ベイのコンサート日記

ベイのコンサート日記

音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

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ジャコモ・プッチーニ作曲 「マノン・レスコー」 全4幕

指揮:ドナート・レンツェッティ

演出:キアラ・ムーティ

合唱監督:ロベルト・ガッビアーニ

美術:カルロ・チェントラヴィーニャ

衣裳:アレッサンドロ・ライ

振付:ラッファエーレ・シチニャーノ

照明:ヴィンセント・ロングエマーレ

 

マノン・レスコー:クリスティーネ・オポライス

レスコー:アレッサンドロ・ルオンゴ

騎士デ・グリュー:グレゴリー・クンデ

ジェロンテ・デ・ラヴォワール:マウリツィオ・ムラーロ

エドモンド:アレッサンドロ・リベラトーレ

宿屋の主人:ヴィンチェンツォ・サントーロ

音楽家:ガイア・ペトロー

舞踊教師:アンドレア・ジョヴァンニーニ

点灯夫:ジャンルーカ・フローリス

軍曹:カルロ・マリンヴェルノ

船長:ロレンツォ・グランテ

 

ローマ歌劇場管弦楽団、ローマ歌劇場合唱団

 

 オーソドックスな演出、手慣れた指揮と演奏、歌手陣の充実は「椿姫」と同様に、非常にまとまりの良い舞台だ。

 

 オポライスのマノン・レスコーは賛否あるようだが、私はとてもいいと思った。終演後飛び跳ねながら観客に手を振る素顔のオポライスとプッチーニが設定した18歳のマノンとはイメージ的に重なる。世間知らず、身勝手な女性という性格が良く出ていた。オポライスの突き放したような歌い方も奔放なマノンのキャラクターが良く出ていたのではないだろうか。

 

 グレゴリー・クンデの騎士デ・グリューは、クンデの実年齢から少し厳しいものがあったかもしれないが、上品で伸びやかな高音と若々しい歌声で違和感はなかった。

演出のキアラ・ムーティはカーテン・コールにも登場していたが、砂漠が常に舞台上にあり、その上に建物も、豪華な部屋も設営されるアイデアは納得がいく。砂漠は荒れ果てたマノン・レスコーの心を象徴しているとのことだが、欲と金の現実社会を表しているともとれる。文字通り富も名声もすべては砂上の楼閣というところか。

衣裳や照明、舞台美術の品のよさと美しさは読み替え演出とは違い、エンタテインメントとしてのオペラを味わうには最高だった。

 

舞台下手に第1幕から置かれたままのデ・グリューが詩を書き連ねたノートが最後まで置かれていたが、それは途中からデ・グリューがマノン・レスコーについての思い出を語るノートに変貌したか、プレヴォーが書いた「騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語」の原作本を表すとみてもいいだろう。

 

脇を固めるレスコー役のアレッサンドロ・ルオンゴ、ジェロンテ役のマウリツィオ・ムラーロ、エドモンドのアレッサンドロ・リベラトーレもとても安定していた。

 

ドナート・レンツェッティは、ここぞというときには盛り上げるオペラ指揮者らしいオーソドックスな指揮ぶり。ローマ歌劇場管弦楽団の持つ音色がまた素晴らしい。技術的なことを越えて、色彩感と色気がある。こういう音は日本のオーケストラにはなかなか出せない。「椿姫」に続き、満足度の高い公演だった。

 

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916日、浜離宮朝日ホール)

 客席には堤剛や4日前読響で共演したシルヴァン・カンブルランの姿もあった。読響のときのチャイコフスキー「ロココの主題による変奏曲」では鮮やかな演奏を聴かせてくれたアンドレイ・イオニーツァだが、疲れがあるのか今日は少し精彩がなかった。

 

 メンデルスゾーン「チェロ・ソナタ第2番」はさらさらと流れる小川のように滑らかに進む。テクニックは素晴らしく音程も正確だが、表面をなぞるような演奏で心に訴えてこない。フォーレの小品「シチリアーノ:「夢のあとに」「蝶々」も同様だ。

 

 後半のマルティヌー「ロッシーニの主題による変奏曲」がこの日最も良かった。メンデルスゾーンでは譜面を置きながらの演奏だったのが、マルティヌーでは暗譜。最初の主題から前半の眠ったような演奏から一挙に生き生きとして見違えるような表情が出ている。最後にもう一度出る主題も気宇壮大。ブラヴォの声も飛ぶ。

 

 ところが、最後のプロコフィエフの「チェロ・ソナタ」はメンデルスゾーンよりはるかに集中しているものの、音に真の力が宿っておらず、どこか表面的に感じられる。NHKFMの収録もあり、イオニーツァは時々足を踏み鳴らして全力で弾いていることはわかるのだが、残念ながら音には反映されない。素晴らしいテクニックと音楽性のチェリストも人の子であり、不調の時もあるのではないだろうか。

 

 ピアノの園田奈緒子はイオニーツァとの共演経験もあり、息の合った演奏を展開していた。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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(9月16日、新国立劇場オペラパレス)

 「LE PROMESSE(レ・プロメッセ)」とは、イタリア語で「約束された者たち」のこと。新国立劇場はオペラ研修所開所20周年を記念して、若手オペラ歌手によるガラコンサートをオペラパレスで開催した。

指揮はダグラス・ボストック。オーケストラは藝大フィルハーモニアが2017年修了公演『コジ・ファン・トゥッテ』以来、新国立劇場に登場。

若手オペラ歌手として世界から東京・初台に結集したのは、ロンドン、ミラノ、ミュンヘンの著名な歌劇場オペラアカデミーの精鋭たち。日本からは、プロ歌手として国内外で活躍する新国立劇場オペラ研修所の修了生、加えて、2016年に創立された「ANAスカラシップ」による海外研修の成果を携えた現役の研修生たちが登場。合唱は約40名の合唱団。 


【指 揮】ダグラス・ボストック (※飯守泰次郎より変更。)

【管弦楽】藝大フィルハーモニア管弦楽団

【合 唱】新国立劇場合唱団 二期会合唱団 藤原歌劇団合唱部


R.ワーグナー『タンホイザー』より「この聖なる殿堂には」/新国立劇場オペラ研修所研修生、新国立劇場合唱団、二期会合唱団、藤原歌劇団合唱部

G.ヴェルディ『シモン・ボッカネグラ』より「このほの暗い夜明けに」/サラ・ロッシーニ(ミラノ・スカラ座アカデミー)

G.ドニゼッティ『ルチア』より「我が祖先の墓よ~やがてこの世に別れを告げよう」/城 宏憲(第10期修了)

S.ラフマニノフ 『アレコ』より「みんな寝ている」/マイケル・モフィディアン(ロンドン・JPYAP

G.プッチーニ『ラ・ボエーム』より「冷たき手を」/チャン・ロン(ミュンヘン・バイエルン州立歌劇場オペラ研修所)

G.プッチーニ『ラ・ボエーム』より「私の名はミミ」/セレーネ・ザネッティ(ミュンヘン・バイエルン州立歌劇場オペラ研修所)

F. チレア『アドリアーナ・ルクヴルール』より「苦しみの快楽」/清水華澄(第4期修了)

V. ベッリーニ『ノルマ』より「ご覧ください、ノルマ様」/サラ・ロッシーニ、アンナ・ドリス・カピテッリ(ミラノ・スカラ座アカデミー)

A.ドヴォルザーク『ルサルカ』より「月に寄せる歌」/安藤赴美子(第3期修了)

G.プッチーニ『トスカ』より「テ・デウム」/桝 貴志(第5期修了)、新国立劇場オペラ研修所研修生、新国立劇場合唱団、二期会合唱団、藤原歌劇団合唱部

G.ヘンデル『リナルド』より「風よ、竜巻よ」/パトリック・テリー(ロンドン・JPYAP

G.ビゼー『カルメン』より「一仕事思いついたんだ」/清水華澄(第4期修了)、新国立劇場オペラ研修所研修生

C.F. グノー『ファウスト』より「清らかな住家」/チャン・ロン(ミュンヘン・バイエルン州立歌劇場オペラ研修所)

G.ロッシーニ『チェネレントラ』より「悲しみと涙に生まれ育ち」/アンナ・ドリス・カピテッリ(ミラノ・スカラ座アカデミー)、新国立劇場オペラ研修所研修生

新国立劇場合唱団、二期会合唱団、藤原歌劇団合唱部

 

G.ヴェルディ『ドン・カルロ』より「友情の二重唱」

城 宏憲(第10期修了)、桝 貴志(第5期修了)、新国立劇場オペラ研修所研修生

 新国立劇場合唱団、二期会合唱団、藤原歌劇団合唱部

 

C.M.v.ウェーバー『魔弾の射手』より「すぐに眠れたものなのに」

セレーネ・ザネッティ(ミュンヘン・バイエルン州立歌劇場オペラ研修所)

W.A.モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』より「厚かましい娘ね」

マイケル・モフィディアン(ロンドン・JPYAP)、安藤赴美子(第3期修了)、新国立劇場オペラ研修所研修生

G.ヴェルディ『ファルスタッフ』より「世の中すべて冗談だ」

出演者全員

 

 飯守泰次郎が体調不良で欠場したが、急な代役のスイス・ハルウィル音楽祭の音楽監督を務めるダグラス・ボストックが見事な指揮を見せた。柔軟で流れの良い指揮は、正直な感覚としては飯守泰次郎よりも手慣れているように感じられた。

 

 出演歌手の中では、G.プッチーニ『ラ・ボエーム』より「冷たき手を」を歌ったテノールのチャン・ロン(ミュンヘン・バイエルン州立歌劇場オペラ研修所)が最も印象に残った。立体的に響く強靭さがあり、かつリリカルな面も聴かせる。

 

 次はS.ラフマニノフ 『アレコ』より「みんな寝ている」を歌ったバリトンのマイケル・モフィディアン(ロンドン・JPYAP)が、重厚な歌を聴かせてくれた。

* JPYAP=ジェッテ・パーカー・ヤング・アーティスト・プログラムの略。

 

 G.ヴェルディ『シモン・ボッカネグラ』より「このほの暗い夜明けに」を歌ったソプラノのサラ・ロッシーニ(ミラノ・スカラ座アカデミー)が、少し硬いが力のある歌唱。

 

 G.プッチーニ『ラ・ボエーム』より「私の名はミミ」を歌ったソプラノのセレーネ・ザネッティ(ミュンヘン・バイエルン州立歌劇場オペラ研修所)のたっぷりとした歌声。G.ヘンデル『リナルド』より「風よ、竜巻よ」のカウナター・テナー、パトリック・テリー(ロンドン・JPYAP)は出だしは不安定だったが、徐々に調子を取り戻した。

G.ロッシーニ『チェネレントラ』より「悲しみと涙に生まれ育ち」を歌ったメゾ・ソプラノのアンナ・ドリス・カピテッリ(ミラノ・スカラ座アカデミー)は安定していた。

 

 一方賛助出演したオペラ研修所修了生で、いまや日本のオペラ界を担う中堅、ベテランとなった安藤赴美子(第3期修了)、清水華澄(第4期修了)、桝 貴志(第5期修了)、城 宏憲(第10期修了)は、日本の歌手に共通する弱点を感じた。それは発声法だ。海外の若手は全員身体全体をリラックスさせ、お腹から無理なく発声するのに対し、日本の歌手は力みかえり肩に目いっぱい力が入ったように、無理やり大きな声を出そうとする。それは半ば叫び声のように聞こえるときもある。

 

 なぜあのように力みかえるのか。声が美しくないのか。不思議で仕方がない。何か日本の教育のやり方が間違っているか、過去からの誤った伝統が根付いているとしか思えない。本当はOBではなく、新国立劇場オペラ研修所研修生の現役生を主役に立ててほしかったとも思った。

 

 藝大フィルハーモニア管弦楽団は東京藝大の演奏研究員(非常勤講師)によって組織されているプロオケで、ポストックの指揮のもと軽快な演奏を聴かせていた。

 



 

 


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 (916日、東京芸術劇場コンサートホール)

 2010年に読響の常任指揮者に就任、フランス音楽や現代曲を積極的に取り上げ、ドイツ音楽を得意としてきた読響に新しい風を吹き込んだカンブルランも来年3月で読響を去る。

この日はオール・チャイコフスキー・プログラム。メインのチャイコフスキー「交響曲第4番」は、予想していた明るく色彩感豊かで開放的という演奏とは一味違うもので、正直驚いた。一言で言えば絶対音楽的で、交響作品としての構造を余すところなく明らかにする演奏だった。

 

1楽章はテンポを遅めにとり、緻密に音楽を積み上げていく。読響の響きは磨き抜かれ引き締まっている。第2楽章も情緒に流されることなく重みがある。第3楽章の「弦のピッツィカート」にはカンブルランらしい明るい響きがあったが、緊張感があるためウキウキとした気分にはならない。休むことなく入る第4楽章は明るく色彩的にも感じられるが、どちらかと言えば重厚で骨太。コーダはテンポを速めたが、派手に盛り上げるだけの演奏とは一線を画す。客席から興奮したブラヴォが飛び交うということはなく、聴衆はカンブルランと読響が真正面からチャイコフスキーに取り組んだ演奏に圧倒され、声も出ないという雰囲気さえ感じられた。

 

昨年2月にカンブルランは交響曲第5番を取り上げている。そのときのレヴュー(下記)を読み返してみたが、5番でもほぼ同じ印象だったので、カンブルランのチャイコフスキー解釈は、少なくとも交響曲に関しては一貫していると言っていいかもしれない。
https://ameblo.jp/baybay22/entry-12245142011.html

 

2015年チャイコフスキー国際コンクール優勝のアンドレイ・イオニーツァをソリストに迎えた「ロココ風主題による変奏曲」。公開リハーサルを見学した友人の話では、カンブルランは読響に対してかなり細かく指示を与えていたという。イオニーツァとカンブルランは昨年9月に初共演しており、カンブルランはイオニーツァの才能を高く評価している。リハーサルでカンブルランがイオニーツァに注文をつけることはほとんどなかったのではないだろうか。リハーサルの成果が演奏に反映され、カンブルランと読響のバックは繊細であり、優雅なこの変奏曲にふさわしいものがあった。

イオニーツァのチェロを聴くのは2度目。2016年のリサイタルのレヴューはここに。
https://ameblo.jp/baybay22/entry-12214796864.html

 

あれから2年。ひとまわり大きくなったようでもあり、変わらない部分もあるような。その変化はまだはっきりとはわからない。ただチェロのテクニックは相変わらず素晴らしく安定しており、演奏には余裕が感じられる。余裕を感じさせるのは少し進歩しているということかもしれない。

アンコールのJ..バッハ「無伴奏チェロ組曲から第1番プレリュード」は、ストレートに胸に飛び込んでくるようなシンプルさ、飾らない語り口があり、イオニーツァらしくて好感が持てた。

 

順序が逆になったが、最初に演奏された「幻想序曲《テンペスト》」は美しい旋律もあるが、演奏時間が18分と長いためやや冗長で、カンブルランと読響の演奏も珍しく少し粗さがあった。金管と弦のバランスも悪く、金管に傾きすぎているように聞こえた。

 

写真:カンブルラン(c)読響 

 

 


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914日、現代ギター社GGサロン)

プログラム

第1部(斎藤明子ソロ)

●ファンタジー(ヴァイス)

●ソナタOp.15-2 初版(ソル)

●マリーア(ガヴォット)/マズルカ/メヌエット/アラビア風綺想曲(タレガ)

●ハンガリー幻想曲(メルツ)

 

2部(藤原浩哲&斎藤明子デュオ)全て藤原浩哲編曲。

●グラナダ、カディス、アストゥリス、セビーリャ(アルベニス~藤原編)

●別れのノクターン(グリンカ~藤原編)

●月の光(ドビュッシー~藤原編)

●ワルツ・ピカピカ(作者不詳~藤原編)
●カンシオン&ボサ・ノバ(モンテス~藤原編)
●鐘のひびき(ペルナンブーコ~藤原編)

●ティコティコ(アブレウ~藤原編)

 

 ギターのリサイタルはひさしぶり。前半は斎藤明子のソロ。12弦ギターを使用。1曲目「ファンタジー」(ヴァイス)こそ少し流れが滞ったが、2曲目「ソナタOp.15-2 初版」(ソル)のリズム感のある作品からリラックス。古典的な形式美に加えてユーモアも感じた。

タレガの4曲は味わい深い。最初の3曲のそこはかとない哀愁と「アラビア風綺想曲」の異国情緒は魅力的だ。ギターで奏でられる音楽は親密で優しい。斎藤明子は「ハンガリー幻想曲」(メルツ)では民族色豊かで華やかな演奏を聞かせてくれた。

 

 後半は藤原浩哲と斎藤明子のデュオ。藤原がすべての曲を2本のギター用に編曲した。出版され、多くの人に弾いてもらうことを念頭に置いているとのこと。今回は、旋律を彩る伴奏的な部分は自由に思い切りアレンジしたと言うが、中にはオリジナルを生かしたり、2つのギターが弾きやすいようにしたもの(別れのノクターン、月の光)もある。

 

アルベニスのピアノ作品「スペイン組曲」がギターで弾かれるとスペイン情緒がさらに濃厚になる。2本で弾かれることでハーモニーが厚くなる。メロディーラインは主に斎藤明子が担当していたが、前半の一人で旋律とハーモニーを弾く難しさから解放され、伸び伸びと良く歌う演奏だった。藤原によれば「グラナダ」「カディス」はピアノ版を生かし、「アストゥリス」「セビーリャ」はもうひとつのギターに新しいフレーズを加えたという。

 

藤原は常にyoutubeなどで、魅力的な旋律の曲を探していると言う。そうした中から見つけた曲がグリンカの「別れのノクターン」。おそらくこの「ノクターン《告別》」(1839)ではないか。藤原はノクターン《別れ》だったので、「別れのノクターン」とつけたと言うが、なかなかいいタイトルだ。
https://www.youtube.com/watch?v=8g7_HR_2A0s

「月の光」(ドビュッシー)と続けて弾かれたが、2つのギターが合わせやすいように編曲したというだけあって、シンプルで曲の良さを味わった。

 

クラシック一本やりできた斎藤明子にとって後半の「ワルツ・ピカピカ」以下のラテンの曲は初挑戦だと言う。しかし、ボサノヴァを佐藤正美に師事した藤原浩哲の乗りの良い伴奏に乗って、とても楽しそうに弾いていた。初挑戦とは思えない。一時はエレキギターにも挑戦したという斎藤明子には今後もぜひラテンやボサノヴァの分野を開拓してほしいものだ。最後の「ティコティコ」はノリノリだった。

 

アンコールは二人で「月光」(ソル)と「アルハンブラの思い出」(タレガ)が披露され、さらに藤原が『今日は斎藤明子さんのリサイタルなので、最後は斎藤さんにポンセの「エストレリータ」を弾いていただきます』と締めた。斎藤明子の「エストレリータ」は優しく柔らかなフレーズ感が素晴らしい。斎藤明子の個性と人柄が演奏に表れている。

 

斎藤明子の「エストレリータ」は20数年前、彼女がソニー・ミュージックから出した2枚目のアルバム『アールソバージュ』の1曲目に収録されていたことを思い出した。今はそのCDは手元にないが、今日の生演奏を聴いて当時聴いた記憶が蘇った。音楽の持つ力、記憶を呼び覚ます力はすごいと改めて実感した。

 


 


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911日 武蔵野市民文化会館小ホール)


プログラム
メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲第1番ニ短調Op.49
メシアン:世の終わりのための四重奏曲

 

 シトコヴェツキー・ピアノ三重奏団はアレクサンダー・シトコヴェツキー(ヴァイオリン)、ウー・チェン(ピアノ)、イサン・エンダーズ(チェロ)の三人で構成されているが、全員が30代前半と若い。メンデルスゾーンが「ピアノ三重奏曲第1番」を書いた時も30歳。彼らの演奏は同じ世代のメンデルスゾーンの自画像を彷彿とさせるようなエネルギーと若さに溢れていた。

第1楽章のコーダ、第3楽章スケルツォ、第4楽章の終結部は今のシトコヴェツキー・ピアノ三重奏団にしか出せない勢いがあった。彼らはプライヴェートでも充実した生活を送っているようだ。彼らの演奏に若さのエネルギーとともに『満ち足りた幸福感』を感じたのはそのためだろう。そうした幸福感はメンデルスゾーンにふさわしいのではないだろうか。

 

ほかに印象に残ったのは第1楽章再現部。チェロによる第1主題に対してヴァイオリンが美しく対位旋律をつけ、続いてピアノがカデンツァ風のフレーズで入ってくる部分が絶美だった。

第2楽章でも同じような美しさが持続されることを期待したが、流麗な演奏ではあるものの、そこまではかなわなかった。更に言えば、この楽章は美しさだけでは物足りないと思う。できればしみじみとした寂静感、深い叙情性もほしい。そうした味わいは彼らがこの先年齢と経験を重ねて行けば、自然にもたらされるものと期待したい。

 

後半はクラリネットに吉田誠を迎えたメシアンの大作「世の終わりのための四重奏曲」。吉田は第5回東京音楽コンクール木管部門第1位および聴衆賞。現在アムステルダム在住。ちなみに吉田も31歳の若さだ。クラリネットのソロだけの第3曲「鳥たちの深遠」での弱音から強音まで、繊細の極致から劇的な頂点にいたる表現の幅、緩急の変化、鳥の声の模倣までクラリネットによる吉田の多様な表現力は聴き手を圧倒した。

イサン・エンダーズは微細な弱音から徐々に高まりを見せる神秘的な雰囲気の第5曲「イエスの永遠性への賛歌」で永遠に続くような長いチェロのソロを見事に弾いた。

第7曲「世の終わりを告げる天使のための虹の混乱」では全員が交互に激しいソロを展開、最後には一体となりメシアンの色彩感豊かな世界が広がった。リズム感のあるピアノのウー・チェンも積極的に参加していた。

 

 シトコヴェツキーは終曲の第8曲「イエスの不滅性への賛歌」で、ピアノの和音の上で、長いヴァイオリン・ソロを集中力を持って弾いた。高音が天空に消えていくように曲が終った後も弓を構えたまましばらく動きを止めていた。20秒ほどの静寂は祈りの時間でもあった。

 

 メシアンにおいても、聴き終わったあと心地よい疲れがあった。それは若い奏者たちのエネルギーの放射に刺激されたものであり、爽快感とも言えるものだ。宗教的な感動とは多少違う。名曲と呼ばれる作品にはさまざまなアプローチが可能であり、シトコヴェツキー・ピアノ三重奏団と吉田誠の演奏は、今の彼らならではの解釈だったと思う。

 

 シトコヴェツキー・ピアノ三重奏団のメンバーの略歴を最後に紹介したい。

アレクサンダー・シトコヴェツキー(ヴァイオリン)はモスクワの音楽一家生まれ。祖母は1949年ショパン・コンクールで、チェルニー・ステファンスカと優勝を分け合った。叔父はドミトリー・シトコヴェツキー。

 

ウー・チェン(ピアノ)は、上海出身。6歳からピアノを始め、上海音楽学院、メニューイン・スクール、英国王立音楽院で研鑽を積んできたウー・チェン。メニューイン・スクール在学中の1999年にはロイヤル・フェスティヴァル・ホール、2003年にはウィグモア・ホールでリサイタルを行い大絶賛された。
 

イサン・エンダーズ(チェロ)は欧州の名門楽団「シュターツカペレ・ドレスデン」首席奏者に弱冠20歳で就任。ソリストに転身後はウィーン楽友協会やライプツィヒ・ゲヴァントハウス、ラインガウ音楽祭などでオーケストラと共演、リサイタルで聴衆のハートを揺さぶり、「室内楽の聖地」とも言われる米マルボロ音楽祭でもきらめく才能で重鎮たちの注目を集めた。

吉田誠(c)Akira Muto

 






 


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曲目

J.S.バッハ/フーガ ト短調 BWV578「小フーガ」

     ミサ曲 ロ短調 BWV232

出演

トン・コープマン[指揮・オルガン]

マルタ・ボス[ソプラノ]

マルテン・エンゲルチェズ[カウンターテナー]

ティルマン・リヒディ[テナー]

クラウス・メルテンス[バス]

アムステルダム・バロック管弦楽団

アムステルダム・バロック合唱団

 

 冒頭トン・コープマンがオルガンでJ.S.バッハ「フーガ ト短調 BWV578《小フーガ》」を弾いた。聴衆が日常の雑事から離れられるのでは、というコープマンの意向。これが実に素晴らしい演奏だった。切れ味があり立体的。4声の対位法と対主題を伴う複雑な構造を目が覚めるほど明解に弾き分ける。唖然。終わった直後『すごーい!』という感嘆の声が上がったが、まったく同感。同じ声の主かどうか不明だが、「ミサ曲 ロ短調 BWV232」でも何度か声が上がっていた。それを非難するレヴューも多いとのことだが、個人的にはあまり気にならなかった。

 

 「ミサ曲 ロ短調 BWV232」の演奏前に、コープマンはマイクを持ち、『この演奏を台風と地震の犠牲者に捧げます。札幌の公演は残念ながらキャンセルとなりました。今日が日本での最後のコンサートになります。』と告げた。胸が熱くなった。

 

   「ミサ曲 ロ短調」の演奏は室内楽的なまとまりのよいもの。合唱は25名。発音がはっきりとしており、温かな声のハーモニーは聴きやすい。アムステルダム・バロック管弦楽団の演奏もとてもうまい。ナチュラル・トランペット3人とナチュラル・ホルンはオーケストラに溶け込み、前面に出てくることはない。テクニックは素晴らしく、音程も正確だ。

 

 今回ステージに近い席がいいと思って、前から10列目中央を買ったが、もっと前の席だと細かな部分までさらにはっきり聞き取れたかもしれない。すみだトリフォニーホールの音響は悪くないが、アムステルダム・バロック管弦楽団&合唱団の演奏を聴くには、教会が一番合うのかもしれない。もっとも彼らは普段アムステルダム・コンセルトヘボウを主な会場としているのだろうが。

 

 ソリストはソプラノ1&2をマルタ・ボス一人が担当したが、無理のない自然な発声がいい。カウンターテナー、マルテン・エンゲルチェズは第24曲「アニュス・デイ」のソロが胸に迫った。テナーのティルマン・リヒディも好演。バスのクラウス・メルテンスは悪くはないものの正直いまひとつの印象。

 

2011128日東京文化会館で聴いたヨス・ファン・フェルトホーヴェン指揮オランダ・バッハ協会合唱団&管弦楽団による「ロ短調ミサ曲」 は15人による合唱がまるでソリスト15人によって歌われているかのように明瞭にそれぞれのパートが聞こえ、透明感にあふれた高度なポリフォニーが生まれていた。それはソリストが合唱も兼ねるコンチェルティストとリピエニストというバッハ時代の仕組みを採用していたためだ。 コンチェルティストはパートのリーダーでソロもコーラスも歌う。リピエニストはコーラスのみを歌う。


 コープマンとアムステルダム・バロック管弦楽団&合唱団はそうした緻密さ厳格さはないものの、まろやかなハーモニーに包まれ温かく親しみがあり、すぐ隣にある音楽のように聞こえた。

 

 


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 2010年から日本フィルの正指揮者になった山田和樹、プレトーク冒頭本人曰く『いつも凝ったプログラムですみません(苦笑)』。今日のプログラムは日本の三善晃とフランスの作曲家、プーランク、デュカス、デュティユー。三善はデュティユーに私淑していたことから選ばれた。

 

トークで山田は、「勝手な思い出」と題して、作品や作曲家にまつわる個人的なエピソードを話したが、これが滅法楽しかった。

 

1曲目プーランク「シンフォニエッタ」を初めて指揮したのはパリ室内管弦楽団。リハーサル当日ホテルをチェックアウトするわずかな隙に、すぐ横に置いてあったカバンが消えていた。最初は盗まれたとはわからず、ひょっとして部屋に置き忘れたかと戻ったがやはりない。狐につままれたような気分になったが、防犯カメラを見ると犯人が映っていた。カバンにはスコア、燕尾服、そのほか一式全て入っていたという。幸い財布は身に着けていた。警察への被害届など出していたら、リハーサルの時間がとれなくなり、結局練習は1回通しただけで本番。

 

2曲目三善晃の思い出。

山田の母校「神奈川県立希望ヶ丘高校」校歌の作曲者と紹介。ピアノはソリストが使うのでチェレスタで、と山田は器用に旋律を弾いた。『2/2拍子。難しい混声合唱だが、素晴らしい校歌。入学式で初めて聴き頭を殴られたようなショックを受けた。三善先生の《レクイエム》を東京混声合唱団で指揮することになりお会いした。吹けば飛ぶような小柄な方で驚いた。「先生の世界に近づけますかどうか」としか言えなかったが、「信じてますから」とおっしゃっていただき、本当にうれしかった。ブザンソン優勝の時にも「山田君の果実がさらに充実していくように」と励ましていただいた。』

 

3曲目デュカス:交響詩「魔法使いの弟子」。

ディズニー「ファンタジア」で使われたストコフスキー版。ストコフスキーを尊敬している。編曲、大胆な改変では変人扱いされているが、個人的には彼の編曲は的を射ていると思う。腑に落ちる。

 

 4曲目デュティユー「交響曲第2番《ル・ドゥーブル》」
ドゥーブルはダブルのこと。小さなオーケストラを囲むように大きなオーケストラが位置する。鏡のような効果を楽しんでください。現代音楽にギリギリ入る。美しい曲です。

 

最後ソリストの萩原麻未さんについて。最高の褒め言葉としてですが、一言で言うと悪魔的です。健康的ですがインスピレーションが次々と出てくる。すごいです。

 

 

以上長文ご容赦。肝心の演奏はどうだったのか。

 

三善晃「ピアノ協奏曲」が最も面白かった。萩原麻未は山田和樹が言うように、憑依したがごとく、長い髪を振り乱しての熱演。鍵盤と文字通り格闘するように、音を刻み続ける。日本フィルも最大音量で咆哮する。さすがの萩原のピアノもその音量にしばしばかき消される。オーケストラとソリストは一丸となり突き進む。リズム感、強弱、ここぞというクライマックスの創り方に、フランス音楽の影響を受けたにせよ、三善晃の日本的な感性と、それにすんなり同化していく山田和樹日本フィル、萩原麻未の日本人演奏家としての感性をはっきりと感じた。作品との相性の良さはまさに「血」というものだろう。

 

プーランク「シンフォニエッタ」は、粋な響きとまでは行かない。弦は濁り、アンサンブルの精度がもうひとつ。

デュカス「魔法使いの弟子」のストコフスキー版はテューバが使われていることだと言う。演奏は楽しめた。ファゴットのソロが出色。

 

デュティユーは、2つのオーケストラの対比が、はっきりと住み分けられていないように感じた。2年前カンブルラン読響で聴いたときも同じような印象をもった。だとすれば、それは演奏者ではなく、デュティユーのオーケストレーションに問題があるのではないだろうか。ふたつに分かれたオーケストラのミラー効果、響き合い、あるいは対話がなかなか聞き取れないのは作品自体のせいかもしれない。

 

写真:山田和樹(c)Yoshinori Tsuru

 


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アントニ・ヴィトが指揮するルトスワフスキ「交響曲第3番」(1983)は実に面白かった。彼の手になると、すべての音にメッセージが感じられ、ひとつひとつの楽器がそれぞれ異なる人のように声を上げているように聞こえる。それがフルオーケストラとなると、群衆が口々に叫んでいるようでもある。そのメッセージは激しいがどこか心地よい。

 

 作品のクライマックスですべての楽器が不協和音を叫ぶ中から調性を感じられる弦が美しくたくましく浮かび上がってくる瞬間は、感動的だ。音楽的にはベートーヴェン「運命」の動機に似た4音動機と展開がこの作品の構造であり、「運命」と同じく闘争から勝利へ、暗闇を抜けて明へと同じ展開とも言える。
 同時に、この感動は村上春樹のいくつかの小説を読んだときの感覚に似ていると思った。「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「騎士団長殺し」などに出てくる井戸やトンネルを抜けたあと現実世界へ戻ってくる時の感覚、ファンタジーワールドを経て、違う世界が目の前に開けてくる。新しい人間に生まれ変わるような、輪廻転生に通じるような不思議な感覚を、ヴィトが指揮するルトスワフスキで味わった。

 

 最初にワーグナー「序曲《ポローニア》」も演奏された。ヴィトと都響の相性はとても良い。またぜひ都響のゲストで登場してほしいものだ。

 

 シャルル・リシャール=アムランのショパン「ピアノ協奏曲第2番」とアンコールの「ノクターン第20番(遺作)」は、聴き手から離れたところに孤立していた。美しい音楽だがその美しさは誰のためにあるのかわからない。心が通い合うことがない世界にアムランのショパンはあった。

 アムランがヤマハのピアノから創り出した音はショパンの時代のピアノのように可憐な響きがある。サロンで聴くように親密な響きなのだが、なぜか聴き手の心には響いてこない。アムランはピアノに情感を込めることを避けているようにさえ思われた。なぜ彼がそうした演奏をするのか謎である。

 

写真:アントニ・ヴィト(cJ.Multarzynski シャルル・リシャール=アムラン(cElizabeth Delage

 

 




 


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大井剛史(指揮)、東京交響楽団、西村翔太郎(ピアノ)、曾田瑞樹(ヴィブラフォン)
プログラム:

阿部亮太郎「漆黒の網目」(初演)

小山和彦「ピアノ協奏曲第3番」(初演)
山内雅弘「SPADA~ヴィブラフォンとオーケストラのための」(初演)
森垣桂一「交響曲(2018)」(初演)

 

1979年以来オーケストラ作品の創作と発表のための運動を展開している作曲家グループ『オーケストラ・プロジェクト』。
 芸術文化振興基金をはじめさまざまな基金や財団の助成を得て40年近く継続されているが、自主公演のため、その費用の大部分は4人の出品作曲家の自己負担となっている。オーケストラの公演は多くの演奏者や大きなホールを必要とするので、経費は莫大なものとなる。

個人の資金だけではコンサート開催は困難な状況なので今回、クラウドファンディングを行った。これはオーケストラのコンサート全体としてみても大変珍しい試みだという。プログラム表2に支援者リストが掲載されていたが、150名を越える人が載っており、目標額にかなり近づいたようだ。

 

会場に行って驚いたのは入場者の多さ。自由席だが、1階は8割以上埋まっている。2階もバルコニーの2列目は空席が多いが1列目はほぼ満席。さすがに3階席は少ないようだが、通常のオーケストラでも空席が目立つ公演が多いことを思えば、現代音楽それもすべて初演で、この動員力は大したものだ。

 

作曲家4人の顔ぶれは毎年入れ替わるが、中では今日も参加している山内雅弘が7回と多い。興味深いことに、4人の新作中最もエンタテインメント性が高く聴衆の受けも良かったのが、その山内の作品だった。

ヴィブラフォン奏者の曾田瑞樹の依頼で作曲されたと言うヴィブラフォン協奏曲ともいうべき大作。ヴィブラフォンのピッチを半分下げた微分音をつくるため、中古のヴィブラフォンと研磨のための工具を購入して鍵盤の裏側を薄く削ったという。その涙ぐましいまでの努力は、作品の面白さで報われたと言えるだろう。
 ヴィブラフォンは通常のピッチのものと併せて2台置かれ、曾田瑞樹が超絶技巧でまるで前衛ジャズのような音楽を叩きまくる。オーケストラも激しく咆哮、律動し、興奮を呼ぶ。客席の拍手も他の三作とは違って熱烈なもの。

この作品なら再演も可能では、と思わせた。大井剛史東京交響楽団も熱の入った演奏だった。

阿部亮太郎の「漆黒の網目」も、小山和彦の「ピアノ協奏曲第3番」(西村翔太郎のピアノ)も、トーンクラスター的な部分が多く、特に目新しさは感じなかった。森垣桂一の「交響曲(2018)」はどこかストラヴィンスキー「春の祭典」を思わせる。

 

 今回の全体テーマのタイトルは「新たな耳で世界を拓く」。ドビュッシー没後100年を機にドビュッシーの「新たな耳」に思いを致すことだという。プレトークでは小山和彦が『使い古された語法も組み合わせで新しさが出る』と語ったが、やはり語法の古さは否めない。それで新しさを感じさせるのは困難が伴う。

 

 現代音楽と言いつつも手法は過去のものであるとすれば、山内作品のようにエンタテインメント性で勝負するというのも、ひとつの突破口、切り口になるのではないだろうか。時代の流れもそういう方向を向いているような気もする。

 

 大井剛史と東京交響楽団の演奏が実に集中力があり、立派だったことは特筆したい。自腹を切ってまでオーケストラ作品を書く作曲家への最大限の応援をしたいという意欲が感じられた。爽やかな後味があった。

 

 




 

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