前回の【平将門魔法陣をみる】の続編です。

 

外二十所

魔法陣の構成要因から外れてはいるものの、将門とゆかりのある寺社、討伐側とゆかりがある神社をリストアップ。リストは23区内の東側から都心、南側の順です。

は将門とゆかりがあると云われる寺社、は討伐側とゆかりの寺社、は直接的な関係無し又は言い伝えのみ」というかたちで表しています。

 

 

 

篠崎浅間神社

【祭神】木花開耶姫尊

【由来】権輿は定かではないものの、承平二年(932)の記録が残る古社である。天慶元年(938)に、平貞盛が関東の平安を願って霧島神社の宮居を立て、これを当社の創建としている。現在この霧島神社は境内社として鎮座、瓊瓊杵尊を奉斎。

 

 

 

亀戸香取神社

【祭神】経津主神 相殿武甕槌神・大己貴命

【由来】天智天皇四年(665)、藤原鎌足公が東国下向の際に、太刀一振を納め香取大神を勧請されて創建した。天慶年間、藤原秀郷が参籠して戦勝を祈願、戦勝後当社に勝矢を奉納した。

 

 

 

大雄山海禅寺

【由来】寛永元年(1624)に湯島妻恋に草創。それ以前は下総国守谷郷(現:茨城県守谷市)にあり、平将門が開基となって創建したと伝わる。将門の没後、荒廃した当寺をこの地に移したと伝わる。

 

 

 

妻恋神社

【祭神】倉稲魂命

【由来】4世紀の日本武尊が東征の折、身を投じて尊の渡海を助けた弟橘媛の死を憐れんだ里民が、二人を祀りそれを当社の創建としている。

【縁起】将門の後裔・小山行重が、将門の孫信太小太郎(平文国)と戦い討ち取られた。その霊が祟るので稲荷を祀ったと伝わる。

末裔の逸話が残るも、将門や討伐側双方とも関係ない。

 

 

 

神田山日輪寺

【由来】延慶二年(1309)に上平川村(現:大手町)を訪れた真教他阿が、将門の祟りによって苦しめられている里人たちのために将門の御魂を供養したところ治まった。以来、天台宗から時宗に改め、地名を取って芝崎道場と称された。徳川氏入国後の天正十八年(1590)以降は、各地を転々とし、明暦の大火(1657)西浅草の地に落ち着き現在に至っている。

【縁起】将門塚が先にあり、これの祟りを鎮めるために日輪寺が草創、そして境内にあった大己貴命を祀る小祠に将門の御魂を合祀、ここに神田神社並びに築土神社の原初の姿が確認できる。神田神社の移転と同じ元和二年(1616)に江戸城拡張工事を理由に、当寺は浅草新町へ移っている。

 

 

 

寿黒船稲荷神社

【祭神】稲荷神

【由来】当社はもと「黒船三社稲荷社」と呼ばれ、天慶三年(940)に、平貞盛が藤原秀郷と協力して将門の本拠を攻めたのち、船上に現れた黒船稲荷大明神を祀ったのがはじまりと伝えられている。

 

 

 

下谷神社

【祭神】大年神・日本武尊

【由来】天平二年(730)、忍岡(現:上野公園)に創建したと伝わる古社で、峡田稲置が建立したとも、行基が伏見稲荷を勧請したとも伝わる。天慶三年(940)に藤原秀郷が参籠し戦勝を祈願したという。

 

 

 

椙森神社

【祭神】五社稲荷大明神(倉稲魂尊・素戔嗚尊・神大市比売・大巳貴大神・四大神)

【由来】創建年代は詳らかではないものの、天慶三年(940)、藤原秀郷が平将門討伐の際に当社に戦勝祈願をし、後に白銀の狐像を奉納したといい、その神像は現存している。室町時代には、太田道灌が山城国稲荷山から五社大神を勧請したという。

 

 

 

築土神社

【祭神】天津彦火邇々杵尊・平将門公・菅原道真公

【由来】将門塚を起源とし、太田道灌の時代に城の北西に移転。北条氏康の時代に田安の台へ移転。徳川家康の時代に牛込に移転。秀忠の時代に御殿山の異名を持つ筑土八幡神社の境内へ移転。先の大戦で焼失し九段へ移転。九段中学校開設のため現在地へと、再三遷座を繰り返している。

【縁起】天慶三年庚子相馬将門誅せられし後、その首級を当国江戸平川の観音堂へ移しこれを斎ひて津久戸明神と称す。文明十年戊戌太田道灌江戸城の鎮守として宮社を造立ありしといへり。「江戸名所図会より」

築土明神は、太田道灌の時代に将門塚辺りから城の北西の田安(北の丸)に移転。その後徳川家康の時代に将門塚周辺から神田明神が城の北東(一ツ橋)に移転している。つまり二人の統治者によって将門は二度遷座していることになる。これが両大明神が同体と言われている由縁だろう。

 

 

 

新橋烏森神社

【祭神】倉稲魂命・天細女命・瓊瓊杵尊

【由来】いつ頃の創建かは詳らかでないものの、朱雀院御宇天慶三年(940)将門征伐の時、藤原秀郷が参拝し勝利を得たと伝わる。その昔樹木生い茂り烏の巣が多い様子から「巣の森稲荷」または「烏の森稲荷」と称すようになったという。

 

 

 

麻布氷川神社

【祭神】素盞鳴命・日本武尊

【由来】清和源氏の初代六孫王経基が、将門の乱平定の折に当地を訪れ当社を創建したという。またその時ここの一本松に衣冠を掛けたと伝わる。太田道灌が武蔵一宮の氷川明神を勧請したとする説有り。

 

 

 

将門霊神祠

【縁起】港区三田には将門の後胤・三田弾正政定が創始した将門神を祀った祠があったが現存せず。

また三田の台(元神明天祖神社の辺りか)と呼ばれたその地は、将門の乱の遠因とされる武蔵国造家・武蔵武芝(むさしのたけしば)の荘が、討伐側のひとり六孫王経基がこの地に出張したという言い伝えがある。

 

 

 

赤城神社

【祭神】磐筒雄命・赤城姫命

【由緒】正安二年(1300)、上野国赤城山麓の豪族・大胡宮内少輔重行が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊を荏原郡牛込郷田島(現:西早稲田)にお祀りして創建。太田道灌が現在地に遷したともいう。

【縁起】将門の首が木の梢に落ち留って血がついた故に赤木の明神という。

江府神社畧記の津久戸社の項にあるのみで、赤城神社の項にこの手の話は見られない。

 

 

 

東山稲荷神社

【祭神】宇迦之御魂大神・大宮能売大神・佐田彦大神

【由来】源経基が延長五年(927)初午の日に京都の稲荷山から勧請したと伝わる。

【縁起】天慶年間には経基の下に稲荷神が現れ、御神託によって先んじて将門に謀反の疑いがあることを知り得たと伝わる。藤森稲荷、東山藤稲荷ともいう。

 

 

 

東新町氷川神社

【祭神】須佐之男命

【由来】創建年代など詳らかではないものの、武蔵国一之宮氷川神社の御分霊と伝わる。

【縁起】将門が深く信仰した太刀佩観音(太刀を身につけた姿)や将門正筆と伝わる金泥の写経、将門の宮殿の瓦で作ったとされる硯が収蔵されている。いずれも築土神社の旧別当成就院の什物だったが、廃寺の際に当社へ伝わっている。また太刀佩観音は将門の御影であるとも、また最初に首を祀ったとされる上平川の観音堂に納められていたとも。

 

 

 

小豆沢地名由来

【祭神】国之常立神他一六柱

【由来】康平年間(1058-1065)、源義家の勧請によって創建と伝わる。

【縁起】将門が東国を平定した際、貢物の小豆を積んだ船が、この辺りの入り江に沈んだので小豆沢の地名になったと伝わる。小豆沢神社そのものは、将門との関連は無い。

 

 

 

稲荷鬼王神社

【祭神】宇賀能御魂命・鬼王権現(天手力男命・大物主命・月夜見命)

【由来】承応二年(1653)創建の稲荷社で、宝暦二年(1752)に熊野より鬼王権現を勧請。天保二年(1831)稲荷と鬼王権現を合祀させ、稲荷鬼王神社となった。

【縁起】平将門を祀り、幼名「外都鬼王」から取って社号としたと伝わる。

創建年が将門の没後700年も後のことで、また祭神にその名が見られない。「鬼王」の名前から作られた逸話だろうか。というか桓武天皇四世の鎮守府将軍平良将が息子に鬼王などと名付けたかも不明。そもそも将門は「小次郎」。

 

 

 

幡ヶ谷不動荘厳寺

【由来】智証大師作と伝わる不動明王の本尊があり、近江国三井寺(現:滋賀県)を創建の時の霊像という。

【縁起】藤原秀郷が将門討伐の折、この霊像を陣中にまで持って信奉したといい、下野国小山郷(現:栃木県小山市)にあったが、武田信玄が七覚山円楽寺(山梨県)に移し、北条氏政が奪取して相州筑井の寺へ移し、徳川家康が多摩郡三光院に移し、そこからまた霊夢ないし武蔵野の開拓の折に荘厳寺へ合併し霊像が遷っている。

 

 

 

千束八幡神社

【祭神】品陀和気之命

【由来】貞観二年(860)、宇佐八幡宮から御分霊を勧請し創建した。源義家がこの池で足を洗ったことから別名足洗池八幡宮とも言い、また頼朝がここで平家討伐の旗を立てたことから旗挙八幡とも言った。

【縁起】将門討伐の折、朝廷より派遣された鎮守府副将軍・藤原忠方の館があった地と伝わる。

神社と藤原忠方の館は関係無さそう。

 

 

 

山王熊野神社

【祭神】伊邪那岐命・速玉男命

【由来】元享年中(1321-1324)、紀州から移った開拓者らによって創建された。

【縁起】将門の乱に際し、この地の熊野五郎という人物が、当社に戦勝祈願をし鎮圧に向かっている。

 

 

 

最後に

江戸の歴代の統治者に平氏が多いため、将門ゆかりの神社が多いのはわかるのだけど、意外と討伐側にまつわる神社も多かった。またそれぞれの神社仏閣の歴史を調べると、魔法陣の一社に加わる神社と、そうでない寺社との間には、由来などからくる確たる線引があったわけでも無さそう。

ただ、何かしらの意図を感じるぐらい、綺麗なレイラインではあるかな。