でのクオリティを向上させてもらった貴重な時間だった。今風の言いまわしに#STUDIO LIFE なんていう言葉もあるけど、いうならばこの当時の自分はまさにスタジオライフをしていたと思う。いつも師匠のスタジオに入り制作していた。そしていまだに学ばさせてもらっている。
そんな中、意外と早く"あの人"からの連絡が来た。予想外だった。
ずっと連絡など取ってはいなかった。
俺はあの時言われた言葉を守っていたと言ったらおかしいけど、
"顔は出していなかった"
成功するまで顔見せるなと言われたのだから、(#9の話)
まだ見せる余裕などない、
好きな事が出来るようにはなったけど、成功なんてしていなかったから。
まあ、今もしてないけど。 笑
その突然の電話の内容はこうだった。
ある人が俺の曲聞いて、気に入ってて、本格的にサポートしたいと言ってる。
という内容だった。
更に聞くと、住みかや給料といった面でのサポートもするとのことだった。
次なるアルバムの制作を一緒に携わらせて欲しいとの話だった。
突然の話すぎて、戸惑った。よく意味がわからなかったのもあるが、
普通に考えて、あんまりその手の話はすぐには信じられない。
仮にまともな話だったとして、
まず第一に金は欲しいけど、自分がそれをもらうに値するかどうか気が引けたのもある。
後日、先方と会って色々話した。
会って話す前の自分は、どこか緊張していて、同時に少し構え気味な状態だった。
けど、話をすると、ものすごく話のチャンネルの合う方だったし、面白い人だった。
直感的に今までの疑問は払拭された。
新しい希望が生まれて、またあの"ワクワク"する感覚が膨らんでいった。
"自分のやりたい事がもっと出来る、もっとデカイ事が出来る"
人生の新しい扉開いてやろうと、覚悟をまた決めた。
その翌月には名古屋へ移った。
ここから思いっきりお世話になるのが
ローライダー界の重鎮でもある 郷農寛之 氏 だった。
ここから、もっとレベルアップした濃厚な時期が始まることになる。
そして、
"成功するまで顔出すなよ" って言ってたあの先輩は、
"お前良かったな、頑張れよ"
と喜んでくれた。
これも確か2003年だった。
Roots of TWO-J #17 "2003"
2003年。
1stアルバムがリリースされて、全国に流通した。
"自分のアルバムが日本全国で売られている"
こんなことになるとは、このストーリーの#1あたりの自分には全く想像できたものじゃなかった。
この頃はCDだからね、CDを発売出来るってことは、
俺みたいなアンダーグラウンドのアーティストとしてはやっぱり1つのステータスだった。
まず第一にスゲー嬉しかったし、同時に自覚も変わった。
生意気に言えばプロ意識が芽生えたし、良くも悪くもだが1つ目標を遂げた事でプライド的なものも自覚した。
あの少年が、あのDJコンテストで最下位の少年が、あの中毒気味の少年が、w
東京や東北や九州、全国各地でライブをするようになるんだから、それだけでもHIPHOPドリームってやつは充分に成立する。
そんな中、どこかのイベントで初めてBIG RONと出会った。
CD渡して、色々話した。その時もう決まってたイベントに後から、
"フライヤーもう出来ちゃってるけど、II-Jがよければ俺のイベント出てよ。"
なんてRON君が誘ってくれて、俺は喜んで参加した。
横須賀にあったヒデミュージアムで行われた "DOGS OF THE BAY"だった。
でかいイベントで、沢山のアーティストが参加してて、かなり刺激になったし、
CDが出てたからといってまだまだ駆け出しな俺は当然無名だし、そこまで盛り上げれたわけじゃなかった。もっと修行しようと決意もした。ただ初めて訪れた横須賀でBIGRON含め周りのみんなにもすげえ仲良くしてもらって、その土地の暖かさをたっぷり頂いたのを覚えてる。HIPHOPはやっぱりその土地の風土や人に根着いて発生してるからこそ、なおさら面白いのだ。ただの音楽じゃない。
ますます勢いが付いてきた俺は、その後、シングルや、REMIXアルバムや、間髪入れずにリリースして、どんどん面白いフィールドになり、仲間も増えて、日々HIPHOPに夢中な日々を過ごしてた。決して金持ちじゃないけど、自分の活動で思ったより金は入ってきたから、音楽やってくのに特に困りはしなかった。
そんな日々の中、ある日から、自分の地元を離れて暮らす事になる。
これもまた、あっという間に展開した当時のストーリーの、
別場面の始まりになった決断だった。
Roots of TWO-J #16 "1つの形 "
2002年だったと思う、
俺は東京のレコーディングスタジオにいた。
初めてのアルバム製作で、合宿と称して、スタジオ前のアパートの一室を宿舎として使って、2週間ほど居たと思う。
麻布十番にあるスタジオだった。
すぐ近くに麻布十番温泉っていう風呂があった。
すごくかっこいいスタジオで、毎日レコーディングに明け暮れた。
このアルバム制作に至るまでの期間にかなり濃厚に活動の深さが増していた。
結果、自分のオリジナルのビートを、自分で作ろうと動き出していた。
そのために当時まずキーボードを使って、曲をプログラミングしてた。
とカッコよく言えばそうだけど、これだっていきなり出来るようになんてならないわけで。
取り敢えず最初に手にしたキーボードはKORG社のTRITONというモデルだった。
当時安いものではなかったけど、真剣に必要だったから、まずはこれを買った。
(今でも初期モデルが家にあって一部使用してる。愛着もあるしね。)
TRITON内のあらゆる種類の音色を演奏して、シーケンサーに音やパターンを記録して自動再生する事で楽曲が作れるものだ。昔でいう"打ち込み”音源を作るキーボード。
これでビートを作った。ちなみにデータの記録先はフロッピーディスクなんだから時代を感じる。若いこはフロッピーなんて知らないだろうw
楽譜が読めたりピアノ演奏ができるはずもない俺が曲を作曲なんてまたまたとんでもないトライだ。
中学生の頃、音楽の授業なんて何にも面白くなかったし、たまに笛のテストとかいって、男女一人ずつが先生の前で課題曲を吹いて採点されるみたいな、ある意味拷問のような時間があったけど、これまじで意味ないと思ってたくらいだった。
そんな俺がまた楽器に真剣に向き合って作曲なんて出来るのかっていう不安の方がでかかったけど、とにかく自分のビートが作りたかった。
教えてくれる人なんて周りにいなかったし、必死で説明書を解読するんだけど、説明書に書いてある用語すらなんのことだか全くわからない状態なのだから、挫折することの方が簡単なくらいだ。
今でこそネットで検索すればわからない分野の説明が簡単に見つかるし、ましてや動画で解説なんていう超分かり易いチュートリアルまであるわけだけど、当時の俺は、その"オモチャ"をまず手当たり次第に遊んで理解していく方が早かった。
子供が一つのおもちゃを与えられて、その使い方を最終的に自分で極めるのと同じような感覚でいじり倒してた。
逆方向から遠回りにはなるけど、自分で使い方がわかってしまうようになれば、今度は説明書の中のあの意味のわからない用語の意味がわかる、あ、それをこう呼ぶのね、的な。
そんなアナログな方法ではあっても覚えてしまえばこっちのもので、
そっからのその"オモチャ"は自分にとって何でも形にしてくれる最高な遊び道具になる。
それで自分で完成させた曲たちを持ってスタジオに入り、さらにラップのレコーディングをして曲が完成するわけだから、最高に面白い。CDで聞いてた"あの人たちのあの感じの音" が自分の作ったもので "それ" になって鳴るわけだから、やばいくらいの感動だ。
このアルバムを出せるきっかけになったのも、あの時の彼の無茶振り(#11)があったからというのもあるが、彼はその無茶振りを本当の形へと導いてくれたと思う。
このアルバムは彼がインディペンデントレーベルを立ち上げて、本格的に音楽活動をビジネスという面でも視野に置いて、動いてくれた事が一番でかい。ありがとう。
PHOBIA OF THUGとの念願の共演曲、"Straight Drama" を制作できたのも強烈だったし、あの時(#12) くらったGANXSTA D.Xもインタールードで参加してくれた。
DJ DOPEMANとの"Dream On Play Everyday"もDOPEMANとの始まりだし、
自分で作った曲にB-Ninjha&AK-69を迎えた"MOVE ON"を作ったのがこの時。
(後のMOVE ON REMIXの方がみんな聞いてくれてるかも。
オリジナルが生まれたのはこの時)
色々な人のサポートも膨らんでできた渾身の初アルバムだった。
HIPHOP マジでやばい、面白ぇっ! ってなるに決まってるよね。
このアルバム翌年の2003年始め頃にリリースされて、さらに活動がものすごく濃くなって、また次のフィールドへ瞬く間に物事が展開して行くことになった。
遊びが仕事になって行く始まりだったかもしれない。