開戦前夜 | フーリガン通信

開戦前夜

いよいよW杯アジア最終予選が始まる。ここからは“戦争”、とにかく他のチームより多くの勝ち点を積み上げ、上位2チームに入らなければならない。


これまでの通信で、私は一貫して「日本は世界における地位、言い換えれば世界のトップレベルとの距離を見誤ってはならない」といい続けてきた。それはあくまでも世界という物差しにおいての発言である。しかし、今回は違う。対象はアジアの物差しとなる。アジアの物差しは残念ながらまだ短い。世界の物差しと並べて立てた場合、世界の物差しの先端は、アジアの物差しのはるか上にある。だからこそ、欧州も南米もいない、アジアだけの戦いで、日本はその先端のレベルにいなければならないのである。


私はまた、本大会ではまだ「いかに闘ったか」、「いかに敗れたか」が問われるとも言ってきた。しかし、アジア予選では「いかに闘ったか」よりも、「勝ち抜く」という結果が何よりも優先される。「いかに闘ったか」を論じている暇はない。どんな闘い方をしても、とにもかくにも「勝てばよい」のだ。


パスを繋げることよりも、高いポゼッションを保持することよりも、綺麗なフットボールを見せることよりも、大事なことがある。しかも、それはたった2つだけ。それは相手のゴールを割ること、そして自陣のゴールを割らせないこと。自陣のゴールを割らせたときは、それ以上相手のゴールを割らなければならない。そんなの当たり前?そう、当たり前。そんな単純なことかよ?そう、単純。それがサッカー、それが闘いなのだ。


"Winner gets all."いいかえれば“Loser gets nothing."。もし負ければ、日本はやっと手に入れた世界の物差しを失うことになる。トップの背中が見てこそ、我々は彼らとの距離が分かる。今世界が見えなくなればどうなるか。まだまだ文化になりえていない“日本のサッカー”は、トップとの差はどんどん開き、後続のランナーにどんどん抜かされるだろう。W杯出場権を逃してもEUROで復活したロシアもいる?笑わせては困る。ロシアではサッカーは文化になっている。文化という強固な基盤があれば、いい大工といい材料があればいつでも立派な家は建つ。


それなのに、巷では「日本はW杯に行けるか?」と論じる人がいる。日本代表が勝っても負けても金になる評論家やメディアは勝手に論じればいい。彼らの収入源を奪う権利は誰にもない。しかし、我々はどうなのだろう?勝ちたいの?負けていいの?答えは簡単である。だったら四の五の言わず闘えばよいのだ。念ずれば良いのだ。魂を込めて。それがサポーターというものであろう。


もう一度言おう。この最終予選は直接世界のトップ・W杯に繋がる道なのだ。歩き抜かなければ、我々は光を失う。これまでの予選や、北京五輪とは違う。スポーツではない。闘いなのだ。負け方は問われず、勝つという結果以外は何の意味も持たない。読者の皆さん、心配は無用と思うが、精一杯の魂を込めよう。


日本で誰よりも技術に拘ってきた男が、「内容より結果」、「泥臭くても、勝てばよい」と語っていた。

中村俊輔・・・今我々は俊輔の背中を見れば、世界との距離も分かる。俊輔のような選手を輩出し続けるためにも、我々はW杯に行かねばならない。


魂のフーリガン