ベイのコンサート日記

ベイのコンサート日記

音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

コーヒーと豆大福を口にしながら、何かめぼしいYouTubeのクラシック映像はないかと探していたところ、初めて目にするイタリア放送協会(RAI)制作の、1973年頃の小澤征爾のドキュメンタリーに行き当たった。
https://www.youtube.com/watch?v=FL71iqz03oc

 

この映像はかつてレーザーディスクとして市販され、「偉大な名指揮者たち―3/小澤征爾」のタイトルで、1992年5月に(品番:Sun-CRLB40014)発売されている。

収められている映像はいずれも興味深く、初見のものばかりだ。
 

1973年2月26日から3月2日にかけて、新日本フィルが香港フェスティバル’73に出演する際のリハーサル(会場:東京文化会館)が比較的長く収録されており、チャイコフスキー《交響曲第6番〈悲愴〉》第1楽章や、バルトーク《中国の不思議な役人》バレエ組曲の練習風景が映し出される。コンサートマスター、ルイ・グレーラーの懐かしい表情にも目を奪われた。
なお、チャイコフスキー《悲愴》のリハーサルは本番映像へとつなげられており、帰国後の3月7日に行われた新日本フィル第7回定期演奏会(東京文化会館)を踏まえると、このリハーサルは日本での本番直前のものだった可能性もある。一方、バルトーク作品については定期演奏会での上演記録は未確認である。
終始うなり声を発しながら、全身で音楽を推進する37歳の小澤の姿は、いま見ても驚くほど瑞々しい。

 

香港でのオフショットも印象的だ。演奏曲目のひとつ、武満徹《ノヴェンバー・ステップス》に出演した、琵琶の鶴田錦史、尺八の横山勝也の演奏に、静かに耳を傾ける場面が収められている。

 

サンフランシスコ交響楽団とのリハーサル映像も、私にとっては初めて見るものだった。ブラームス《交響曲第2番》終楽章の練習では、採用をめぐって楽員と対立したことで知られるティンパニ奏者、エレイン・ジョーンズの姿も確認できる。


さらに、渋谷の名曲喫茶「ライオン」で撮影されたと思われる場面も珍しい。レコードを自由に買えなかった若い頃、名曲喫茶に通ったという回想が語られる。

 

社会問題についての小澤の率直な発言にも、あらためて驚かされた。
「香港やヴェトナム、インドで目にする貧困は、欧米では想像もできないほど深刻です。富める者と貧しい者の間に交流はありません。たとえばヴェトナムに従軍したアメリカ兵は、つましく生きる人々の生活に気づかなかった。音楽家は音符の世界と身の回りの些事だけで生きていると思われがちですが、僕は現実を直視します。東洋に帰るたび、共産主義は貧しい国に向いた社会体制だと感じます。ヴェトナムでは復興を支え、中国でも生活水準を引き上げました。しかし、すでに経済発展を遂げた国に適したシステムとは思えません。日本やアメリカが共産主義を恐れる必要はないでしょう」

 

タングルウッド音楽祭では、父が亡くなるまで理解できなかったというヴェルディ《レクイエム》について、「今や自分のための曲になった。〈怒りの日〉は現実になったのです」と語る言葉も、深く心に残る。
一方で、前半に紹介される、和服姿の母・さくらさんが語る幼年時代の回想は、穏やかで温もりに満ちており、このドキュメンタリーに人間的な奥行きを与えている。

 

画質・音質は決して良好とは言えない。それでも、1970年代初頭の小澤征爾の、生々しい実像に触れるような強いインパクトを持つドキュメンタリーであった。

 

 

篠山春菜大崎由貴によるデュオ・リサイタルは、2025年2月28日のスタジオピオティータ公演に続く二度目の開催となった。会場は自由学園 明日館講堂である。

「陰影礼賛」と題された今回のプログラムは、前半にベートーヴェン、ウェーベルン、プーランクの緊張感を孕んだ作品を、後半にショパン、チャイコフスキー、ブラームスの伸びやかな音楽を配することで、時代と様式、そして光と影の対比を際立たせていた。

古典から20世紀までを射程に収めた意欲的な構成であり、明日館講堂の親密な響きは、二人の音楽的関係性をくっきりと浮かび上がらせる。とりわけ室内楽としての「対話」の質が、細部にまで行き渡っていた点が印象深い。

 

出色だったのは、前半のプーランク《ヴァイオリン・ソナタ FP119》と、後半のブラームス《ヴァイオリン・ソナタ第1番〈雨の歌〉ト長調 Op.78》の二曲である。

プーランク《ヴァイオリン・ソナタ FP119》は、第二次大戦下の1942〜43年に書かれ、詩人フェデリコ・ガルシーア・ロルカがスペイン内戦勃発直後の1936年8月にフランコ側の勢力により銃殺されたことへの怒りと哀悼を内包する作品である。
自ら「ヴァイオリンは苦手」と語っていた作曲家がこのソナタを書いた背景には、初演者ジネット・ヌヴーの提案があった。感情の露出と形式の断裂が同居する本作は、プーランクの室内楽の中でも特異な緊張感を湛えている。


第1楽章アレグロ・コン・フォーコ(火のように速く)は変形された三部形式をとり、統合よりも断絶が前面に出る。ここでは篠山春菜の積極性のある個性がよく合い、弾けるような勢いと鋭いアタックによって、怒りの感情が音楽全体に渦巻いた。
第2主題はその感情との落差が大きくロマンティックだが、旋律をさらに歌わせることで、対照はより際立ったかもしれない。フェルマータによる長い休止を挟み、速度を落とす場面も激しさを失わず、その後に現れるアーチ型の長い旋律には、より抒情的に歌わせれば、同様にコントラストが強調されただろう。
終結部の激しさには、明確な怒りが刻まれていた。二人のプログラム解説に記された「弾ける色彩」「毒」「戦争への怒り」というこの楽章のキーワードは、確かに演奏と重なっていた。

 

第2楽章インテルメッツォは本作中もっとも早く完成した楽章であり、冒頭にはロルカの詩「六弦」から「ギターは数々の夢を泣かせる(La guitare fait pleurer les songes)」という一節が掲げられている。甘美な想い出のように始まり、篠山のヴァイオリンは表情豊かに、大崎のピアノもギターの音色を想起させる和音を刻む。二人の演奏は作品のスペイン的な雰囲気をよく伝えていた。コーダにはどこか掴みどころのない不思議な感触が残り、「弔い」「悼み」「詩」「夜」「霧」といった楽章のキーワードが示す、捉えようのない感情と先行きの不安を漂わせていた。

 

第3楽章 Presto tragico(悲劇的に速く)には、「高揚」「童心」「引き裂く銃声」というキーワードが添えられていた。二人が奏する冒頭主題は明るく活気に満ち、「悲劇的に速く」という表示とは異なる表情を見せるが、それは「高揚」「童心」にふさわしく、二人の明るい個性が発揮されていたと言える。そのことがかえって、「非常に暴力的に、自由に」「厳密に、テンポを倍遅く」と指示された劇的な中断に阻まれる際の衝撃を強く印象づけた。
大崎由貴の不安げな和音に続き、「とても表情豊かに、痛々しげに」と指示された緩徐部分が現れるが、それはロルカの逮捕と牢獄への連行を思わせるようでもあった。終結部の最後の8小節で、プーランクは brusque(突然に)と表示されたヴァイオリンの急速な上行と、銃声を思わせるピアノの切り立った不協和音によって音楽を遮断する。ロルカ銃殺の瞬間を、篠山と大崎は聴き手を震撼させる強烈な表現で描き切っていた。


後半の白眉は、ブラームス《ヴァイオリン・ソナタ〈雨の歌〉ト長調 Op.78》である。2月のデュオ・リサイタルで演奏されたシューマンのヴァイオリン・ソナタ第2番クララ・シューマンの《3つのロマンス》Op.22がとても印象に残り、二人にはロマン派がよく合うと感じて、終演後に「次はブラームスをぜひ」と何気なく伝えたことを、私はすっかり忘れていた。その言葉が結果的にこの〈雨の歌〉の選曲につながっていたと後に知り、うれしさと同時に、評する立場としての責任もあらためて感じさせられた。私自身、この作品を最も愛するヴァイオリン・ソナタの一つとして親しんできただけに、二人にとって初めての試みとなる今回の挑戦が実現したことには、深い感慨を覚えた。

 

初挑戦ゆえの試行錯誤も感じられ、「ここはもう少し」と思わせる箇所がいくつかあった。歌曲〈雨の歌〉の動機から始まる第1楽章提示部は、思い切りの良さこそあったものの、ブラームス特有の繊細なニュアンスがやや後退するようにも思われた。

 

第2楽章冒頭のピアノ旋律には、より癒しの感情が欲しく、続くヴァイオリンにもいっそうの深みが加わればと感じられた。中間部で、シューマンの末子フェリックスを追悼すると言われる「葬送行進曲」風の旋律は重々しさを備えていたが、さらに踏み込んだ悲痛さがあってもよかっただろう。また第3楽章におけるヴァイオリン重音の第2副主題も、もう少しおおらかに、懐かしさをもって歌われてほしいと感じた。第1副主題提示後の展開とクライマックスは、作品自体が迷路に入り込むような難しさを孕んでおり、ブラームスが何を語ろうとしているのかを聴き手に伝えるという、高いハードルも突きつけていた。

 

一方で、印象的な場面も数多かった。第1楽章展開部で、ピッツィカートに導かれて現れるピアノの第1主題再現には憧れに満ちた美しさがあり、展開部クライマックスの力強い盛り上げから再現部への自然な導入も見事だった。コーダのスケールの大きさも、この作品にふさわしい。

そして何より心を強く捉えたのは、歌曲〈雨の歌〉の旋律に始まる第3楽章冒頭からである。篠山春菜の思いのこもったヴァイオリンと、大崎由貴の清楚な表情を湛えたピアノに、作品への率直な共感がはっきりと表れていた。コーダでこの動機がエスプレッシーヴォに繰り返し現れる場面に至り、二人が一生懸命にブラームスへ迫ろうとする意欲と、その混じり気のない純粋さが強く伝わってきた。それは、巨匠や著名な演奏家の演奏からは必ずしも得がたい、かけがえのない価値である。難しい作品への挑戦であったが、得たものは確かに大きかったのではないだろうか。

 

盛りだくさんのプログラムには、ほかにも聴きごたえのある演奏が含まれていた。

冒頭のベートーヴェン《ヴァイオリン・ソナタ第4番 イ短調 Op.23》は、第1楽章プレストから曲想にふさわしい切れ味と鋭いアタックが示され、篠山春菜と大崎由貴は緊張感を保ったまま一体となった。ただ、もう少し余裕をもたせることで流れはより自然となり、表現の幅もいっそう広がったのではないだろうか。

 

第2楽章アンダンテ・スケルツォーソ・ピウ・アレグレットでは、ヴァイオリン、ピアノともにくっきりとした響きが印象的で、展開部におけるユーモアも愉悦をもって描かれていた。

 

第3楽章アレグロ・モルトの疾走感もよく表現されていた。途中で加わるコラール風の主題が単調さを避け、音楽に奥行きを与えている。静かに閉じられるコーダの意外性にも余裕が感じられ、全体として充実した演奏であった。

 

前半2曲目のウェーベルン《4つの小品 Op.7》は、全4曲で5分強という短さながら、凝縮された緻密さによって時間の感覚そのものを覆すほどの内容をもつ。篠山春菜と大崎由貴は、張りつめた集中力のある演奏で聴き手を強く惹きつけた。


第1曲〈非常に遅く〉は、わずか9小節。弱音器を付けたヴァイオリンとピアノが、点描のようにピアニッシモ、ピアニッシッシモで音を置いていく。コル・レーニョ(弓の背で弾く)による動機は、7年後に書かれたベルクの歌劇《ヴォツェック》終結部の悲劇性を予感させるものでもあった。
 

鋭い強弱対比を伴う動きの激しい第2曲〈速く〉では、二人が解説に記した「絵の具が散らばる」「電子音」「人の声」というキーワードが的確に響く。ここには、プーランクのソナタを30年先取りするかのような、先鋭的な表情があった。
 

第3曲〈非常に遅く〉では、音楽が呼吸するかのように現れては消えていく。二人のキーワードを借りれば、終結部には「子守歌」を思わせる静けさが広がるが、その奥には「遠い雷」のような不安が一瞬立ち現れ、再び沈んでいった。

 

第4曲〈動きをもって〉は、キーワードの順に辿れば、「衝擊波」のように放たれる音が「期待」を生みながら、その都度断ち切られ、やがて「茫然」とした余韻だけを残すと読み解けるだろう。答えのないまま宙づりにされるこの感覚が、演奏後も長く聴き手の内に残った。それだけの密度を備えた演奏だった。

 

後半の冒頭は、大崎由貴のピアノによるショパン《幻想ポロネーズ Op.61》であった。演奏に先立ち大崎は、「他のショパンのポロネーズとは一線を画す作品で、ポロネーズの要素はところどころにしか現れません。一筆書きの絵のように、思うことをそのまま曲にした印象があり、大好きな曲です」と語った。
ポロネーズのリズムと、ノクターンを思わせる内省的な旋律やロマンティックな歌が、ロンド風に交互に現れながら音楽は進む。終結では、大崎がプログラムに記した「すべてを超越した世界に到達したかのように光り輝く終わり」が鮮やかに描かれ、聴く者を高揚へと導いた。しかし同時に、最後のフォルティシモの和音には、光明だけでなく、ショパン自身が退路を断つかのような覚悟と不安も刻まれているように感じられた。

 

後半2曲目は、デュオによるチャイコフスキー《懐かしい土地の思い出 Op.42》
第1曲〈瞑想曲〉では、篠山春菜がコーダの高音を正確な音程で弾き切った点は印象的だったが、もともとヴァイオリン協奏曲の緩徐楽章として構想されたこのロマンティックな旋律には、もう一段の艶やかさや情感の深まりがあってもよかったように思われた。

 

第2曲〈スケルツォ〉では一転して、二人の演奏に焦燥感と推進力が宿り、タランテラを思わせる勢いと強さが曲想によく合っていた。トリオにあたる中間部では、自然な歌心も感じられた。

 

単独で演奏されることも多い第3曲〈メロディ〉は、軽やかに歌われ、郷愁を帯びた情感もよく表れていた。

ブラームスの熱演に対する拍手がやまず、アンコールは2曲演奏された。まず、メキシコの作曲家マニュエル・ポンセ《エストレリータ》がしっとりと奏でられ、続いて岡野貞一作曲(作詞:高野辰之)「ふるさと」が温かく演奏された。

 

演奏後の挨拶で、篠山春菜は来年カメラータ・ザルツブルク日本ツアーに参加すること、その後は第1ヴァイオリン奏者を務める Beija-Flor String Quartet としてのツアーも控えていると語り、今後への期待を抱かせた。また6月には、大崎由貴との第3回デュオ・リサイタルを予定していることも紹介された。


大崎由貴は、来年4月12日(日)14時より、練馬区の Pianarium SAKAMOTO にて、希少なクロトリアンのピアノを用いたオール・ベートーヴェン・プログラム(ソナタ第8番《悲愴》、第12番《葬送》、第31番ほか)を開催すること、さらに9月には豊洲シビックセンターホールでのリサイタルも予定していると述べた。

 

二人は今回のリサイタルに向け、根気強く楽譜と向き合い、リハーサルを重ねてきたという。その成果は、多彩なプログラムを通して集中力を切らすことなく弾き通した、充実した演奏として結実していた。今後も果敢な挑戦を続けていってほしい。

 

(12月25日・東京芸術劇場)

角野隼斗が共演を憧れてきたジャン=マルク・ルイサダとの、まさに待望の共演である。角野にとって大きな目標でもあるマエストロの演奏は、やはり別格の表現力を備えていた。

 

前半は4手連弾で、角野が主にファーストを担当。色彩感と奥行き、強音においても単なる音量ではなく、低声部で深みと幅を備えたルイサダに対し、高い音域で弾く角野のピアノはキレの良い瑞々しさとクリスタルのような透明感をもつ。それぞれの役割の違い、響きの違いはあるにしても、師匠と比べれば、角野の響きのニュアンスの多彩さや色彩感の点で、なお数歩譲らざるを得ない。角野がルイサダに憧れる理由が、ここによく表れていた。

 

ラヴェル《マ・メール・ロワ》(1st:角野、2nd:ルイサダ)では、最初の2曲でその差がはっきりと感じられたが、第3曲「パゴダの女王レドロネット」では状況が変わる。角野のきらきらとした響きとルイサダの豊かな音色が溶け合い、二人の音が自然に一体となった。

 

フォーレ《ドリー》(1st:ルイサダ、2nd:角野)は、第3曲「ドリーの庭」でのルイサダが弾く旋律線の美しさが際立つ。
第4曲「キティー・ワルツ」では、繊細な刺繍を思わせるほど細やかなルイサダのニュアンスが印象的だった。
第5曲「優しさ」では、角野の低音とルイサダの高音がバランスよく響き合い、まるで一人のピアニストが弾いているかのような一体感が生まれる。第6曲「スペインの踊り」では、冒頭と終結部に現れる二人のフラメンコ風の手拍子も効果的で、会場を大いに沸かせた。

 

モーツァルト《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》(1st:角野、2nd:ルイサダ)は、ルイサダの豊かな低声部に対し、角野のメロディラインはややニュアンスの少なさが気になる場面があった。しかし第3楽章のトリオでは、角野が旋律を瑞々しく歌い上げ、表情の変化を見せる。終楽章では、角野の軽快なタッチが冴え、爽快な締めくくりとなった。

 

前半最後は角野による即興演奏。「先生から盛り上げて、と言われました。アンコールのように聴いてください」と前置きし、《ジングル・ベル》《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》、さらにベートーヴェンの《月光》終楽章ほかを素材に、自在な即興を披露した。

 

後半はルイサダソロによるブラームス《間奏曲 作品118-2》

多声部が重層的に織りなす響きの厚みと、主題に宿る純粋なロマンティシズムが、格調高く表現された。

 

再び連弾で、シューベルト《ロザムンデ》より間奏曲(1st:角野、2nd:ルイサダ)。角野の旋律は、もう一段レガートを効かせ、より滑らかに歌わせてほしいと感じる部分もあったが、中間部では細やかなニュアンスが丁寧に描かれていた。

 

ブラームス《ワルツ集 作品39》より(連弾:1st 角野隼斗/2nd ジャン=マルク・ルイサダ)

《第2番 ホ長調》はルイサダの高音の美しさに対し、角野の旋律は滑らかさがもう一歩ほしい。

《第6番 嬰ハ長調》は軽快な曲で、角野の即興演奏に共通するものが感じられ、角野自身も作品に同化するようでもあった。
《第15番 イ長調》はブラームスのワルツの代名詞とも言えるよく知られた作品。二人の和声が溶け合う温かな演奏となった。

 

ブラームス《ハイドンの主題による変奏曲》(2台ピアノ:1st 角野隼斗/2nd ジャン=マルク・ルイサダ)

この日初めての2台ピアノによる演奏。2台のピアノは平行に並べられ、いずれも蓋を開けた配置が取られた。向き合った2台ピアノに見られる対話や競演を強調するのではなく、音響の統合と和声の重なりを優先した位置関係と言える。

 

主題から2人の一体感があった。ただ角野の強音がハーモニーのバランスを時に崩すこともあった。

第1、第2変奏も角野の響きの濁りが気になる。

第3変奏は三連符による流動的なテクスチュアが支配的となる繊細かつ入念に構築された対位法的な変奏で、原主題の旋律的感覚を、最も忠実に保つ。ここでは両者の演奏が明快に交差し、二人の方向性が合っていた。
第4変奏では変ロ短調に転じて陰影の深い表情が示されるが、ここでも2人がひとつになり、心地よい演奏が展開された。ルイサダの深みある表現は素晴らしい。

第5変奏では主題が細分化されるにぎやかなスケルツォ風の変奏で、2台のピアノの対話が強調される。ここはまさに2人の対決と言える。スピード感と切れの良さは角野に軍配が上がった。

第6変奏は和音の厚みと荘厳な進行が特徴の劇的な変奏。角野のダイナミックなピアノが冴えた。
第7変奏は子守唄のように揺れるリズムを持つ。2人は優しい歌を聴かせる。角野もよく歌い上げた。

第8変奏では第7変奏とは対照的に、不気味で長くうねる旋律が特徴。2人がぴったりと合う。

 

終曲は、主題の低音進行を基盤とするパッサカリア風の構造をとり、主題動機が重層的に積み重ねられながら壮麗な頂点へと導かれる。ルイサダの包容力に富む和声の広がりと、角野の堂々として強靭なピアノが見事なバランスで一体となり、音楽は揺るぎない構造を獲得した。2人が同じ方向を向いて、ブラームスの巨大な構築物を完成させていた。

 

チャイコフスキー〈金平糖の踊り〉〈花のワルツ〉
― バレエ音楽《くるみ割り人形》より(コチシュ編曲)

(2台ピアノ:1st 角野隼斗/2nd ジャン=マルク・ルイサダ)

角野の後ろには台に載せられたトイ・ピアノが置かれ、〈金平糖の踊り〉ではオーケストラ版でチェレスタが担う妖精的な音色を想起させていた。
〈花のワルツ〉のルイサダの弾く装飾音の繊細なニュアンスは、きめ細やかなレースの刺繍のように上品で柔らかな響きがあった。

 

アンコールは5曲。
ルイサダは角野を「ファンタスティックなアーティスト」と讃え、「フランスの作曲家の作品を」と前置きしたうえで、ルイサダが第1ピアノを弾く。角野は第2ピアノで装飾音を担当した。
演奏されたのは、映画『Diva』より《プロムナード・センチメンタル》(作曲家 ウラディミール・コスマ による主題曲のひとつ)。甘美でどこか憂いを帯びたメロディが印象的。

その後、ルイサダは角野にソロを任せた。

バッハ《神の時こそいと良き時》BWV106は内省的な響きが静かにホールを満たした。


続いて角野が《Santa Claus Is Coming To Town》を弾き始めると、サンタクロースの扮装をしたルイサダと譜面めくりの女性が、1階下手入口からお菓子の入った容器を手に現れ、最前列の聴衆にお菓子を配るという趣向が用意されていた。客席はやがて手拍子に包まれ、会場の空気は一転して、クリスマスの愉しいパーティー会場のような雰囲気に変わった。

 

鳴りやまぬ拍手とスタンディング・オベーションに応えて、今度はシルクハット姿のルイサダと角野が再登場。2台ピアノによるブラームス《ハンガリー舞曲》第6番が演奏された(1st:ルイサダ、2nd:角野)。ここで際立ったのは、フォルティシモにおける両者の音の質の違いである。角野が鋭い推進力で切り込むのに対し、ルイサダの強音は決して叩きつけることなく、響きを空間へと解き放つように鳴らされていた。

そして最後に、ブラームス《ハイドンの主題による変奏曲》よりフィナーレがあらためて演奏され、アンコールは締めくくられた。

 

今回の《VS》シリーズは、文字通りの対決ではなく、師弟関係に基づく温かな交流の場であり、角野にとってはルイサダへの深いリスペクトと学びの場となったと言えるだろう。ルイサダは角野にスポットライトが当たるよう、あえて前に出ることはなかったが、そのピアノの奥深さと広がりは、終始、圧倒的な存在感を放っていた。

 

 



チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35

三浦文彰はヴァイオリンを替えたのだろうか。
3年前のフェスタサマーミューザで聴いた際、私は「〈ストラディヴァリウス“Viotti”から滴るような美音が奏でられる。演奏は完璧。スケールも大きい〉と記した。艶やかな音色と、ウィーン私立音楽大学でパヴェル・ヴェルニコフ、ジュリアン・ラクリンに学んだ背景を思わせる洗練が、強く印象に残っている。」と書いた。

今回、都響のプロフィールに記されていたのは、(株)クリスコ(志村晶・代表取締役)から貸与された1732年製グァルネリ・デル・ジェス「カストン」。楽器の違いによる音色の変化を断定することはできないが、少なくとも音の芯はより太く、ホールにおける存在感は一段と増していた。

 

3年前と同様、艶やかでスケールの大きな演奏であることに変わりはない。しかし今回は、見た目の体躯も含め、演奏全体にどっしりとした安定感が漂っていた。技巧の切れ味や音程の精度を誇示するというより、すでに自分の芸風を完全に掌中に収め、余裕をもってそれを提示している──そんな大家の風格すら感じさせる。

 

さらに印象的だったのは、三浦文彰が近年、指揮にも本格的に取り組むようになったことが、演奏の在り方に確実に反映されていた点である。
小泉和裕・東京都交響楽団との阿吽の呼吸は全曲を通して維持され、その結果、きわめて理想的な協奏曲の演奏が生まれていた。都響の中低弦の重厚さは推進力が強く、ソリストにとってはプレッシャーとなり得るが、三浦の演奏は押し込まれることなく、終始堂々としていた。

 

都響についても、印象に残る点があった。楽員一人ひとりがソリストを「伴奏する」のではなく、三浦の音を聴き取りながら、自らの音をその都度選び取っているように見えたことである。第2楽章では、音楽が自然と室内楽的な親密さを帯び、オーケストラ全体が一つの大きな呼吸体として機能していた。

各パート首席のソロも充実していた。第2主題でのフルート、柳原佑介の演奏は、澄み切った音色の奥にほのかな悲しみを湛え、心が洗われるような感触を残す。続くクラリネット、サトーミチヨの温かな音色もまた、聴き手をやさしく包み込んだ。そこには、個々の技量を超えた、作品そのものへの献身──コミットメントがはっきりと感じられた。

 

この協奏曲を、これほどまでに「名曲として」聴かせる演奏に、もはや不満の余地はない。旋律は伸びやかに歌われ、オーケストラとの関係性も、すでに成熟の域に達している。

それでも、あえてその先を望むとすれば、完成度の高さを越えて、作曲家の内奥に潜む切実さや孤独、あるいは高揚へと至る物語性を、より深く描き切ることだろう。音楽が「美しく鳴る」ことから一歩踏み込み、作品にいっそうの深みを与える地点への到達が、なお望まれた。

三浦文彰の現在地は、すでに極めて高い。そのうえでなお、指揮という視座を得た彼が、作曲家と聴衆を結ぶ媒介者として、今後どのような深みを獲得していくのか。その行方を見届けたいと思わせる演奏だった。

 

 

ドミートリー・ショスタコーヴィチ「交響曲第10番」を作曲した1953年7月から10月25日はヨシフ・スターリンの死(1953年3月5日)から間もない時期にあたる。体制が緩み始めたことを、作曲家自身も敏感に感じ取っていたことは想像に難くない。それが、第9番から8年を経て再び交響曲に取り組むことへの後押しとなった可能性は十分に考えられる。

しかし一方で、文化統制機構──作曲家同盟や検閲制度──は依然として機能しており、恐怖が消え去ったわけではなかった。抑圧は形を変えつつ、なお持続していたのである。

 

初演直後のインタヴューでショスタコーヴィチは、「何か特定のものについての作品ではなく、大きな動揺を体験した人間の感情を表したかった」と語っている。その「動揺」とは、抑圧と死の恐怖にほかならないだろう。解放へのかすかな期待と、消えぬ抑圧の記憶とが交差する過渡期に書かれたこの作品は、外部への告発というより、抑圧を生き延びた内面の意識の記録として聴かれるべきものだと思われる。

作品に頻出するショスタコーヴィチ自身の音型D–S(Es)–C–H(レ・ミ♭・ド・シ)や、第3楽章でホルンに繰り返される、教え子エリミーラ・ナジーロワの名に由来するE–A–E–S–A(ミ・ラ・ミ・レ・ラ)の音型は、そうした内面の意識に呼応する「象徴」と見ることもできよう。

 

小泉和裕指揮、東京都交響楽団による今回の演奏は、そうした抑圧や恐怖の暗さ、息苦しさ、あるいは恐怖の残響を強く感じさせるものではなかった。むしろ都響の高い機能性とヴィルトゥオジティを前面に打ち出した、シンフォニックな性格の明快な演奏であったと言える。

とりわけ終楽章に向かっては、抑圧と恐怖からの「解放」が、比較的ストレートに表現されていたように感じられた。

 

第1楽章は、冒頭のうごめくような低弦から重厚であり、シンフォニックなダイナミズムに不足はない。都響の機能性と推進力は、展開部のクライマックスにおいて存分に実力を発揮した。

しかしその一方で、先に述べたように、この作品に固有の切実さ──恐怖が消え去らぬまま内面化されていく感覚や、緊張が持続する時間の重さ──は、やや後景に退いていたように思われる。

もっとも、木管のソロには深みがあり、随所に作品固有のほの暗さが滲んでいた。とりわけクラリネット、そして展開部冒頭でのファゴット(長哲也)とコントラファゴット(向後崇雄)の重なりには、表層的な明るさとは異なる陰影が感じられ、音楽に内向的な緊張を与えていた。

提示部の第2主題を吹いたフルートの柳原佑介は、チャイコフスキーとは楽器を替えたのではないかと思わせるほど、乾いた響きを聴かせた。その音色は甘美さを排し、ショスタコーヴィチ特有の辛辣さを際立たせていた。

 

疾走する第2楽章アレグロは、叩きつけるような弦の刻みと木管の鋭い叫び、切迫して前へ進む音楽である。だが、小泉・都響の演奏からは、本来この楽章が孕むべき「威圧感」や、背筋が凍るような壮絶さは、あまり感じられなかった。演奏はダイナミックではあるものの、どこか角が取れ、むしろ温かみすら漂わせていたように思われる。

 

第3楽章に現れるショスタコーヴィチ自身の音型D–S(Es)–C–H、そしてナジーロワの名に由来するホルン(西條貴人)によるE–A–E–S–A(ミ・ラ・ミ・レ・ラ)の音型、さらにそれらを反復するオーケストラの響きを含めて、深い意味性はやや稀薄であり、音楽はあくまでシンフォニックな厚みをもった安定した演奏として進行した。
西條のホルンのソロには温かみがあり、音としての充実は確かであった。ただし、それが何かを強く意味し、あるいは聴き手に切実に訴えかけてくるものかと問われれば、そうした感触はさほど強くはなかった。

切迫するショスタコーヴィチ音型とナジーロワ音型の衝突が生むべき緊張感、そしてその後に訪れる減衰の過程も、もうひとつ踏み込んだドラマ性を欠いていたように思えた。

 

第4楽章アンダンテの序奏は、低弦に十分な厚みがあるものの、暗さや悲しさを伴う深く思索的な響きにまでは届いていない。オーボエのソロは艶やかではあるが、痛切さという点ではやや物足りない印象を残した。一方、フルートは透明感を湛えつつも、満たされない寂しさを感じさせ、第1楽章とは明らかに異なる表情を見せる。続くファゴットのソロもまた、陰影のある深い表情を湛えていた。

 

フルートの高音が消えた後、クラリネットの登場とともに雰囲気は徐々に変化し、何かが始まる予感が漂い始める。弦楽全体のうごめきが増し、クラリネットの合図をきっかけにアレグロの主部へと移行する。推進力に富んだ演奏は充実の極みであるが、ピッコロの切り裂くような音も、切羽詰まった緊迫感というよりは、全体のシンフォニックな流れの中に回収されていた。金管によるD–S(Es)–C–Hで断ち切られる頂点も、追い詰められたカタストロフィーというより、強烈な管弦楽の爆発として響いた。

 

中間の瞑想的な場面から、ファゴットに導かれて再びアレグロが回帰する。ここでの弦の厚みは、まさに都響の鉄壁の弦であり、金管によるD–S(Es)–C–Hをものともせず、管弦楽全体が圧倒するかたちで終結を迎えた。

最後まで演奏の充実度は揺るがなかったが、恐怖や抑圧との葛藤、そしてそれを克服するという過程よりも、解放感が前面に打ち出されたポジティブな性格が、結果として強く印象づけられる演奏となった。

 

東京都交響楽団 第1031回定期演奏会Cシリーズ

12月19日(木)14:00 東京芸術劇場コンサートホール

指揮:小泉和裕
ヴァイオリン:三浦文彰
管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター:矢部達哉

 

プログラム
チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番 ホ短調 Op.93

(c) 都響のSNSより転用



 

 


 

 

本日12月20日発売の『モーストリー・クラシック』2026年2月号に、クラウス・マケラ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の11月16日、ミューザ川崎シンフォニーホールでの公演レヴューを寄稿しました。

本誌への寄稿は、今回が初めてとなります。

世界屈指のオーケストラが放つ音の質感、そしてマケラの指揮が引き出した響きの奥行きと推進力――
一夜の演奏体験を、モーストリー・クラシックの誌面ならではの視点で記しました。
掲載ページは66–67頁です。
お読みいただけたらうれしいです。

 

本公演は当初、東京交響楽団の永久名誉音楽監督・秋山和慶の指揮によって行われる予定であった。しかし秋山は今年1月に逝去し、サロネン、ドゥダメルに認められ、ボストン響、フィルハーモニア管、ロサンゼルス・フィル等に次々デビューしたロス・ジェイミー・コリンズが代役として指揮台に立つこととなった。
今年2月に初来日し、武蔵野市民文化会館での「フレッシュ名曲コンサート」で東響と共演しており、その時の指揮が評価され再共演となったと思われる。

 

ウィントン・マルサリス「ヴァイオリン協奏曲」(2015年)

この作品は、アメリカ音楽の過去と現在を「協奏曲」という枠組みに収めようとした意欲作である。ジャズやブルース、ニューオーリンズの祝祭音楽を背景に、夢と悪夢、祝祭と孤独といった感情の流れを、4つの楽章からなる一つの物語として描き出している。作品はスコットランド出身のヴァイオリニスト、ニコラ・ベネデッティに捧げられ、彼女が初演を担当した。

 

今回のソリストは今年デビュー50周年大谷康子。東響のコンサートマスターを1995年から21年間務め、名誉コンサートマスターの称号を贈られた。

コリンズは、覇気に溢れた指揮で作品への共感を示しながら、大谷に丁寧に寄り添った。

 

第1楽章〈ラプソディ〉の導入で独奏ヴァイオリンが自由に歌い出す甘美な旋律は、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲を思わせる官能を帯びていた。大谷の音は艶やかで息が長く、フレーズの語尾まで丁寧に磨かれている。やがてルンバを思わせるリズムが現れ、ハープのアルペッジョが幻想的な光を添えるが、音楽はほどなく鋭い警笛を伴う「悪夢」へと転じる。混乱が断ち切られたのち、独奏は半音階的緊張を高めるカデンツァを経て、次第に穏やかさを取り戻し、「祖先の記憶」へ溶け込んでいく。終結部では日本の祭囃子を思わせるリズムが仄かに立ち上がり、音楽は遠ざかっていくように閉じられた。

 

第2楽章〈ロンド・ブルレスカ〉は、祝祭的コラージュとしての性格が前面に出る。急速な主題と遊園地やサーカスを思わせるエピソードが目まぐるしく交替し、ニューオーリンズのストリート・カルチャーに根差した語法が鮮明に響く。
中盤のカデンツァでは、ドラムスの簡素なリズムに乗って独奏ヴァイオリンのブルース的フレーズが展開される。同じエピソードが繰り返し登場するため、聴き手によってはやや冗長に感じられる場面もあった。

 

第3楽章〈ブルース〉は、本作中もっともマルサリスらしい楽章である。独奏はポルタメントを交えながら倦怠と幻想を帯びたブルースを歌い、コントラバスの規則的なリズムがヴァイオリンを支える。途中で一度高まりを見せるものの、根底に流れるけだるさは失われず、終盤は高音域へ移行し、孤独な気配を漂わせたまま静かに閉じられた。

 

終楽章〈フーテナニー〉では祝祭が視覚的にも強調される。金管の立奏や手拍子が加わり、大谷はほとんど休みなく弾き続ける。やがて足踏みとともに祭囃子めいたリズムが現れ、大谷は客席へと降りて演奏を続ける。ヴァイオリンとオーケストラは徐々に減衰し、祝祭のパレードが遠ざかっていくように作品は終結した。

 

大谷は、日本音楽財団から貸与されているストラディヴァリウス「ロード・ニューランズ」(1702年製)の美質を存分に引き出し、ふくよかで艶のある、倍音豊かな響きでこの長大な協奏曲を語り切った。滑らかで安心感のある音楽づくりは、作品全体を一つの「語り」として成立させる方向に力点が置かれていたと言える。

一方で作品自体は、海外批評でも指摘されてきたように、様式が次々と切り替わる構成が「散漫」「長大」と感じられる面もあった。

大谷のアンコールアルベニス「アストゥリアス(伝説)」。もとはピアノ曲だが、フラメンコ的リズムと哀愁ある旋律からギター音楽として広く知られる。執拗な刻みと、深く歌う中間部の強いコントラストが魅力。無伴奏ヴァイオリンでは、リズムと歌を1人で同時に成立させるテクニックが際立つ。

 

アーロン・コープランド《交響曲第3番》

後半に置かれたアーロン・コープランドの「交響曲第3番」は、スクエア・ダンスやカントリー・フィドルを思わせる動き、強拍を意識した直截的な推進力、そして《市民のためのファンファーレ》に象徴される自由と独立の精神——それらが、この作品をアメリカ的な音楽として強く印象づけている。


第1楽章 モルト・モデラート

この楽章は、はっきりとした短い音の合図が次々と現れ、それが少しずつ重なり合いながら、音楽全体が大きく育っていくように進んでいく。最初は木管や弦の一部から静かに始まるが、次第に楽器が増え、動きも活発になっていく。
途中でいくつか性格の異なる主題が現れるものの、まったく別の旋律が出てくるというより、最初の音型が形を変えながら広がっていく印象が強い。クライマックスでは金属的な響きも加わり、鋭く輝く頂点を築くが、その後は音楽が落ち着きを取り戻し、静かに始まりの雰囲気へ戻って楽章を閉じる。

ここでの演奏は東響の持つ音の明晰さがまず強く印象づけられた。とりわけノットのもとで長年鍛えられてきた透明なアンサンブル感覚と、コリンズの明快な指揮の方向性とがよく一致し、音楽は爽快な推進力をもって展開された。

 

第2楽章 アレグロ・モルト

快速で躍動的な楽章で、全体はスケルツォに近い性格をもっている。冒頭では、ホルンを中心とした金管にファンファーレ風の同じ音型が何度も繰り返され、やがてその音型をもとにした主題がはっきりと姿を現す。前半のクライマックスでのトランペット首席のローリー・ディランの輝きに満ちた音が爽快であった。
一転してトリオではオーボエののどかな3拍子の主題が他の木管とともにカノンのようにからみあう。しかし、そこにピアノによるユーモラスな影が差し込み、単なる安らぎには終わらない。
後半では冒頭の主題がより力強く戻り、金管の音型が重なり合いながら、スネアドラムや大太鼓、シンバルも加わり、圧倒的なクライマックスをつくりあげた。コリンズと東響の切れ味の鋭さと金管をはじめとする輝かしい響きが圧巻だった。

 

第3楽章 アンダンティーノ・クアジ・アレグレット

静けさと透明感が際立つ、交響曲の中でも特に印象的な楽章である。

第1ヴァイオリンの高音の澄み切った主題は冷たく澄んだ空気が広がるようだ。対向配置の第2ヴァイオリンの対位旋律も加わり、瞑想的な雰囲気が醸し出された。透明感のある音色には、コンサートマスター景山昌太郎の的確なリードも寄与していた。

続くサラバンドを思わせる部分はファゴットと低弦のピッツィカートが荘重で、高弦の訴えるような部分が緊張感を高めた。

中間部のフルートがその重々しい雰囲気を癒すように清冽に鳴り渡ると、救済のように癒された。
テンポが速まると、弦と木管によるスクエア・ダンスのような明るいリズムが登場する。楽器を増やして高まるが、リタルダンドして、冒頭の雰囲気に戻っていく。最後はピッコロとチェレスタが中心となり、静かに音が消えていった。

 

第4楽章 モルト・デリベラート

終楽章は、《市民のためのファンファーレ》として知られる堂々とした音楽を導入に据え、交響曲全体をまとめあげる役割を担っている。冒頭は慎重に始まるが、やがて金管と打楽器が加わり、力強く輝かしい響きが広がる。ティンパニと大太鼓、銅鑼が威厳を示すように強打される。
 

「2倍の動きで」と指示された主部は、オーボエに始まりクラリネット、ファゴットそして弦も加わり、カントリー・フィドルを思わせる活発な動きに満ち、休む間もなく前へ進んでいく。金管、大太鼓他の打楽器も加わり、再び大きな流れへと盛り上がっていく。
《市民のためのファンファーレ》とフィドルの動きが交差し、ゆったりとした第2主題が登場するが、またもフィドル的な動きが支配していき、最後は強烈な不協和音で中断する。

ピッコロが場を清めるようにフィドルを再現すると同時に、《市民のためのファンファーレ》も再現される。

終結部では、ファンファーレの動機で輝かしく盛り上がっていく。弦とピッコロをはじめとする木管、シロフォン、ピアノ、トロンボーン、ホルンが刻む三連音型の執拗な反復が推進力を生む。最後はファンファーレ動機がクレッシェンドしながら全管弦楽で輝かしく響き渡り、壮大なクライマックスが築かれた。


金管群は限界点を攻める健闘を見せたが、欲を言えば、さらに余裕をもった力強さが加われば、頂点はいっそう揺るぎないものになっただろう。


2025年12月13日(土)

18:00 開演

東京交響楽団 第737回 定期演奏会
会場

サントリーホール

 

出演

指揮:ロス・ジェイミー・コリンズ

ヴァイオリン:大谷康子

 

曲目

≪大谷康子 デビュー50周年記念≫

マルサリス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調

コープランド:交響曲 第3番

第19回ショパン国際ピアノ・コンクール優勝者エリック・ルーをソリストに迎えたショパン《ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調 作品21》。2年前(2023年6月18日・東京芸術劇場)、ケレム・ハサン指揮・読売日本交響楽団と共演した同曲の演奏を振り返ってみると、当時自分が書いた言葉が、そのまま今回にも当てはまることに気づく。

「気品と詩情に溢れた、バランスのとれた演奏。ショパンの甘美さ、感情の揺れ、繊細な表情を冷静にコントロールする。第1楽章中間部の絶え間ない16分音符の動きも、流れるように進む」
「第2楽章の装飾音の輝きと、こぼれるような美しさは、ため息が出るほど」
「第3楽章の華やかなパッセージも滑らかに弾き切り、3連符が連なる長いパッセージも見事だった」

 

前回のブログにも記したが、今回もまた、ルーの師であるダン・タイ・ソンによる同曲の演奏(2018年4月7日・サントリーホール)を自然と思い出した。

もっとも、ルーの演奏はダン・タイ・ソンの音楽を単に受け継ぐにとどまらない。そこに、ルー自身の世界が確かに築かれていることを実感したのが、アンコール――奇しくも2年前と同じショパン《ワルツ第7番 嬰ハ短調 作品64-2》であった。
前回の印象は「軽やかで陰影のある、滑らかな演奏。音に品格がある」と書いたが、昨日の演奏はそこからさらに飛躍し、繊細さはいっそう研ぎ澄まされていた。ショパンが描こうとしたであろう詩情とイマジネーションが、重層的なグラデーションとなって立ち現れ、聴き手の想像力を幾重にも刺激する。気づけば、深いショパンの世界へと引き込まれていくような感覚に捉われていた。

 

この演奏を聴きながら思い出したのが、ショパン国際ピアノ・コンクールの審査員の一人、ピオトル・パレチニ*の言葉である。
「私たちが求めるのは単なるピアニストではない。ショパンを体現する真の芸術家であり、なおかつ創造性と芸術性を備えた存在だ」
その「求め」の、さらに先の地点に、ルーはすでに到達している――そう感じさせる演奏だった。

*ピオトル・パレチニ(Piotr Paleczny)
1946年生まれのポーランドのピアニスト。1969年ショパン国際ピアノコンクール第3位入賞を機に国際的な評価を確立し、以後ショパン演奏の正統的継承者の一人として知られる。ショパン国際ピアノコンクールではたびたび審査員を務め、楽譜への忠実さと様式感、音楽的品位を重視する審美眼審美眼を持つことで定評がある。

 

ただ一つ、惜しまれた点を挙げるとすれば、第2楽章中間部、弦のトレモロの中でピアノが焦燥と苦悶を帯びたユニゾンを奏でる箇所である。ここでは、より深い悲しみが表現されていてもよかったのではないだろうか。そうであれば、後半における苦悩からの昇華が、いっそう明確に結びついたようにも思われた。
それでもなお、この日の演奏を通して、エリック・ルーが今後さらに大きな成長を遂げていくであろうこと、その伸びしろの大きさをあらためて実感した。次に彼を聴く機会が、今から楽しみでならない。

 

ルイージとN響は、ソリストへの伴奏に細心の注意を払い、オーケストラ全体のアンサンブルもきわめて緻密で、ルーの繊細な表現を確かに支えていたことが印象に残った。オペラ指揮者でもあるルイージならではの、ソリストとオーケストラを緊密に結びつける手腕が、ここでも存分に発揮されていたと言える。

 

後半はニルセン《交響曲第4番〈不滅〉》。
ルイージは現在、デンマーク国立交響楽団の首席指揮者を務めており、同オーケストラとニルセンの全交響曲・協奏曲に加え、小品も録音している。本人も、彼らからニルセンについて多くを学んだと語っている。

YouTubeに残る同オーケストラとの演奏を聴くと、「これは私たちの音楽である」という確信に裏打ちされた積極性と熱意、さらには深い愛情が感じられる。ルイージはそれを真正面から受け止め、音楽の流れを形づくっている。
Symphony No 4 - Carl Nielsen // Danish National Symphony Orchestra with Fabio Luisi (Live)

 

この日のN響との演奏は、第4部終盤、2組のティンパニが対峙する場面でようやく弾け、大きな盛り上がりを見せたものの、そこに至るまでの過程に、期待したほどの熱気が感じられなかった点が気になった。第1部再現部のクライマックスにおける金管は、輝かしく抜けのよい音を響かせていたが、全体としては冷静さが前面に出ており、燃え上がるような推進力にはやや欠けていた。
チェロ首席に水野優也が入っており、ソロでは豊かな表現力で存在感があった。

 

第2部の田園風の雰囲気も、きちんとした演奏ではあるものの、ひなびた味わいはそれほど強くは出ていない。中間部、ピッツィカートの上で展開される舞曲風の音楽も、どこか表情が抑えられている印象を受けた。

 

しかし、その冷静な響きは、第3部で弦楽器が悲劇的な緊張を帯びた主題を奏で始めると、北欧的な音としてむしろ的確な存在感を放ち始める。弦楽セクションにおける対位旋律も引き締まり、N響の弦の充実ぶりがここで最大限に発揮された。弦に呼応するティンパニの打音は鋭く、そこに割って入る木管群の3連符が続く呪文のような動機も、冷徹な響きで浮かび上がる。

再び弦の主題が高揚し、全管弦楽によるクライマックスが築かれるが、この箇所では、もう一段階の踏ん張り、あるいは押し切る力強さが欲しかったところである。

 

第4部に入り、全休止ののち、「不滅」であることを象徴する主題がプレストで登場する。ここでの演奏には明確な熱気が込められ、2台のティンパニによる対決は、視覚的にも音響的にもこの作品最大のクライマックスを形づくった。第1ティンパニは東京フィル首席の岡部亮登。第2ティンパニは兵庫芸術文化センター管弦楽団出身で現在は無錫交響楽団に所属の古川翔也とN響から連絡をいただいた。
 

終結部では、第1部第2主題が壮大に回帰し、ティンパニの打音を伴ってクレッシェンドしながら締めくくられる。しかし、その最後の最後、吹き上がるような勢いには、やや燃焼不足を感じたのも正直なところである。

 

ルイージの指揮は、オーケストラの構造を明晰に示し、音楽を冷静に組み立てる方向性に終始一貫していた。その美点が際立つ場面も多かった一方で、ニルセンにおいては、なお踏み込みの余地を残した印象も否めない。
一方、エリック・ルーのショパンは、完成度と可能性とを併せ持つ存在として鮮明に印象づけられ、次の段階へと進む姿を自然に想像させるものだった。聴き手に「次」を意識させること――それもまた、優れた演奏が残す重要な余韻である。

アムステルダムのロイヤル・コンセルトヘボウで2019年から年3回のシリーズ公演を展開してきた室内楽団「バロックの真珠たち」が、日蘭交流425周年を記念して初来日を果たした。

 

芸術監督を務めるのは、オランダ在住のチェンバロ奏者、
天野乃里子である。バロック音楽が誕生した社会的・思想的背景を重視し、絵画や舞踊と結びつけて総合芸術として提示するその知的なアプローチは高く評価されている。
メンバーは、音楽監督でもある寺神戸亮(バロック・ヴァイオリン)を中心に、ルイス=オッターヴィオ・サントス(バロック・ヴァイオリン)、丸山韶(バロック・ヴァイオリン)、秋葉美佳(バロック・ヴィオラ)、ライナー・ツィパーリング(バロック・チェロ/ヴィオラ・ダ・ガンバ)、角谷朋紀(コントラバス)、そして宮廷舞踊を担う絵美里・ファン・バーレン(バロック宮廷ダンス)と、多彩な顔ぶれがそろった。

 

A.コレルリ《聖夜のための合奏協奏曲》ト短調 Op.6-8(寺神戸、サントス、丸山、秋葉、ツィパーリング、角谷、天野)では、ガット弦が放つしなやかな倍音と、ノンヴィブラートでありながら濁りのない完璧な音程がTOPPANホールを満たした。古楽器のイメージを覆す、精度の高いアンサンブルであった。


天野と寺神戸によるレクチャーでは、終曲〈パストラーレ〉の牧歌的音形が羊飼いのバグパイプに由来し、キリスト降誕を象徴する“聖夜の音楽”としてヨーロッパで共有されてきたこと、ヘンデル《メサイア》の間奏曲も同じ語法に属することが紹介された。

 

続くコレルリ《ラ・フォリア》(Op.5-12より)(寺神戸、ツィパーリング、天野、絵美里)では、宮廷衣裳をまとった絵美里・ファン・バーレンが変奏ごとに舞踊を添え、音楽と身体が本来一体であったバロックの姿を示した。
〈フォリア〉はバロック期に最も広く用いられた変奏主題のひとつであり、コレルリのほか、リュリ、パーセル、ジェミニアーニ、さらにはバッハやラフマニノフにまで受け継がれた歴史的素材であると天野が説明した。王侯貴族が宮廷舞踊を幼少期から学んだという文化的背景を想起させる、説得力のある演奏であった。

 

クープラン《リュリ讃》(L’Apothéose de Lully)(寺神戸、サントス、ツィパーリング、天野)に移ると、ここでも天野と寺神戸 が作品の背景を丁寧に導いた。原題が示す通り、これはフランス音楽の巨匠ジャン=バティスト・リュリ(1632–1687)の死後、その功績を称え“神格化(アポテオーズ)”する意図で書かれた作品であり、イタリアとフランスの二大様式を統合するというクープランの美学が根底にある。
 

音楽は寓意的な情景描写として展開し、リュリが死後エリュシオン(ギリシャ神話に登場する死後の楽園)の野に到達し、オペラの精霊たちと合奏する場面に始まり、メルキュールの到来、アポロンの降臨と続く。アポロンはリュリを讃え、栄誉を授け、パルナッソス山へ導く。物語の途中には、同時代の作曲家たちのざわめきや嘆きが挿入され、作品に生き生きとした表現をもたらす。後半にはイタリアの巨匠コレッリやミューズたちが登場し、最後はリュリ自身の感謝の楽章で結ばれる。

 

天野の作品解説があり、絵美里が流暢なフランス語で各曲標題を朗読し、寺神戸が簡潔に訳して演奏へ入る形式が取られた。

第5曲〈リュリの同時代の作曲家たちが起こした、地下のざわめき〉は、太陽王ルイ14世の寵愛を受け絶大な権力を得たリュリに対する同時代作曲家の嫉妬心を、不協和音まじりの“歯ぎしり”のような音で風刺した楽章である。深刻さより茶目っ気が勝り、楽壇の裏面史を垣間見るようなユーモアがあった。

 

第6曲〈リュリと同時代の作曲家たちの嘆き。フルートもしくは最弱音のヴァイオリンで〉は、リュリがシャルパンティエら有力なライバルを宮廷やオペラ座から遠ざけた史実を踏まえ、干された作曲家たちの嘆きを最弱音で描いたものとされる。この楽章では弱音器を付けたヴァイオリンが用いられ、Violon très adoucis というクープランの指示に従った、くぐもった弱音が響いた。弱音は哀れでありながら、どこか可笑しみを帯び、クープランがリュリの栄光と横暴の双方を記憶にとどめようとした姿勢が読み取れた。

 

第8曲〈コレッリとイタリアのミューズたちがリュリに対して示した優しさと軽悔の念が入りまじった歓迎〉は、表向き穏やかな歓迎の場面であるが、パルナッソス山には“先に殿堂入りした”コレッリが鎮座しており、優しさの中にわずかな距離感がにじむ。その複雑な関係を、音楽は冷ややかな陰影として刻んでいた。

 

終曲へ向かうにつれ、作品は単なる賞賛ではなく“和解と統合”の物語として姿を現す。様式の優劣を競うのではなく、互いの長所を尊重することで新たな美を切り開こうとするクープランの理念が明確になる。

第11曲〈リュリが主題を奏し、コレッリがその伴奏をする。次にコレッリが主題を奏し、リュリがその伴奏をする〉では、寺神戸(リュリ)とサントス(コレッリ)が主題と伴奏を交替しながら奏し、フランス風の優雅さとイタリア式の重厚な語法の対比を鮮やかに示した。とりわけ両者の呼吸の一致は際立っており、装飾音の細部に至るまで緻密に揃えられた演奏からは、長年にわたる深い信頼関係が感じ取れた。

 

第12〜15曲では両様式が交錯し、表情記号もフランス語とイタリア語が併置されている。
曲名には、イタリア語の「ソナタ」ではなく「ソナード」という表記が用いられているが、これは単なるフランス語化ではなく、クープラン自身による造語である。作品内部にはその意図を示す詳細なテキストも用意されているが、今回は演奏会という性格上、時間的な制約もあり詳細な説明は省略された。

 

演奏全体を通して、寺神戸とサントスの見事なバロック・ヴァイオリンの妙技とともに、ツィパーリングの奥行きの深い豊かな音が際立っていた。

 

第1部の最後には、当初のプログラムには記載されていなかったルクレール《タンブラン》が追加された。ここで天野が言葉を添える。「フランス音楽の半分は踊り付きの舞曲であり、J.S.バッハもその語法を受け継いでいる。彼はイタリアへ行くことなく《イタリア協奏曲》を書き、フランスへ赴くことなく《フランス組曲》を書いた。ドイツの宮廷ではフランス文化が取り入れられ、フランス語が話されていたほどです」。

 

絵美里・ファン・バーレンの踊りは、私の抱いていた宮廷舞踊のイメージを鮮やかに覆した。バロック舞踏と聞けば、ゆったりとした所作と優雅な身振りを想像しがちだが、彼女の動きは舞台の隅々を駆け抜けるように俊敏で、鋭い切れ味を帯びていた。瞬時に軸を移し替えるステップや、身体を鋭角的に使うポーズは、現代バレエのようでもあり、時にフラメンコを思わせる瞬間すらあった。
調べてみると、バロック期のフランス宮廷舞曲はスペイン舞踏の身振り語彙から強い影響を受けていたという。つまり、《タンブラン》の中にスペイン的な躍動が感じられたのは偶然ではなく、フランス宮廷が周縁文化の身体性を吸収しながら洗練させていった歴史そのものが、踊りのうちに刻み込まれていたのである。

 

第2部ヘンデル(1685-1759)から始まった。
天野は再び語る。「ヘンデルの活躍した時代は日本でいえば江戸中期、そして彼が仕えたハノーファー選帝侯は、のちに英国王ジョージ1世へと即位した。ヘンデルは王侯の“専属作曲家”ではなかったが、神話や聖書、寓意的物語世界を巧みに音楽へ織り込み、王が公言できない政治的・文化的メッセージを作品に託した」。

その後、天野のチェンバロ独奏で《メヌエット ト短調》(ハープシコード組曲第2集第1番 HWV434第4曲)と、《パッサカリア ト短調》(ハープシコード組曲第1集第7番 HWV432第6曲)の2曲が、柔らかな表情で演奏された。

 

続いて天野は「メヌエットは踊りの音楽であり、ステップがある。踊りやすく演奏するためのテンポ設定が大事です」と説明し、絵美里・ファン・バーレンが再び舞台に現れ、サントスと天野の演奏に合わせて《メヌエット ト短調》(ハープシコード組曲第2集第1番 HWV434第4曲)で踊りを披露した。メヌエットの踊りとはこういうものなのか、という発見があった。


最後は、A.ヴィヴァルディ《四季》
(《和声と創意の試み》Op.8 より)
(寺神戸、サントス、丸山、秋葉、ツィパーリング、角谷、天野)である。

これもまた、従来の古楽器演奏のイメージを刷新する、鮮やかでありながら温かみを備えた、生き生きとした演奏であった。音楽そのものが呼吸するかのように躍動し、まるでヴィルトゥオーゾ集団の演奏に立ち会っているかのようである。

 

しかも今回の《四季》には、ソネット(原作に付随する詩)の朗読が加えられた。それを担ったのは、先ほど《リュリ讃》で流暢なフランス語を披露していた絵美里・ファン・バーレンである。今度は日本語による朗読で、その柔らかな語り口が、演奏全体に親密で温かな空気をもたらした。

特筆すべきは、その朗読が演奏と“演劇的”に密接に連動していた点である。たとえば《秋》第1楽章、絵美里が「酔っぱらう」と言葉を発した瞬間、寺神戸がふらつきながらヴァイオリンを構え、酒に酔ってよろめく村人の姿を身振りで表現する。これは単なる視覚的な冗談ではない。音楽と身体の動きが噛み合うことで、音楽が立体的に立ち上がるのである。
私はこれまで数多くの《四季》を聴いてきたが、ここまで“音の意味”が身体を通して具現化された演奏は記憶にない。

 

「冬」でも圧巻の瞬間が訪れた。第1楽章で寺神戸のソロは、凍てつく風を切り裂くように鳴り響く。冷気が皮膚に触れるかのような鋭さと、そこに宿る自然な音楽的呼吸は、まさに名人芸であった。続く第2楽章では、他のメンバーがピッツィカートで雨音を紡ぎ出す。その一音一音は、ガット弦ならではの温かさと湿度を帯び、しとしとと落ちる雨粒の気配を描き出す。

 

「夏」第2楽章の蠅の羽音の描写は、音の粒子が空中に浮遊するかのように繊細で、自然の情景が間近に感じられた。そして終楽章の嵐では、古楽器の表現力の豊かさをあらためて実感する。ガット弦が羊の腸から作られた素材であることを思わせるように、自然の気象の荒々しさ、生々しさが眼前に展開した。全員の演奏がソリスト級であったが、寺神戸はさらにその先を行く存在であった。

 

忘れてはならないのが、バロック・チェロライナー・ツィパーリングである。その音は単なる低音ではなく、響きの“地平”を定める存在であった。温かく豊かでありながら、演奏の陰影を自在に変える柔軟性を備え、彼が支えるハーモニーの厚みがあるからこそ、アンサンブルはどれほど自由に振る舞っても決して崩れない。寺神戸が大胆に動いても、音楽は常にツィパーリングの重心によって、帰るべき場所を与えられていた。

この《四季》は、単に巧みな演奏ではなかった。「名曲をもう一度聴いた」のではなく、「作品が眼前で生まれ直す瞬間」に立ち会ったのである。

プログラム

第1部

A.コレルリ: 聖夜の為に作曲された合奏協奏曲 ト短調 Op.6-8

1. ヴィヴァーチェ- グラーヴェ

II. アレグロ III.

アダージオ・アレグロ -

アダージオ

IV.ヴィヴァーチェ

V.アレグロ

VI. ラルゴ

パストラーレ

(寺神戸亮、L-O.サントス、丸山韶、秋葉美佳、R.ツィパーリング、角谷朋紀、天野乃里子)

A.コレルリ: ラ・フォリア (ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ Op.5-12より)

(寺神戸亮、R.ツィパーリング、天野乃里子、絵美里・ファン・バーレン)

 

F. クープラン: 「リュリ讃」

1.エリゼの野にいるリュリ、オペラの霊たちと合奏する

II. リュリとオペラの霊たちのためのエール

III. エリゼの野にメキュールが飛んで来て、アポロンが降りてくることを知らせる

IV.アポロンが降りてきて、ヴァイオリンとパルナソス山の席をリュリに贈る

V.リュリの同時代の作曲家たちが起こした、地下のざわめき

VI. リュリと同時代の作曲家たちの嘆き。フルートもしくは最弱音のヴァイオリンで

VII. リュリが、パルナソス山へ連れていかれる

VIII. コレッリとイタリアのミューズたちがリュリに対して示した優しさと

軽悔の念が入りまじった歓迎

への

IX.アポロンへのリュリの感謝

X. リュリとフランスのミューズたち=コレッリとイタリアのミューズたち

XI. リュリが主題を奏し、コレッリがその伴奏をする

XII. トリオによるソナード(重々しくアフリース

X IV.トリオによるソナード(躍動)

XV.トリオによるソナード(生き生きと)

(寺神戸亮、L-O.サントス、R.ツィパーリング、天野乃里子)

 

ルクレール《タンブラン》

(寺神戸亮、L-O.サントス、R.ツィパーリング、天野乃里子)

 

第2部

G.F.ヘンデル:メヌエット ト短調 (ハープシコード組曲第2集第1番 HWV434第4曲)

G.F.ヘンデル:パッサカリア ト短調 (ハープシコード組曲第1集第7番 HWV432第6曲)

(天野)

 

G.F.ヘンデル:メヌエット ト短調 (ハープシコード組曲第2集 第1番 HWV434 第4曲) (サントス、天野、絵美里・ファン・バーレン)

 

Aヴィヴァルディ: 四季(「和声と創意の試み」 Op.8 より)

協奏曲第1番 ホ長調 RV.269「春」

1.アレグロ

II. ラルゴ

III. アレグロ

協奏曲第2番 ト短調 RV.315「夏」

Lアレグロ・ノン・モルト

II. アダージオ

III. プレスト

協奏曲第3番ヘ長調 RV.293「秋」

1.アレグロ

II.アダージオ・モルト

III. アレグロ

協奏曲第4番ヘ短調 RV.297「冬」

1.アレグロ・ノン・モルト

II. ラルゴ

III. アレグロ

(守神戸売、L-O、サントス、丸山韶、秋葉美佳、R.ツィパーリング、角谷朋紀、天野乃里子)


 

国内外で活躍を続けるピアニスト・小井土文哉さんが、
故郷・釜石で津波の被害を受けた教会のピアノ――通称「復活ピアノ」を奏でるTVI(テレビ岩手)の特集番組が放送された。生まれ育った街、震災の記憶、そして音楽への道を切り拓いた原点。その軌跡が丁寧に綴られる番組がネット上に公開されている。

【特集】ピアニスト小井土文哉さん 津波被害から修復「復活ピアノ」演奏に込めた思い (テレビ岩手ニュース) - Yahoo!ニュース (本日12月9日配信)

 

番組によれば、小井土さんは中学3年の卒業間近に震災を経験し、避難先の高台から津波が押し寄せる光景を目の当たりにしたという。その後、被災地支援に駆けつけた演奏家たちの姿に心を動かされ、音楽で人を支えたいと志した。音楽の原点に「生きるとは何か」という切実な問いが刻まれていることは、彼の演奏に備わる“言葉を超えた説得力”の源泉なのだろう。
母校・釜石中学校での演奏会でも「今自分が生きていることが幸せなことで、1日を大切に生きてほしい」と生徒たちにメッセージを送った。

 

私が初めて小井土さんの演奏に触れたのは2022年。その時のレヴューをこちらに記しているが、スクリャービンに特別な何かを感じたことを書いている。
https://ameblo.jp/baybay22/entry-12729250850.html
 

2023年「音楽の友」の仙台クラシックフェスティバルのレポートには、『スクリャービンの「2つの詩曲Op.32」「ピアノ・ソナタ第4番」で澄み切った神秘的な響きを聴かせた』と書いた。
 

そして今年2024年2月の王子ホールのリサイタルでも、スクリャービン《ピアノ・ソナタ第3番》の印象は鮮烈で、私は「左手の強靭な響きは、ロシアの大地のように雄大で揺るぎない土台を築く。その土台があればこそ、満天の星のような高音もさらに煌めきを増す」と書いた。
https://ameblo.jp/baybay22/entry-12884916439.html


今回の放送を見て、スクリャービンの演奏が単なる技巧や表現意欲の強さだけではなく、スクリャービンの音楽に宿る「闇と光」「海と波動」といった象徴が、小井土さん自身の体験と結びつき、それを音楽へ浄化しようとする意志から生まれていたことをようやく理解した。

 

さらに心を動かされたのは、津波で泥に埋まりながら再び息を吹き返した小井土さんと20年の交流がある新生釜石教会「復活ピアノ」の存在だ。鍵盤を押せば音が鳴ったという奇跡のような瞬間を経て、地元のピアノ職人の手により修復され、9年前の再生コンサートで小井土さんが演奏した。今回の特集は、その物語に再び光を当てた。

楽器が蘇ることと、音楽による再生、この二重奏が小井土文哉の演奏に気迫と叙情を与えているのではないか。


2026年2月には再び釜石で演奏の機会が予定されているという。震災から15年――。節目を迎えるこの土地で、スクリャービンの音楽はどのような新しい相貌を見せてくれるのだろうか。
小井土文哉の歩みは、まだ「現在進行形」の物語であり、その続きを聴く日が待ち遠しい。

 



勅使川原三郎の演出・振付・美術・衣裳・照明による舞台は、シンプルでありながら強い象徴性を帯びていた。中央に大きな皿状の円形ステージを据え、主役陣はその上で歌い演じる。喜びの場面では白く、絶望や悲しみの場面では影が濃くなる。


四人のダンサー(佐東利穂子、アレクサンドル・リアブコ、オフィーリア・ヤング、ハビエル・アラ・サウコ)は、登場人物の心理の影となり、時にその内側の動揺を可視化するかのように踊りを織り込んでいく。

 

第2幕でオルフェオが復讐の女神たちを説得し、黄泉の国への扉が開くと、巨大な白百合が舞台上に姿を現す。勅使川原はそれを「純粋性の象徴」と呼ぶが、エウリディーチェがオルフェオの不可解な態度に不信を募らせるにつれ、その百合は翳りを帯び、楽園の輝きが濁り始める。

 

新国立劇場合唱団は頭頂まで覆う黒衣に身を包み、個性を徹底して消去した存在として、ほとんど動かずに歌う。第1幕ではエウリディーチェの死を悼むニンフと羊飼いたち、第2幕第1場では復讐の女神たちや死霊たち、第2場では精霊たちとして声の役割を変化させるが、照明はほぼ当てられず、彼らは舞台に影の層をつくり出していた。


主役である歌手陣は、合唱に比べれば自然な動きがあるが、やや抑制された動作に思える。

この静止性の強い造形は、能の舞台を思わせる。能では演者のわずかな身振りや声の抑揚が、観客の想像力を最大限に喚起するが、本公演もまた、抑制された動きが感情を直接描かず、観客の解釈に委ねる仕組みで進む。

ただし、ダンサーたちは荘重な音楽に寄り添う場面では、能の所作を思わせる沈痛な動きを見せるが、黄泉の国の混沌や内面が爆ぜる場面では、一転して鋭く跳躍し、身体を大きく打ち出す瞬間も多かった。

 

プログラムに記された勅使河原による演出意図を要約すれば、すべてが分類され、速度と効率に回収される現代社会に対し、抽象性によって“思考の隙間”を取り戻し、観客が作品と深く向き合うための感受性を呼び起こそうとしているということだ。その象徴性が独自の緊張感を生み、この舞台を現代オペラとして刷新した側面は確かにある。

しかし、ダンサーの動きについても、4人という小人数によるスケール感の不足や、動きがパターン化され、同じような動作が続くように思えたこと、合唱にも動きを入れればよりスケール感が増したであろうことなど、物語の劇的推進力や娯楽性がやや後退し、オペラ本来のドラマの快感が削がれた印象も否めなかった。

 

オルフェオ役のサラ・ミンガルドは、やや声がこもり気味で、カウンターテナーが担う場合に比して感情の突出が抑えられ、第3幕第1場のアリア「エウリディーチェなしにどうすればいいのか」も、激情の高まりが十分には伝わってこなかった。

 

エウリディーチェ役ベネデッタ・トーレは、若々しい声質と直線的な情緒が役の純粋さをよく表していたが、オルフェオが顔を合わせないことで生じる苛立ちや不安、疑念が複雑に絡み合う心理劇の核までは踏み込めず、感情の揺れが一方向にとどまった点は惜しい。

 

一方、アモーレ役の杉山由紀は、第1幕第2場のアリア「見たくともこらえなさい」で情感の瑞々しさを打ち出し、確かな説得力をもたらした。

 

園田隆一郎指揮東京フィルは8-8-6-4-3編成で、ヴィブラートを抑えつつ透明感を保ちながら、劇的場面では十分な迫力を示した。今回はウィーン版だが、初演の指揮者鈴木優人の提案により加えられたパリ版の「復讐の女神たちのエール」を今回も第2幕第1場の最後に挿入した。ここでの東京フィルの躍動感溢れる演奏は舞台全体を覚醒させる力を持っていた。

ただし、同じくパリ版由来の「精霊の踊り」のフルート・ソロは採用されず、斎藤和志の木製フルートによる典雅な響きを思えば、これは惜しまれる選択だった。

園田の指揮は歌手陣に緊密に寄り添い、誠実に呼吸を共有していた。グルックが改革の要とした管弦楽伴奏つきレチタティーヴォも、声楽とオーケストラが乖離することなく自然に結びつき、アリアとレチタティーヴォが一体となって流れ出す、音楽劇本来の有機的な推進力をつくりだした。

 

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クリストフ・ヴィリバルト・グルック オルフェオとエウリディーチェ

Orfeo ed Euridice / Christoph Willibald von Gluck

 

【指 揮】園田隆一郎

【演出・振付・美術・衣裳・照明】勅使川原三郎

【アーティスティックコラボレーター】佐東利穂子
 

【エウリディーチェ】ベネデッタ・トーレ

【オルフェオ】サラ・ミンガルド

【アモーレ】杉山由紀

【ダンス】佐東利穂子、アレクサンドル・リアブコ、オフィーリア・ヤング、ハビエル・アラ・サウコ

【合唱指揮】冨平恭平

【合 唱】新国立劇場合唱団

【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

【コンサートマスター】依田真宣

 

写真:© 阿部章仁/新国立劇場のSNSより転用