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Roots of TWO-J #16 "1つの形 "
2002年だったと思う、
俺は東京のレコーディングスタジオにいた。
初めてのアルバム製作で、合宿と称して、スタジオ前のアパートの一室を宿舎として使って、2週間ほど居たと思う。
麻布十番にあるスタジオだった。
すぐ近くに麻布十番温泉っていう風呂があった。
すごくかっこいいスタジオで、毎日レコーディングに明け暮れた。
このアルバム制作に至るまでの期間にかなり濃厚に活動の深さが増していた。
結果、自分のオリジナルのビートを、自分で作ろうと動き出していた。
そのために当時まずキーボードを使って、曲をプログラミングしてた。
とカッコよく言えばそうだけど、これだっていきなり出来るようになんてならないわけで。
取り敢えず最初に手にしたキーボードはKORG社のTRITONというモデルだった。
当時安いものではなかったけど、真剣に必要だったから、まずはこれを買った。
(今でも初期モデルが家にあって一部使用してる。愛着もあるしね。)
TRITON内のあらゆる種類の音色を演奏して、シーケンサーに音やパターンを記録して自動再生する事で楽曲が作れるものだ。昔でいう"打ち込み”音源を作るキーボード。
これでビートを作った。ちなみにデータの記録先はフロッピーディスクなんだから時代を感じる。若いこはフロッピーなんて知らないだろうw
楽譜が読めたりピアノ演奏ができるはずもない俺が曲を作曲なんてまたまたとんでもないトライだ。
中学生の頃、音楽の授業なんて何にも面白くなかったし、たまに笛のテストとかいって、男女一人ずつが先生の前で課題曲を吹いて採点されるみたいな、ある意味拷問のような時間があったけど、これまじで意味ないと思ってたくらいだった。
そんな俺がまた楽器に真剣に向き合って作曲なんて出来るのかっていう不安の方がでかかったけど、とにかく自分のビートが作りたかった。
教えてくれる人なんて周りにいなかったし、必死で説明書を解読するんだけど、説明書に書いてある用語すらなんのことだか全くわからない状態なのだから、挫折することの方が簡単なくらいだ。
今でこそネットで検索すればわからない分野の説明が簡単に見つかるし、ましてや動画で解説なんていう超分かり易いチュートリアルまであるわけだけど、当時の俺は、その"オモチャ"をまず手当たり次第に遊んで理解していく方が早かった。
子供が一つのおもちゃを与えられて、その使い方を最終的に自分で極めるのと同じような感覚でいじり倒してた。
逆方向から遠回りにはなるけど、自分で使い方がわかってしまうようになれば、今度は説明書の中のあの意味のわからない用語の意味がわかる、あ、それをこう呼ぶのね、的な。
そんなアナログな方法ではあっても覚えてしまえばこっちのもので、
そっからのその"オモチャ"は自分にとって何でも形にしてくれる最高な遊び道具になる。
それで自分で完成させた曲たちを持ってスタジオに入り、さらにラップのレコーディングをして曲が完成するわけだから、最高に面白い。CDで聞いてた"あの人たちのあの感じの音" が自分の作ったもので "それ" になって鳴るわけだから、やばいくらいの感動だ。
このアルバムを出せるきっかけになったのも、あの時の彼の無茶振り(#11)があったからというのもあるが、彼はその無茶振りを本当の形へと導いてくれたと思う。
このアルバムは彼がインディペンデントレーベルを立ち上げて、本格的に音楽活動をビジネスという面でも視野に置いて、動いてくれた事が一番でかい。ありがとう。
PHOBIA OF THUGとの念願の共演曲、"Straight Drama" を制作できたのも強烈だったし、あの時(#12) くらったGANXSTA D.Xもインタールードで参加してくれた。
DJ DOPEMANとの"Dream On Play Everyday"もDOPEMANとの始まりだし、
自分で作った曲にB-Ninjha&AK-69を迎えた"MOVE ON"を作ったのがこの時。
(後のMOVE ON REMIXの方がみんな聞いてくれてるかも。
オリジナルが生まれたのはこの時)
色々な人のサポートも膨らんでできた渾身の初アルバムだった。
HIPHOP マジでやばい、面白ぇっ! ってなるに決まってるよね。
このアルバム翌年の2003年始め頃にリリースされて、さらに活動がものすごく濃くなって、また次のフィールドへ瞬く間に物事が展開して行くことになった。
遊びが仕事になって行く始まりだったかもしれない。