ベイのコンサート日記

ベイのコンサート日記

音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

(5 月28日・サントリーホール)
フランス放送フィルハーモニー管弦楽団が、今年9月に音楽監督に就任するヤープ・ヴァン・ズヴェーデンとともに13年ぶりに来日した。
私は聴くのは初めてだ。

最初はドビュッシー:牧神の午後への前奏曲。フルートの柔らかく密やかな佇まい、オーボエの色彩感、ハープのアルペッジョの柔らかく黄金色に輝く音、ホルンの1番と3番の同じくソフトで温かな対話が印象的で、冒頭からフランス放送フィルの特長と魅力が存分に示された。コーダのホルンとヴァイオリンに寄り添うアンティーク・シンバル(オーケストラの下手に2人の奏者が立って演奏)は聞こえるかどうかという弱音だが、その透明な響きが幻想的な世界を醸し出した。

 

ラフマニノフピアノ協奏曲第3番 は、ロシアの大地を思わせる雄大さと濃厚なロマンティシズムに満ちた作品だが、藤田真央の演奏は、瑞々しい表情がある一方で、大地を揺るがすような重厚さを打ち出すまでは至らず、ピアノはオーケストラの強奏に埋もれがちであった。
ただ、第1楽章の長大なカデンツァは、気迫のこもった超絶的な技巧が冴えわたり、大きな山場を築いた。

 

第2楽章「間奏曲」は、オーケストラの滑らかで分厚い弦が豪華な音を生み出す。藤田もロマンティックに歌い、中間部はピッツィカートをバックに繰り出される速いパッセージが華麗で、オーケストラとの一体感もあった。
後半の開始を告げるフランス放送フィルのオーボエとホルンのソロが見事であった。

 

アタッカで入った第3楽章はピアノとオーケストラが躍動して進み、シンコペーションの主題でも藤田がしっかり攻めていく。抒情的な第2主題は意外にあっさりと弾いた。もう少し思いを込めてもいいようにも思えた。
展開部のメーノ・モッソ、レントでのピアノは夢見るようで惹きつけられた。

 

コーダは藤田とズヴェーデンフランス放送フィルが白熱した演奏を繰り広げた。ここでもオーケストラの強奏にピアノは押され気味だったが、終わったとたん、多くの藤田ファンが詰めかけた会場から大喝采が起こった。
 

アンコールは、ラフマニノフ(藤田真央編曲)『ここはすばらしい場所』Op. 21-7

情緒に流れず、さらりとした編曲であり、演奏であった。
 

後半の最初は、ドビュッシー「交響詩《海》」。ズヴェーデンはオーケストラを存分に演奏させる。楽員が全力で演奏するため、分厚く密度の濃い音となり、聴き手に迫ってくる。昨年ズヴェーデンが2012年から2024年まで音楽監督を務めた香港フィルハーモニー管弦楽団の来日公演を聴いた時と相通じる響きである。

牧神で聴いたフランス的な味わいは、もちろんあるが、柔軟で、機能的な放送オーケストラらしい特長があることを印象付けた。

 

最後のラヴェル《ラ・ヴァルス》は、ハープの華麗なグリサンド、フルートの輝きなど、フランス的な色彩とともに、濃厚で中身のぎっしりと詰まった音を堪能した。ただ、ズヴェーデンの指揮は押し出しが強く、この作品の洒脱さや幻想性がやや後退し、圧倒的なエネルギーとなって迫ってきた。

 

アンコールはエルガー:エニグマ変奏曲より第9変奏「ニムロッド」。フランスのオーケストラによる英国音楽はめずらしいが、フランス放送フィルの磨き抜かれた重厚な弦を堪能できた。


 


 

指揮者なしの水戸室内管弦楽団(MCO)の演奏。ラヴェル《亡き王女のためのパヴァーヌ》のコンサートマスターは、フェデリコ・アゴスティーニ。冒頭のホルン二重奏は九響首席の名手ルーク·ベイカーと都響の和田博史だったが、珍しく少し乱れた。

フルートのセバスチャン・ジャコー、オーボエのルイ・ボーマン、クラリネットの山本正浩、ハープの吉野直子らのソロがひときわ見事だったが、指揮者がいないためか、全体のアンサンブルが、いまひとつ緊密ではない。

 

MCOは、本来「互いに聴き合う室内楽的な理想」を目指す団体で、指揮者なしでの“自発性”や“共通言語”が魅力である。ただ、その反面、総合的な統一感や音楽の方向性が形成しにくい弱点も出る。指揮者なしでラヴェルの繊細なオーケストレーションを整える難しさを感じた。

 

コンサートマスターが豊嶋泰嗣に代わってのチャイコフスキーの《弦楽セレナード》は、MCOにとって伝統の曲。第1楽章冒頭の力強い序奏主題を聴くと、あたかもステージ中央に小澤征爾さんの指揮姿が見えるように感じたのは、おそらく私一人ではあるまい。

ただ、小澤さんが第1楽章のみを病躯を押して指揮した2010年のサイトウ・キネン・オーケストラとの壮絶な演奏が未だに記憶に残っており、MCOの演奏は、よく言えば勢いはあるが、一方でアンサンブルの粗さも感じた。それでもチェロの第1プルトに座る辻󠄀本玲と宮田大の厚みと力感が際立つ良さも出た。
 

第2楽章のワルツは少し前のめりの感があり、もう少し憧れに満ちて心から歌い上げてもいいように思えた。

第3楽章中間部は、チェロの表情に情感がたっぷりとあり、ヴァイオリンにも深みがあった。

終楽章は、ロシア民謡に基づく緩急2つの主題が活気を生み、コーダに序奏主題が再現する場面では、再び小澤さんの姿が目に浮かんだ。

 

後半は、今日の主役アルゲリッチが楽団員と共に登場。コンサートマスターは、引き続き豊嶋泰嗣が務めた。

曲は、ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第1番」。MCOの第1、第2主題の提示の後、アルゲリッチが穏やかな旋律で入り、華やかに展開する。その時点ですでに聴き手を取り込む。続いて軽やかに第2主題を弾く。そこには気高く愉悦に満ちた要素がある。アルゲリッチの力強い演奏が続き、オーケストラの総奏による第1主題が出て、展開部に入る。

ここでの下行上行する連符のなんと美しいことか。幻想的な雰囲気を醸し出す。力強く再現部が始まり、提示部同様に進む。カデンツァはおそらく短い31小節を弾いたと思われる。ダイナミックかつ輝きに満ち粒立ちの良い音が連なる。
 

第2楽章の第1部でのアルゲリッチが弾く主題の高音と装飾音の美しさは絶品。

中間部の右手から生まれる、聴き手を虜にするような美音に酔う。オーケストラと絡みながら繊細に進め、最後はピアノだけでしばらく弾き、そのまま第1部の再現をピアノがリードする。オーケストラをバックに、アルゲリッチは歌うように奏でていく。トリル、装飾音、連符の高音はここでも絶美。詩的であり、幻想的な世界が広がり、高貴な世界が現れる。MCOも繊細な演奏に終始した。
 

アタッカで入る第3楽章の活気と躍動感はアルゲリッチの独壇場。オーケストラをリードするような推進力のある演奏を展開する。副主題でも軽快に、しかし凄みのある低音を交え弾いていく。

ロンド主題の再現の後に出るハンガリー的な第2副主題も、フルート、オーボエと共にエネルギッシュに弾く。

みたびロンド主題が登場。

MCOもアルゲリッチとともに一つになり、精力的な演奏を展開する。アルゲリッチの弾く副主題は相変わらず力強い。

オーケストラが高揚し、短いカデンツァを経て、ピアノとオーケストラが第1主題の動機をやり取りする。やがてテンポはアダージョへ落ち着き、最後にアルゲリッチが音階を上下行して弾き終えると、オーボエのカデンツァが現れ、最後はオーケストラの総奏で勢いよく締めくくられた。音が止むと同時にスタンディングオベーションが起こり、すぐさまほとんどの聴衆が立ち上がった。

 

アンコールは、豊嶋泰嗣と宮田大と一緒に、ハイドン「ピアノ三重奏曲第39番 ト長調 Hob.XV:25〈ジプシー風ロンド〉」が演奏された。第3楽章のハンガリー風な第2副主題との関連で選ばれたのかもしれない。

 

再びほぼすべての聴衆のスタンディングオベーションが起こり、アルゲリッチとMCO全員への二度のカーテンコールで演奏会を終えた。

メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」 作品26

ドイツ・ロマン派の陰影のある音楽というより、カンブルランの感性が伝わってくる、流麗で色彩に富む演奏。主題はゆったりと歌わせ、海の激しさの第2主題は激情的で、両者の対比がくっきりと描かれた。

 

コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35

イリア・グリンゴルツの音はとても繊細で美しいが、オーケストラの強奏の際は埋もれがちになる。第3楽章はカンブルラン読響が躍動する輝かしい音で盛り上がった。

グリンゴルツの魅力は、アンコールのタルティーニ『30の小ソナタ』第2番 Ⅲ.Allegro Affettuoso でこそ存分に発揮された。繊細で透き通った響きでの演奏は、バロック後期らしい軽やかさと、後の古典派を予感させる親しみやすい旋律美にあふれていた。

 

ドヴォルザーク:交響曲第8番 ト長調 作品88

爽やかな快演。明るく流麗で、洗練されたドヴォルザーク。読響の長所である厚みのある弦、柔らかく表情豊かな木管、張りのある金管がのびのびと実力を発揮、カンブルランとの確かな結びつきを打ち出した。

特に印象に残った箇所は以下の通りである。

第1楽章展開部の頂点の胸のすくようなトランペットの強奏、輝かしいコーダ。
 

第2楽章のフルートとオーボエの小鳥の鳴き声のような愛らしく柔らかな音。弱奏の後のホルンの突然のソロも雄大で、続く頂点では低弦の厚みが充実していた。
 

第3楽章では、ドヴォルザーク特有のメランコリックな主題が滑らかに奏でられた。そのメロディーが再現した際の少し哀愁を帯びた表情には、まるでパリの街角のような洗練された味わいがあった。
 

第4楽章はこの夜の白眉。

チェロによる主題は、少し速めのテンポで軽やかに演奏された。主題の変奏は、いずれも充実しており、弦とファゴットの第1変奏は厚みがあり、勇壮な第2変奏は、輝かしい。第3変奏のフルートのソロは爽やかな風が吹き渡るよう。第5変奏から第8変奏までのボヘミアの農民舞曲風旋律も勢いがあった。
変奏の頂点でトランペットが突き抜けるように吹かれた後、一気に壮大で輝かしいコーダへと駆け上がる。爽快な締めくくりであった。

リサイタルのテーマは、愛と情熱と言えるだろう。シューマンのパッションが充満するヴァイオリン・ソナタ第1番、フランクが友人イザイの結婚式の朝に贈ったヴァイオリン・ソナタを中心に、クララ・シューマン《3つのロマンス》、シューマン(リスト編)《献呈》が演奏された。トークを交えた、休憩なしの公演である。
 

冒頭のクララ・シューマン《3つのロマンス》では、前田朋子のヴァイオリンが第1曲からロマンティックな表情を湛え、作品への深い共感を示した。第2曲では繊細な陰影が印象的。第3曲では、浦山純子のピアノの絶え間ない分散和音に乗せ、長い旋律線を豊かに歌わせた。
 

シューマンヴァイオリン・ソナタ第1番では、第1楽章から2人が情熱的な演奏を展開する。明るく勢いのある第2主題も活気に満ち、再現部ではさらに推進力を増した。コーダでは激しいクライマックスを築き上げた。
 

第2楽章は、前田のヴァイオリンに生き生きとした表情があり、浦山のピアノも細やかに寄り添う。前田はトークで「森へ散策に行って小人に会ったような」と語ったが、自然に包まれるような穏やかさも感じられた。

 

「熱く燃える第3楽章」(前田の言葉)では、2人が作品と一体化。トッカータ的な主題を前へ前へと押し進め、第2主題にもいっそう情熱的な表情を与える。ヴァイオリンに第1楽章の第1主題が一瞬回帰し、最後はダイナミックな頂点を作り上げた。

 

ここで浦山がソロで、シューマンがクララとの結婚式の日に贈った歌曲集《ミルテの花》の第1曲《献呈》を、リストがピアノ独奏に編曲した作品を披露した。豊かな低音と広がりのある響きの上に、おおらかに歌い上げる演奏であった。

 

リサイタルの最後は、フランクヴァイオリン・ソナタ。前田はトークで、第1楽章を「春のお花畑のよう」、第2楽章を「情熱的でピアノが大変」、自由な形式の第3楽章を「幻想的で、寂しさや悲しみ、切なさがある」、第4楽章のカノンを「幸せな夫婦のようで、ハッピーでポジティブ」と語った。

2人は今回のプログラムをウィーンで3公演、ブルゲンラント州の城で1公演、さらにロンドンでも演奏しており、フランクは完全に手の内に入っていた。
 

第1楽章では、前田が第1主題を情感豊かに弾き、浦山は第2主題をゆったりと、しかしどこか切ない情感を込めて奏した。再現部には春の日差しのような明るさも感じられた。
 

アタッカで入る第2楽章アレグロは、2人の演奏に熱がこもる。クアジ・レントの展開部も華やかで、コーダでは激しく高揚するヴィルトゥオーゾ的な演奏を聴かせた。
 

第3楽章は「レチタティーヴォ─ファンタジア」の名にふさわしく、たっぷりとした語り口で進む。前田は長いレチタティーヴォを深く歌い上げ、ピアノのアルペッジョに乗る抒情的な旋律、続くドラマティコの情熱的な旋律は、まさに愛の歌であった。
 

第4楽章のヴァイオリンとピアノによるカノンは幸福感に満ちていた。2人の演奏は安定した表情で進み、ファンタジアの主題も高揚して再登場する。最後は一気に駆け上がり、華やかに全曲を締めくくった。

 

アンコールはクライスラー《美しきロスマリン》。さらりと、しかし華やかに弾き終えた。

加藤浩子さんの新著『名画のクラシック』(創元社)を読んだ。絵画と音楽の深い結びつきをテーマに、音楽家の肖像画、楽器、歌手、劇場、オペラ、舞踏、さらには名画から着想を得た音楽まで、60のテーマを通して「絵画に描かれた音楽」の意味を探る一冊である。
 

本書の魅力は、絵画を単なる美術作品としてではなく、音楽が生まれた時代や演奏の場、人々と音楽との関わりを伝える貴重な資料として読み解いている点にある。ルネサンスやバロック、印象派といった様式が音楽と美術に共通する時代精神を反映していることもわかりやすく解説されており、両者が密接に結びついていることを実感させる。
 

特に印象に残ったのは、1845年頃のライプツィヒ・ゲヴァントハウスのコンサート風景を描いた絵画である。舞台では演奏が行われているのに、聴衆は談笑に興じている。当時の演奏会が、今日とは異なる社交の場でもあったことが一目で理解できる。
 

また、最近山田和樹指揮NHK交響楽団で聴いたヒンデミット《画家マチス》を聴く前に、本書で着想源となったグリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画について知ることができたのも収穫だった。作品の背景や時代との関わりを理解するうえで格好の予習となった。
 

さらに、フランス・ロココを代表する画家ヴァトーが、宮廷的な風景画「雅宴画」というジャンルを生み出したことも興味深い。『シテール島への船出』の題材となったシテール島が当時オペラや芝居にも取り上げられた人気のテーマだったことなど、美術と音楽、演劇が同じ文化の中で結び付いていたことを教えてくれる。
 

本書にはこうした興味深い話題が数多く収められている。絵画を見る目が変わり、同時に音楽を聴く耳も豊かになる。クラシック音楽を愛する人はもちろん、美術に関心のある方にも薦めたい好著である。絵の中から聴こえてくる音楽に耳を澄ませたくなるが、巻末にナクソス・ミュージックライブラリーの無料視聴が可能なQRコードが掲載されており、そうした要望に応えている点も、行き届いている。

(5月20日・サントリーホール)
読響の公演チラシにあるカンブルランの言葉、「音楽は突き詰めると好きか嫌いか。であれば、同じ時代を生きている現代音楽を聴いてほしい」は、現代音楽への敷居を低くする良いメッセージだ。

 

今日のプログラムに並ぶ現代曲は、間違いなくカンブルランが深く愛する作品ばかりだろう。作品への共感をそのまま表したような、生き生きとした指揮ぶりであった。
コンサートマスターは読響に定期的に登場する白井圭が務めた。

 

ウェーベルン《パッサカリア》を除けば、いずれも生演奏では初めて聴く作品ばかりだった。シン・ドンフンヴィオラ協奏曲にやや長さを感じたものの、現代音楽にありがちな取っつきにくさはない。色彩感に富み、構成や展開にも工夫が凝らされており、どの作品も興味深く楽しめた。
 

冒頭のアントン・ウェーベルン《パッサカリア 作品1》は、後年の極度に凝縮された作風以前、まだマーラーやシェーンベルクの巨大な後期ロマン派世界に連なっていた時代の作品である。8小節の低音主題と23の変奏から成る。
 

カンブルランの指揮は明るく輝くような音色を読響から引き出し、その精緻で重層的な構想と響きを堪能させた。トランペットにもう一段の正確さがあれば、さらに引き締まった演奏になっただろう。
 

1983年生まれの韓国の作曲家シン・ドンフン《ヴィオラ協奏曲「糸の太陽たち」》は日本初演。独奏は2025年の世界初演でも演奏したベルリン・フィル首席ヴィオラ奏者のアミハイ・グロスである。

タイトルは、小説家志望でもあったシン・ドンフンが、詩人パウル・ツェラン(1920―70)の同名の短詩から採った。

 

FADENSONNEN
über der grauschwarzen Ödnis.
Ein baum-
hoher Gedanke
greift sich den Lichtton: es sind
noch Lieder zu singen jenseits
der Menschen.

日本語に直訳的に寄せると、

灰黒色の荒野の上の
糸の太陽たち。
樹のように
高い思考が
光の音をつかみとる――
なお歌うべき歌がある、
人間たちの彼方に。

となる。

第1楽章が提示部、第2楽章が展開部と再現部に相当するという、二つの楽章でひとつの大きな楽章を形成する構成。独奏ヴィオラはほぼ弾き続けるように進む。

ヴィオラは協奏曲的に前面へ立つよりも、オーケストラの内部へ溶け込みながら、かすかな旋律やノイズ的な音型を浮かび上がらせる。フラジョレットの繊細な響きが長く漂う場面には、ベルク《ヴァイオリン協奏曲》を連想させるものがあった。
 

グロスのアンコールは、バッハ《無伴奏チェロ組曲第1番》から〈プレリュード〉。主旋律とそれに呼応する声部の一音一音が甘やかに歌われ、複数の旋律が響き合う演奏は天上的な世界を思わせた。
 

アンリ・デュティユー《瞬間の神秘》は、10の短い断章が連なる幻想的な作品。弦楽アンサンブルとツィンバロンの金属的な響きが交錯し、多彩な音響世界を作り出す。

弦楽パートの細かな分割、高音域と低音域がカノン風に呼応する書法など、それぞれの断章が異なる表情を見せながら展開していく。終曲にあたる第10曲では音楽が激しく高揚し、チャイナ・ゴングの摩訶不思議な打音も効果的に用いられ、壮大なクライマックスを築いた。

ここではブラヴォーも多く、聴衆の反応がひときわ熱かった。


最後のデュティユー《メタボール》は、「変容」を意味する題名どおり、音楽素材が絶えず姿を変えながら発展していく作曲者の代表作である。

木管、弦、金管など各楽器群が楽章ごとに主導的な役割を担いながら、先行する素材が変形されて次の楽章へ浸透していく。終楽章でそれらが巨大なエネルギーとして統合される構成は圧巻であった。

最後はストラヴィンスキー《春の祭典》終結部を思わせるほどダイナミックな高揚を見せた。
 

カンブルランと読響が持つ現代作品への圧倒的な適性を、改めて示した演奏会であった。

本日12時からミューザ川崎シンフォニーホールのステージ上で行われた、ロレンツォ・ヴィオッティ東京交響楽団音楽監督就任記者会見に出席した。

会見では来シーズンの抱負や東響との音楽づくりについて語られたが、特に印象的だったのはレパートリーと聴衆に対する考え方である。

あるジャーナリストから演奏会形式オペラへの取り組みについて質問が出ると、ヴィオッティはオペラハウスでの仕事に多くの時間とエネルギーを注いでおり、現時点では東京交響楽団で演奏会形式オペラを積極的に行う考えはないと明言した。その上で、まずはシンフォニー・レパートリーに取り組みたいと語った。
 

私からは、オペラで培った経験やノウハウを東響の音楽づくりにどのように生かしていくのかを質問した。これに対しヴィオッティは、マーラーは優れたオペラ指揮者でもあり、リヒャルト・シュトラウスはオペラ作曲家としても偉大な存在であると述べた。例えば明後日5月23日と24日にミューザ川崎シンフォニーホールで指揮するR.シュトラウス《4つの最後の歌》にもオペラ的なアプローチが必要だと説明した。

また、同時に演奏するラヴェル《ダフニスとクロエ》についても、どこまでが管弦楽でどこまでが合唱なのか判然としないほど、声楽とオーケストラが有機的に融合した作品であると語った。
さらに9月19日のサントリーホール、21日のミューザ川崎シンフォニーホールで取り上げるフランツ・シュミット《7つの封印の書》はオラトリオであり、やはり声楽を伴う。こうした作品には本質的にオペラと共通する要素が数多く含まれており、自身の経験は自然に反映されるだろうとの考えを示した。

また、来シーズンには私が期待するような作品も取り上げる予定だと語ったのも嬉しかった。それがオペラなのか、大規模な声楽作品なのかは分からないが、いずれにせよ声楽を伴う大作が視野に入っていることをうかがわせた。

なお、その場合でもリヒャルト・シュトラウスを継続的に取り上げたり、「ベートーヴェン・ツィクルス」や「ブラームス・ツィクルス」のような企画にはしないという。そうした企画は指揮者のエゴやレコード会社の方針によって行われることが多く、自分はあまり好まないとの率直な発言も興味深かった。
 

そして何より強い印象を受けたのは、クラシック音楽界の聴衆の高齢化への危機感である。ヴィオッティは、いかに若い世代をコンサートホールへ呼び込むかを大きな課題として挙げ、聴衆が来るのを待つだけでなく、自ら外へ出向いていく姿勢の必要性を強調した。プログラムの工夫はもちろん、クラシック音楽に対する心理的な壁を取り払い、より多くの人々に開かれた活動を積極的に行いたいという。その言葉からは、単なる指揮者ではなく、音楽文化そのものの未来を見据える音楽監督としての責任感が感じられた。
 

ミューザ川崎シンフォニーホールの関係者から後で聞いた話によると、ヴィオッティは自分を支える現場の職員たちにもぜひ会いたいと、ミューザの事務所や文化財団の本部まで自ら足を運び、挨拶をして回ったという。

こうしたエピソードからもうかがえるのは、ヴィオッティの誠実さと真摯な姿勢である。人望を集めるマエストロとしての人間的な魅力と風格を感じさせる記者会見であった。今後、東京交響楽団とどのような音楽を築いていくのか、ますます目が離せない。

 

 

 

(5月15日・すみだトリフォニーホール)
「すみだクラシックへの扉 #39」(金)

1989年生まれ。東京国際指揮者コンクール2024で優勝した
コルニリオス・ミハイリディスが登場した。マドリードのテアトル・レアルに定期的に出演するほか、アイスランド交響楽団のコンダクター・イン・レジデンスを務めるなど、すでに中堅指揮者として活躍している。

オペラを得意とすることが伝わる、息長く旋律を歌わせる力、ドラマティックな物語性を構築する手腕、そしてオーケストラをまとめ上げる能力に優れている。

シベリウス「トゥオネラの白鳥」では、イングリッシュホルンの森明子を最初から立たせてソロを吹かせた。ミハイリディスの横へ流れるような指揮が、長大な旋律線を自然に形づくる。森の温かな音色に呼応するように、オーケストラからもぬくもりのある響きを引き出していた。

グリーグ「ピアノ協奏曲」のソリストは角野未来(みらい)
誠実なピアニストという印象を受けた。第1楽章のカデンツァでは、巧みなペダリングによって広がりのある音響を形成する。また、第2楽章の透明感あるピアノも、グリーグの抒情性によくふさわしい。

しかし全体としては、音にやや平板な印象があり、確固たる芯が感じられない。第3楽章も、いまひとつ強く惹きつけるものに欠けた。中間部でフルートのソロを引き継ぎ、オーケストラと絡み合う場面も、ピアノにもう少し夢見るような表情が欲しいところ。コーダのリズムにも、さらに鋭い切れ味が求められよう。

一方、ミハイリディスと新日本フィルの演奏は、1曲目同様に温かみのある厚い響きを維持し、ホルンも安定した出来であった。



後半はグリーグ「劇付随音楽《ペール・ギュント》 op.23

からの抜粋。

演奏曲目は以下の通り。

第1番(第1幕への前奏曲)「婚礼の場にて」
第4番(第2幕への前奏曲)「花嫁略奪とイングリッドの嘆き」
第8番(第2幕)「山の魔王の宮殿にて」
第12番(第3幕への前奏曲)「オーゼの死」
第13番(第4幕への前奏曲)「朝の気分」
第15番(第4幕)「アラビアの踊り」
第16番(第4幕)「アニトラの踊り」
第19番(第4幕)「ソルヴェイグの歌」(安川みく)
第21番(第5幕への前奏曲)「ペール・ギュントの帰郷。夕暮れの嵐の海」
第26番(第5幕)「ソルヴェイグの子守唄」(安川みく)

 

ミハイリディスの指揮は、劇音楽でも雄弁で、ドラマティックな表現力に富む。

第4番「花嫁略奪とイングリッドの嘆き」は、劇的な高揚感が鮮やかであった。

第8番「山の魔王の宮殿にて」では、テンポをややゆったり取り、不気味さを強調する。

第12番「オーゼの死」は、過剰な感傷に流れることなく、厳粛な表情が印象的であった。

第13番「朝の気分」は、一般に爽やかな朝の音楽として知られるが、劇中では、すべての財産を失い、孤独のうちに砂漠で朝日を見つめるペールの場面である。ミハイリディスの指揮には、そうした作品の皮肉な側面も込められていた。

第15番「アラビアの踊り」は異国的な雰囲気が巧みに表現され、第16番「アニトラの踊り」には哀愁が漂う。

第19番「ソルヴェイグの歌」では、当初ステージ上に歌手の姿はなく、まるで天上から声が響いてくるかのようであった。と思いきや、安川みくが1階客席後方から現れ、歌いながらステージへ向かう。舞台上から歌うよりも声が間近に大きく響き、極めて効果的であった。これは舞台経験豊富なミハイリディスの発案かもしれない。

安川の歌唱は透明感がありながら、同時に強靱さも備え、グリーグの世界によく合っていた。充実した歌唱である。

第21番「ペール・ギュントの帰郷。夕暮れの嵐の海」では、風雨吹きすさぶ情景が鮮烈に描き出された。

続く第26番「ソルヴェイグの子守唄」では、安川はオルガン横から登場し、オルガンを背に歌った。客席からは遠くなり、先ほどほど直接的には声が届かなかったものの、この2曲によって安川の実力の高さは十分に伝わった。

 

ミハイリディスも、今後さらに活躍の場を広げていくだろう。





 


(5月15日・すみだトリフォニーホール)
「すみだクラシックへの扉 #39」(金)

1989年生まれ。東京国際指揮者コンクール2024で優勝した
コルニリオス・ミハイリディスが登場した。マドリードのテアトル・レアルに定期的に出演するほか、アイスランド交響楽団のコンダクター・イン・レジデンスを務めるなど、すでに中堅指揮者として活躍している。
 

オペラを得意とすることが伝わる、息長く旋律を歌わせる力、ドラマティックな物語性を構築する手腕、そしてオーケストラをまとめ上げる能力に優れている。
 

シベリウス「トゥオネラの白鳥」では、イングリッシュホルンの森明子を最初から立たせてソロを吹かせた。ミハイリディスの横へ流れるような指揮が、長大な旋律線を自然に形づくる。森の温かな音色に呼応するように、オーケストラからもぬくもりのある響きを引き出していた。
 

グリーグ「ピアノ協奏曲」のソリストは角野未来(みらい)
誠実なピアニストという印象を受けた。第1楽章のカデンツァでは、巧みなペダリングによって広がりのある音響を形成する。また、第2楽章の透明感あるピアノも、グリーグの抒情性によくふさわしい。
 

しかし全体としては、音にやや平板な印象があり、確固たる芯が感じられない。第3楽章も、いまひとつ強く惹きつけるものに欠けた。中間部でフルートのソロを引き継ぎ、オーケストラと絡み合う場面も、ピアノにもう少し夢見るような表情が欲しいところ。コーダのリズムにも、さらに鋭い切れ味が求められよう。
 

一方、ミハイリディスと新日本フィルの演奏は、1曲目同様に温かみのある厚い響きを維持し、ホルンも安定した出来であった。



後半はグリーグ「劇付随音楽《ペール・ギュント》 op.23

からの抜粋。

演奏曲目は以下の通り。

第1番(第1幕への前奏曲)「婚礼の場にて」
第4番(第2幕への前奏曲)「花嫁略奪とイングリッドの嘆き」
第8番(第2幕)「山の魔王の宮殿にて」
第12番(第3幕への前奏曲)「オーゼの死」
第13番(第4幕への前奏曲)「朝の気分」
第15番(第4幕)「アラビアの踊り」
第16番(第4幕)「アニトラの踊り」
第19番(第4幕)「ソルヴェイグの歌」(安川みく)
第21番(第5幕への前奏曲)「ペール・ギュントの帰郷。夕暮れの嵐の海」
第26番(第5幕)「ソルヴェイグの子守唄」(安川みく)

 

ミハイリディスの指揮は、劇音楽でも雄弁で、ドラマティックな表現力に富む。

第4番「花嫁略奪とイングリッドの嘆き」は、劇的な高揚感が鮮やかであった。

第8番「山の魔王の宮殿にて」では、テンポをややゆったり取り、不気味さを強調する。

第12番「オーゼの死」は、過剰な感傷に流れることなく、厳粛な表情が印象的であった。

第13番「朝の気分」は、一般に爽やかな朝の音楽として知られるが、劇中では、すべての財産を失い、孤独のうちに砂漠で朝日を見つめるペールの場面である。ミハイリディスの指揮には、そうした作品の皮肉な側面も込められていた。

第15番「アラビアの踊り」は異国的な雰囲気が巧みに表現され、第16番「アニトラの踊り」には哀愁が漂う。

第19番「ソルヴェイグの歌」では、当初ステージ上に歌手の姿はなく、まるで天上から声が響いてくるかのようであった。と思いきや、安川みくが1階客席後方から現れ、歌いながらステージへ向かう。舞台上から歌うよりも声が間近に大きく響き、極めて効果的であった。これは舞台経験豊富なミハイリディスの発案かもしれない。

安川の歌唱は透明感がありながら、同時に強靱さも備え、グリーグの世界によく合っていた。充実した歌唱である。

第21番「ペール・ギュントの帰郷。夕暮れの嵐の海」では、風雨吹きすさぶ情景が鮮烈に描き出された。

続く第26番「ソルヴェイグの子守唄」では、安川はオルガン横から登場し、オルガンを背に歌った。客席からは遠くなり、先ほどほど直接的には声が届かなかったものの、この2曲によって安川の実力の高さは十分に伝わった。

 

ミハイリディスも、今後さらに活躍の場を広げていくだろう。



ヴィオッティの就任記念公演は、持ち味を十二分に発揮した充実の演奏であった。

前任ジョナサン・ノットの研ぎ澄まされた強烈な個性とは異なり、ヴィオッティには正統的でバランスのとれた折り目正しさがある。最大の魅力は音の美しさだ。響きの洗練と色彩感、そして繊細な柔らかさ。ヴィオッティと東響の新たな旅路が楽しみになる演奏会であった。
 

プログラムには、新たな出発にちなみ、ベートーヴェンとマーラーが、それぞれ交響曲というジャンルに本格的に挑んだ第1番が並べられた。
 

ベートーヴェン「交響曲第1番」は10-8-6-5-3の編成。チェロが下手前方に配置される。ヴィブラートも適宜用いたオーソドックスな演奏で、突出した個性を打ち出すタイプではないが、すっきりとした響きは美しく、色彩感にも富んでいた。
 

メインのマーラー「交響曲第1番《巨人》」は16型、ヴィオッティの特長がより鮮明に表れた演奏であった。繊細さと大胆さの配分が実に巧みである。
 

第1楽章序奏のヴァイオリンのA音は、ほとんど知覚できないほどの弱音。コントラバスの持続音が土台を築き、その上でオーボエ、ファゴットの動機やクラリネットのファンファーレが密やかに浮かび上がる。チェロの動機から第1主題へ至るピアニッシモもきわめて繊細だ。
 

一方、この日はトランペットが不調で、第1主題でも音を外すなど傷が目立った点は惜しまれる。終演後、ヴィオッティが奏者を起立させた際には、客席からブーイングも起こった。明日の名曲全集での修正を期待したい。
 

提示部最後の頂点では、ヴァイオリン群に薄く紗がかかったような上品な響きが加わる。この音色は東響ではあまり聴いた記憶がなく、ヴィオッティが新たに引き出した響きと思われた。チェロもベートーヴェン同様、下手前方に並び、繊細なグリッサンドを聴かせる。
 

展開部のホルンの柔和な合奏も健闘。クライマックスはやや抑制気味ながら、マーラーの指示するff=フォルティシモの範囲に収めたということだろう。トランペットは後半に入ると持ち直した。
 

第2楽章スケルツォでは、主題を弾くチェロとコントラバスが、低音に十分な厚みと推進力を与える。

前半の頂点は色彩感のある強奏で締めくくられ、そのままトリオへ。このトリオでは、ヴィオッティの品格ある繊細な音楽性が発揮され、ワルツ風主題は優雅かつなめらかに歌われた。まさに絶品である。

後半の低弦も力強く、最後の和音も引き締まっていた。
 

童謡「フレール・ジャック」の旋律を、哀感を込めたコントラバス独奏で始める第3楽章は、今回はソロではなく8台のコントラバスで演奏され、その旋律をチェロが受け継いでいく。テンポはやや遅めである。

そこへオーボエの別旋律が加わり、しばらく展開した後、オーボエとトランペットが大太鼓とシンバルを伴いながら、諧謔的な旋律を奏でていく。しかしヴィオッティの指揮では、俗っぽさやいかがわしさは比較的抑えられ、むしろ彼の育ちの良さを感じさせた。

ハープに導かれる中間部、「さすらう若人の歌」に由来する部分には、ヴィオッティならではの幻想性と繊細な表情がある。この解釈はノットとは明らかに異なる。

前半部分が再現された後、静かなコーダへ移るが、ヴィオッティはここで休止を長く取った。
そのため、第4楽章が雷鳴のように炸裂する際の落差が非常に大きい。「嵐のように速く」と指示された冒頭は鮮烈。ただし東響のパワーは、先日のミュンヘン・フィルほどではない。それでも「精力的に」と指示された頂点には、十分な力感があった。

弦が第2主題を長い呼吸で歌う部分は、さらに情感を込めてもよいように感じたが、ヴィオッティのややクールな解釈は、むしろ響きの透明感を際立たせていた。その後、クレッシェンドしていく場面は力強い。

 

コーダの頂点を先取りするクライマックスも、きわめて慎重にコントロールされている。本当の頂点は終結部最後に現れることを示すように、ヴィオッティは強奏をやや抑制していた。

 

終結部では、第1楽章冒頭が回帰した後、第2主題が一瞬回想され、オーボエが名残惜しそうに歌う。そこから静寂へ落ち込むが、ヴィオラの緊張感をはらんだ動機を契機に、コーダへ向けて一気に高揚していく。ここはヴィオラがさらに激しく迫ってもよいように思われた。

 

コーダでは、ホルンのベルアップと起立、さらにトランペットとトロンボーンの増強が加わり、全管弦楽の咆哮と打楽器の強打が炸裂する。先だってのミュンヘン・フィルの圧倒的なパワーには及ばないものの、身心を揺さぶるに足る力感と輝きがあった。

しかも、ここに至ってもオーケストラ全体のコントロールは崩れない。ヴィオッティの指揮には無理も無駄もない。
 

ベートーヴェン、マーラーとも暗譜で指揮したヴィオッティは、十分な準備を整えて臨んだことがうかがえる。一方、東響にはなお健闘の余地も残された。前半のみ参加したトランペットのローリー・ディランは、マーラーでも聴きたかったと思わせる出来であった。
 

終演後のブラヴォは盛大で、ヴィオッティへのソロ・カーテンコールとなった。ノット時代恒例の光景であったが、今後はヴィオッティがそれを受け継いでいくのだろう。
 

来週のラヴェル《ダフニスとクロエ》全曲にも期待したい。今日の演奏を聴く限り、名演になる可能性はきわめて高い。