ベイのコンサート日記

ベイのコンサート日記

音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

(7月16日・東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアル)

東京シティ・フィルは、常任指揮者・高関健のもと、ショスタコーヴィチ生誕120年と武満徹没後30年という二つの節目を重ね合わせた意欲的なプログラムで新シーズンを開幕した。
武満作品が演奏されたのが、正式名称を「東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアル」とする会場であったことも象徴的である。

特別客演コンサートマスターの荒井英治が、ショスタコーヴィチの二つのヴァイオリン協奏曲を一夜で披露した。

昨年8月9日、ショスタコーヴィチ没後50年の命日に、高関指揮・名古屋フィルとの共演で同じ二作品を演奏し、あまりにも見事な成果を収めたことから、「ぜひ東京でも」という企画になったという。

最初は
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第2番 嬰ハ短調 作品129。

名古屋公演を彷彿とさせる荒井のソロは、「魂がこもった」という言葉がふさわしい気迫に満ちていた。同時に、細部まで徹底的に磨き上げられた跡がうかがえる完成度の高い内容でもあった。第2番では、そのあまりの完成度に、録音を前提とした演奏ではないかと思ったほどである。休憩時間に楽団長の志田さんに伺ったところ、記録用には録音しているものの、CD制作の予定はないとのことだった。
 

もっとも、その完成度の高さは誠実である一方、ライヴならではの即興性や予測を超える表現がやや控え目にも思えた。
しかし、第1番第3楽章パッサカリアから長大なカデンツァに至る場面では、ショスタコーヴィチ自身の魂の叫びが聞こえてくるような壮絶な世界が現出した。

荒井はプログラム巻頭の文章で、ショスタコーヴィチの心の声として「日常が制約によって蝕まれている現実への抗い」を挙げている。激しく「ノー」を突きつけるようなその表現は、この作品の本質を鮮烈に浮かび上がらせた。
 

高関と東京シティ・フィルも、荒々しいエネルギーを保ちながら荒井とがっちり組み合い、力強く支えた。とりわけホルン首席・谷あかねのソロは見事で、鮮やかな存在感を放っていた。
 

後半は武満徹《ア・ウェイ・ア・ローンⅡ。高関のアプローチは、どこかシェーンベルクを思わせる構築的で力感のあるものだった。先日、グランディ指揮・札幌交響楽団で聴いた繊細で透明感のある演奏とは対照的である。一方、コーダで弱音器を付けた弦楽器が静かに響きを消していく場面には、高関らしい繊細な美しさも感じられた。

2曲目はショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第2番 嬰ハ短調 作品129。

低弦による重厚な序奏に続き、荒井は、交響曲第5番第3楽章を思わせるような重々しく緊張感に満ちた瞑想的な音楽へ、深く没入していく。

第1楽章終結近く、不意に「パチン」という音とともに弦が切れた。すぐさまコンサートマスター戸澤哲夫のヴァイオリンと交換し、戸澤はトップサイド奏者と交換、さらに順に楽器が受け渡され、最後は女性奏者が荒井のヴァイオリンを抱えて袖へ駆け込んだ。

ソリストの演奏中に弦が切れる場面を目撃したのは初めてである。弦に詳しい方も「初めて見た」と話していたほどで、極めて珍しい出来事だった。

映画『タングルウッドの奇跡』でも知られる五嶋みどりが、演奏中に二度続けて弦を切りながら冷静に演奏を続けた逸話を思い出した。

 

張り替えたのか、あるいはスペアの楽器だったのかは分からないが、第1楽章終了時には荒井の楽器が戻り、第2楽章スケルツォは無事始まった。

 

荒井は、トリオの行進曲風の場面でも美しい音色を失わない。一方、主題が繰り返されるコーダは、わずかに勢いが削がれたようにも感じられた。弦が切れた影響が残っていたのだろうか。曲間では入念にチューニングを行っていた。

 

第3楽章パッサカリアでは、変奏を重ねながらソロは気高い格調を保ちつつ、極限まで追い詰められた悲壮感を漂わせる。コーダ直前の長大なカデンツァでは、DSCH動機を織り込みながら、壮絶な美しさを築き上げた。

 

アタッカで続く第4楽章ブルレスケでは、オーケストラとともに一気呵成に突き進む。プレストのコーダまでエネルギーはまったく衰えず、そのまま最後まで駆け抜けた。

演奏を終えた荒井の表情には、「やり切った」という充実感と同時に、「まだ到達できるものがある」という思いも浮かんでいるように見えた。もちろん、それは本人にしか分からないことである。

 

聴衆の拍手とブラヴォーは温かく、長く続いた。オーケストラが退場しても鳴りやまず、最後は荒井と高関の二人だけによるカーテンコールとなった。


村上春樹『夏帆』を読了しました。武蔵境と浦和の街を舞台にした、いつもの幻想的な世界観を持つ物語ですが、女性を主人公に据えた点が新鮮でした。「新潮」に4回連載されたのち、単行本化された作品です。

個人的には、『海辺のカフカ』がこうした作風の一つの頂点だと思っており、本作も心地よく楽しめました。ただ、私には長く心に残る作品というより、その時間を味わうタイプの小説のように感じられました。

例によってクラシックLPにまつわるエピソードも登場します。クラシックLP愛好家である夏帆の父(小児科医)の愛聴盤として紹介されるのは二つ。

一つは、カザルス指揮マールボロ祝祭管弦楽団によるJ.S.バッハ《ブランデンブルク協奏曲》全曲盤(コロンビア・レーベル/現ソニー・クラシカル)。夏帆が聴くのは第2番です。
久しぶりにこの演奏を聴こうと思ったのですが、カザルス盤は以前CDを友人に譲ってしまっていました。今回はApple Musicで、あらためて耳を傾けようと思います。

もう一つは演奏者名こそ記されていませんが、ブラームス《クラリネット五重奏曲》。古い録音という設定から、私にはレオポルト・ウラッハ(クラリネット)とウィーン・コンツェルトハウス四重奏団によるウエストミンスター盤が思い浮かびました。久しぶりにそのCDを聴き返しています。

ジークフリート・マトゥス:《怒り狂う女(Furien-Furioso)》 (日本初演)

外見上の愛想の良さや親切心の陰に潜む、不誠実で狡猾な存在をギリシャ神話の復讐の女神フリアエに重ね、その魔力に追われる者の姿を描いた作品。女神の金切り声を思わせる響きがたびたび現れ、そこから逃れようとする切迫した情景が生々しく描かれる。

ヴァイグレの指揮は緻密で見通しが良かったが、もう少し恐怖感を前面に押し出しても面白かったように思う。フレクサトーンのお化けを思わせる響きが効果的であった。

 

ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番 変ホ長調 作品107

ダニエル・ミュラー=ショットは、スティーヴン・イッサーリスに学んだことをうかがわせる品格あるチェロである。先日、新日本フィルと共演したアンドレイ・イオニーツァの野性的な表現とは対照的に、端正で均整の取れた音楽づくりが印象的だった。緩徐楽章では豊かな情感を聴かせた一方、緊張感を要する場面や諧謔味あふれる表現では、やや物足りなさも感じた。

第2楽章では、ミュラー=ショットが奏でる主題に寄り添うヴィオラ群の対旋律が美しく、とりわけ抒情的な響きが印象に残った。

ヴァイグレ=読響もミュラー=ショットの方向性に寄り添い、終始端正で引き締まった演奏を展開した。

アンコールのJ.S.バッハ《無伴奏チェロ組曲第3番》より〈ジーグ〉は、伸びやかで明るく、師イッサーリスを思わせる自然な歌心を感じさせる演奏であった。

 

ルディ・シュテファン:《交響的楽章》(1910年)(日本初演)

第一次世界大戦で28歳の若さで戦死したシュテファンの傑作。ヴァイグレは読響で彼の作品を積極的に紹介しており、2022年の《管弦楽のための音楽》に続き、今回が2度目となる。さらに2027年3月19日、読響特別演奏会(東京芸術劇場)では歌劇《最初の人類》の日本初演も予定されており、その先駆けとしても意義深い演奏であった。

聴いた印象では、シェーンベルクやドビュッシー、マーラー、リヒャルト・シュトラウスを思わせる響きも垣間見えるが、そこにはシュテファン独自の世界が確かに存在する。それはこれまで聴いたことのない孤高の高みを感じさせる一方で、前向きな明るさも備え、時にコルンゴルトの映画音楽を思わせるような親しみや広がりも現れる世界である。

ヴァイグレ=読響の演奏は集中力に富み、約25分の作品を一気に聴かせた。オルガンが加わるクライマックスは壮大であった。

 

R.シュトラウス:交響詩《死と変容》作品24

3日前に熊倉優指揮・東京交響楽団の演奏を聴いたばかりであり、ヴァイグレ=読響がどのような《死と変容》を聴かせるのか興味深かった。マトゥス、シュテファンと同様に16型のフル編成で臨み、東響の14型(コントラバス7台)を上回るスケール感を実現していた。総合的な音量やオーケストラの厚みでは、ヴァイグレ=読響が勝っていたと言える。

しかし、私自身は熊倉東響の演奏のほうが、より深い感動を覚えた。その理由は何だろうと考えてみた。

ヴァイグレの指揮は、オーケストラを明晰なバランスで最大限に鳴らすという点では圧倒的である。しかし、この作品が描く死から変容へ至るドラマが、もうひとつ胸に迫ってこない。音響としては見事に完成されている一方、人間的なドラマとしては、やや踏み込みが足りない印象を受けた。
 

実は熊倉の演奏にも同様の印象を抱いた部分はあったが、最後の「変容」の場面では、「芸術家の理想」と「少年時代の懐かしく温かな思い出」が重なり合う場面の表現が聴き手の心のひだに沁み込んできたのだった。

ヴァイグレ=読響の壮大で美しい演奏は、オーケストラの底力という点では熊倉東響を上回っていた。しかし、作品が描く死と変容のドラマを、より人間的な情感として描き出すという点では、もう一歩踏み込んだ表情があってもよかったように思う。
写真:ヴァイグレ©読響 ダニエル・ミュラー=ショット©Uwe Arens

熊倉優指揮・東京交響楽団「名曲全集」を聴いた。

8月にハノーファー州立歌劇場第1カペルマイスターへ就任する熊倉は、海外で着実に経験を積み、聴くたびに進化を感じさせる。この日は卓越したオーケストラ・コントロールが光り、特にリヒャルト・シュトラウス《ドン・ファン》《死と変容》では、頂点を最後に置く構築力が印象的だった。一方で、交響詩ならではの物語性や心理描写については、さらなる深化への期待も抱かせた。

コルンゴルト《ヴァイオリン協奏曲》で共演したドミトロ・ウドヴィチェンコは、第3楽章で本領を発揮し、熊倉・東響との熱気あふれる演奏を繰り広げた。

詳しくは『音楽の友』コンサート・レヴューに書きます。

諏訪内晶子のベートーヴェン「ヴァイオリン協奏曲」は、愛器1732年製作のグァルネリ・デル・ジェズ「チャールズ・リード」の響きを余すところなく引き出した、輝かしく強靱でスケールの大きな演奏だった。フランソワ・ルルー指揮の日本フィルも、繊細さと大胆さを兼ね備えたダイナミクスで応え、諏訪内を万全に支える理想的な共演を実現した。

 

とりわけ第1楽章では、諏訪内の目指すベートーヴェン像が鮮やかに表れていた。ヴァイオリンは高音の張りの強さと揺るぎない音程、強靱な芯を備え、終始輝かしい響きを放つ。ルルー指揮の日本フィルは、弱音を巧みに生かしながら諏訪内と同じ方向性で寄り添い、独奏との高い一体感を実現した。


その格調高い支えの上で、ヨアヒムのカデンツァが圧巻だった。ティンパニの四つの音を重音で「ガッ、ガッ、ガッ、ガッ」と叩きつけるように弾き始め、そこから複数の旋律を重ね合わせ、トリルや装飾を織り込みながら一気に攻めていく。クライスラー版とはまったく異なる、構築性と力強さに満ちたヨアヒムならではの壮大なカデンツァであり、諏訪内はその壮大な世界を圧倒的なスケール感で描き切った。

 

第2楽章では、弱音器を付けた弦が繊細な表情で主題を奏でる。諏訪内は三つの変奏を、引き締まった美音で一つひとつ丁寧に描いていく。変奏では日本フィルのクラリネット、ホルン、ファゴットも控えめながら温かな表情を添え、第3変奏では、繊細なピッツィカートに乗せて歌われるソロがとりわけ印象深かった。

 

終楽章ロンド・アレグロでも、諏訪内の切れ味鋭い音色は最後まで鮮烈だった。感傷的な第2副主題では、甘さとほろ苦さが絶妙に溶け合い、力強いカデンツァを経て、オーケストラとともに堂々たるフィナーレを築いた。

 

客席からは盛大な拍手が沸き起こり、何度もカーテンコールが繰り返された。ルルーは諏訪内を心から讃えた。拍手はなかなか鳴りやまず、諏訪内はアンコールにバッハ《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番》BWV1005より第3楽章〈Largo〉を演奏した。美しさを極めた演奏だが、その美しさはどこか孤高の影を帯びていた。個人的には、この楽章ではもう少し柔らかな表情をたたえた演奏にも惹かれる。

 

後半のプロコフィエフ《交響曲第5番》では、ルルーの長所と短所の両面が現れた。

色彩感豊かな響き、多彩な音色、明晰なテクスチュアはいかにもフランスの指揮者らしい。オーボエ奏者でもあるルルーは、長い息によるレガートで旋律を滔々と歌わせる。第2楽章スケルツォでは拍節感も明快で、中間部のワルツには洗練されたセンスが漂った。再現部ではトランペット、トロンボーンにも明るい色彩感があり、このあたりも実にフランス的な感性を感じさせた。

 

その一方で、旋律を大きく歌わせる反面、四つの楽章を通したドラマの起承転結という点では、構成の輪郭がやや曖昧になり、もう一つ明確さを欠いた印象を受けた。第3楽章アダージョでも、その息の長い歌わせ方が、やや冗長に感じられた。

しかし終楽章の長大なコーダでは、音楽が見事に引き締まり、輝かしい終結へと導いた。

終演後、ルルーはオーケストラの中へ分け入り、各パートを回って一人ひとりを称えた。楽員への深い敬意と共感を隠さないその姿勢は、日本フィルの団員たちからも大きな信頼を集めることだろう。

 

日本フィルハーモニー交響楽団
第782回東京定期演奏会[金]

2026年07月10日 (金) 19:00

会場:サントリーホール

指揮:フランソワ・ルルー

ヴァイオリン:諏訪内晶子

ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.61

ソリスト・アンコール:J. S. バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番 BWV 1005 より 第3楽章 Largo

プロコフィエフ:交響曲第5番 変ロ長調 op.100


(7月7日・東京オペラシティコンサートホール)

ベートーヴェンの交響曲第6番《田園》と、「ブラームスの《田園》」とも称される交響曲第2番という王道プログラム。会場はほぼ満席であった。
 

ベートーヴェンは11-10-8-6-3、対向配置。ピリオド奏法的なアプローチかと思いきや、低弦がたっぷりとしたヴィブラートを伴い、レガートを生かした演奏スタイルを採った。低弦は、地を這うような重量感のある低音を形成した。
 

第1楽章は、「田園に着いたときの晴れやかな感情」というよりも、遅めのテンポで重厚に始まる。長く雨が続く曇天を思わせるような、重々しい響きがあった。

第2楽章「小川のほとりの情景」もその雰囲気を引き継ぐが、少し重みが取れ、幻想的な印象を与えた。再現部で鳥たちの鳴き声を描くフルートの爽やかな音色、クラリネット、オーボエ、ファゴットの温かな響きはいずれも表情豊かであった。

第3楽章「農民たちの楽しい集い」は標準的なテンポ。厚みはあるものの、響きがやや飽和する場面もあった。

第4楽章「雷雨、嵐」も重心が低く、チェロとコントラバスの激しいトレモロは分厚く、ティンパニの打音にも重みがあった。

第5楽章「牧人の歌、嵐の後の喜ばしい感謝の感情」では、弦をたっぷりと歌わせた。コーダ直前の感謝の祈りの場面は、大植=東響の演奏が聴く者を癒やすような安らぎに満ち、全曲を通して最も心に響いた。
 

こうした重厚な《田園》を聴く機会は最近少なく、どこか懐かしい思いを呼び起こした。上階からはブラヴォーも飛び、聴衆の拍手も盛大であった。


ブラームス「交響曲第2番」は14-12-10-8-7、対向配置。

この作品でもベートーヴェンと同じ方向性の重厚な演奏であったが、それがブラームスらしい陰影の濃い音楽とよく調和していたように思う。ベートーヴェンでは第1楽章提示部の繰り返しを行ったが、ブラームスは繰り返しを省略してそのまま展開部へ進んだ。

何度も現れる闘争的な頂点は、いずれも充実した響きを聴かせた。コーダのホルンの長いソロは客演奏者が務め、まずまず安定した演奏であった。

第2楽章はさらに重厚さが増し、その寂しさと孤独感はこの楽章にふさわしい。練習番号Aのホルン・ソロも、第1楽章同様に安定していた。木管による第2主題は抒情的で美しく、第3主題では暗い情熱が渦巻くが、もう一段の深みと切実さがほしい。その主題で再び高揚する再現部の終結では、その深みと切実さが十分に感じられた。

第3楽章は、アレグレット・グラツィオーソの主題とプレスト・マ・ノン・アッサイの主題が交互に現れるが、大植はその緩急のコントラストを鮮やかに描き分けた。

第4楽章は、コーダに向けて熱気をはらみながら盛り上がり、大きな開放感をもって締めくくられ、ブラヴォーを呼んだ。
 

個人的には、大植英次が最も輝いていたのは、ミネソタ管弦楽団の音楽監督時代だったと思う。1998年9月25日サントリーホールで聴いた同団との初来日公演では、後半のマーラー《交響曲第5番》での完全燃焼するような高揚感はいまも忘れられない。

しかし近年は、円熟味を増した一方で、かつての爆発的な生命力や高揚感はやや影を潜めた印象を受ける。年齢による芸風の変化なのだろうか。

A Joyful Ensemble Built on Trust and Friendship

The Beija-flor String Quartet's First Tour of Japan

Concert review by Kyosuke Hasegawa

Photo courtesy of the Beija-flor String Quartet (official Facebook page).


The Salzburg-based Beija-flor String Quartet concluded its first tour of Japan with a concert at Shiodome Hall in Tokyo on July 4. The tour was initiated by first violinist Haruna Shinoyama and made possible with the support of a successful crowdfunding campaign. The hall was filled to capacity, reflecting the audience's excitement for the quartet's long-awaited Japanese debut.


My very first impression was simple:

Shinoyama is fortunate to have found such wonderful colleagues with whom she can truly make music.

Second violinist Tobias Aan supports Shinoyama with warm, beautifully blended harmonies, while his brief solo passages are always played with elegance and refinement. Violist Samuel Poblete embraces the ensemble with a rich, generous tone, providing warmth and stability throughout. Cellist Ema Krecic Rode builds a solid foundation in the lower register while bringing subtle shades of colour and emotional depth whenever the music calls for it.


Each of the four musicians possesses a distinct musical personality. Yet these differences never compete. Instead, they blend naturally into a single artistic voice.

The four musicians clearly trust one another, respecting each other's individuality while always serving the music rather than themselves. That attitude creates an ensemble filled with genuine joy, and the audience cannot help but share in that happiness.


The first half opened with Haydn's String Quartet in G major, Op. 33 No. 5 ("How Do You Do?"). Few works could have been more appropriate to open a first tour of Japan. The quartet's musical greeting seemed perfectly matched to the affectionate nickname of the work itself.

Already in the first two movements, the three players supporting Shinoyama sang beautifully through the inner voices, producing the rich texture that lies at the heart of fine quartet playing. In the finale, melodies passed naturally between the first violin, viola and cello, vividly illustrating Haydn's conversational writing. The exhilarating Presto coda demonstrated remarkable unity, the four players breathing as one.


With Mozart's String Quartet No. 17 in B-flat major, K.458 "The Hunt," the ensemble became even more relaxed and spontaneous. Shinoyama led the opening movement with freshness and vitality, while the cello played an especially active role during the development section. Tobias Aan's brief solo passages were memorable not because they sought attention, but because they served the music with quiet dignity. They reflected the quartet's shared philosophy: every voice matters, but none exists for individual display.

In the Minuet, Shinoyama sang generously while the inner voices enriched the harmony with remarkable warmth. The dialogue between the first violin and cello in the Adagio was beautifully shaped, creating one of the emotional highlights of the first half. The finale's intricate counterpoint was performed with impressive clarity, and the quartet's spontaneous interaction generated irresistible momentum. Their playing possessed both discipline and freedom—qualities that characterize truly mature chamber music.

 

The second half opened with Toshio Hosokawa's Blossoming, a work Shinoyama had specifically wished to place before Beethoven. Inspired by the image of a lotus flower slowly opening, the piece combines extraordinary delicacy with tremendous inner energy. The quartet conveyed both qualities with remarkable precision and imagination. At times the music became mysterious, almost otherworldly, and in the closing pages, played with mutes, the four musicians created a sound world of profound stillness.

 

That sense of mystery flowed seamlessly into the enigmatic introduction of Beethoven's String Quartet in C major, Op. 59 No. 3 ("Razumovsky" No. 3). The programming itself was inspired.

From the opening Allegro vivace, Shinoyama led the ensemble with both strength and flexibility. Even Beethoven's complex development section remained lucid, and the four musicians breathed as one in the recapitulation. Listening to this performance, I found myself thinking that the Beija-flor String Quartet has already reached a remarkably mature stage in its artistic development.

 

The second movement left a particularly strong impression through Ema Krecic Rode 's expressive pizzicato. Rather than sounding dark, it carried a gentle, almost comforting nostalgia. Her refined sense of colour gave the music emotional depth, while the warmth of the inner voices continued to enrich the quartet's sound.

 

The third movement, marked Grazioso, unfolded with graceful lyricism. The Trio possessed Beethoven's characteristic humour, yet the quartet also brought strength and conviction to the music, making its playful spirit even more compelling.

 

The true highlight of the concert came in the finale.

In the great fugue, each musician revealed a distinct personality while driving forward with complete unity of purpose. Shinoyama's leadership was at its most compelling here, propelling the music with remarkable energy.

At that moment, I found myself deeply moved.

Having followed Shinoyama's musical journey since 2018, I realized that I was no longer listening simply to a gifted violinist. I was witnessing a musician who had grown into the leader of a quartet, creating music together with trusted colleagues.

Shinoyama once told me,

"Quartet playing allows me to explore my musical ideas freely. I have colleagues who are willing to explore them together with me, and we can communicate without hesitation. It is the place where I can simply be myself as a musician."

This performance was the finest proof of those words.


The encore, Piazzolla's Oblivion, left the audience in a mood of quiet nostalgia. Its lingering final bars provided a gentle and deeply moving close to the concert.
 

One final piece of good news has since arrived. The Beija-flor String Quartet has been selected as a Featured Artist of the International Mozarteum Foundation for the coming season. Since the Foundation presents the internationally renowned Mozart Week every January around Mozart's birthday, this recognition will undoubtedly bring the quartet many new opportunities to perform.

I very much look forward to following the next chapter of their musical journey.

 

About the name "Beija-flor"

The name Beija-flor comes from Brazilian Portuguese. Beija means "to kiss," and flor means "flower." Together they refer to the hummingbird—the tiny bird that "kisses flowers."

 

Program

Joseph Haydn
String Quartet in G major, Op. 33 No. 5 ("How Do You Do?")

Wolfgang Amadeus Mozart
String Quartet No. 17 in B-flat major, K.458 ("The Hunt")

Toshio Hosokawa
Blossoming

Ludwig van Beethoven
String Quartet No. 9 in C major, Op. 59 No. 3 ("Razumovsky" No. 3)

Encore
Astor Piazzolla: Oblivion


Performers

  • Haruna Shinoyama, first violin
  • Tobias Aan, second violin   
  • Samuel Poblete, viola
  • Ema Krecic Rode, cello

 

About the Author

Kyosuke Hasegawa – Music Critic

Kyosuke Hasegawa is a Japanese music critic and former Chief Producer of Classical Music at Sony Music Entertainment Japan, where he spent many years producing classical recordings.

He is currently a regular contributor to Ongaku no Tomo, Japan's most prestigious classical music magazine, writing monthly concert reviews. He also contributes regularly to Mostly Classic and Bravo, and writes concert reviews and feature articles for Mainichi Classic Navi, the classical music website of the Mainichi Newspapers Group. In addition, he is active as an author of concert program notes and CD booklet essays.

Hasegawa serves as a Board Member of the Music Pen Club Japan, one of the country's leading professional organizations for music writers and critics.

オーストリア・ザルツブルクを拠点に活動するベイジャ・フロー弦楽四重奏団が、日本初ツアーの締めくくりとなる公演を7月4日、汐留ホールで行った。第1ヴァイオリン篠山春菜が中心となって企画し、クラウドファンディングの支援も得て実現したツアーである。会場は満席。初来日を待ち望んでいた聴衆の期待が伝わってきた。

 

まず思ったのは、篠山春菜は幸せな音楽家だ、ということである。

なぜなら、こんなにも素晴らしい仲間たちと音楽をつくっているからである。

第2ヴァイオリントビアス・アーンは篠山を引き立てながら柔らかな和声をつくり、ソロでは品格のあるまろやかな音色を聴かせる。ヴィオラサムエル・ポブレテは温かく包容力のある音色でアンサンブルを支える。チェロエマ・クレチッチ・ローデは低声部の土台をしっかり築きながら、ときに陰影のある歌で音楽に深みを与える。それぞれの個性はまったく異なる。しかし、その違いが美しく溶け合い、一つの音楽をつくっていた。
四人は互いを深く信頼し、それぞれの個性を尊重しながら、常に作品が求める役割を全うしていた。その姿勢が、幸福感に満ちたアンサンブルを生み、聴く者の心まで温かく満たしてくれた。

 

前半はハイドン《弦楽四重奏曲第41番 ト長調 Op.33-5〈ご機嫌いかが〉》。〈ご機嫌いかが〉という愛称を持つこの作品は、初来日公演の幕開けに実にふさわしい選曲だった。四人から聴衆への音楽による挨拶のようにも感じられた。

第1、第2楽章では、篠山を支える三人の内声部が実によく歌い、カルテットらしい豊かな響きを生み出していた。終楽章では篠山、ヴィオラ、チェロへと旋律が自然に受け渡され、四人が対等に語り合うハイドンの魅力を生き生きと描いた。コーダのプレストでは四人の息がぴたりと合い、見事な一体感を見せた。

 

モーツァルト《弦楽四重奏曲第17番 変ロ長調〈狩〉K.458》になると、アンサンブルはさらに自由さを増す。篠山は第1楽章を生き生きとリードし、展開部ではチェロが積極的に歌う。トビアス・アーンも短いソロに品格ある表情を与え、決して目立とうとはせず、作品が求める役割を自然に果たしていたことが印象に残った。

 

第2楽章では篠山がおおらかに歌い、内声部が豊かな響きを添える。第3楽章アダージョでは篠山とチェロの美しい対話が心に残った。終楽章では緻密な対位法を四人が鮮やかに描き切り、自発性に満ちた演奏が大きな推進力を生み出していた。

 

後半冒頭は細川俊夫《開花》。篠山が「ぜひベートーヴェンの前に演奏したい」と考えた作品である。蓮の花が静かに開いていく生命の営みを描いたこの作品を、四人は繊細かつ大胆に表現した。神秘的で、ときに妖しいまでの世界が広がり、最後に弱音器を付けた四人の響きは、まるで宇宙と交信しているかのような深淵さを感じさせた。
 

その深淵な響きが、ベートーヴェン《弦楽四重奏曲第9番 ハ長調〈ラズモフスキー第3番〉》Op. 59-3の神秘的な序奏へ、ごく自然につながっていく。このプログラム構成は見事だった。

第1楽章では篠山がしなやかで力強く全体を牽引する。複雑な展開部も明快で、再現部では四人の呼吸がぴたりと合う。この演奏を聴いていると、ベイジャ・フロー弦楽四重奏団は一つの完成された段階へ近づいているのではないかと思えてくる。

 

第2楽章では、エマ・クレチッチ・ローデのピッツィカートが実に印象的だった。暗く沈み込むのではなく、ほのかな感傷を湛えた音色が心地よい。こうした陰影の付け方に彼女らしいセンスを感じた。後半でも内声部の豊かな響きは変わらない。

 

第3楽章《グラツィオーソ》では、その指示どおり歌が気持ちよく流れていく。トリオはベートーヴェンらしい諧謔味を持ちながらも力強く、それが作品の魅力をいっそう引き立てていた。

 

そして白眉は終楽章である。

長大なフーガでは、四人がそれぞれの個性を存分に発揮しながら、一つの音楽として力強く突き進んだ。篠山の推進力もここで最も鮮やかに発揮され、私は少し胸が熱くなった。2018年から彼女の歩みを見守ってきたが、ソリストとしてだけでなく、カルテットのリーダーとして仲間と音楽を築いている姿に、新たな成長を感じたからである。
 

篠山は「カルテットは自分の表現を自由に試させてもらえて、それを一緒に試してくれる仲間がいて、不安なく心のやり取りができる、言わば私が素の音楽家でいられる居場所です」と語る。この日の演奏は、その言葉をそのまま音楽で証明したような演奏だった。

 

アンコールのピアソラ《オブリビオン》(忘却)は、哀愁を帯びた甘美なメロディが静かな余韻を会場に残した。

 

ここに吉報が舞い込んだ。来シーズンの国際モーツァルテウム財団フィーチャード・アーティストに、ベイジャ・フロー弦楽四重奏団が選ばれたという。同財団は毎年、モーツァルトの誕生日である1月27日前後に国際的な音楽祭「モーツァルト週間」を開催しており、彼らの出演機会もさらに増えることだろう。

彼らの今後に、ますます期待が高まる。

べイジャ・フロー弦楽四重奏団The Beija-flor String Quartetの名前の由来はブラジルのポルトガル語。Beijaはキスする、Florは花の意味を持ち、つまり花にキスをする鳥、“ハチドリ”のことである。

 

ベイジャ・フロー弦楽四重奏団(7月4日・汐留ホール)

ハイドン:弦楽四重奏 第41番 ト長調 Op. 33-5

モーツァルト:弦楽四重奏 第17番 変ロ長調 「狩」 KV458

細川俊夫:開花 - Blossoming

ベートーヴェン:弦楽四重奏 第9番 ハ長調 Op. 59-3

アンコール

ピアソラ:オブリビオン(忘却)

 

篠山春菜(第1ヴァイオリン)

トビアス・アーン(第2ヴァイオリン)

サムエル・ポブレテ(ヴィオラ)

エマ・クレチッチ・ローデ(チェロ)

「日本の現代音楽のコンサートで、2日間とも9割以上客席が埋まるのは本当に珍しいことです。」

プレトークで指揮者の藤岡幸夫が語った通り、現代音楽のプログラム、しかも平日昼公演でここまで客席が埋まるのは極めて稀である。新日本フィルが集客に苦しんでいた時代を知る者としては、まさに隔世の感があった。ちなみに日曜日は完売になったようだ。
今回は藤岡と新日本フィルの相性の良さを改めて実感させる公演でもあった。藤岡はこれまで東京シティ・フィルで邦人作品の紹介に積極的に取り組んできたが、この日は特別な思いがあった。
3年前、肺炎のため指揮をキャンセルせざるを得なかった吉松隆《交響曲第3番》を、ようやく自ら振ることができたのである。
その時は、当時東京シティ・フィルの指揮研究員であった山上紘生が代役で振り、大成功を収めた。その時のレヴュー。

山上紘生(やまがみこうき) 藤岡幸夫の代役で鮮烈なデビュー!(6月9日・東京オペラシティ) | ベイのコンサート日記
 

しかもこの作品は、藤岡が吉松作品を世界に紹介したことを契機に生まれ、藤岡に献呈され、自身が世界初演・世界初録音も担当している。力が入るのは当然だろう。


前半は芥川也寸志《交響管絃楽のための前奏曲》と、伊福部昭《ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲(ヴァイオリン協奏曲第1番)》。

芥川作品は、プロ・オーケストラによる演奏は今回が初めてだという。第2楽章には、よく似た題名を持つ《交響管絃楽のための音楽》を思わせる部分もある。伊福部昭の影響を感じさせる東洋的な主題とオスティナート・リズムを特徴とする作品を、藤岡は生き生きとしたリズム感と豊かな表情でまとめ、新日本フィルも躍動感あふれる演奏を展開した。

プレトークでは、第1楽章中間部の木管について「理解不可能な和声」と藤岡自身が語っていたが、確かにそこだけは取って付けたような、和声進行を無視したようにも感じられ、やや違和感が残った。

 

ソリストに木嶋真優を迎えた伊福部昭の《ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲》は、藤岡が「悪魔が乗り移ったような」と形容した木嶋の入魂の演奏が全体を牽引する熱演となった。

第1楽章では、伊福部ならではの、日本的な響きとスラヴ的な哀愁が融合した旋律と、力強くリズミカルな主題が交互に現れる。その一部は、後に《ゴジラ》のテーマへと発展したことでも知られる。

 

第2楽章では、ヴァイオリンはほとんど休みなく弾き続け、オスティナート・リズムの上で動機を延々と紡いでいく。中間部のカデンツァでは濃密な音楽が充満し、終盤ではひたすら弾き続ける独奏と管弦楽が完全に一体化する。呪術的ともいえる陶酔感のなかで作品は圧巻の終結を迎えた。

 

後半の吉松隆《交響曲第3番》は、冒頭から爆発的なエネルギーがほとばしった。近年好調を維持する新日本フィルの金管が輝かしく響き、定評のある木管も健闘。ジャズのテイストのある第2楽章では、ジャズベースを思わせるコントラバスのピッツィカートが効いていた。第3楽章では、どこか東洋的な主題を、チェロ首席佐山裕樹とフォアシュピーラーの佐古健一が重厚な二重奏で聴かせた。

 

第4楽章フィナーレは、吉松自身が解説で『雲の切れ間から射すかすかな日の光が巨大な日の出へと拡大してゆき、太陽の祝祭を迎える』と書いたとおりの、熱狂的な管弦楽の爆発が生まれる。打楽器、ゲストのピアノまで、オーケストラ全体が躍動感に満ちた演奏を繰り広げ、ホール全体を熱気で包み込んだ。


プレトークで藤岡はこの作品を「黒澤明と大河ドラマ、シベリウスとチャイコフスキーの音楽を全部合わせたような作品」と紹介したが、その言葉どおり、雄大な叙情性と圧倒的なエンターテインメント性を兼ね備えた作品世界が繰り広げられた。
藤岡の指揮は、作品をわがものとした説得力と、けた外れのダイナミックがあり、作品の真価を知らしめた。

 

7月2日、東京オペラシティ コンサートホールで行われた樫本大進(ヴァイオリン)、小菅優(ピアノ)、クラウディオ・ボルケス(チェロ)によるピアノ・トリオを初めて聴いた。

最も印象に残ったのは、小菅優の存在感である。これまで彼女にはダイナミックで彫りの深い演奏という印象を持っていたが、この日はモーツァルト、シューベルト、メンデルスゾーンと、それぞれの様式に寄り添いながら、軽やかで優美な表情を見せた。


樫本大進のヴァイオリンも実に繊細であり、クラウディオ・ボルケスのチェロは温かく柔らかな響きで全体を支える。三人は互いの呼吸を細やかに感じ合い、緊密なアンサンブルを築いていた。

ただ、演奏としての完成度は高かったものの、欲を言えば、もう一段深く聴き手の琴線に触れるような、心の奥底まで揺さぶる瞬間があれば、さらに忘れ難い演奏会になったようにも感じた。


モーツァルト:ピアノ三重奏曲第6番 ト長調 K.564

モーツァルト晩年の最後のピアノ三重奏曲。

小菅の軽やかなピアノと、樫本の甘やかで透明感のあるヴァイオリンが、この作品に漂う澄み切った抒情と、ときおり差し込む短調の陰影を繊細に描いていく。

ボルケスのチェロは終始控えめで、作品全体の均衡を重視した演奏だったが、もう少し存在感があってもよかったかもしれない。



武満徹《ビトゥイーン・タイズ》

三人の音色はそれぞれ異なる。しかし、その繊細な響きが、浮かんでは消えていくように幾重にも重なり合うことで、時の流れが止まったかのような、武満徹ならではの静謐な音響世界が生まれた。最後は、虹がゆっくりと空へ溶け込んでいくように、音もまた静かに消え去っていった。

 

シューベルト:ピアノ三重奏曲 変ホ長調 D897《ノットゥルノ》

この日最も心を惹かれたのは、小菅優のシューベルトだった。

そのピアノを何と表現したらいいのだろう。ただ繊細で美しいだけではない。人間味があり、どこか懐かしい温もりを宿している。

リリカルな歌心にあふれ、細やかなトリルのニュアンスにも「これぞシューベルト」と思わせる自然さがある。

おそらく彼女の演奏には、「歌わずにはいられなかったシューベルト」の心が宿っているのだろう。

現実を超越したような静けさをたたえたこの作品は、晩年の傑作《弦楽五重奏曲 ハ長調 D956》にも通じる精神世界を感じさせる。三人はその透明な時間を大切に紡ぎ、ホールには静かな緊張感が満ちていた。
 

メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲第1番 ニ短調 op.49

第1楽章冒頭、チェロによるソロを聴いて、クラウディオ・ボルケスという奏者の魅力がよく分かった。

まろやかな音色。柔らかく包み込むような響き。そして温かさ。

技巧を誇示するのではなく、自然に歌うチェロである。

そこへ樫本と小菅が寄り添い、三人が完全に同じ方向を向いて演奏していることが伝わってくる。
 

第2楽章は、小菅がたんたんと主題を弾いていく。ヴァイオリンとチェロも加わるが、情感を抑制した表現である。あと一歩踏み込んだ精神的な深みや切実さが加われば、さらに胸を打つ演奏になったのではないかという思いも残るが、ピアノに始まる副主題は自然に感情が加わった。チェロのピッツィカートが加わり、ヴァイオリンが主題を歌い上げていくところから、コーダまでは、まるで天上へと昇っていくような浮遊感が生まれた。

 

第3楽章スケルツォは、小菅のピアノが見事。メンデルスゾーン特有の妖精が飛び交うような軽快なリズム感とともに、樫本とボルケスも生き生きと演奏していった。

 

第4楽章フィナーレは、3人が軽やかな演奏を展開する。勢いを増しても三人の均衡は崩れず、最後まで緻密なアンサンブルを保った。第2主題のチェロとヴァイオリンの歌心にも惹かれた。コーダの加速していく熱狂が終わると、満員の会場から盛大な拍手が送られた。

アンコールはベートーヴェン「ピアノ三重奏曲 第1番 op.1-1」より 第2楽章。
ベートーヴェンが作品1として、自信をもって発表した野心作でもあるが、第2楽章アダージョ・カンタービレは、ハイドン、モーツァルトの伝統の上にありながら、すでにロマン派の豊かな世界とベートーヴェン自身の意思の強さ、そしてユーモアも感じさせる。
小菅、樫本、ボルケスの懐の深い演奏は、そうしたことをよく感受させるものがあった。

 

写真:樫本大進Keita Osada (Ossa Mondo A&D)/小菅優©Takehiro Goto /クラウディオ・ボルケス@Peter Adamik