フーリガン通信 -26ページ目

開戦前夜

いよいよW杯アジア最終予選が始まる。ここからは“戦争”、とにかく他のチームより多くの勝ち点を積み上げ、上位2チームに入らなければならない。


これまでの通信で、私は一貫して「日本は世界における地位、言い換えれば世界のトップレベルとの距離を見誤ってはならない」といい続けてきた。それはあくまでも世界という物差しにおいての発言である。しかし、今回は違う。対象はアジアの物差しとなる。アジアの物差しは残念ながらまだ短い。世界の物差しと並べて立てた場合、世界の物差しの先端は、アジアの物差しのはるか上にある。だからこそ、欧州も南米もいない、アジアだけの戦いで、日本はその先端のレベルにいなければならないのである。


私はまた、本大会ではまだ「いかに闘ったか」、「いかに敗れたか」が問われるとも言ってきた。しかし、アジア予選では「いかに闘ったか」よりも、「勝ち抜く」という結果が何よりも優先される。「いかに闘ったか」を論じている暇はない。どんな闘い方をしても、とにもかくにも「勝てばよい」のだ。


パスを繋げることよりも、高いポゼッションを保持することよりも、綺麗なフットボールを見せることよりも、大事なことがある。しかも、それはたった2つだけ。それは相手のゴールを割ること、そして自陣のゴールを割らせないこと。自陣のゴールを割らせたときは、それ以上相手のゴールを割らなければならない。そんなの当たり前?そう、当たり前。そんな単純なことかよ?そう、単純。それがサッカー、それが闘いなのだ。


"Winner gets all."いいかえれば“Loser gets nothing."。もし負ければ、日本はやっと手に入れた世界の物差しを失うことになる。トップの背中が見てこそ、我々は彼らとの距離が分かる。今世界が見えなくなればどうなるか。まだまだ文化になりえていない“日本のサッカー”は、トップとの差はどんどん開き、後続のランナーにどんどん抜かされるだろう。W杯出場権を逃してもEUROで復活したロシアもいる?笑わせては困る。ロシアではサッカーは文化になっている。文化という強固な基盤があれば、いい大工といい材料があればいつでも立派な家は建つ。


それなのに、巷では「日本はW杯に行けるか?」と論じる人がいる。日本代表が勝っても負けても金になる評論家やメディアは勝手に論じればいい。彼らの収入源を奪う権利は誰にもない。しかし、我々はどうなのだろう?勝ちたいの?負けていいの?答えは簡単である。だったら四の五の言わず闘えばよいのだ。念ずれば良いのだ。魂を込めて。それがサポーターというものであろう。


もう一度言おう。この最終予選は直接世界のトップ・W杯に繋がる道なのだ。歩き抜かなければ、我々は光を失う。これまでの予選や、北京五輪とは違う。スポーツではない。闘いなのだ。負け方は問われず、勝つという結果以外は何の意味も持たない。読者の皆さん、心配は無用と思うが、精一杯の魂を込めよう。


日本で誰よりも技術に拘ってきた男が、「内容より結果」、「泥臭くても、勝てばよい」と語っていた。

中村俊輔・・・今我々は俊輔の背中を見れば、世界との距離も分かる。俊輔のような選手を輩出し続けるためにも、我々はW杯に行かねばならない。


魂のフーリガン


ベッカムの笑顔

「虚飾の宴」がその幕を閉じた。この夜の「鳥の巣」の天空を晴天にするために、はたして周辺地域の積乱雲を刺激するための降雨ミサイルは何発打ち込まれたのだろうか。


開会式の派手さにも閉口したが、これほど華美な閉会式も見たことが無い。この国の人たちは、どうやら「強要された感動」に何ら価値が無いことにまったく気付いていないようだ。仕方がないのかもしれない。万里の長城、兵馬俑、天安門広場・・・そういえばこの国では、何でも大規模かつ盛大に行うことで、権力者達はその力を誇示してきたではないか。時代が変わり、環境が変わっても、民族の血は早々変るものではないということなのだろう。


いずれにしても、前回のアテネで一旦は原点に戻ったはずのスポーツの祭典も、資本主義でも社会主義でもない「利己主義」の国で行われた今大会で大きくその舵を切り、再び政治と商業によって濁った海原に漕ぎ出したようだ。この国が発明したという羅針盤。その性能は素晴らしいものだったのかも知れないが、舵を切るのは“人”であることを忘れてはならない。その“人”が、国家利益のためなら環境汚染など全く気にせず、平気で人を欺くことができる“人”であれば、自ずとその行く先も知れよう。


次回のオリンピック開催地はロンドン、“紳士の国”の良心を信じたい。しかし、ことFootballにおいては、英国は“United”ではない。イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つの協会がFIFAに登録されているため、国単位で争われるオリンピックに一つの国家代表チームは出せないはずだ。そんな事情がありながら、“英国の顔”として2階建てバスの上に「立たされた」ベッカムは、一体何を考えていたのだろう。私には、そんな彼の笑顔も“偽物”に見えた。間違いない。あんなに寂しげな彼の笑顔を、私は見たことはない。


魂のフーリガン






スペイン優勝に関する私的考察

遅ればせながら、EUROの総集編の雑誌を読んだ。やはり、スペインの美しいパスワークの素晴らしさについて数多くの記載があった。確かに相手のプレスを徒労に終わらせる素早い繋ぎは見ていて小気味よく、見る側としては大いに楽しませてもらった。いしかし、では世界のフットボールのトレンドは、このままスペインのような「美しいパスワーク」に向かうのであろうか。そんなに単純な話ではないだろう。


まず理解すべきなのは、スペインのパス主体のサッカーは何も今EUROだけのことではない。スピードよりテクニックというお国柄、しかも全体的に小柄な選手が多いため、スペインといえばこれまでも伝統的にパス主体のサッカーであった。そして、そういうサッカーを支えるパスの名手も沢山いた。オールドファンは覚えているだろう。大柄でありながら大胆かつ繊細なパスを操ったサモラ、多彩でセンスに溢れた長短のパスを自在に配給した“散らし”の天才グアルディアオラ。個人の才能から見れば彼らの方がシャビやセスクよりも優れていたということは誰も否定はしないだろう。でもスペインは過去に勝てなかった。そして今回は勝てた。しかも他国を圧倒して。それは何故であろうか?


スペインが長らく勝てなかったことに対し、スペインは「地方ごとの独立心が強く国家代表に忠誠心は無い」、「クラブ第一であり代表は二の次」、「レアルとバルサは水と油」というような背景があるから、「スペイン代表はチームとしてまとまらない」という定説が語られてきたことは読者の皆様もご存知だろう。しかし、その議論がパスワークにどういう影響を与えていたかはまったく不明である。恐らく誰も証明することは出来まい。だからここではそのような不毛の議論はやめて、純粋にパスワークの「質」について論じてみたい。


今回のスペインには必ずボールを経由するような将軍はいなかった。しいて言えばシャビがボールに触ることが多かったが、前述のサモラやグアルディオラのような役割ではなかった。従って、スペインのパスワークはハブを中心としたネットワークではなく、不規則なウェブのようなネットワークであり、シャビだけでなく、イニエスタ、シルバ、セスク、シャビ・アロンソ、セナといった中盤の選手達は全員が動きながらウェブの繋ぎ目となり、パスの出し手、そして同時に受け手となった。


しかし、現在のような最後尾から最前線までのライン幅が狭いフットボールにおいて、その中心であるミッドフィールドは最も人口密度が高く、最もコンタクトが速く激しい“戦場”である。肉体的には小さく華奢で、接触プレーや高さでは勝負にならない彼らがボールを奪われないためには、相手が素早く身体を寄せる前に味方にボールを繋がなければならない。


一方の受け手もただボールをもらえる位置に走ればよいだけではなく、すぐ次にボールの出し手となければならないことを考えて、フリーなスペースを見つけて走り込まなければならない。しかも、この時に動くのが1人だったら、そのスペースは相手にも見つけられるから、そこにプレスの網が用意されて、簡単にボールは奪われてしまうのである。だから、スペインの選手達は、常に複数の選手がボールを受けられる場所に動いていた。そのため相手もボールの奪い所を絞り切れず、結果としてギリギリのところでボールはプレスを逃れて繋がって行った。つまり、以前ご説明したように選手達の「質の高い走り」があったからこそ、彼らの「美しいパスワーク」は成立したのである。


しかし、この作業、口で言うほど簡単ではない。中盤の狭く、人口密度が最も高いエリアでパス交換をしなければならないのだ。それを可能にするためには、「質の高い走り」の前に、「技術」と「スピード」が必要となる。


まず、「技術」。どんな態勢からでも味方に繋ぐ正確なキックが求められる。足のあらゆる部分を使って、素早くパスを回すのである。そして受け手の方も、狭いエリアでボールを失わないために、完璧なトラップが求められる。ただ止めるだけでなく、次のプレーがしやすい場所にボールを「置く」作業までがそのワンタッチに含まれる。そして、止めている余裕がない時や、展開を加速したい時は、ダイレクトそれらの作業が行われる。その作業を成し遂げるためには更に高度な技術が必要となるのは言うまでもあるまい。


次に「スピード」。出されるパスのスピードが遅ければ、当然ボールはプレスの網に掛かりやすくなる。だから彼らのボールは速かった。相手から逃れるためだけのパスであれば早い必要はない。空いている味方に出せばよいからである。しかし、その時空いているパスの方向は、実は相手が誘いをかけている方向なのである。その方向にパスを出させることにより攻めのスピードを遅らせたり、自分達の危険度を下げるための方向だったり、更には次のアクションでボールを奪取するための罠だったりするのだ。スペインのパスが速かったのは、彼らに攻撃の意図があったからだ。逃げではない、攻めの意識でボールを回していたのである。速く回せば、受け手は相手がプレスをかけるまでに余裕ができる。そこで時間ができれば、それだけ次の打ち手が増え、仕掛け易くなるのである。


パスのスピードの前に、まず「考える」スピードがある。「判断」のスピードとも言えよう。ポン・ポン・ポンと軽妙に交わされる彼らのパスの裏には、それだけ速い選手達個々の「判断」がある。実はこれが一番重要。なぜなら短い時間でしかもプレーを止めずに判断をするためには、判断に必要な情報がインプットされていなければならい。味方の位置、相手の位置、それぞれの次の動きとスピード、それらの情報を基に、一瞬のうちに判断をしなければならないのだ。それだけ欧州トップレベルの中盤のプレスは速く厳しい。時にはロジカルな判断を超えた「感覚」的な判断も必要になる。その感覚は長く一緒にプレーしなければ掴めないが、今回のスペインは幸い最もボールに絡んだシャビとイニエスタは同じバルサでプレーしているため、その感覚に長けていた。出場した時は決定的な仕事が目立ったセスクも、バルサのユースで育っており、もしかしたら彼らと同じ「感覚」があったかも知れない。その上ではあるが、ルイス・アラゴネス監督は長い予選をほぼ同じ中盤で戦い、彼らの「感覚」の共有を図った。そして大会前にシャビ、イニエスタ、シルバ、セスクの4人は「クワトロ・フゴーネス(4人の創造者)」とい呼ばれるまでにコンビネーションを磨いてきた。


こう観ると、スペインは優勝すべくして優勝したと思われるかもしれないが、その程度で欧州を制することができるほど、世の中は甘くない。中盤でパスがただ「美しく」通るだけでは相手は崩せない。彼らのパスワークが実際に効果的にゴールに結びついたのには、実はもう一つ大事な要因がある。極めて「現実的」な要因が。それは「縦への動き」と、その動きを生かした「スルーパス」である。


常に縦への動きを意識していたのが、他ならぬFWフェルナンド・トーレスである。ワントップでもツートップでも、彼は何度も相手の裏めがけて、縦に走った。ボールが来ても、来なくても。MFのセスクも縦への動きが大きかった。彼らの縦への走り込みによって、従来からの横、横、横の短いパスワークに、縦へのスルーパスが加わり、スペインのパスワークは選択肢を広げ、ゴールに一気に繋がる「鋭さ」を得たのである。


なぜそれが出来たのか。それは彼らがイングランドのプレミア・リーグでプレーしていたからではないだろうか。何でも縦、縦、縦のイングランドは、縦に急ぎすぎる傾向があるが、今回は彼らの縦への速く長い走りがスペインのパスワークのちょうど良いアクセントを与えたように思う。何度も潰されて点がなかなか取れなかったトーレスであるが、彼が相手の裏を狙って縦に走るために、その横には大きなスペースが出来て、ツートップの同僚ビジャは美味しい思いをすることができた。グループリーグでビジャが得点を量産する中、常に同僚のトーレスへの感謝を口にしたのはそういうことなのである。


スペイン優勝の陰には、「芸術性」に溺れすぎない「リアリズム」が存在した。そのリアリズムの裏には、イングランド・プレミア・リーグの存在があった。そのリーグの本国が大会に出場しなったために、誰もそんな暴論は吐かないだろう。しかし、そのイングランドを突き落として本大会に出場したダークホースのクロアチア、ロシアの両国が共に良いパフォーマンスを示したことを考えると、欧州のサッカーシーンにおいてやはりイングランドの存在は無視できないのではないだろうか。少なくとも“ミスター”、ファビオ・カペッロ監督はその復讐の時の到来を信じ、その牙を磨いているに違いない。


Football is coming home! あくまでも私的な考察である。


魂のフーリガン