
Roots of TWO-J #27 "B dash"
2005年位からの話。
II-J GROOVINのアルバムリリースで一気に幅が広がった。
ライブの本数は全国へと広がりながら増えていったし、
自分の音楽スタイルを気に入ってくれてファンになってくれる人々がとても多くなった。
こうなって来ると更に輪をかけて音楽の活動はし易くなるし、次から次へと曲をリリースして、更にリスナーを喜ばせるような企画も生まれて来る。
一気にII-Jの名前と音楽は認知された。
その反面、嫌な事やトラブルだって生じ易くなるのだが、これはやってる本人や関係者にしか解らない体験とも言える。
そちらの話はここでは控えさせてもらうとして。
2ヶ月連続リリースのマキシシングルだとか、他アーティストのアルバムでの客演、
とにかくフルに音楽をした。どんどん形になっていった。
ライブが一番多かったけど、どこへいっても盛り上がりは大きく、楽しかった。
周りや、自分たちの仕掛けるイベントもどんどん増えたし、規模も拡大していって、
HIPHOPで生きてるなーという世界観でフルに満たされ始めていた。
周りに集まる人間も多くなるし、自分の周りにはクルー的な仲間が沢山いた。
みんな色々夢もあって、やりたいことにチャレンジした時期なのかもしれない。
勢いもあったしまだどんどん話も進んで大きくなって行く。
これが幸せでなければ、俺は他をあまり知らないかもしれないというくらい、楽しかった。
ここまでだと良いことばかりに聞こえるが、
たまに、ふとどこかで、これ、いつまで続くのかな、とか、
そういう考えがよぎったりする時もあった。
スーパーマリオブラザーズでスターをゲットすると、
一定時間は無敵状態になって、なんの邪魔もなく進行できるが、
時間がくればその状態は終わる。
そんな感覚をどこかで持っていたかもしれない。
けど、
そんなことどうでも良いくらい"忙しく楽しんでいた。"
そしてそんな心配など消えて無くなるくらい、
結果俺はまだこの時スターをゲットしたばかりだった。
そんな時は迷わず、" B+ダッシュ "なのだ。
Roots of TWO-J #26 "II-J GROOVIN"
何年も憧れたLAで、色んなものに更に触発されて、
たっぷりと余韻を持ったまま日本へ戻った。
2004年、
戻ってからの毎日は、フルスピードでビートを作り詩を書く。そんな時間だった。
何か一皮向けたというか、完全に今までには無かったバイタリティが溢れ出ていた。
アイデアも山ほどあったし、作る音のクオリティも断然に高まったことが、自分でも確認できるほどだった。
こうなると、あとは好きに音楽を作りまくるだけであって、いい音もあんまりな音も、とにかくバンバン出来上がる。
ある日作業場でもあるワンルームマンションから近くのコンビニへ何気無く歩いて向かった。歩きながら鼻歌的に曲の進行メロディを頭ん中で思い浮かべて、口笛吹きながら歩いた。
コンビニで買い物して帰り道も、無意識にそのメロディを鳴らしながら部屋に戻り、
何気無くそれを演奏してビート化した。
"なんか気持ちいじゃん"なんて思いながら出来た音が、
2005年に発売になるアルバムのタイトル曲
" II-J GROOVIN' "だ。
ただ、この時はこの曲がアルバムでの推しの曲になるなんて思わなかったし、
自分ではなんかPOPだけど、気持ち良いな 程度の出来栄えだった。
後にSWING STUDIOで岡本氏 (#18) とこのアルバムの制作をした。
岡本さんのアレンジも多数加わる事によって更に曲はブラッシュアップされていった。
参加アーティストも豪華なメンツをfeat.して"良いもの"を目指して追いかけた。
そして、全18曲入りのフルアルバム "II-J GROOVIN'" を完成させることができた。
これまでであって共鳴したり敬意を払えたりするアーティスト達が多く参加してくれて、
一つの自分のHIPHOPスタイルを定義できたアルバムになった。
このアルバムで一気に知名度が上がってくれた気がする。
更にここから自分のスタイルを大いに曲として発表していける時代を過ごす事が出来るようになって行く。
これは2004年のアルバムだが、
2021現在、最近になって、ものすごく今をブレイクしているHIPHOPアーティストたちが多く、自分でもかっこいいなあと思う人たちに会う機会があると、挨拶がてら喋ったりすることがあるけど、彼らが "II-Jさんのアルバム聞いてました!" なんて言ってくれたりして、
驚くと同時に、ムッチャ嬉しかったりする。自分などより遥かに人気のある有名な子達だ。
HIPHOPは繋がってる。伝わって行ってる、そこに少しでも加担できていると思えば、自分のことを再認識してまたパワーがもらえるものだ。
まさかコンビニへ行く途中の口笛からこんなに多くの人に聞いてもらえる曲が生まれるなんて思いもしないわけだから、音楽はマジで面白い。
続く
Roots of TWO-J #25 "JAPCICANZ"
ロサンゼルスに来て以来、本場のLAのHIPHOPに一気に触れることが出来た、
これは正に菊池氏はじめ郷農氏のおかげであって、日本に居たら誰も得ることが出来ない経験を、俺は次から次へと体験した。どれだけウエストコーストのHIPHOPが好きで散々聴きまくったところで、本場でのそれに触れていなかったら、きっと面白味は半減どころか、もっと少ないままだったと思う。"百聞は一見にしかず"とはこの事だ。
かといってただLAに行っただけでは俺がさせてもらったような経験はまず出来ないだろう。これはやっぱり、対人間の"リスペクト"という概念が繋ぐ大事なフィールドであって、そこに受け入れられた事により、自分も学べて身に付くし、そこに俺はHIPHOPというものを感じている。HIPHOPというのは一般的に多くの人が思う音楽というだけのジャンルの名称なんかでは無いのだ。
この後訪れるFROSTとの出会いは更に自分を音楽やスタイルを成長させてくれた。
KID FROST
ローライダー界や、LA HIPHOP,チカーノラップ界で知らない人はまずいないであろうレジェンド的人物、KID FROSTだ。カリフォルニア・ロサンゼルス生まれのチカーノ・ラッパーで1988年発表のシングル "LA RAZA"は代表的なヒット曲だし、映画アメリカンミーのエンディングを飾る曲 "No Sunshine"も撃シブな1曲。ローライダーに人気なのは"East Side Rendezvous"だろう。ちなみに"East Side Rendezvous"のMVでのインパラの走行シーンで、FROSTを乗せて運転してるのは菊池さんである。この曲が収録されているアルバム"East Side Story"のカバーアートは、世界的にも有名なタトゥーアーティスト、Mr. Cartoon(ミスターカートゥーン)が手がけた事でも有名だ。
そんなFROSTの家に遊びに行った事があった。
と簡単にいうが、すごい事だ。
FROSTのキャデラックの調子が悪いとの事で、郷農さんに見てくれとの話があって向かった。
FROSTもまた親切に迎え入れてくれた。
スタジオでもなく家ってのがメチャ刺激だったし、リアルなプライベートなのだから凄い。
その時FROSTはしきりに
"これかっこいいだろう"と
日本刀の短刀を見せてくれた。
実際本当に切れる刃物だったし、それをすごく気に入ってた。
FROSTとはこの数年後に一緒に曲をやる事になる。
FROSTの息子 SCOOPと初めて出会ったのもこの時だ。
彼が "SCOOP DEVILLE" (スクープデビル)。SCOOPは当時14か15歳位だった。
この時からSCOOPはDJもしていたしビートメイクをしていた、RAPだって勿論する、
何しろ彼の父親はFROSTなんだから、サラブレッドのDNAの持ち主だ。
SCOOPはこの時 JAPCICANZ (ジャプシカンズ)なるタイトルでアルバムをプロデュースしようというアイデアを出していた。ジャプシカンはジャパニーズ×メキシカンをもじった造語だ。菊池さんのLAでのライフスタイルや活動をアメリカの新聞が取り上げ "JAPCICAN"という記事を書いたところにも由来がある。
そこでもやはり俺とSCOOPで曲を作ろうとなる訳で。
自分が初めて訪れたLAで、ものすごい人々とレコーディングばかりしていたなんて、今考えても半端ない話だ。やっぱり前にもいった"宝くじ運"的なものは自分の場合すでにここで全て発揮されているのだと思う。
SCOOPは大量のビートを俺に聞かせてくれて、俺はその中から2曲を選んで、SCOOPの部屋でラップをレコーディングした。
いい感じに出来て面白かった。
俺とSCOOPが曲作りしている間、キッチンにもリアルな光景があった。
登場するのが少し遅くなってしまったが、この時一緒にLAに行ってた人がいる、自分よりひとつ年上のBOY'S AUTO CUSTOMの鷲野 氏だ。後に自分の曲"BOYZ N DA HOOD "のMV撮影でもお世話になる先輩だ。以下ワッシー君と呼ばせてもらう。
ワッシー君はこの時、タトゥーを入れたいと言ってて、ちょうどFROSTの家でFROSTが友人のタトゥーアーティストにタトゥーを彫ってもらってた。
その光景もLAのMVや映画に登場するようなワンシーンのようだったし、リアルだった。普通には中々体験しない事だ。その後そのタトウーアーティストに頼んでワッシー君もでかくタトゥーを彫ってもらってた。線がすごく細かくてカッコよかった。
そんな風にFROSTの家でみんなで過ごした時間も頭の中に映像が焼き付
ついている。
SCOOPは帰り際に
"II-J、これにたくさんビート入れといたから日本で使ってよ"
といってCD-Rをくれた。
"マジで?ありがとう!"
そのCD-RにはSCOOPの作ったループが50数曲入ってた。
かなりセンスのいいサンプリングループがたくさんあってかなり嬉しかった。
この記事を読んでくれてる人で今初めて知る人もいるかも知れないが、
そのSCOOPは今や世界的大ヒット曲を飛ばすプロデューサーだ。
彼が作った曲は、 SNOOP DOGG(スヌープドッグ)の "I Wanna Rock"や FAT JOE(ファットジョー)の"(HaHa)Slow Down"もそうだし、Kendric Lamor(ケンドリックラマー)の. "Poetic Justice"で彼の名前を知った人は多いかもしれない。Busta Rhymes(バスタライムス)がEminem(エミネム)をfeatした"Calm Down"もヤバすぎるし、他にもたくさんのビッグアーティストとビッグヒットを飛ばしてる。
あの時一緒に部屋でレコーディングしてたSCOOPは、今やグラミーにまでノミネートされるプロデューサーにまでなったのだから凄すぎる。天才なのだ。俺にとってもとても誇らしげな事だ。
この何年もあとに菊池さんとLAのモールでランチしてた時にもそうだし、SCOOPがプロデュースしたケンドリックラマーのPoetic JusticeがLAの至る所でも何度もかかってて、SCOOPすげーって思ってすごく嬉しかった。
この2003年あたりの俺は、ロサンゼルスという街で
ここから先の自分の人生を大きく左右するほどの体験をさせてもらった。
この頃から、"本物"たちに色んな事を直で教わる訳だから、
俺がHIPHOPそのものを辞めるはずがないし、
今だってずっとそれに生きている。
自分にとっては当たり前のハナシなのだ。
この後も幾度もロサンゼルスを訪れる事になる。
この時のLAでの体験だけでも、ここで書ききれないほどまだまだ沢山あるが、
一旦ここらで話を
その後の日本での俺の話へ戻そう。






