(7月27日・ミューザ川崎シンフォニーホール)
チャイコフスキー「交響曲第2番《ウクライナ(小ロシア)》」[1872年初稿版]を生で聴くのは初めて。改訂版もまだ生では聴いていないが、初稿版の面白さを堪能できた。第1楽章冒頭のホルンのソロで吹かれるウクライナ民謡「母なるヴォルガを下りて」が初稿版では次々と展開されて圧巻。第4楽章も後半が150小節も長く、聴きごたえ充分。
今日はコンサートマスターにドイツのハーゲン歌劇場のコンサートマスターを10年以上務めている景山昌太郎が客演した。父はヴァイオリニストの景山誠治。オーケストラのまとまりもあり、弦もきれいにそろいとても良いコンサートマスターぶりだった。
ノット東響の演奏は、先日のサントリーホールでのラヴェルとブルックナーに続き絶好調。第2番の演奏もいつも以上に輝かしく切れが良く、弦も木管も金管ものびのびと吹かれ、実力を最高度に発揮した。ホルンの客演首席は読響の松坂隼。冒頭からノットの細やかなタクトの動きにあわせ、歌心にあふれたスケールの大きなソロを聴かせた。
ノットのチャイコフスキーは都会的でしゃれている。ヨーロッパに憧れ、ヨーロッパ音楽とロシア音楽の良い点を融合しようとしたチャイコフスキーの意図通り、洗練された演奏を聴かせた。
特に第4楽章は「ゾーンに入った」演奏で、冒頭にファンファーレが壮大に奏でられ、民族舞踏的なウクライナ民謡「鶴」に基づいた主題が活気に満ちて盛り上がっていく。
第2主題も優しくチャイコフスキーらしい抒情性に満ちたもの。銅鑼が鳴らされてから始まるコーダは一段階上に上がった集中ぶりで、東響のメンバー自身もノットと共に音楽に乗せられてしまった、あるいはいつの間にやら高い世界に到達してしまったという印象があった。金管が輝かしく爽快だった。ノット東響はこの作品の魅力を十二分に伝えてくれたと思う。
後半はチャイコフスキー「交響曲第6番《悲愴》」。東響と一度予定されたが、コロナ禍で中止となった曲。ノットは公の場で指揮するのは初めてのようだ。昨年のインタヴューでは4番と5番は指揮したことがあるが、第3番は初めてと話している。《悲愴》については触れられていないが、指揮していないと推測できる。
サマーミューザ特別寄稿 ジョナサン・ノット チャイコフスキーへのチャレンジ「これまで経験したことのない興奮を創り出す」(インタビュー・文:青澤隆明) | ミューザブログ (kawasaki-sym-hall.jp)
そのためか、あるいはそういう耳で聴くからか、ノットの指揮自体が初々しくて(失礼!)新鮮。第2番と同じくヨーロッパの洗練されたセンスを感じさせる演奏で、演奏中何度も『素敵!』と叫びそうになった。
チャイコフスキーに付きまとう情念に塗りつぶされた演奏とは異なり、作品を一から見直し、対向配置の東響から、有機的でバランスよく組み立てられた響きを導き出す。
第1楽章序奏のファゴットはそれでも少しおどろどろしい。第1主題はあっさりめ。第2主題は思い入れが少なめ。他の指揮者ならたっぷりと感傷的にロマンティックに歌わせるだろうが、さらりとしている。正直もう少し感情を入れてもいいのではと思ったが、カラヤンの演奏を聴いて育ち、今聞き直すと納得できないと語るノットにとって、このメロディは優美で詩情に満ちたものなのだろう。
提示部最後の通常クラリネットからバスクラリネットが引き継ぐpppppp(p6つ)の下降する最弱音はスコア通りファゴットが吹いたが、低音は難しいのかめずらしくミスがあり音も大きめだった。
展開部の頭の強迫的な一撃は、驚かせるような誇張はなく、スコア通りフォルティシモで始めた。ここでの金管が目覚ましい。特にトランペットのローリー・ディランが
冴えている。
再現部の2つのクライマックスは、やはり「ソーンに入った」演奏で、速めのテンポで気高く頂点を築いていく。慟哭にも品が感じられた。コーダはきれいなハーモニー。ここも「素敵」だった。
第2楽章の5拍子のワルツは繊細な表情。中間部は甘美でこれも粘らない。ワルツの再現での木管のアンサンブルが美しい。これらもノットがチャイコフスキーの表現で目指す優美さなのだろう。
第3楽章の行進曲は「騒々しい金管とほとんど軍隊のような力でモティーフがくり返される演奏」ではなく、激しいがバランスが良い。ここでもコーダは「ゾーンに入った」高揚感があった。拍手が起きないこと(2,3あったとのことだが聴き入っていたため聞こえなかった)に、聴衆の集中力の高さを感じた。
第4楽章へは一瞬の間を置いたが、ほぼアタッカで入っていく。
冒頭の主題はメランコリックな表情。これもまた大仰さとは無縁のどこか都会的な悲しみに満ちて、ここも「素敵!」と叫びそうになる。ファゴットの下降する低音は見事。先ほどのミスを帳消しにした。
アンダンテの中間部も甘い表情にとても品がある。コントラバスの豊かな音がまた素晴らしい。次第に音が厚くなり、号泣するような再現部のクライマックスは引き締まり、潔い。銅鑼は柔らかく鳴らされた。コーダも絶望的ではなく、どこか高貴さを秘めた表情。チェロ、コントラバスもディミヌエンドにスフォルツァンドの表情をきっちりと入れて弾いていく。息絶えるような弾き方ではない。
感傷と激情の坩堝に巻き込まれない、知的なアプローチのすっきりとしたノットのチャイコフスキーは大好きだ。いい音楽を聴かせてもらったという充足感に満たされた。