篠山春菜と大崎由貴によるデュオ・リサイタルは、2025年2月28日のスタジオピオティータ公演に続く二度目の開催となった。会場は自由学園 明日館講堂である。
「陰影礼賛」と題された今回のプログラムは、前半にベートーヴェン、ウェーベルン、プーランクの緊張感を孕んだ作品を、後半にショパン、チャイコフスキー、ブラームスの伸びやかな音楽を配することで、時代と様式、そして光と影の対比を際立たせていた。
古典から20世紀までを射程に収めた意欲的な構成であり、明日館講堂の親密な響きは、二人の音楽的関係性をくっきりと浮かび上がらせる。とりわけ室内楽としての「対話」の質が、細部にまで行き渡っていた点が印象深い。
出色だったのは、前半のプーランク《ヴァイオリン・ソナタ FP119》と、後半のブラームス《ヴァイオリン・ソナタ第1番〈雨の歌〉ト長調 Op.78》の二曲である。
プーランク《ヴァイオリン・ソナタ FP119》は、第二次大戦下の1942〜43年に書かれ、詩人フェデリコ・ガルシーア・ロルカがスペイン内戦勃発直後の1936年8月にフランコ側の勢力により銃殺されたことへの怒りと哀悼を内包する作品である。
自ら「ヴァイオリンは苦手」と語っていた作曲家がこのソナタを書いた背景には、初演者ジネット・ヌヴーの提案があった。感情の露出と形式の断裂が同居する本作は、プーランクの室内楽の中でも特異な緊張感を湛えている。
第1楽章アレグロ・コン・フォーコ(火のように速く)は変形された三部形式をとり、統合よりも断絶が前面に出る。ここでは篠山春菜の積極性のある個性がよく合い、弾けるような勢いと鋭いアタックによって、怒りの感情が音楽全体に渦巻いた。
第2主題はその感情との落差が大きくロマンティックだが、旋律をさらに歌わせることで、対照はより際立ったかもしれない。フェルマータによる長い休止を挟み、速度を落とす場面も激しさを失わず、その後に現れるアーチ型の長い旋律には、より抒情的に歌わせれば、同様にコントラストが強調されただろう。
終結部の激しさには、明確な怒りが刻まれていた。二人のプログラム解説に記された「弾ける色彩」「毒」「戦争への怒り」というこの楽章のキーワードは、確かに演奏と重なっていた。
第2楽章インテルメッツォは本作中もっとも早く完成した楽章であり、冒頭にはロルカの詩「六弦」から「ギターは数々の夢を泣かせる(La guitare fait pleurer les songes)」という一節が掲げられている。甘美な想い出のように始まり、篠山のヴァイオリンは表情豊かに、大崎のピアノもギターの音色を想起させる和音を刻む。二人の演奏は作品のスペイン的な雰囲気をよく伝えていた。コーダにはどこか掴みどころのない不思議な感触が残り、「弔い」「悼み」「詩」「夜」「霧」といった楽章のキーワードが示す、捉えようのない感情と先行きの不安を漂わせていた。
第3楽章 Presto tragico(悲劇的に速く)には、「高揚」「童心」「引き裂く銃声」というキーワードが添えられていた。二人が奏する冒頭主題は明るく活気に満ち、「悲劇的に速く」という表示とは異なる表情を見せるが、それは「高揚」「童心」にふさわしく、二人の明るい個性が発揮されていたと言える。そのことがかえって、「非常に暴力的に、自由に」「厳密に、テンポを倍遅く」と指示された劇的な中断に阻まれる際の衝撃を強く印象づけた。
大崎由貴の不安げな和音に続き、「とても表情豊かに、痛々しげに」と指示された緩徐部分が現れるが、それはロルカの逮捕と牢獄への連行を思わせるようでもあった。終結部の最後の8小節で、プーランクは brusque(突然に)と表示されたヴァイオリンの急速な上行と、銃声を思わせるピアノの切り立った不協和音によって音楽を遮断する。ロルカ銃殺の瞬間を、篠山と大崎は聴き手を震撼させる強烈な表現で描き切っていた。
後半の白眉は、ブラームス《ヴァイオリン・ソナタ〈雨の歌〉ト長調 Op.78》である。2月のデュオ・リサイタルで演奏されたシューマンのヴァイオリン・ソナタ第2番とクララ・シューマンの《3つのロマンス》Op.22がとても印象に残り、二人にはロマン派がよく合うと感じて、終演後に「次はブラームスをぜひ」と何気なく伝えたことを、私はすっかり忘れていた。その言葉が結果的にこの〈雨の歌〉の選曲につながっていたと後に知り、うれしさと同時に、評する立場としての責任もあらためて感じさせられた。私自身、この作品を最も愛するヴァイオリン・ソナタの一つとして親しんできただけに、二人にとって初めての試みとなる今回の挑戦が実現したことには、深い感慨を覚えた。
初挑戦ゆえの試行錯誤も感じられ、「ここはもう少し」と思わせる箇所がいくつかあった。歌曲〈雨の歌〉の動機から始まる第1楽章提示部は、思い切りの良さこそあったものの、ブラームス特有の繊細なニュアンスがやや後退するようにも思われた。
第2楽章冒頭のピアノ旋律には、より癒しの感情が欲しく、続くヴァイオリンにもいっそうの深みが加わればと感じられた。中間部で、シューマンの末子フェリックスを追悼すると言われる「葬送行進曲」風の旋律は重々しさを備えていたが、さらに踏み込んだ悲痛さがあってもよかっただろう。また第3楽章におけるヴァイオリン重音の第2副主題も、もう少しおおらかに、懐かしさをもって歌われてほしいと感じた。第1副主題提示後の展開とクライマックスは、作品自体が迷路に入り込むような難しさを孕んでおり、ブラームスが何を語ろうとしているのかを聴き手に伝えるという、高いハードルも突きつけていた。
一方で、印象的な場面も数多かった。第1楽章展開部で、ピッツィカートに導かれて現れるピアノの第1主題再現には憧れに満ちた美しさがあり、展開部クライマックスの力強い盛り上げから再現部への自然な導入も見事だった。コーダのスケールの大きさも、この作品にふさわしい。
そして何より心を強く捉えたのは、歌曲〈雨の歌〉の旋律に始まる第3楽章冒頭からである。篠山春菜の思いのこもったヴァイオリンと、大崎由貴の清楚な表情を湛えたピアノに、作品への率直な共感がはっきりと表れていた。コーダでこの動機がエスプレッシーヴォに繰り返し現れる場面に至り、二人が一生懸命にブラームスへ迫ろうとする意欲と、その混じり気のない純粋さが強く伝わってきた。それは、巨匠や著名な演奏家の演奏からは必ずしも得がたい、かけがえのない価値である。難しい作品への挑戦であったが、得たものは確かに大きかったのではないだろうか。
盛りだくさんのプログラムには、ほかにも聴きごたえのある演奏が含まれていた。
冒頭のベートーヴェン《ヴァイオリン・ソナタ第4番 イ短調 Op.23》は、第1楽章プレストから曲想にふさわしい切れ味と鋭いアタックが示され、篠山春菜と大崎由貴は緊張感を保ったまま一体となった。ただ、もう少し余裕をもたせることで流れはより自然となり、表現の幅もいっそう広がったのではないだろうか。
第2楽章アンダンテ・スケルツォーソ・ピウ・アレグレットでは、ヴァイオリン、ピアノともにくっきりとした響きが印象的で、展開部におけるユーモアも愉悦をもって描かれていた。
第3楽章アレグロ・モルトの疾走感もよく表現されていた。途中で加わるコラール風の主題が単調さを避け、音楽に奥行きを与えている。静かに閉じられるコーダの意外性にも余裕が感じられ、全体として充実した演奏であった。
前半2曲目のウェーベルン《4つの小品 Op.7》は、全4曲で5分強という短さながら、凝縮された緻密さによって時間の感覚そのものを覆すほどの内容をもつ。篠山春菜と大崎由貴は、張りつめた集中力のある演奏で聴き手を強く惹きつけた。
第1曲〈非常に遅く〉は、わずか9小節。弱音器を付けたヴァイオリンとピアノが、点描のようにピアニッシモ、ピアニッシッシモで音を置いていく。コル・レーニョ(弓の背で弾く)による動機は、7年後に書かれたベルクの歌劇《ヴォツェック》終結部の悲劇性を予感させるものでもあった。
鋭い強弱対比を伴う動きの激しい第2曲〈速く〉では、二人が解説に記した「絵の具が散らばる」「電子音」「人の声」というキーワードが的確に響く。ここには、プーランクのソナタを30年先取りするかのような、先鋭的な表情があった。
第3曲〈非常に遅く〉では、音楽が呼吸するかのように現れては消えていく。二人のキーワードを借りれば、終結部には「子守歌」を思わせる静けさが広がるが、その奥には「遠い雷」のような不安が一瞬立ち現れ、再び沈んでいった。
第4曲〈動きをもって〉は、キーワードの順に辿れば、「衝擊波」のように放たれる音が「期待」を生みながら、その都度断ち切られ、やがて「茫然」とした余韻だけを残すと読み解けるだろう。答えのないまま宙づりにされるこの感覚が、演奏後も長く聴き手の内に残った。それだけの密度を備えた演奏だった。
後半の冒頭は、大崎由貴のピアノによるショパン《幻想ポロネーズ Op.61》であった。演奏に先立ち大崎は、「他のショパンのポロネーズとは一線を画す作品で、ポロネーズの要素はところどころにしか現れません。一筆書きの絵のように、思うことをそのまま曲にした印象があり、大好きな曲です」と語った。
ポロネーズのリズムと、ノクターンを思わせる内省的な旋律やロマンティックな歌が、ロンド風に交互に現れながら音楽は進む。終結では、大崎がプログラムに記した「すべてを超越した世界に到達したかのように光り輝く終わり」が鮮やかに描かれ、聴く者を高揚へと導いた。しかし同時に、最後のフォルティシモの和音には、光明だけでなく、ショパン自身が退路を断つかのような覚悟と不安も刻まれているように感じられた。
後半2曲目は、デュオによるチャイコフスキー《懐かしい土地の思い出 Op.42》。
第1曲〈瞑想曲〉では、篠山春菜がコーダの高音を正確な音程で弾き切った点は印象的だったが、もともとヴァイオリン協奏曲の緩徐楽章として構想されたこのロマンティックな旋律には、もう一段の艶やかさや情感の深まりがあってもよかったように思われた。
第2曲〈スケルツォ〉では一転して、二人の演奏に焦燥感と推進力が宿り、タランテラを思わせる勢いと強さが曲想によく合っていた。トリオにあたる中間部では、自然な歌心も感じられた。
単独で演奏されることも多い第3曲〈メロディ〉は、軽やかに歌われ、郷愁を帯びた情感もよく表れていた。
ブラームスの熱演に対する拍手がやまず、アンコールは2曲演奏された。まず、メキシコの作曲家マニュエル・ポンセの《エストレリータ》がしっとりと奏でられ、続いて岡野貞一作曲(作詞:高野辰之)の「ふるさと」が温かく演奏された。
演奏後の挨拶で、篠山春菜は来年カメラータ・ザルツブルクの日本ツアーに参加すること、その後は第1ヴァイオリン奏者を務める Beija-Flor String Quartet としてのツアーも控えていると語り、今後への期待を抱かせた。また6月には、大崎由貴との第3回デュオ・リサイタルを予定していることも紹介された。
大崎由貴は、来年4月12日(日)14時より、練馬区の Pianarium SAKAMOTO にて、希少なクロトリアンのピアノを用いたオール・ベートーヴェン・プログラム(ソナタ第8番《悲愴》、第12番《葬送》、第31番ほか)を開催すること、さらに9月には豊洲シビックセンターホールでのリサイタルも予定していると述べた。
二人は今回のリサイタルに向け、根気強く楽譜と向き合い、リハーサルを重ねてきたという。その成果は、多彩なプログラムを通して集中力を切らすことなく弾き通した、充実した演奏として結実していた。今後も果敢な挑戦を続けていってほしい。














