
Roots of TWO-J #24 "THUMP RECORDS"
ここからまだしばらくは、この2003年辺りのLAでの自分のファーストコンタクトの話がしばらく続く。それくらい自分にとってこの後にも先にもインパクトを受ける音楽は今の所無いのであって。少々マニアックな話にはなるけど、お付き合いいただければありがたいです。
後日SLOW PAINとの話で俺はTHUMP RECORDSのスタジオへと足を運んだ。
ここでまた3人の人物と新たな出会いがあった。
THUMP RECORDSは比較的オールドスクールな曲を収録したローライダー向けのコンピレーションアルバムなどで多くのヒットを飛ばしてたレーベル、自分の認識ではそんな感じで、チカーノ系のアーティストが多く居たと思う。自分がウエストコーストのHIPHOPにハマりだしたガキの頃にも日本でCDをよく目にしていた。
そんなTHUMP RECORDSのスタジオでプロデュースワークをしてたのがDJ TONY-Gだった。TONY-Gは古くから活躍するDJであり音楽プロデューサーだ。チカーノ系のアーティストの中でレジェンド的な存在だった。
TONY-G
更にそこに"スッ"と現れたのが、スキンヘッドで大柄の男、
見た瞬間に "あっ!" と思った。
現れたのはPHYCHO REALMの Sick Jackenだった。
Sick Jacken
PHYCHO REALMはCYPRESS HILLのB-REALらとも活動していた人気グループだ。
Sick Jackenは見た瞬間にわかるルックスだったし、存在感のオーラが半端なかった。
やはり彼も日本から来た自分を親切に迎え入れてくれた。
SLOW PAINと一緒に現れたのがもう一人の男、SNIPER だった。
SNIPERは比較的無口で、静かながらドシッとクールに構えていた。
SNIPER (中央) 右奥はSLOW PAIN
ここでSLOWとTONYがまたもやビートを鳴らし始める。
TONYは、"せっかくだからレコーディングしよう"
と、再びこういう感じで突然に制作がスタートする。
LAに来て初っ端から自分にとっての大スターたちとのレコーディングを体験してる自分は,
もう怯むことなど無いわけで、"ヨッシャ!" やりましょう! と思うわけで。
SLOWとSNIPERと俺で1曲作ることになった。
"LA to JAPAN, Southside to JAPAN、みたいな内容で書こう"
という事になり、再び俺はスタジオで曲を書く事になった。
大きなガラスの2重サッシの奥のボーカルブースで、
思いっきりラップをレコーディングした。
レコーディングの最中、TONYはいろいろなアドバイスを投げてくれた。
"今のところは、もっと強く歌え" とか、
"その日本語どういう意味だ?ならそこはこういう風に歌え"とか
やってみるうちに自分のラップがどんどん"ソレ"らしくなって行った。
あれはやっぱり本場のプロデューサーマジックなんだと思う。
すごい体験だった。
ボーカルブースから皆がいるコントロールルームをみると、
俺のラップにみんながノッてる姿が見えた。
最高だった。あの景色も今でも忘れてない。
その中の面白いエピソードとして、TONYのビートを聞いてるとき、なんかどこかで聞いたような音色がある事がずっと気になってて、あ、これ救急車のサイレンぽい音だよなー、と思ったが、LAと日本では救急車のサイレン音は当然違うし、いわゆる"ピーポーピーポー" という並びで聞こえてる訳ではなく、部分的に聞こえただけだし、そんなわけないかと思いつつも、TONYに、
"なんか日本の救急車のサイレンみたいな音がある” と伝えると
TONYは少し驚いて、
"お前よく分かったな、日本のサイレンを逆回転させてサンプリングして使ってるんだ"
と言った。
”うそっ、マジで w "と思ったけど、やっぱそうかというそれに気がついた自分の嬉しさでよりテンションが上がったのを覚えてる。
こうして俺はあのTHUMP RECORDSでのレコーディングを体験した。
この時の音源は未発表のままで残っている。
いつかTONYに相談して、リリースしたい。
SLOW PAINとの思い出でもあるから。
https://www.namm.org/library/oral-history/dj-tony-g
https://ja.kcugenii.com/wiki/Psycho_Realm
Roots of TWO-J #23 "焼きバナナ "
2003.
ここでのLAの旅は自分にとって刺激が多過ぎるくらい、たっぷりといろんな経験の旅になる。始まったばかりでFOESUMとのレコーディングを終えた。
また次なる経験として、菊池氏からの"神の声"が降り注ぐ。
(菊) "ベガスでSLOW PAINがイベントやるけど、遊び行く?”
"SLOW PAINっすか!? 行きますっ!"
とまあ、こう言う感じで俺にとって最高な"ボム"を菊池さんは次々落としてくれるのだ。
SLOW PAIN(スローペイン)はチカーノラッパーで結構前からCD聞いていた。
そのライブを生で見れるなんて楽しみすぎる。
みんなでベガスに向かった。
本来カジノとして使われてる建物が当日のライブ会場だった。
1000人くらいの客は集まってたと思う。
菊池さんはローライダーは勿論だが、チカーノのアーティストたちの撮影もしていて、しっかりと互いのリスペクトを持っていた為、知人がとても多く、この日も彼らの招待によって自分たちは2階のVIPでライブを観覧させてもらった。
自分がガキの頃から憧れた本場LAのラッパー達のライブを生で見れる。
最高だった。VIPで アーティストのWEETOを紹介してもらった。
WEETOはシンガーでスキンヘッドにローク(サングラス)をかけていかにも"ギャングスタ"なルックスだった。けど日本から来た俺に、
"ラップやってるんだって?俺はシンガーだ、今日は楽しんでってくれよ"
なんてとても優しく迎え入れてくれたのが嬉しくて、今でもその場面をはっきり覚えている。
ライブはといえばそりゃすごくカッコよかった、オーディエンスの楽しみ方も日本とは違う盛り上がり方だった。各々が素直にライブを楽しんでる様子だった。
だがここで大きな衝撃を体験した。
ライブが終演して盛り上がりの余韻を残したまま、会場の照明も明るくなり、観客が少しずつ掃けていくと言う最中に"その事件"が起こる。
俺は突然誰かに床に引っ張り倒された。
倒れた先で体を抑えられて更にに伏せさせられた。
横にはさっきのWEETOがいて彼も床にぴったりと伏せていた。
どうやら俺を引っ張り倒したのはWEETOだ。
何が起こってるのかこの時点では分からない。
周りもみんな床に伏せていた。
ん???は??
としか思わなかったが、
何が起こったかといえば、会場内で銃が発砲されたのだ。
そういえばWEETOが俺を引っ張り倒す前に変な音がしたな。
それが発砲音だった。
"タン、タン” みたいな渇いた短い音だった。
ドラマで見るそれとは全く違う音だ。
発砲音など聞いた事のない俺が瞬時にそれを判断して素早く伏せるなど身についているわけがない。
WEETOに助けられた。
メインフロアを2階から覗くと、全員が伏せてた、後にすぐみんな慌てて会場を出て行こうとしていた。
WEETOは超真剣な顔で "you all right !?"と心配してくれた。
すぐに警察が大勢会場に入って来た。
いろいろ聞かれたら面倒だからと
その後、自分たちは裏口から会場を後にした。
菊池さんはSLOWと連絡を取ろうと電話したが、その時は電話に出なかった。
少し不安なまま俺らはホテルへと戻った。
あとでわかった事だけど、ショーが終わり少しして、若いギャングが何かを名乗り、発砲したらしい。推測するなら自分のギャング団のネーム、か敵対相手への言葉を放っての発砲だったんだと思う。
当然だが入場時にはにセキュリティーチェックがあるので、銃等会場内には持ち込めない、ショーが終わり一度退場してから銃を持って戻ったんだと思う。
翌日SLOW PAINが菊池さんに連絡して来た。
"せっかくショーに来てくれたのに危ない思いさせて悪かった"
"II-Jにも伝えといてくれ。落ち着いたら連絡するから飯でも行こう"
との内容だった。
後日SLOW PAINとランチに行った。
彼は娘も一緒に連れて来てた。まだ小さかった、2歳とかだった。
メキシカンフードをご馳走すると言ってくれていろんな料理を説明しながら振舞ってくれた。
"焼きバナナ食ったことあるか?"
と言って焼きバナナをめっちゃ勧めてくれた。
初めて焼いたバナナを食べた感想は、今だに表現が難しい。w
SLOWはショーでの出来事にとてもへこんでいたし、なんども"嫌な思いさせて悪かった"と言ってくれた。
"いつまでLAに居るんだ?タイミングが合えばスタジオに遊びに来い"
と誘ってくれた。
(その後THUMP RECORDSのスタジオにお邪魔してここでも突然のレコーディングが始まる事になる。これは本編で。)
いろんな体験をさせてもらった。
そんなSLOW PAINは今は居ない。
昨年2020年に亡くなってしまった。
できればもう一度会って、曲を一緒に作りたかった。
SLOWとの思い出は忘れる事はない。俺にとって宝物だ。
次にLAに言った時は、もう一度、焼きバナナを食べてみるよ。
いろいろありがとう、SLOW.
Rest In Peace .
Roots of TWO-J #22 "big or small "
その強烈なインパクトを受けながら始まったレコーディングは、夢中な内に時間が経ち、
遂に憧れだったアーティストとの曲は完成した。
出来上がったばかりの曲をスタジオでみんなで何度もリピートして聴いた。
皆各々のパートを満足げに聴いていたし、それを見た自分はもっと満足するに決まっている。
こうして、FOESUMとの "In The City "は完成した。
俺のラップは今聞くと大分乏しい点が多いけど、当時のリアルが録音されたという見方であれば、この時代、まだ他に日本人で海外のアーティストとのコラボをやってる人なんて全くといって良いほど居なかったのだからすごい事だったと思う。
レコーディング後にみんなで飯を食いに行った時のエピソードがある。
それぞれみんなデカめのプレート料理をオーダーしてて、いろいろ美味そうな料理が沢山並んだ。自分は当時、チキンフライドステーキなるメニューにハマってて、お決まりな感じで結構それを食ってた。
標準の量でもそこはやはりアメリカ。日本でいう大盛りに近い量だ。
こんなの毎日食ってたら。明らかに多い。
けど、T-DUBBは俺に
" II-J,そんだけしか食わないの?"と言ってきた。
俺的には"そんだけ"と言うより"こんなに" な量だが。
"だからお前、体小さいんだよ、もっとデカクならなきゃ。"
えっまじで?
俺の身長は180センチ、当時の体重は90キロくらいはあったと思う。
日本では十分デカイし、なんならデブなくらいだが。
DUBBの考えが普通なら、そりゃアメリカ人はデカイ人が多いわけだと納得できる。
なるほどね。いろいろデカイね、アメリカは、なんて思って面白かった。
いい部分や面白い部分を沢山体験したけど、当然そればかりなはずは無い。
ここで詳しくは書かないけど、
俺は初めて銃を見ることになる。
名前は忘れたけど、45口径の銃だった。
なぜ持ってる?との訪ねにその人物は、
最近ちょっとしたトラブルがあって、その後一度襲撃されて、またいつそうなるか分からないから、護身として持ってる。
との話。
銃社会ではない日本でこの話をすぐに理解する感覚はなかなか難しいが、
アメリカにはこれがあることを忘れてはいけない。
この初めてのLA滞在中の中だけでも、他で2回ほど銃の怖さ、アメリカの怖さを間近で知るような出来事を体験する。
まだまだ続くミラクル的な話の中でそれは登場するとして。







