Roots of TWO-J #6 "短くて長い時"
ローライダーをきっかけに街での交友関係は大幅に広がった。
良くも悪くも、男も女も。
この20歳以降の96年からの3〜4年はたった3〜4年かもしれないが、
自分にとっては長〜い長〜い迷走の時代。
読んでくれてる人はいつになったらラップ始めるの?って思うかもしれないけど、
基本この先しばらくの間、自分がラップなんてやろうと思ったことはな無かった。
今自分でも思うけど、結局何がやりたかったかは明確には分からない。
ただどこかで漠然とLAに行きたいってのだけは消えてはいなかったと思う。
いろんな仕事もした。トラックの運転手とか工場とか建築現場とか他にもいろいろ。
ただ、どれも頑張ったとか、長続きしたとかでは無い。
むしろ仕事などしてない方が多いイメージだ。
仮にもし当時の自分が賢いやつだったとして、
”頑張ってお金貯めてLAに行こう”とかいう想いを実行できるような健全な性格だったとしたら、逆に今の人生は全く違うフィールドにいたかも知れない。
友人たちはどうだったかといえば、結婚するやつもいたし、みんな基本仕事して、あとは普通に遊んでたんだと思う。
すごく仲良くて俺も好きで近くに常にいた2人の仲間はこの頃ヤ○ザになった。
懸念して離れてくようなやつもいたかも知れないが、
俺たちは変わらず遊んだ。
で、結局俺は何やってたの?って話だが、いろいろだ。本当にいろいろ。
一番多く細かく人生の場面が展開した。
だからその"いろいろ" を書けって思うのが当然だろうが、容易には書けないんだ。
記憶や事柄や情景や時系列が曖昧過ぎる。
(この辺は頑張って絞り出して別冊には書こう)
この短くて長〜い3〜4年間の中で、
唯一の "正しい記憶" は
"僕” は薬物に溺れていたという事だ。
Roots of TWO-J #5 "路上がステージ"
1996年、97年辺りの話になる。
無事に?20歳をを超えた頃の俺は、
あの時のDJコンテストの惨敗など当然とうに吹き飛んでいた。
相変わらず、いや、前よりHIPHOPにのめり込みたい欲は増大してた。
好きな服なんかをやたら沢山買ったり、CDも買い漁って、とにかくカッコいいものに触れようとするマインドは、"若いが故の暴飲暴食" ってのがある様に、それにも似た大きな欲求だった。渋く言い過ぎたけど、まあ、単純に遊びに夢中だっただけなのだが。
その頃になると、"例の溜まり場"(#1)のメンバーのうち二人もローライダーを買って乗り回すようになっていた。それ以外にもローライダー乗りの同世代はちょこちょこ増えてて自然に良く遊ぶ仲間は増えていった。
週末になるとローライダーに乗って街へ繰り出した。
田舎といえども駅前はちょっとした繁華街で、その周辺ブロックを周回するように車を流すのがパターン。どこから沸いてくるのか知らないが、土曜の夜ともなると、そのブロックは若者で溢れてて、めちゃめちゃ賑わってた。路肩には両側びっしりと駐停車する車。いわゆるナンパ待ち的な女の子、好奇心で見物がてら来るの女の子たちも多くいた。それを引っ掛けに、女の子の数とは割りに合わないほどの男どもの群れが更にさらに上乗せされるわけだから、ある意味カオス的な要素が出てて、現代でいうマッチングアプリがもっとアナログなまま路上にあるようなものだ。100台近くの車がそのゾーンを徘徊してたと思う。
とにかくすごい雰囲気だった。
そこにローライダーで偉そうに登場する若造が俺たちなわけなのだが。目的は他の男どもとある意味同じだったかも。ww
けど、ただのナンパ目的ならいかにも"普通"だ。
どっちかと言うと溜まり場の仲間と俺は、音楽っていうスタンスから入り込んだだけに、
自分の車で鳴らす曲にもこだわりがあった。必ずその日の"登場曲"があるのだ。
そのブロックに入る直前でその"登場曲"を爆音で鳴らしながら登場する。
その日の気分で自分が一番カッコいいと思う曲を鳴らしながら、ハイドロ(※a)で車高を地面ギリギリまで落とした状態で"ドヤって"登場するのがお決まりで。
※a
ただでさえ馬鹿でかいサイズのアメ車がヘッドライト消してスモール灯だけで超スローに通り過ぎる、おまけに車内どころか路上にまではっきりと聞こえる音量の"登場曲”がシチュエーションとマッチして2倍も3倍もカッコ良くなる。それに反応しようものなら、通り過ぎざまにハイドロのスイッチを打って2度びっくりさせるのだ。
それを初めて見た人はみんな"あの時の俺" (#2)と同じ顔をするから面白い。
かっこつける事は俺たちの得意分野だった。
何にしろ、良い事や超面白い事やトラブルが山ほど起こったのもこの時代。
(かなり事細かなことまで書いた記事は別冊で書こうか考え中)
そしてこのまま数年が過ぎる。
だだ、この間に少々脱線してディープなところに堕ちてしまう期間が訪れることになる。
具体的に次のステップの音楽を始める前に、
大きな沼で少しの間溺れてしまったのだ。
Roots of TWO-J #4 "痛い洗礼"
で結果その、よく分からないDJコンテスト当日を迎えた。
参加するDJは7~8人居ただろうか。
客入りはというと、お前ら普段どこにおんの?っていうくらい多くの客が入ってて、
その小さなDJバーが150人弱の客でパンパンになってるのを初めて見た。
で、いざ本番でどんどんいろんなジャンルのDJが順にプレイして行くわけだけど、
意外とどのジャンルのDJも客の反応はとても良かった。
木こりのTはというと、やはりスキルも格段に上だし、いけてるNewYork HIPHOPを連発して、かなりの盛り上がりを作ってた。
自分の出番は確か真ん中よりちょい後くらいだと思ったけど、
さすがに初めて大勢の客の前でプレイするのもあって、少し緊張してた。
でもかっこいい曲ばかり見繕っていたので、妙な自信はあった。
けど、無名の俺が容易には勝てるはずも無いと思い、ある作戦を立てて臨んだのだ。
簡単にいえば今でいうVJだな。けど、1995年にVDJの機材などあるわけもなく、
どうやってやったかというと、DJブース横には大きなホワイトスクリーンがあって、
そこにプロジェクターでよく店が映像を流してた。当然配線をミキサーに繋いで音も出せるわけで。流すハード自体は何かと言えば、はい、当然VHSのビデオデッキだ。
そこで少年TWO-Jが考えたのは1曲目の登場を映像付きで流して始めようっていう作戦。
当時そこに来てた客はジャンルも様々っていうのもあるし、ましてやLAのギャングスタラップのMVなど見たことも無いだろうという状況だった。
(ここで#1の話で登場する"海賊盤MV集"が役に立ってくるわけで。)
VHSビデオ同士でのMIXはさすがに不可能だったので、2曲目はレコードになるわけだが、MVからレコードのつなぎもしっかりMIXした。
案の定完璧な登場と掴みだった。
けど2曲目に移行してから徐々にフロアの客が減って行った。
えっ、マジで? 何で?みたいな動揺を全身で感じた。
なかなかアナログだけど、手の込んだSHOWを考えて自分の中ではかっこよすぎなくらいだったけど。今思えば、敗因は2曲目以降にプロジェクターが消えた途端、フロアの雰囲気が思いっきり覚めてしまったんだろうな。光の明るさ的にも。きっと。そういう事にしておこう。
どうであれ、あんなに早く終わりたいと思ったほど恥ずかしいDJプレイはあの時だけだ。
そして当然優勝などできるわけもなく、
俺は最下位だった。。。
しかも150人近くの投票で俺への票は
"2票 "
後で知ったが、票の内訳は ローライダーでLA好きな先輩の妹とその友達の2票。
結局優勝したのはメロコアをかけてたDJだった。
まあ、リアルに当時流行ってたのはあるけど。
だいぶ 凹んだのを覚えてる。
閉店後に関係者たちとトークしてたときに、
木こりが笑いながらからかってきた。
"くそっ"と思ったけど、正直木こりの評価などどうでも良かった。
客をロックできなかったのは俺だからねー。。。
ただ唯一、その時コンテスト以外の特別枠で出てた結構年上でスニーカーやアパレルのイケてるショップやってた地元のレジェンド的な先輩に
"カッコよかったよ 、あの曲やこの曲が良かった” なんて色々言ってもらった瞬間に報われたというか、俺の中ではその人に言われたなら、ある意味優勝かそれ以上の価値があった。
わかってる人はわかってるなー的な。嬉しかった。
そっからだね、"もっとかっこいいやばい事やってやろう!" と思ったのは。
ちなみにその時名乗ってたDJネームは "AKG"だった。w