Roots of TWO-J #15 "瞬足"
デモCDの効果はすぐに出て、地元の細かなイベントでも毎回ライブさせてもらってた。
同じ頃、仲間たちは徐々にこのムーブメントに加勢し始めて、段々と盛り上がりは地元に浸透して行った。
自分たちの手でイベントを開きたくもなって、
あのライブのしばらく後には、
PHOBIA OF THUGは勿論、横浜のOZROSAURUS他、
地元の若手も参加したイベントを開催して、更にローカルヒップホップ熱は増していった。
月に一度自分たちが定期で開催したイベントもいつも満員で賑わってた。
そんな中、前々から自分が通ってたW.C.C.が主催する名古屋のイベント、GANG STORIESに出演が決定した。PHOBIAのMR.OZからの嬉しいオファーだった。
PHOBIA OF THUGは既にこの当時から多くのライブツアーで各地に出向いてて、その後もいろいろな場所のライブに俺を一緒に連れてってくれて、PHOBIAのライブ枠に俺が1曲キックするような時間まで毎回与えてくれた。そこではAK-69やUやB-Ninjahといったメンツも一緒に毎回鍛練を重ねた。ここで積ませてもらった経験は明らかにアーティストとしての自覚に繋がって、自分がより真剣に音楽に取り組む姿勢になった。
名古屋においてはヒップホップとハードコアの関係が密接に成り立っている部分があった。カッコイイもの同士がリスペクトにより繋がるのは勿論だし、当然052というフッドがそのまま反映されたリアルなものに違い無かった。
POUNDというユニットがある、
ハードコアバンドのMENACE OF ASSASSINZと
ヒップホップサイドからはPHOBIA OF THUG とM.O.S.A.D.が融合したユニットだ。
発売は2000年、
052スタイルを語る上でここも切り捨てる事は出来ない。パウンドも間違い無くアンダーグラウンドシーンで全国的に衝撃を与えたグループだ。この大所帯によるマイクリレーがまたカッコイイ。
PHOBIA OF THUGの名曲 "click da trigger" のREMIXではfeat.にM.O.S.A.D.のEQUAL。
EQUALのヴァースがまた強烈にカッコイイ。
この後発売になるPOUNDのコンピレーションアルバムには別のバージョンが収録される事になる。
ハードコアバンドCALUSARIとPHOBIA OF THUGによる" click da trigger" remix。ここでのfeat.に彼らは俺を抜擢した。 最高に光栄だった。
出来栄えはアルバムを聴いてもらえば分かる。
個人的意見だが、052エリアの音楽シーンが好きならば、POUNDの音源は絶対に確保しておくべきモノだ。
ここからまた一気にに" II-J " は加速する。
現在オンライン上でTWO-Jの作品を検索して、
"ファーストアルバム" と記されているあのアルバムは正確にはファーストアルバムではない。
この時2002年に俺は事実上のファーストアルバムを制作し完成させる事になる。リリースはこのPOUNDのアルバムと同じく年をまたいだ2003年だか、2002年の時点で既にあの日夢見たプロスタジオでの制作を終えていた。
初ライブから嘘みたいな速さで事が進みまくった。
ここで手にしたワンドリームが
" II-J " のファーストアルバム
"Play On The Street" だ。
少々CDレビューにライターさんが書いてそうな文に似た感じがあるかもしれないが、それよりはリアルだろう。
だって俺は当事者、本人なんだから。
Roots of TWO-J #14 "パンスト"
"快心の一撃" 的な初ライブをすることができた後、
自分のラップが想像以上にウケがよかった事を自分なりに実感していた。
当然、酷評もあったに決まってるけど、
自分に届く声はリアルな賛賞の方が多かった。
届く声はね。それだけでも十分ありがたい話だ。
こうなると俄然やる気が前へ前へと進むもので、
次なる動きに取り掛かった。
この曲たちを、レコーディングしてデモテープを作りたかった。
といってもまだ"ド"のつく様な素人だし、レコーディングスタジオを使う様なレベルや知識もない。
といってもこの2001年頃であれば、容易にデジタルレコーディングを行えるプロスタジオなど各地にいくらでも存在していたのだが。
けど、自分の地元には無いし、プロじゃ無いし。
今でこそ極端に言えば、パソコンひとつでレコーディングなど完結出来てしまう時代だが。
当時自分の友人に少し年下のDJ がいた。
彼は地元で昔からDJを真剣にやってたやつで、スキル面やHIPHOPの話などの面でも高度なレベルで対話できた数少ない友人だった。
この男は後の未来に New Trick Battle 2014,2015,そしてSJCの初代といった、
スクラッチの日本一を選出するDJ大会で 3つチャンピオンに輝くことになる男。
後のDJ TOYODA-STYLEだ。
(以下豊田と呼ばせてもらう。)
当時、豊田に相談した、
"レコーディングしたいんだけど、出来る?”
豊田 " う〜ん、一応出来ますよ。僕もラップは録った事ないけど、やってみましょう"
そして豊田の家でレコーディングする事になる。
当時豊田はMTRという機材を使い、自分のDJ MIX等を録音してデータ化していた。
MTR
今、MTRを使ってる人はほぼいないに等しいとは思うが、当時のDJやビートメイカーが録音を行うための必需品だったのがこれだ。
これを使えば、ミステイクを何回でも取り直せるのは勿論、録音したもの
の上からさらに他の録音を重ねて収録も出来るし、一度録った素材を使って切り貼りもでき、録音素材にいろいろなエフェクト効果をつける等の作業もこれ一台で完結出来た。
まあ、今となればそれが当たり前かつ数秒でできてしまうのがPCにおける制作環境だが。w
さて、ここから豊田とのレコーデイングが始まるわけだけど、取り敢えずマイクに向かい歌うわけだけど、ここからが面白い。
レコーディングの風景として、マイクの前に歌い手が立ち、ボーカルを録音するわけだが、その時に、マイクとボーカルの口の間にメッシュ状の丸いものがあるのを見た事がないだろうか?(写真1)
これは、ポップガードと呼ばれるアイテムで、用途としては、声をレコーディングする時に、言葉の破裂音(バッとかブッとか)で生じる(ポップノイズ)風というか空気音を録音しないために取り付けるもの。
といっても声など基本録音する事のない豊田の家にいきなりこれがあるわけもない。
けど、こだわりばかり先行型の俺には、このポップガードは今回レコーディングするにおいて絶対必要なアイテムなわけで。
こんな言葉がある。
"無い物は作れば良い"
このポップガード、メッシュ部分がきめ細かな布製で出来ている。(金属製もあるが)
フレームは鉄とかプラスチックで、長いアーム部分は曲がって可動する言わば太い針金だ。
"作っちゃおうよ"
豊田 "どうやって作ります?”
"ハンガーとストッキング無い?”
我ながらナイスアイデアだ。
豊田 "いやハンガーはありますけど、ストッキングも、まあ、あるといえば、あると思いますけど"
そして早速、細い鉄製のハンガーを加工して(といっても切っただけだが)
ポップガードのフレームが完成、それにストッキングを被せてお手製ポップガードが完成した。
ここで一番気になるのは ストッキングの入手元である。
ストッキングなんて男の俺が持ってるわけないし、(持ってたとしたら中々の変態だ)
大体あれは、人に被せて引っ張って遊ぶものというのが定番のアイテムなんだから,
そんな事を普段からする為に持ち歩いてる奴もいない。
思い出しながら書いてるけど、どうしても自分がそのためにストッキングをコンビニへ買いに行った記憶が無い。
いや、確か豊田ん家で入手した気が、、、
真相は豊田に確かめて本編で明らかになるとして。
いや、豊田のお母さんか、姉ちゃんのを勝手に、、、、、、やめよう。
そんなわけで無事オリジナルポップガードも装着されて、
レコーディングを行った。
豊田は機材の扱いに慣れていて、すぐに工程を理解して、さらにアイデアもくれて、
どんどんレコーディングが進んだ。
一度録ったメインボーカルの上に重ねてダブルを録音して行く、勿論声の厚みを増すためのものでもあるが、部分的に施す事によって、単語にインパクトが加わる。
これをプレイバックして聞いたときにとても感動したのを覚えている。
その日のうちに5曲ほど一気に録った。
そのデータを後に例の服屋オーナーの先輩がCD-Rにコピーして、ジャケットもデザインしてくれて、数量限定でデモテープ(CD)が完成した。
当時の素人製作版だからクオリティは知れてるが、自分たちとしては満足いくデモテープだった。今この音源は自分の手元には無いが、もしかしたら、地元の誰かが持っててくれてると思う。一度探してみよう。聞くのは怖いが。。
で、このCDはあっという間に広まって、ここから何かが切り替わった。
ものすごく沢山ライブをしたし、周りに人が集まって来はじめたのもこの頃だ。
怖いくらい早いスピードで、自分の活動が加速して行った。2001年だ。
Roots of TWO-J #13 "メリーゴーランド"
ターゲットに絞った後輩に、
"サイドマイクとして一緒にライブやって欲しい" っていう話をして、
承諾してもらうのに案外時間はかからなかった。
むしろとてもやる気になってくれてた。
ここでは名前を"E" としよう。
Eは俺より二つ年下で、地元も一緒で、やつが17歳位の時からの仲間だ。
Eは高校生の頃から俺の先輩たちのライブに通って来ていたなかなかのツワモノである。
"お前マジで高校生?" なんて皆から言われて、可愛がられていた。
ここでも口の悪い俺は一応、一言付け加えさせてもらうが、
決してイケメンでもなく可愛くもない。
何てったってあだ名は"ゲス"だからね。
むしろあだ名じゃないんだから。
けどその時代からストリートムーヴメントに参戦してくる様なやつなんだから、
やっぱ特別なやつなんだ。とにかく最高に面白いやつだ。
で、当時Eはハードコアのバンドでボーカルもやってて、早い時期からライブもこなしてたし、デモテープなんかもリリースしてた。俺よりライブは得意だったんだ。
普段の遊びから、良くない遊びまで一緒にしてた分、気心の知れたやつだったし、俺にとって心強い味方だった。
確か俺が書いたリリックを見せながら、空のテンポでアカペラのラップして、Eに被せて貰いたい部分にはマーキングしてあった。それを見ながら、何度も繰り返し練習して、1曲ずつ完璧に覚えてくれたのだから、やっぱあいつは中々のやつだ。見本になる様な練習用の録音テープなんかも確か無かった様な気がする。何度か、自分たちで合わせて練習しただけだった気がする。今思えば原始的にも程がある。
"驚いた時の形容詞"が名前でおなじみのハンバーグレストランの片隅で、
むさ苦しい男二人が向き合って、真剣にノートを見ながらブツブツと念仏の様に何か喋ってるわけだから、側から見た人たちは怖かっただろうな。
おまけに俺のテーブルには 当時好物だった、遊園地によくある馬に乗って回転する様なアトラクションの名前が付いた女子が食べそうなパフェが置いてあるんだから、見方によってはギャグ漫画だ。それで真剣にブツブツ何か言ってるんだから、どう見てみも危ないよ。
それでもとにかく真剣に真剣に取り組んで、ライブに臨んだ。
そしていよいよ当日を迎える事になる。
2001年、何月だったかは今は覚えてない。
(ちゃんと調べて本編には書きますね。)
俺のバイト先の服屋のオーナーは、ここぞとばかりに、俺たちに上から下まで新品の衣装をプレゼントしてくれた。最高だった。ホワイトゴールドのチェーンもそのままくれてたらもっと良かったが。w
Eもコーンロウを編み込んでパリッと別人の様にキメてた。
出番前、狭い控え室で俺とEはウロウロとしていた。
ふとEの顔を見ると何というか、完全にスイッチの切り替わった真剣なモードの表情をしていた。気合いが表情から溢れていた。
二人とも意外と無口で。
俺が無口だったのは完全に緊張と動揺から来てたモノだが。。
何しろ当日、会場は満員も満員で、多分300〜400人くらいの客入りはあったと思う。
そりゃ当然、PHOBIAやM.O.S.A.D.といったビッグゲストが登場するわけだし、会場の熱気はやばかった。
けど、今これを書きながら思い出してるけど、途中から俺は緊張なんてとっくにしてなかった。多分それを通り過ぎて、勝負にかける気合いみたいなものにいつの間にか包まれまくってた。
そこまで来ると、"ヨッシャッ!やったるぜ" 的なモードしかないんだ。
いよいよその時が来た。
ステージ脇で俺たちのイントロが鳴って、階段を駆け上がり、ステージへ出て行った、
目の前は間近では見た事ないほどの数の人の顔で埋まってた。前から後ろまでビッシリ。
そこまでは覚えてる。
ライブの最中の自分のことなど、今一切覚えてない。
想像以上に物凄い大歓声を浴びた高揚感だけは微かに覚えてる。
自分が持ってる力以上の力が幸運にも出せた。
ライブ後にEと歓喜したのは覚えてる。
嬉しかった。
あれは俺とEにしかわからないスペシャルな感覚だったと思う。
その後もゲスト陣の登場でそのイベントは終始大盛況で幕を閉じた。
後日ライブの映像を確認した。
正直見るのは少し怖かったけど、観たかった。
いつかこのビデオも公開したいと思ってる。
自分の初ライブを観たその時の自分の感想は、
"クソカッコ良かった。"
以上。
あの時の " II-Jay " は ヤバかった。


