ベイのコンサート日記

ベイのコンサート日記

音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

レヴューに入る前に、フランソワ=グザヴィエ・ロトの意図を知るため、インタビューの要約から始めたい。 

ロトはサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)を10代の頃から知り、小澤征爾との録音を通して「理想のオーケストラ」と感じてきた。自身もフルート奏者時代、パリ・オペラ座で小澤と短時間ながら共演した経験を持つ。  
ブルックナーでは第8番を最も愛し、「構成と表現の両面で最も高みに到達した作品」と語る。今回はハース版を選択。ブルックナーが実際のオーケストラの響きを経験したことが反映された、より成熟した姿と考えている。  
演奏で重視するのは、ドラマトゥルギー(劇的構造)、透明性、フレージング。ブルックナーを誇張し、「重厚すぎる音楽」にしてはいけないという。
一方で、最終的に目指すのは、聴き手が「時間の感覚を失う」ほどの、形而上学的、精神的、詩的な音楽体験である。  
今回の第8番では、重厚さを排した明晰なアプローチが、どこまで深い精神的体験へと結びつくかが最大の聴きどころとなる。

 
事前にこうした予備知識を得るとともに、
今年7月17日のSWR交響楽団との第8番(今回と同じハース版)YouTubeも聴いたうえで演奏会に臨んだ。(映像ではリゲティに続いて演奏されている) 

https://www.youtube.com/live/0h0XtWQC32E

 

演奏の方向性はSWR響と同じだが、オーケストラの能力と合奏力、そして生演奏ならではの桁違いの迫力も相まって、SKOが優ると感じた。弦は16型の対向配置。コントラバスは下手側に並んだ。  

 

ロトがインタビューで語った目標は、ほぼ達成されたと言ってよい。  
第1楽章 Allegro moderato アレグロ・モデラート(ほどよく速く) ハ短調  

テンポは速く、3つの主題がやや前のめりに展開される。  

第1主題も、多くの指揮者なら低弦をたっぷり鳴らして重厚感を生み出すところだが、ロトのテンポでは緊張感こそ強いものの、いわゆる峻厳なブルックナーにはならない。   展開部で金管が強奏するクライマックスは引き締まっているが、震撼するほどではない。  

しかし、コーダ直前、ブルックナーが死を暗示するものとして説明したと伝えられる部分では、金管、とりわけトランペットの力強いハ音が突き刺さるように鋭く繰り返され、ロトのいう「劇的な」緊張感が支配した。  

 

第2楽章 Scherzo. Allegro moderato – Trio. Langsam スケルツォ アレグロ・モデラート ― トリオ。ゆっくりと ハ短調(トリオ:変イ長調)  

この楽章は、ブルックナーが語った「ドイツの鈍重な田舎者、野人ミヒェル」とは思えないほど、鋭く引き締まり、切れ味のよいスケルツォとなった。  

ロトはしなやかな身体の動きから、躍動感あふれる音楽を引き出す。中間部では木管とホルンがくっきりと浮かび上がり、響きの明晰さが素晴らしい。  

トリオも「野人ミヒェルが田舎を夢見る」というより、すっきりと洗練された舞曲の趣。スケルツォが戻ると、金管が再び輝かしく鳴り響いた。  

 

第3楽章 Adagio. Feierlich langsam; doch nicht schleppend アダージョ。荘重にゆっくりと、しかし引きずらずに 変ニ長調  

ここではロトの狙いがピタリと決まった。  

私の感想としては、この日の演奏は第3楽章と第4楽章が出色だった

自分の記録のためにも、ここから先はSWR響とのYouTubeのタイムを入れながら、詳細に振り返っておきたい。  

冒頭(41:39)は、第1主題の表情に、私が期待していたような神聖さがやや乏しく、少し物足りなかった。  

しかし、見事なホルンのソロ(45:59)の後、チェロによる第2主題第1句(46:12頃、音飛びあり)に続き、ヴィオラがその主題を弾き始めた頃(46:55)から、何かが変わった。   これまでにない高みに到達した。SWR響との演奏にはなかった深みがあった。  

ワーグナー・テューバによる第2主題第2句(47:41頃)も、柔らかなハーモニーを響かせる。その旋律が上行する(48:02頃)には、天上へ向かうブルックナー特有の世界が感じられた。やがて金管も加わり、(48:27頃から)大きく盛り上がっていく。  

弦の経過句を経て、第1主題が再現される。冒頭よりも深みが増している。徐々に高揚するものの、やがて静まり、フルートが清めのような響きを聴かせる。  
第2主題第1句がチェロ、ヴィオラ、金管へと受け継がれ、ワーグナー・テューバが第2主題第2句を奏す。やがてピッツィカートだけとなって静まる(54:56頃)。  
ここからさらに高みに入った。  
ヴァイオリンとヴィオラ、そしてチェロの高音による澄み切った響き(55:42前後)から聴こえてきたその音は、天上への門を静かに開くようだった。  
このとき、ロトが目指す「時間の感覚が消えていくほどの音楽体験」が、本格的に始まったのだと確信するに至った。  
ブルックナーの第8番を、これまで何度聴いてきただろう。私はこの箇所を聴き逃していたのだろうか。  
第1主題の2回目の再現(56:01頃)が、ヴィオラの六連符に支えられて始まる。やがて、それまで登場しなかったティンパニが加わり(57:30頃)、最初のクライマックスを形成する。  

それが収まると、ハース版の特徴が耳でもよく分かる、ノヴァーク校訂の1890年第2稿では削除されている第209小節から218小節までの10小節に入る(57:51頃)。   これは、ハースが第1稿の素材を第2稿に復活させた部分である。  
いったん静かな時間が生まれたあと再び盛り上がるが(58:35頃)、ほどなく先ほどと似た落ち着いた経過部へ移る。209小節の静けさがフラッシュバックするような、既視感ならぬ「既聴感」を覚えた。ここはノヴァーク校訂の1890年第2稿とハース版、どちらがよいのだろう。フルトヴェングラーもこの部分をカットしている。一方、ハース版を常用した朝比奈隆は、金子建志との対談で「書いてあるものは全部やる」と語っている。  
もう一度音楽が高まり、突然のゲネラル・パウゼとなる(59:44頃)。そして、ここから本当のクライマックスが始まった。 シンバルが打ち鳴らされ(1:00頃)、金管が第1主題後半の天へ向かう上行音階を壮大に吹奏する。そして、もう一度シンバル。サイトウ・キネン・オーケストラがつくり出した、この壮大な響きを何と形容すればよいのだろう。   時間を超越した世界の頂点についに到達した。  
もう一度、第1主題後半が奏され、ハープがその場を清める。ホルンとワーグナー・テューバに導かれ、聖なる神殿への道が開けていく。清らかな弦の後奏とともに、長い旅を終えた。  

 

第4楽章 Finale. Feierlich, nicht schnell フィナーレ。荘重に、速くなく ハ短調 → ハ長調  
第4楽章(1:05:50頃)は、SKOの強力な金管が圧倒的な威力を発揮する楽章となった。 ホルンとトロンボーンによる第1主題、そしてトランペットのファンファーレが炸裂する。ロトが目指す、劇的で長大なドラマの結末へ向けて音楽は進んでいく。
テンポは速め。ヴィブラートを抑えた、引き締まった響きで、金管はしっかりと鳴らす。   弦とホルンによる第2主題(1:07:18頃)の後、ティンパニの打音に続いて、コントラバス、クラリネット、ファゴットによる第3主題が荘厳に登場する(1:09:32頃)。  
そして再び休止(1:10:12頃)。  
フルートなどによるコラール風の旋律に、ピッツィカートと木管が続き、やがてティンパニを伴った管弦楽による劇的なクライマックスとなる(1:11:08頃)
金管群の輝かしさは、まさにSKOならではだ。  

静まった‘1:11:47頃)のち、コンサートマスター豊嶋泰嗣による短いヴァイオリン・ソロを経て、ホルンが第1主題を暗示し、展開部へ入る直前(1:12:16頃)まで。ハース版では第211小節から230小節にあたり、ノヴァーク校訂の1890年第2稿では削除されている部分である。  

ここも、ハースが第1稿の素材を第2稿に復活させた部分にあたる。  

朝比奈隆はこのカットを「一番気に食わない」と言い、一方ノヴァーク版を指揮する宇野功芳は「あまり必要は感じない。ソロ・ヴァイオリンは効果的とは言えない」と語っている。  
しかし実際に聴いた私の感想は少し違った。 この部分が入ることで、直前のクライマックスの興奮をいったん鎮め、次の展開へ向かう呼吸が生まれる。これはこれで悪くない。  
木管と金管の対話の後、柔らかな弦が続く。ややテンポを速めながら、(1:14:49頃から)再びクライマックスへ向けて展開し、それまでに現れた主題素材が対位法的に絡み合っていく。  
金管によって第1主題が確保され、再現部(1:18:16頃)が始まる。  
トランペットのファンファーレが素晴らしい。SKOの金管には、もう何も言うことがない。   そのまま強烈な展開となり、弦に第2主題が現れる(1:20:36頃)。少し落ち着き、休止(1:21:35頃)。 ホルンとワーグナー・テューバによるコラール風の句に続き、ティンパニのロールに乗って第3主題が始まる(1:22:23頃)。しだいに高揚し、(1:23:24頃)金管が第1楽章の第1主題を壮大に吹奏する。

ここから先は、ロトが重視するドラマトゥルギーによって長大な構造を組み上げていく、その最終段階である。  
フルートが付点音符による短い経過句を吹き、ティンパニの打音。そして休止(1:24:31頃)。コーダに入る。
第1、第2ヴァイオリンが上行音型を奏でる中、ホルン、続いてワーグナー・テューバが荘重に響く。そして、各楽章の主要主題が対位法的に重ね合わされる。第1楽章の第1主題、第2楽章スケルツォの主題、第3楽章の主題、そして第4楽章の主題。   最後はソ・ミ・レ・ドと下降する動機とともに、ついに長大にして広大な建造物が完成した(1:27:17頃。映像はリゲティを含むためののタイム)。

演奏時間は76分前後。SWR交響楽団との演奏とほぼ同じであった。  
しかし、音が消えても演奏は終わらなかった。ロトは挙げた手をそのまま止め、静寂を保った。 ホールは完全な静けさに包まれた。しわぶき一つない。25秒を過ぎた頃だろうか。ロトが静かに手を下ろした。しかし、なお動かない。沈黙はさらに続いた。   その間、36秒か、40秒ほどだっただろうか。ロトのいう「時間の感覚がなくなる」とは、このことも差すのだろう。  

カーテンコールでは、ロトが楽員を立たせながら、自身は指揮台に上らず、そのまますぐ袖へ戻る場面もあった。そこには、ロトのサイトウ・キネン・オーケストラに対する満腔の敬意と、心からの感謝が示されていたように思う。

 

参考資料:

【特集】フランソワ=グザヴィエ・ロト インタビュー | セイジ・オザワ 松本フェスティバル
 

 

写真©OMF2026大窪道治 セイジ・オザワ松本フェスティバルのSNSから転用

前回は、ピエール・ブリューズ指揮・東京交響楽団の公演から、角野隼斗を迎えた前半について書いた。角野自作「ピアノとオーケストラのための《無我》」(世界初演)と、カプースチン「ピアノ協奏曲第4番」を中心に取り上げた。

前半の記事はこちら ↓
https://ameblo.jp/baybay22/entry-12976612578.html

 

今回はその続きとして、後半に演奏されたベルリオーズ《幻想交響曲》について書く。この演奏がまた素晴らしかった。ブリューズという指揮者への評価を、さらに一段高める演奏であった。

 

ブリューズの指揮について、2年前東響との初共演で指揮したサン=サーンス「交響曲第3番《オルガン付き》」について、「隅々まで明解で作品の構造が透けて見えるよう。その上に繊細さや色彩感があり、旋律の歌わせ方も自然」と書いた。その印象は今回も変わらない。だがベルリオーズ《幻想交響曲》では、それに加えて響きの密度の濃さと、徹底した曖昧さのなさに驚かされた。東響がこれほどまで一つになって鳴るのか、と思わせる演奏であった。ブリューズは譜面台を置かず、暗譜で指揮した。

 

東響は16型(16-14-12-10-8)。コンサートマスターは景山昌太郎

 

第1楽章「夢、情熱」

序奏では弱音器をつけた弦が透き通るような響きを聴かせる。一方、強奏はしなやかで強靱だ。フルートとヴァイオリンによる〈恋人の固定楽想〉にも、その透明感がある。提示部は繰り返した。

劇的な展開部も明晰で力強い。再現部での主題のテンポの揺れも自然かつ正確で、コーダ前の大きな盛り上がりにも揺るぎがない。静かなコーダに至るまで、一貫して明解な演奏であった。

 

第2楽章「舞踏会」

今回のオーケストラ配置でまず目を引いたのは、2台のハープをステージ前面、指揮台を挟んで左右に置いたこと。視覚的な効果は大きかったが、率直に言えば、響きとしてハープが特に際立って聴こえたわけではなかった。

ただ、ブリューズは第3楽章では、ベルリオーズの指定通りイングリッシュ・ホルンと舞台外のオーボエを対話させ、オーボエを4階下手付近(情報をいただきました。ありがとうございます。)から響かせていた。また4人のティンパニ奏者をステージ奥に広く配置し、遠雷に大きな空間的広がりを与えていた。そう考えると、第2楽章で2台のハープを左右前面に置いたことも、この作品の空間性を意識した配置だったのかもしれない。

 

演奏は第1楽章同様、透明感にあふれる。ワルツのリズムと表情は極めて自然で、洗練されていた。こうしたワルツ特有のリズム感やテンポ感は日本人が苦手としがちなところだが、ブリューズの指揮にはまったく無理がない。

 

第3楽章「野の風景」

演奏が始まる前に、2人のハープ奏者は袖に下がった。

先に書いたように、イングリッシュ・ホルンと舞台外のオーボエによる牧童の対話は、ホールの空間を大きく使っており、その広がりのある響きは新鮮であった。そこにフルート、ヴァイオリンが加わり、やがて全体へと発展していくが、ここでも透明感が際立つ。その透き通った響きは、彼岸の光景を思わせた。

 

やがて〈恋人の固定楽想〉が現れ、音楽は不安げに高まっていく。ここでの弦の対位旋律の明晰さ、透明感にも瞠目した。不安が高まる場面でのチェロの充実も特筆すべきだろう。頂点に達しても響きは決して膨張せず、引き締まっている。

クラリネットとフルートの主旋律は、不安が少し遠のき、ほっとした感情を運んだ。

やがて再びイングリッシュ・ホルンの牧笛が聞こえる。しかし、今度はオーボエからの応えがない。代わって4人のティンパニ奏者による雷鳴が遠くから響き渡る。ステージ奥に広がる4台のティンパニが、ホールいっぱいに大きな空間をつくり出した。

 

第4楽章「断頭台への行進」

ここは凄かった。

断頭台への行進は厳格なインテンポで歩んでいく。その引き締まった響きは断固としており、すべてをはねつけるようだ。行進曲の繰り返しも行った。

全合奏による主題では、トランペットの強靱さ、輝かしさ、突き抜けるような音が爽快であった。

やがてテンポを上げて突き進む。その流れは力強く、クラリネットに〈恋人の固定楽想〉が一瞬現れた直後、オーケストラが咆哮する。ギロチンの一撃の瞬間は、これまで聴いた中でも最も強烈かつ圧力の高い轟音であった。

 

第5楽章「魔女の夜宴の夢」

不気味なフルートとオーボエによる鶏の鳴き声を思わせる音、小クラリネットによるタガが外れたような〈恋人の固定楽想〉、そして全管弦楽の咆哮。冒頭から狂おしく怪しげでありながら、そのすべてが明晰な輪郭をもって描かれていく。

 

鐘は下手から鳴らされ、ファゴットとテューバが〈怒りの日〉の主題を、神の裁きのように荘厳に吹奏する。それを受けるトロンボーンの〈怒りの日〉は、対照的に柔らかく豊かに響く。鐘と〈怒りの日〉は次第に勢いを増しながら展開していく。

 

やがて急速なロンドが始まり、魔女たちの狂宴が高まる。〈怒りの日〉を吹奏する金管はさらに荘厳さを増し、地獄へと罪人を送り込むような威厳に満ちていた。

〈怒りの日〉とオーケストラによるロンドが交錯し、弦のコル・レーニョも加わって急速なコーダへ。さらにテンポを速め、一気に頂点へと駆け上がった。

ここでの東響の一体感と響きの密度の濃さは、前代未聞と言ってよいほどであった。

 

ブリューズには、この先もぜひ東響に登場し、ほかのレパートリーを聴かせてほしい。ショスタコーヴィチやマーラー、チャイコフスキーなどを指揮した映像もYouTubeにあるが、プロコフィエフ、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ベルクなども、その明晰な構築力と色彩感を存分に発揮できるレパートリーではないだろうか。

写真:©東響 東京交響楽団のSNSより転用


写真:©東響 東京交響楽団のSNSより転用

(8月23日・ミューザ川崎シンフォニーホール)

角野隼斗:ピアノとオーケストラのための《無我》(世界初演)

2026年作曲。8月22日、23日の公演が世界初演となった。独奏ピアノと2管編成を基本とする管弦楽に、多彩な打楽器を加えた作品である。

 

角野隼斗自身の解説を要約すれば、「弾いている自分が消え、音だけが流れ出していく」という深い没入の瞬間を音楽にしたもので、自我を手放し、響きに身を委ねる境地を描く。曲は静けさの中から立ち上がる気配と、強いパルスを伴う運動という二つの主題を軸に展開。全体を4+4+3に分かれた11/8拍子が貫き、ピアノはオーケストラの響きに溶け込み、再び浮かび上がるという往還を繰り返す。

 

よくできた作品だと思った。11拍子のリズムを基盤に、二つの主題が対立し、やがて止揚、溶解へと向かい、最後はハッピーエンドを思わせる華やかさの中で結ばれる。次々と移り変わる曲想には、夢の場面が脈絡なく転じていくような意外性も感じた。

冒頭はラヴェルを思わせる印象派的な動機で始まり、高揚すると伊福部昭を連想させるオスティナートの力強い音楽へ。やがて映画やドラマの音楽のような、親しみやすく広がりのある旋律も現れる。終盤では二つの主題がぶつかり、交じり合いながら解決へと向かい、決然としたコーダで締めくくられた。

 

華麗でわかりやすいオーケストレーションにも角野の才能がうかがわれる。独奏ピアノは技巧を前面に押し出すというより、オーケストラの中に入り込み、時にそこから浮かび上がる。角野自身の演奏も安定したテクニックが印象に残った。

 

指揮のピエール・ブリューズは東響には2度目の登場。現代音楽のアンサンブル・アンテルコンタンポランの音楽監督でもあり、複雑なリズムを鮮やかに捌きながら角野にぴたりと付け、オーケストラをまとめていた。

 

続いてカプースチン:ピアノ協奏曲第4番 Op.56

プログラムではほとんど触れられていなかったが、この作品ではカプースチンのジャズへの志向とクラシックの作曲技法との結びつきが、実にはっきりと表れている。ドラムセットが加わることも、その性格を端的に示している。即興演奏のように聞こえる部分も含め、カプースチンは基本的にすべてを譜面に書き込んでいる。

オーケストラの編成はシンプルで、金管を使わず、管楽器はフルート、オーボエ、クラリネットのみ。それに弦5部とドラムスなどが加わる。この編成を見て思い出したのが、ヴァーヴ・レーベルのプロデューサー、ノーマン・グランツが手がけた、いわゆるジャズ・ウィズ・ストリングスの録音である。チャーリー・パーカーをはじめ、スタン・ゲッツ、ミルト・ジャクソン、オスカー・ピーターソン、ディジー・ガレスピーら、ジャズの名手とストリングスを組み合わせた録音が数多く作られた。実際、この協奏曲のスローな場面には、オスカー・ピーターソンのアルバムで聴くバラードを思い出させるようなところもあった。
 

そして曲を聴き進めていくと、そのスタイルの変化は、まるでジャズの歴史をたどっていくようでもある。

作品は単一楽章だが、大きく三つの部分からなる。プログラム解説では提示部、展開部、再現部というソナタ形式として説明されていた。
 

第1部は、ジャズのアフタービートを強く感じさせる躍動的なリズムで始まる。ピアノは時にブギウギやホンキートンクを思わせ、ドラムスとストリングスがそれをリズミックに支えていく。

やがてテンポを半分に落とし、プロコフィエフのピアノ協奏曲の緩徐部分を思わせる音楽へと転じる。さらに少しエスニックな響きをもつ動機が展開されたあと、再び速いテンポへ。ドラムスとオーケストラを従えてピアノが華麗に駆け巡る。ここでは角野らしい勢いと鮮やかなテクニックが存分に発揮された。
 

続いてアンダンテの抒情的な旋律が現れる。ここからを第2部と考えてよいだろう。角野のピアノにはビル・エヴァンスを思わせるリリカルな表情があり、弦がムーディーに寄り添う。ドラムスもスティックからブラシに替わり、木管を交えながら多彩な響きを作っていく。ジャジーで心地よい音楽の背後に、弦がふと不安げな動機を差し入れるところも面白い。


そのゴージャスな雰囲気がアレグロで突然破られ、第3部へ。跳躍する音階と切迫したリズムによって音楽は荒々しく前進し、その中をピアノが即興演奏のような身振りで駆け抜ける。ガーシュウィンの《ラプソディー・イン・ブルー》を連想させる音階も顔を出すが、音楽は基本的に前のめりの推進力を失わない。
 

やがて楽譜に「Swinging」と指示された、まさにスイング・ジャズを思わせる場面となる。ベースのリズムが実に心地よい。再び快速調となってドラムス、オーケストラとともに軽快に進んだかと思えば、今度はテンポを落とし、オーボエと弦が哀愁を帯びた動機を奏でる。それを受けたピアノが音楽を展開し、やがて冒頭のテンポへ戻る。角野は激しい動機を次々と繰り出し、スピード感に満ちて爽快だ。

休止を挟んでカデンツァ。これもすべて記譜されている。クラシックの協奏曲におけるカデンツァとは趣を異にし、ジャズ的であり、同時にガーシュウィン的でもある。《ラプソディー・イン・ブルー》のピアノ・ソロを思わせるところもあった。

その後、急と緩を交錯させながら、やがて第1部に現れた前のめりの主題が帰ってくる。ピアノはドラムス、オーケストラとともにそれを陽気に展開。ここでの角野のピアノは実に生き生きとしていて、この作品はまるで角野のために書かれたのではないかと思えるほどだった。
 

ブリューズ指揮の東響も極めてノリがいい。クラシックのオーケストラでありながらジャズのリズムを理解し、角野、ドラムスと一体となって音楽を前へ押し進める。最後は両者が完全にひとつになり、一気呵成に駆け抜けた。
 

この日は角野隼斗のファンと思われる女性客の比率が非常に高く、見たところ8割ほどが女性だったように思う。終演後には、角野にスタンディング・オベーションを送る人々の姿もあった。

アンコールは、カプースチン《8つの演奏会用エチュード》Op.40から第1曲〈プレリュード〉

終始揺るぎない8ビートが躍動感を生み出す。流れるようなフレーズにラテンのテイストが交じり、チック・コリアを連想させるところもある。角野隼斗はそこに、より洗練されたジャズのフィーリングを感じさせ、鮮やかに弾き切った。
 

この日の演奏会は、このあとブリューズ指揮東響によるベルリオーズ《幻想交響曲》へと続く。これは、これまでに聴いたことのないような引き締まって緻密であり、ブリューズの凄さを知らしめる演奏であったが、すでに夜も遅い。角野隼斗の《無我》世界初演とカプースチンについてまずは第1部として公開し、ベルリオーズ《幻想交響曲》は第2部として明日以降に続けたい。

小澤征爾(セイジ・オザワ松本フェスティバル創設者/永世総監督)ゆかりのメシアン《トゥランガリーラ交響曲》沖澤のどか(OMF首席客演指揮者)が指揮するという、セイジ・オザワ松本フェスティバルの新しいページにふさわしいコンサート。
 

演奏は、名手揃いのサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)の力を十分に引き出し、沖澤の良さがよくわかる素晴らしい楽章や場面が数多くあった。

まず、SKOの極彩色の管弦打が爆発し、めくるめく陶酔感をもたらしたのは第5楽章「星々の血の喜び」。官能的な情熱が頂点に達するこの楽章で、沖澤の本領が発揮された。


沖澤の長所は、弱奏や繊細な場面でもより生かされた。第3楽章「トゥランガリーラ 1」のクラリネットとオンド・マルトノの柔らかく繊細な対話は沖澤ならでは。

 

第6楽章「愛の眠りの園」の恋人たちがまどろむ場面では、弦とオンド・マルトノが歌う〈愛の主題〉を、木管とピアノによる鳥の声が清らかに包み込み、自然の中に溶け込むような感覚をもたらした。


第8楽章「愛の展開」では、務川慧悟がピアノの〈和音の主題〉を繰り返すなか、木管の〈花の主題〉を交え、〈愛の主題〉が何度も登場する。ひときわ大きなクライマックスでは、突き抜けるような官能性を生み出した沖澤の構築には説得力があった。

メシアン自身がこの〈愛の主題〉の爆発を「交響曲全体の頂点」と述べていることを実感できた瞬間であった。

楽章の後半では「逆行不能のリズム」の上で、トロンボーンとトランペットが三重のリズム・カノンを形成しながら〈彫像の主題〉を奏で、やがてコーダは崩れ落ちるように閉じられる。そのあと沖澤は動きを止め、長い静寂を保った。第9楽章「トゥランガリーラ 3」へすぐには進まず、まるで黙とうするかのようであった。この長い静寂に沖澤がどのような思いを込めていたのか、知りたいところである。

 

ここまでは沖澤の素晴らしかった点を書いてきたが、もう一段の切れ味や、さらに大きな高揚を期待したい場面もあった。

例えば、第1楽章「イントロダクション」。冒頭の低弦の厚みと推進力、〈彫像の主題〉の金管の圧力と輝きに圧倒され、これは凄い演奏になるのではと大いに期待したが、終結部にはさらに凄みが加わればとも感じた。

 

第2楽章「愛の歌 1」は、トランペットによる急速で情熱的な要素と、弦とオンド・マルトノによる穏やかな要素との対比が鮮やかであり、特に後者の柔らかな表情には沖澤の長所がよく表れていた。一方、激しい要素にはもう一段の切れ味もほしいと感じた。

 

そして最後を締める第10楽章「フィナーレ」。トランペットとホルンによる壮大なファンファーレの第1主題と〈愛の主題〉を中心に展開されていく。高揚感と官能性は十二分に伝わってきた。しかし欲を言えば、これだけのSKOなら、最後はさらに巨大なエネルギーとなって収斂し、世界が眩しい光線に隅々まで照らされるような圧倒的な「忘我の境地」へと昇華したのではないか、という思いも残った。

 

ピアノの務川慧悟は、原色的な色彩感にあふれ、オーケストラの巨大な響きの中でも鮮烈な存在感を示した。特に第5楽章のカデンツァは凄かった。オンド・マルトノ原田節は、先に書いた第3、第6楽章などの繊細な場面が際立っていた。

追記(8月23日)

公演後に、沖澤が右手を負傷し、自由に使えない状態でこの公演に臨んでいたことを知った。そうであれば、私がもう一段の切れ味や高揚を期待した場面についても、その影響を考慮する必要があるだろう。万全とはいえない状態で、これだけの《トゥランガリーラ交響曲》をまとめ上げたことは、改めて評価したい。


 

8月20日は東京オペラシティで、藤岡幸夫指揮・東京シティ・フィルの第385回定期演奏会へ。

ディーリアス「幻想曲《夏の庭で》」では、藤岡が作品の繊細な色彩と穏やかな抒情を丁寧に引き出した。
 

菅野祐悟「チェロ協奏曲~十六夜~」は、宮田大が作曲を望んだことから生まれた作品。月夜の幻想から苦悩と嵐、そして再生へと向かうドラマを、宮田が全身全霊の演奏で描き切った。多彩な管弦楽法も聴きどころであった。
 

後半のシベリウス「交響曲第2番」は、藤岡と東京シティ・フィルならではの熱量の高い演奏。藤岡が作品の肝と語る第2楽章の強烈なクライマックス、そして終楽章コーダの壮大かつ凄絶な響きが心に残った。

詳しくは「音楽の友」コンサート・レヴューに書きます。

 

写真:©Yukiko Koshima 東京シティ・フィルのSNSより転用

三人の若いソリスト(プロフィールは最後に)は、それぞれに聴き応えがあった。

佐々木つくしは初めて聴く。メンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲」は艶やかで美しい音色が印象的で、やや線の細さを感じさせるところはあるものの、強奏ではしっかりと自己を主張する。ボウイングは滑らかで、音程も正確。重音も美しく響き、確かな技術に支えられた演奏であった。グァルネリ・デル・ジェズ「ムンツ」をよく鳴らし切った演奏には爽快感があった。

第2楽章はもう少しじっくりと演奏できたのではないかと惜しい気もしたが、バックを務める角田鋼亮指揮・読響に力強い推進力があり、自分のペースをつかみきれなかったのかもしれない。

 

水野優也ドヴォルザーク「チェロ協奏曲」で、完全なソリストとしての存在感を示した。角のない滑らかな音、安定した技術、そして豊かな歌心。演奏のスケールも大きく、ドヴォルザークの協奏曲を雄大に描き上げた。

第1楽章、再現部直前のオクターヴ重音による半音階上行の難所も完璧に弾いた。佐々木と同じく、第2楽章中間部に現れる、ドヴォルザークの歌曲集《4つの歌》作品82の第1曲「私にかまわないで」の旋律はもっと歌い込んでもよかったが、自分でペースをつかむことが、こうした演奏会では難しかったのかもしれない。

 

角野未来チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」は、今年5月に聴いたグリーグ「ピアノ協奏曲」(ミハイリディス指揮・新日本フィル)よりも、作品の違いもあるが、演奏は大きくスケールアップした印象を受けた。技術的にはなお磨かれる余地を残すものの、全体の構成はよく練られており、作品の聴かせどころを的確に押さえている。抒情的な場面での表現にも不足はなく、チャイコフスキーの大曲を最後まで堂々と弾き切った。

第2楽章冒頭の主題は表情豊かで、中間部のプレスティッシモの動きも滑らか。終楽章の第2主題で盛り上がるクライマックスでも、オーケストラに負けていなかった。

 

角田指揮読響は、さすがの充実ぶりであった。この日は首席陣が顔を揃え、随所に現れるソロも惚れ惚れするほど巧い。ドヴォルザーク「チェロ協奏曲」ではホルン首席・日橋辰朗による第1楽章第2主題のソロ、第3楽章のオーボエ・荒木奏美のソロ、チャイコフスキー「ピアノ協奏曲」第2楽章のチェロ首席2人による二重奏(遠藤真理富岡廉太郎)、そしてその旋律を受け継ぐ荒木など、あらためて読響がヴィルトゥオーゾ集団であることを実感させられた。
 

一方、三つの協奏曲を通して、オーケストラの推進力がやや前面に出る場面もあった。角田の指揮は流れがよく、読響もそれに俊敏に応えるだけに、音楽が勢いよく運ばれていく。その爽快さは大きな魅力である反面、ソリストがテンポを揺らしたり、フレーズをより自由に歌わせたりする余地がもう少しあってもよかったように思う。

協奏曲ならではのソリストとオーケストラの呼吸の交わし合い、あるいは互いの表現に触発されながら音楽が動いていく瞬間がさらに増えれば、三人それぞれの個性がより鮮明に浮かび上がったのではないだろうか。
 

佐々木つくし(ヴァイオリン)プロフィール

東京都生まれ。東京藝術大学を卒業後、現在はベルリン・フィルハーモニー・カラヤン・アカデミーに在籍。2024年、第75回プラハの春国際音楽コンクール・ヴァイオリン部門で第1位を受賞した。使用楽器は笹川音楽財団貸与の1736年製グァルネリ・デル・ジェズ「ムンツ」。読響初登場。

 

水野優也(チェロ)プロフィール

1998年東京都生まれ。2025年、第76回プラハの春国際音楽コンクール・チェロ部門でアジア人として初優勝。日本音楽コンクール、東京音楽コンクールでも第1位を獲得している。使用楽器はサントリー芸術財団貸与の1710年製ピエトロ・ジャコモ・ロジェリ、弓は住野泰士コレクション貸与のF.トゥルテ。読響には2018年以来2度目の登場。
 

角野未来(ピアノ)プロフィール

東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校、東京藝術大学を経て同大学院音楽研究科を修了。2023年からフランスに拠点を移し、リヨン国立音楽院で研鑽を積む。アンリ・コワルスキ国際コンクール第1位、第21回東京音楽コンクール第3位など国内外のコンクールで入賞を重ね、近年はカーネギーホールにも出演。読響初登場。
 

読響サマーフェスティバル2026《三大協奏曲》

2026年8月18日(火)18:30 東京芸術劇場

指揮=角田鋼亮

ヴァイオリン=佐々木つくし

チェロ=水野優也

ピアノ=角野未来

コンサートマスター:林悠介

メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64

ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調 作品104

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23

高関健のプレトークが興味深い。

『ブリテン《戦争レクイエム》を初めて指揮したのは2008年群馬交響楽団で、東京公演の会場は、今日と同じすみだトリフォニーホールだった。

2010年サイトウ・キネン・オーケストラのニューヨーク公演では、手術から復帰して間もない小澤征爾のカバー指揮者として同行、当日も待機したが、小澤さんが無事指揮できた。小澤さんが一晩全部を指揮したのはこの時が最後だった。

2011年3月12日、新宿文化センターでの東京フィルとの公演は東日本大震災で中止となった。

 

ベルリンに留学中、小澤さん指揮ベルリン・フィル定期で聴いたが、その時のバリトンは、初演でも歌ったフィッシャー=ディースカウ。役柄そのものであり、最後のテノールとの敵味方のやりとりは壮絶だった。

当時はキューバ危機の頃。今はウクライナとロシアの戦争もあり、テキストを勉強しているといたたまれない。
 

初演会場となったコヴェントリー大聖堂にも行った。第二次世界大戦で破壊された旧聖堂の隣に建てられた新しい大聖堂の献堂を機に委嘱、作曲されたこの作品には、ブリテン本人が指揮した名盤がある。その録音セッションでのリハーサルがYouTubeで聴ける。具体的で明晰な指揮だが、ジョークも交えている。

 

ブリテン自身が指揮した名盤《戦争レクイエム》は、1963年1月、ロンドンのキングズウェイ・ホールでデッカによって録音された。ソプラノはガリーナ・ヴィシネフスカヤ、テノールはピーター・ピアーズ、バリトンはディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ。この録音セッションでは、プロデューサーのジョン・カルショーがリハーサルの様子も録音しており、約50分に及ぶ貴重な音源が残されている。現在はCD(配信サイト)などに収録されているほか、YouTubeでも聴くことができる。
チューブラーベルの2音はC(ハ)とFis(嬰ヘ)、すなわち増4度(三全音)。この緊張した響きが全曲を貫く主要な動機となっている。』


YouTubeブリテンのリハーサル
https://www.youtube.com/watch?v=LD8IxkQ96D4

リハーサルでのブリテンの指示は実に具体的で明晰だが、時折ユーモアを交え、演奏者から笑いが起きる。

《ディエス・イレ》では、合唱にもっと切迫感を求める。

「今度は皆さん、ヒステリーをお願いします」

しかし、ただ激しく歌えばよいわけではない。

「きれいに、上品に歌いすぎないで。もっと怖がっているように。ぞっとするような感じで」

整った美しい合唱ではなく、最後の審判を前にした人間の恐怖を表現してほしいのである。
 

少年合唱には、

「朝早いのは分かっています。でも、朝早そうに聞こえないようにしてください」

と注文。ここでは笑いが起きる。

《サンクトゥス》の錯綜した合唱では、さらに面白い。

「隣の人と同じ速さで歌っていたら、それは間違いです」

普通なら「揃えて」と言うところを、あえて揃えないよう求める。一人ひとりが異なる動きをすることで、混乱した群衆が押し寄せてくるような響きをつくろうとするのである。
 

ソプラノのヴィシネフスカヤとのやり取りも愉快だ。ブリテンがある箇所について「難しい」と話すと、ヴィシネフスカヤが、

「難しい? だったら、どうしてこんなふうに書いたの?」

と返す。するとブリテンは、

「自分で指揮するために書いたんじゃない。それが答えだよ」

と応じ、笑いが起こる。

 

作曲者自身によるリハーサルだけに、「どう演奏するか」だけではなく、「なぜこのように書いたのか」まで、短い言葉から次々と明らかになっていく。それでいて、深刻な《戦争レクイエム》を扱いながら、リハーサルは決して重苦しいだけではない。ブリテンの具体的で明晰な指示、美しいブリティッシュ・イングリッシュ、そして随所に挟まれるユーモアが印象的である。

この日の演奏について

演奏は、この作品を手の内に入れている高関らしく、隅々まで目が行き届いた、まとまりの良いものであった。

指揮台の周りに室内オーケストラ[フルート(ピッコロ持ち替え)、オーボエ(イングリッシュ・ホルン持ち替え)、クラリネット、ファゴット、ホルン(谷あかね)、ティンパニ、小太鼓、大太鼓、サスペンデッド・シンバル、銅鑼、ハープ、第1ヴァイオリン(コンサートマスター戸澤采紀)、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ(富岡廉太郎)、コントラバス。奏者名は確認できた名前のみ]を配置し、大オーケストラがそれを囲む。


東京シティ・フィル、室内オーケストラともに、管弦打のどこをとっても隙のない演奏であった。


児童合唱ならびに専任の指揮者は2階席正面からは見えなかったが、高関の視線からすると、3階下手に配置されていたようだ。天から降り注ぐ合唱として効果的な配置だった。
 

ソリスト三人も充実していた。ソプラノは主として合唱、大オーケストラと共に歌い、テノールとバリトンは室内オーケストラと共にオーウェンの詩を歌う。

ソプラノ木下美穂子はステージ奥の合唱団の中央に位置した。
第2部「ディエス・イレ(怒りの日)」の「ラクリモーサ(涙の日)」での悲痛な歌唱が心を打った。

 

テノール宮里直樹は、張りのある美声で余裕を感じさせた。第1部「レクイエム・エテルナム(永遠の安息を)」での清らかな児童合唱に続く、オーウェンの詩に基づく「家畜同然に死んでいく者に どんな弔鐘が鳴るというのだ?」も、叫ぶのではなく、歌として聞こえてくる。
 

バリトン大西宇宙は、この作品のクライマックス、戦場で命を落とした敵同士が対話する場面での長いソロが圧巻だった。とくに「私は君が殺した敵だ、友よ。」以下の語りかけは、役柄になりきった語りであり、ブリテン指揮のデッカ録音でのフィッシャー=ディースカウよりも、英語の発音がはるかに自然に聞こえた。表情・表現にも深みと凄みがあった。

 

合唱も終始充実していた。東京シティ・フィル・コーア(合唱指揮:藤丸崇浩)は、温かみがあり、言葉に心がこもっていた。高関はピアニッシモで終わる合唱の余韻への指示が細やかで徹底しており、第1部「レクイエム・エテルナム(永遠の安息を)」の最後、「主よ、あわれみたまえ」で消え入るように終わる箇所や、第2部「ディエス・イレ(怒りの日)」最後の「彼らに安息を授けてください。アーメン」での余韻の長さ、そして減衰していく歌声のニュアンスが繊細であった。

 

江東少年少女合唱団(児童合唱指揮:伊藤心)は、まさに心洗われる天使の歌声として、典礼の聖性と戦争の惨禍がせめぎ合う中で、真の救いを象徴する存在感を放ち続けた。

 

第3部「オッフェルトリウム(奉献唱)」冒頭での江東少年少女合唱団に続き、テンポを速めて東京シティ・フィル・コーアが「旗手たるミカエルが」と歌い出す場面は、高関と東京シティ・フィルの演奏も相まって、強い集中力と一体感があった。

 

しかし、その後、室内オーケストラをバックに、オーウェンの詩に基づくアブラハムとその息子イサクのやりとりを歌う宮里と大西の二重唱と、小節線をわざとずらして「ホスティアス」を歌う児童合唱との対比は、《戦争レクイエム》が突きつける、聖なる言葉と戦争の現実との残酷な乖離を象徴している。

 

二重唱が「子供に手をかけてはならない」と神の声を美しく伝えるかと思いきや、「その老いた男は聞かず、自分の息子を殺した。そしてヨーロッパの種の半分も。一人ずつ」と歌う。そこに児童合唱が「主よ、私たちは賛美の生贄と祈りを捧げます」と重なる。

ここでの独唱と合唱は、見事と言うほかなかった。

 

敵同士だった二人が「いまは眠ることにしよう」と繰り返すと、天上の声=児童合唱がひときわ清らかに上階から降り注ぐ。やがて混声合唱、ソプラノも加わり、それまで分離されていた三つの音響世界が初めてひとつに重なっていく。室内オーケストラと大オーケストラも結びつき、壮大でありながら静謐な終結へと向かう。最後は「アーメン」で静かに演奏を終えた。

 

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
すみだトリフォニーホール・特別シリーズ 第1回

2026年8月13日(木)19:00開演
すみだトリフォニーホール 大ホール

 

【ブリテン没後50年】
ブリテン:戦争レクイエム 作品66(約85分)
Ⅰ 永遠の安息を
Ⅱ 怒りの日
Ⅲ 奉献唱
Ⅳ 聖なるかな
Ⅴ 神の小羊
Ⅵ 私を解き放って下さい

 

出演
指揮(常任指揮者):高関 健
ソプラノ:木下美穂子
テノール:宮里直樹
バリトン:大西宇宙
合唱:東京シティ・フィル・コーア
合唱指揮:藤丸崇浩
児童合唱:江東少年少女合唱団
児童合唱指揮:伊藤 心
コンサートマスター:戸澤哲夫
コンサートマスター(室内オーケストラ):戸澤采紀
字幕翻訳:三ヶ尻 正
字幕投影:アルゴン社

写真:©K.Miura
 東京シティ・フィルのXより転用

(8月11日・ミューザ川崎シンフォニーホール)

フェスタ サマーミューザもついに千秋楽。「一人ほぼ日刊サマーミューザ」も第10回で最終回となった。

フェスタを締めくくるのはフィナーレでおなじみの原田慶太楼。プレトークでは、プログラム後半最初の《UTAGE~宴~》を作曲した山本菜摘と登場した。山本は、東京交響楽団とサントリーホールによる「新曲チャレンジ・プロジェクト♪2023」で作品が採用され、原田指揮・東響によって《トレイン大集合!》が世界初演された。このプロジェクトをきっかけに、その後さまざまな作曲や編曲の仕事につながったという。

 

《UTAGE~宴~》は群馬交響楽団の委嘱作品。群馬にちなんだ作品という依頼を受け、原田は外山雄三《管弦楽のためのラプソディ》のような作品を、とリクエストしたという。山本は群馬ゆかりの「草津節」や「八木節」を採り入れ、富岡製糸場を見学した印象や、群馬の山々が重なり合う風景などを音楽に織り込んだ。2024年5月、原田慶太楼指揮・群馬交響楽団によって初演された。演奏については後半で触れたい。

 

作曲家の記念年を大切にする原田は、今年生誕150年、没後80年を迎えるファリャ(1876~1946)の歌劇《はかなき人生》から〈スペイン舞曲第1番〉でスタートした。途中、フラメンコの色彩が濃くなる場面では、原田がダンサーやギタリストを鼓舞するかのように両手を打ち鳴らしながら指揮した。原田らしい躍動感に満ち、鮮やかな色彩を放つが、原色を濃厚に塗り重ねるというより、すっきりとした色合いであった。

 

プロコフィエフ《ピアノ協奏曲第3番》では、2025年エリザベート王妃国際音楽コンクールで日本人歴代最高位となる第2位に入賞した久末航が登場した。

久末の長所は、音を力で押し出すより、タッチを細やかにコントロールし、多彩な音色を引き出すところにある。最近の名古屋でのリサイタルも、ラヴェル、デュサパン、フランク、バルトーク、ベートーヴェンという、音色と構築の双方を要求するプログラムであった。

 

しかし、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番では、それとは異なる資質も要求される。鍵盤を打楽器のように鳴らす硬質なアタック、音の芯を失わず高速で押し切る推進力、オーケストラの厚い響きを突き抜ける強靱な響き、さらにはグロテスクさ、皮肉、野性味を恐れない表現である。

久末は、そうした要素をむき出しにする方向には進まなかった。むしろ、自らの持ち味を生かしながらプロコフィエフに向き合う姿勢が感じられた。

 

第1楽章で久末の美質がよく表れたのは、中間部で冒頭の抒情的な主題が回帰し、ピアノがドルチェで繊細に展開していく場面であった。ここでの音色の多彩さには、フランス音楽を得意とする久末の持ち味がよく出ていた。一方、アレグロに入ってからの強いアクセントや、フォルティシモで激しく和音を打ち込む箇所では、もう一段の迫力が欲しい。

再現部から終結へ向かうにつれて力感と躍動性を増し、演奏全体の設計がきちんと構想されていることが伝わってくる。急速に駆け抜けるコーダは原田/東響と一体となり、鋭い切れ味で締めくくったが、音そのものの強靱さという点ではやや物足りなさが残った。

 

久末の強みが最も発揮されたのは、第2楽章アンダンティーノ、主題と5つの変奏であった。

主題提示では、クラリネット(吉野亜希菜)とフルート(竹山愛)の美しい音色とニュアンスが素晴らしい。
第1変奏では、トリルから上行するグリッサンド風のパッセージ、主題を彩る光の移ろい、細かな音型の精緻な処理に久末の美質が存分に生かされた。


アレグロの第2変奏では、ローリー・ディランの輝かしいトランペットなどとともに勢いよく進む。ここではピアノにも十分な推進力があり、力不足を感じさせない。

 

アレグロ・モデラートの第3変奏も、シンコペーションを強調したリズムに乗って、久末は活気に満ちた演奏を展開する。力むことなく、バランスのとれた表現であった。

 

第4変奏アンダンテ・メディタティーヴォは、久末のピアニズムに最も適した部分として期待した。確かに響きは繊細で、きらめきもあるのだが、もうひとつ音楽の奥深くまで入り込めない。これは久末の問題というより、プロコフィエフの筆致そのものによるのかもしれない。抒情的ではあっても、感情に深く没入するというより、どこか醒めた眼差しを失わない音楽なのである。

 

第5変奏ではピアノとオーケストラが激しく絡み合う。強いアクセントを刻みながらオーケストラと競い合う部分では、久末の響きが厚い管弦楽の中に埋もれがちになる。一方、主題が戻り、ピアノが細やかな装飾を加える箇所では、久末ならではの精緻なニュアンスが生きた。

 

第3楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポは、ピッツィカートの弦とファゴットが奏するどこか日本的にも聞こえる主題に対し、ピアノが対立するように割って入る。プロコフィエフ自身がこの楽章をピアノとオーケストラの「論争」と捉えたように、やがてテンポを上げながら両者が激しく競い合っていく。アンサンブルはよく噛み合っているが、久末の打鍵にはもう一段の強靱さが欲しく、厚い管弦楽に埋もれる場面もあった。

木管が抒情的な副主題を奏でると、久末がリリカルな音色で応える。続いて弱音器を付けた弦とピアノが静かに交わす場面では、久末の響きは清冽で、素早い連符やトリルもこの上なく美しい。

やがて冒頭主題が回帰し、ピアノとオーケストラは再び対立を深めながら高揚していく。久末の高音域は輝かしく美しい。しかし、打鍵の厚みや音の芯をことさらに前面へ押し出さないため、オーケストラの大音響に真っ向から対抗する圧力や、プロコフィエフ特有の荒々しい野性味までは生まれにくい。

原田/東響との呼吸はよく合っており、コーダは鮮やかに決まった。盛大な拍手が起きた。

 

アンコールは、リスト《巡礼の年》第1年「スイス」から第9曲〈ジュネーヴの鐘〉

若きリストがマリー・ダグー伯爵夫人とスイスに滞在した時期の体験を背景に持ち、初期稿は1835年にジュネーヴで生まれた二人の娘ブランディーヌに捧げられた。遠くから聞こえる鐘を思わせる柔らかな音型に始まり、穏やかで歌謡的な旋律が浮かび上がる、詩的で内省的な作品である。
久末の右手の高音域は抒情的で美しい。フォルティシモに至っても繊細さを失わず、響きを詩的に広げていく。プロコフィエフでも一貫して感じられた久末のリリシズムが、ここでは十全に発揮された。

 

後半1曲目は山本菜摘《UTAGE~宴~》。原田慶太楼のエネルギッシュな指揮のもと、金管が晴れやかに鳴り響く。「草津節」「八木節」の旋律も姿を現すが、外山雄三《管弦楽のためのラプソディ》の野性的な熱気とは異なり、どこか柔らかな表情を備えているところに作曲家の個性が感じられた。

チェロが奏でる旋律も印象に残った。富岡製糸場の「機織り」や群馬の山々の風景などが作品に織り込まれているというが、この旋律もそうしたイメージにつながるものなのだろうか。

金管や打楽器の活躍も目覚ましい。なお、この作品には作曲者自身による吹奏楽版があり、2024年8月に原田慶太楼指揮で初演されている。

 

フィナーレのトリを飾るのは、チャイコフスキー《交響曲第5番》

全楽章を、ほとんど間を置かずにつなげて演奏した。原田慶太楼らしい覇気に満ちた、爽快なチャイコフスキーである。東響の集中力も高く、各首席奏者のソロも一部の疵を除けばほぼ完璧。ホルンとトランペットにはそれぞれアシスタント奏者も加わった。

 

第1楽章、クラリネットが奏でる序奏の「運命の主題」は、それほど暗く沈み込まない。主部に入っても過度に悲劇性を強調せず、第2主題も冒頭は感情を抑え気味に進めるが、後半ではテンポを落とし、じっくりと情熱を込めて歌わせた。

展開部は引き締まったテンポで進み、再現部はファゴットからゆったりと始まる。推移部の旋律はたっぷりと歌わせ、第2主題では弱音の繊細さを際立たせた。

 

第2楽章では、冒頭の弦が濃い陰影をつくる。主題を奏するホルン(上間善之)のソロは、朗々と吹き鳴らすのではなく、ほのかな甘さを含み、ロシア的な深みを感じさせた。クラリネットのオブリガートも美しい。オーボエ(荒木良太)の端正なソロも素晴らしかった。チェロにはもう少し表情の変化があってもよかったかもしれない。一方、コントラバスは厚みのある響きで全体を支えた。

音楽が高揚したのち、中間部で聴かせるクラリネット(吉野亜希菜)とファゴット(福士マリ子)の陰影に富んだソロにも味わいがある。さらに大きく力を蓄えた頂点で回帰する「運命の主題」は、トランペットの鋭い響きによって強烈な印象を残した。

コーダでも「運命の主題」が激しく姿を現すが、やがて中間部の旋律によって穏やかさを取り戻し、最後はクラリネットのソロが余韻を残して静かに閉じた。
 

ほとんど間を置かず第3楽章のワルツへ。ここでは肩の力が抜け、淡々とした自然体の運びとなる。ファゴットの表情も豊かだ。テンポの速い中間部も軽やかで爽やか。ワルツが回帰したのち、最後は緊張を高めて締めくくり、その勢いのまま第4楽章へ入った。

ホ長調に転じた弦の「運命の主題」に始まる序奏は、たっぷりとした広がりを持つ。やがて金管が加わって荘厳な頂点を築き、主部の強烈な第1主題へ。しかし響きは決して重くならない。オーボエなどが担う推移部も軽快に進み、木管による第2主題にも流動感がある。
 

金管による「運命の主題」も長調で輝かしく響き、その明るさを保ったまま展開部へ。激しく展開してもアンサンブルは引き締まり、停滞することなく前へ進んでいく。

さらに速度を上げて高揚し、ティンパニの連打とともに壮大な頂点を形成する。フェルマータを伴う全休止も長く引き延ばさず、すぐに先へ進んだ。
 

弦が堂々と「運命の主題」を奏で、トランペット、ティンパニが加わると、壮大な凱歌が繰り広げられる。原田はここで指揮の動きを止め、高揚する音楽をオーケストラに委ねた。それでもアンサンブルの緊張感は少しも失われない。
 

結尾のプレスト直前から原田が再び東響を強く導く。最後はローリー・ディラン率いるトランペットの突き抜けるような強靱な吹奏と全合奏の推進力によって、輝かしいクライマックスを形成。「運命の主題」を決然と打ち出して全曲を閉じた。

フェスタ サマーミューザの最後を飾るにふさわしい、祝祭感に満ちた演奏であった。

 

アンコールは例年通り、山本直純《好きです かわさき 愛の街》。聴衆の手拍子も加わり、会場全体が一体となって楽しく演奏され、18日間にわたるフェスタ サマーミューザ KAWASAKI 2026は幕を閉じた。

 

フェスタ サマーミューザ KAWASAKI 2026
東京交響楽団 フィナーレコンサート
「祝祭の響き、熱狂から歓喜へ!」

8月11日(火・祝)15:00開演
ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:原田慶太楼
ピアノ:久末 航

ファリャ:歌劇《はかなき人生》から〈スペイン舞曲第1番〉
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 op.26
山本菜摘:UTAGE~宴~
チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 op.64


[アンコール]

ソリスト・アンコール
リスト:《巡礼の年》第1年「スイス」から第9曲〈ジュネーヴの鐘〉

オーケストラ・アンコール
山本直純:好きです かわさき 愛の街

毎日クラシックナビ「速リポ」に掲載されました。
 

フェスタサマーミューザKAWASAKI 2026、日本フィル公演。
ウィーン・フィルの第2ヴァイオリン首席を長く務めたクリストフ・コンツが、指揮者として日本フィル・デビューを飾った。

 

ヨハン・シュトラウス2世《こうもり》序曲で感じたウィーンの薫り。そしてブラームス《交響曲第1番》では、豊かな内声、流麗な響き、逞しい推進力に圧倒された。とりわけ最後に響き渡る5つのハ長調の和音。その一つひとつに、ハ短調の重々しさから解き放たれるような幸福感があった。

コンツの非凡な才能を印象づける、鮮烈な日本フィル・デビューであった。

周防亮介によるブラームス《ヴァイオリン協奏曲》についても、感じたことを率直に記した。
 

「毎日クラシックナビ・速リポ」をぜひお読みください。
https://classicnavi.jp/newsflash/post-44135/

尾高忠明 都響 北村朋幹(ピアノ)
(8月8日・東京芸術劇場)

初演指揮者ならではの、手の内に入った緻密な演奏。

三善晃も松村禎三も、作品がまさに今生まれたばかりのような輝きを持って再現された。
 

三善晃《オーケストラのための〈ノエシス〉》は、わずか8分ほどの作品だが、静謐から激しい爆発へと振幅しながら、多彩な楽器の音色や響きを精緻に重ね合わせていく作品である。冒頭のチェロの弱音にハープやヴィブラフォンが重なり、やがて打楽器を交えた激しい動きへ。再び静けさに戻っていくまで、凝縮された時間の中で音響がめまぐるしく変化する。
 

一方、松村禎三《ピアノ協奏曲第2番》は約34分、2楽章からなる大作。松村の特徴である同型反復(オスティナート)や持続音(ドローン)を基礎に、生命力に満ちた激しい運動と、静謐で瞑想的な世界が大きな振幅をもって交錯する。第2楽章には能《景清》からの影響もあるという。
 

どちらの作品も静と動の振り幅の大きさは共通しているが、三善晃のヒリヒリとするような鋭い感覚と沸点に達したような爆発に対して、松村には自然の脅威を思わせるスケールの大きさがある。
 

三善晃で印象的なのは、ヴィブラフォンやマリンバなどが生み出す幻想的な音色。

松村作品では、何と言っても北村朋幹のピアノが素晴らしかった。同じような動機をミニマル・ミュージックのように延々と繰り返しつつ、音色や強弱の変化や変奏を加えながら、オーケストラと対話し、時には激しく対決する。ピアノの存在が常に作品の中心にあった。
 

そしてエルガー《エニグマ変奏曲》。尾高の18番であり、最近も読響で聴いた。基本的な解釈は同じだが、オーケストラが変わることで音楽の表情も大きく変わるのが興味深い。
 

第1変奏の力強さ、第2変奏のシリアスな表情、ダイナミックな第4変奏の勢い、第7変奏の流麗さなど、それぞれの変奏に都響の個性が浮き出る。読響の明るさに対して都響は陰影が濃い。パワフルな点は共通するが、開放的な読響に対して、都響はより引き締まった響きと感じた。
 

尾高忠明にとっては知り尽くした作品であり、指揮には迷いがない。音楽は淀みなく進み、各変奏の性格も鮮やかに描き分けられた。一方で、勢いが勝ったためか、ところどころにやや粗さも感じた。
 

三善《ノエシス》は尾高忠明に献呈され、1978年5月10日に尾高指揮東京フィルによって初演された。そして、そのわずか3日後の5月13日には、松村《ピアノ協奏曲第2番》も尾高指揮東京フィル、野島稔の独奏で初演されている。


 

2026年8月8日(土)14:00開演
第1049回定期演奏会Aシリーズ
東京芸術劇場コンサートホール

指揮/尾高忠明
ピアノ/北村朋幹

三善 晃:オーケストラのための《ノエシス》(1978)
松村禎三:ピアノ協奏曲第2番(1978)
エルガー:エニグマ変奏曲 op.36

写真:都響のSNSより転用