今回の参詣は、日本橋堀留町の椙森神社(すぎのもりじんじゃ)へ。

江戸時代には、烏森(新橋)、柳森(神田須田町)と並び、江戸三森とのひとつに挙げられるほど、霊験あらたかで大変崇敬を集めた神社である。

 

 

 

 

狛犬と獅子

鳥居をくぐって最初に現れる。

向かって右が子抱きで阿形、左が鞠を抱え吽形。

 

 

 

 

平安時代、藤原秀郷が平将門討伐の際に当社に戦勝祈願をし、後に狐像を奉納した稲荷神社で、室町時代には、太田道灌が山城国稲荷山(伏見稲荷)から五社大神を勧請したという。

 

 

 

 

手水舎

御本社向かって左側にある。

 

 

 

 

天水桶

御神紋の三つ巴が神田明神 のそれに似ている。こちらのは勾玉の形になっていて、尾が長く渦巻きであるのに対し、神田明神のは勾玉のようなふっくらした形ではない。

 

 

 

 

この日は雨だったので水も並々。

 

 

 

 

昭和6年(1931)に鉄筋コンクリートの社殿に建替えられて以来の姿。

 

御由緒1 当社ホームページより

 本社は遠く、一千年の昔、武蔵野の原たりし時代の、創建にして、天慶三年(940)田原藤太秀郷(後の藤原秀郷)平将門を追討せんと、常に信心厚き心から当社に詣で、戦勝を祈願し、下総国(千葉の一部)に至り強敵を亡ぼす、これ偏に神助に依ることと、願望成就の報賽として、常に尊心せる、白銀の狐像を奉納す。(現存す)
 文正元年(1466)の頃、関東一帯、連年旱魃ありて、農民疲弊の時、太田道灌、当社に詣で民の憂いを訴え,ひたすら、雨を乞い祈らば、その霊験あり、大いに喜びて、尊敬のあまり、山城国稲荷山五社大神を、うつして祭祀す。
 以来、毎年四月中の卯の日(現在五月十六日)を祭日と定め、御社大いに栄え、西の方、芝原宿という、鎧の渡しより陸奥に行く駅路ともなりぬ。
 江戸時代には、江戸三森(椙森、柳森、烏森)の一つに数えられ、諸大名の中に崇敬者も多く、松平伊豆の守信綱は、桜樹千株を移植し、松平播磨の守頼隆は、石の鳥居を建立せらる。又,商業の地として栄えた土地がら、晴天十日間の花相撲、更には、富興行等も、数多く行われ、三富の一つにも数えられる程であった。
 特に神道家の吉川惟足(これたり)は信仰厚く、寛文年間(三百有余年前)五社稲荷の一社なる大巳貴大神の御宣託に依り、恵比寿大神を奉斎せられ、今日に至るも年々盛大に、祭典を執行せり。
 たとえ、物換星移(ものかわりほしうつり時世に盛衰あるとも、神徳天地(あめつち)と共に限りなし。
 江戸名所図会等にも掲載されている神社です。

 

御由緒2 江戸名所図会 巻之一天枢之部より

杉森稲荷の社

社記にいふ、この神像は、相馬の将門威を東国に逞しうせし頃、

藤原秀郷朝敵誅伐の計策を廻らし、この御神の加護によつて、

つひに将門を亡ぼしたり。後霊夢を感じ、このところに至り、矯々

たる杉の森ある地に崇め祀る。当社これなり。

寛正の頃、東国おほいに旱魃す。太田道灌江戸城にありて、  ※寛正=1460-66 旱魃=干ばつ

深くこれを患ひとし、この御神に禱るに、その験ありて、雨降り  ※禱る(祷る)=祈る

百穀おほいに登る。よつて、その頃山城国稲荷山を模して、伍社

の御神を勧請なし奉るとなり。

毎年四月十六日祭奠、神主小針氏奉祀す。

延宝七年五月二十九日、この辺火災によつて焦土となりし頃、

この祠のみ現然と残りければ、諸人みなこれを奇とす。

吉川氏某、深く信仰して、新たに蛭子と姫太神とを相殿に祀るといふ。

 

 

祭礼日は旧暦であるから、ちょうど現在の新暦5月の15・16日と同じ。神主も、現在の当社代表者と同じ小針氏。

新に加えられた蛭子(ひるこ)は恵比寿神(日本橋七福神の一)のこと。姫太神は、「太」と「大」は江戸時代にはほぼ同義で用いられたので、「姫大神」だとすれば、当社の掲示にあった神大市比売(かむおおいちひめ)のことだろう。
吉川某は、神道家の吉川惟足(よしかわこれたり 1616-1695)のこと。

 

 

 

 

社号標

 

 

 

 

富塚

 

江戸時代には、寺社奉行の「突富興行御免」を得て富くじ興行が当社でもしばしば販売された。

この富くじは現在でいうところの宝くじに当たるが、一枚当たり一分(15,000~25,000円相当)という高額なものであったため、庶民は一枚を数名で割り勘して購入していたという。

この売り上げの一部が配当となり、残りは寺社の勧進(維持運営費)に当てられた。

塚の碑は、それを

 

富塚の御由緒 境内掲示より字体改行などそのまま記載

当椙森神社は、遠く一千年の昔、未だ江戸が武蔵野の

原と言われた時代の創建です。

江戸時代には、江戸三森の一つであり、又、江戸商人の

発祥の地としても栄えてきましたが、神社が街の

中心にあるため、江戸三富の一つにも数えられる程

数多くの富籤が興行された事が記録に

残されています。

この富籤興行は、江戸庶民の楽しみの一つであり、

庶民の泣き笑いが今に思い浮かべることができます。

この富塚は庶民の心の記念として大正九年に

建立されましたが、関東大震災に依って、倒壊して

しまいました。その後、富塚の話を知った氏子の

人々は有志を募って、昭和二十八年十一月に再建

されたのがこの富塚です。

この富塚は他に類を見ないと言はれ、日本で

唯一のものです。今日では、宝くじのがんそとして

多くの人々が、心中祈願をしている様です。

 

 

 

 

あとは神楽殿。

例大祭とべったら市 のときに、江戸かっぽれと、江戸里神楽がここで奉納される。

 

 

 

 

写真は2008.4.27と2015.3.2撮影

 

備考

社号 椙森神社 すぎのもりじんじゃ

別名 杉森稲荷社

祭神 五社稲荷大神 (倉稲魂尊・素戔嗚尊・

    神大市比売・大巳貴大神・四大神)

    恵比寿大神

創建 天慶期ごろか

祭日 5月15・16日、10月19・20日

    次回の大神輿渡御は平成30年

末社

社務所 神札御朱印授与有

所在地 中央区日本橋堀留町1-10-2

その他 日本橋七福神の恵比寿

      藤原秀郷・太田道灌・松平信綱・松平頼隆 参拝