野球のオリンピック日本代表、韓国戦に破れ2勝2敗。

執筆の為に、野球は毎回中継を見ている。


今日は稲葉の本塁打による1点を守りきり

1-0の完封で、崖っぷちを乗り切った。

それでもまだ、決勝トーナメントは黄信号の状態である。


その本塁打を打った稲葉と、主将を務めている宮本慎也は同期である。

1994年にドラフト2位で宮本慎也が、ドラフト3位で稲葉篤紀が入団している。

その後、稲葉は日本ハムに移籍した。

宮本はご存知の通り、ヤクルトの繋ぎの要として活躍しており

稲葉も宮本程ではないまでも、日本ハムに移籍後は大きく飛躍

昨年は首位打者を獲得するまでになった。

共に日本代表として活躍するほどの当たり年となった。


今回はその年のドラフト1位の話。


その年のドラフト1位は、北川哲也。


成績だけを見ると、通算4勝5敗1セーブと

ドラフト1位で将来を期待されたには程遠い成績である。

その近年のヤクルトのドラフト1位は皆活躍をしていた。


彼は私の学生時代に勤めていたバイトの社員の兄であった。

私もよくお世話になった方なので、話はよく聞いていた。


社会人時代に日産自動車で、同期で元阪神の川尻哲郎らとともに活躍。

1994年の第21回日本選手権では準優勝に貢献し、敢闘賞を受賞した。


しかし、数年後に経営コンサルタントに騙され

プロ野球初の脱税事件によって出場停止処分を受ける。


契約金1億円を貰うプロの世界、見た目は華やかであるが

実際問題はそうはいかなかったようだ。


翌年になり、後輩が入団してくれば、先輩として面倒を見る傍ら

奢って威厳を保つなどで、貯金を残すのは至難であると言う事だった。


契約金はあっという間に底を着き、上で活躍出来なければ

年俸も一流の選手とは離される一方。

数年後には自由契約となる。



弟は言った。



「兄は華やかな世界に身を置いたが、今では俺より悲惨な人生を歩んでいる」



確かにその一言も一理ある。

夢はプロ野球選手。とはよく言ったものだ。

しかし、プロ野球選手になったから人生が成功とは限らない。

プロで成功して、長年活躍し続ける事が本当の成功なのである。


裏側を知れば知るほど、知らない方が幸せという見解もある。


しかし、これが現実。


最近では、自由契約となった選手に再就職の道を斡旋する選手会の動きも目立ってきた。

それは一度夢を追い叶えた人にとっては、受け入れ難いものでもある。

まだまだ夢は諦め切れない。でも、やるべき事はやらなければならない。

どの世界においても、誰においても同じ事である。



ちなみにその弟はというと

兄と同じ野球をしていたが、やがて兄と比べ続けられる事に嫌気が差し

野球を辞め、バスケの道に全国にまで進んだようだ。

やはり同じ血が通ってると思ったのは

どちらも負けず嫌いで、スポーツマンの家系であると言う事を確信した。








4年に1度のオリンピックが始まりました。


今回で最後となり、次回のパリでは項目からなくなる野球。

8年前のシドニーでは初めてプロが参入し、

4年前のアテネでは全員がプロ野球から人選がなされた。


過去、野球の参加が始まったロサンゼルスでは金メダル。

その時からアマチュアの選手で固められ

数々のメダルを獲得してきた。


古くは野茂や古田、そして最近では井口や松中、阿部や福留などが

その年のドラフトを大いに賑わせたものだ。


ちなみに野球大国・アメリカはメジャーリーガーは出場しない。

出るのは、その下の3A以下の選手である。


キューバは全員プロから、オーストラリア、韓国、台湾もプロ主体で固めている。

韓国においては、プロ野球を一時中断してオリンピックに望むと言う。


近年の日本でもプロを主体として参加しているのだが

夏場が一番盛り上がるのもあり、特に中断などはない。

今年に限り、オールスターや高校野球の開催日時をずらした程度だろう。


プロで固めた日本なのだから、金メダルは取れると思うだろう。


そこはやはり短期決戦の場である。


周囲からの、目には見えないプレッシャーがとてつもないのだ。

そして、負ける事は許されない。

普段のペナントレースとは訳が違う。

国を賭けた重圧に耐えられるかどうかというのがあるのだ。


それは選手はもちろん、監督・コーチも同じである。


現在の日本のエース・ダルビッシュに限れば

キューバやアメリカなどの優勝候補を相手に先発が噂をされている。


勝利を手にするには、普段の実力はもちろん

国際大会における経験、そして何より

並外れた精神力を持つ事が一番大切なのである。

100%の力を、100%フルに発揮する。

これが、大舞台で勝つ者の答えである。







松坂大輔が入団した1998年、当時の西武の監督は東尾修だった。
彼が入団を渋っていた時に、200勝した記念のボールを渡した話は有名だ。
そして彼は決意して、西武入団を決めた。


東尾と言えば、251勝247敗という成績で、多くの勝利とともに

多くの敗北を記している。



これには、西鉄時代の大きな影があった。



入団まもない東尾は、当時のエースだった池永正明ら投手達の凄まじさにより、自信を喪失してしまう。

そして1969年オフには打者転向を首脳陣に告げ、受け入れられる。


しかし、「黒い霧事件」により、当時のエースだった池永正明らが永久追放となってしまう。


これにより打者転向は白紙に、投手として投げなければいけない現状になった。



普通の人間なら、どうだろう?

普通の会社なら、どうだろう?


今までいた上司が突然いなくなってしまい、

その場所に自分が務めなければならない。



東尾は投げ続けた。


投げれば投げるほどに負け数が増えていった。

プロ入り10年で、最多敗戦になる事4度。


それでも西武の不動のエースとして投げ続け

やがて勝星は量産して行った。

ノーコンと言われたコントロールも年々良くなっていった。



暗黒の時代に突入した西鉄にとって

東尾と言う次世代の光が見えた事は、掛け替えのないものであった。


逆に東尾はこの時の状況を主力投手が永久追放されたことで、

自分に登板のチャンスが巡って来ると感じ、内心喜んだ。

東尾によれば黒い霧事件は

「自分の野球人生における最大のチャンス到来、ターニングポイント」だった。と語っている。



誰にでもチャンスと言うタイミングはやってくる。

ただし、それがいつ、どの時期に来るのかはわからない。

準備されているときに来るのか、突然ふとやってくるのか。

そのタイミングをつかんだものだけが、一流の道へと続く。




プロ野球ならず、スポーツの世界と言うもの

スポーツは長けているが、勉学の方はどうなのか?

と疑問に持つ人は多いと思う。


例えば、野球の名門校から六大学に推薦で行くという話はよくあるのだが

実際に偏差値は足りているのか、また授業はついていく事が出来るのか?

などがあるだろう。


そこはやはり、女性アイドルなどと似て近しの部分があり

顔ではないが、クリアされてしまう部分などがある。


とはいえ、スポーツも勉学もともに一流であるという

いわゆる文武両道も存在するのも事実である。


サッカーの中田英寿も成績は常にトップであったとか。

その逆に、現西武の渡辺久信監督は、高校に入るまで勉強をした事がないと言う。

当時、受ける高校は県内でも有数の進学校であった為に

勉強をしてみたものの、3日でムリだと言う事が分かったというエピソードさえある。



勤勉で有名なのは、ID野球の申し子・古田敦也である。


小学生からイジメにあって、親の勧めで転向さえしていた。

高校時代までは無名であり、親からは

「野球も出来て、勉強も出来る男になれ」と言われた。


そして彼は見事に立命館大学に一般で入学した。

ドラフトでは上位指名の話が出るが

結局指名は来なかった。


その後、トヨタ自動車に進み

ソウルオリンピックでは、先日引退した野茂英雄とバッテリーを組み

正捕手として、日本代表を銀メダルに導いた。


今ではメガネが彼の持ち味であるが、

当時から「のび太」というあだ名を付けられ、

「メガネをかけた捕手は大成しない」とさえ言われたが

見事にそれを覆した。


成績などはご存知の通りなので割愛させてもらうが

史上最強のキャッチャーとして、また人間性としても

誰からも好かれ、愛され、万年下位だったヤクルト球団を

常勝球団として導いて行った。


一つの事に長けている人間は、何をやっても一流になる事が出来る。

だが、それには並大抵の努力が要る事は以ての外である。

出来る人間は、諦める事を知らない、それを極めた者が

人が付いて来る人間になるのである。








昨年、往年の大投手・稲尾和久が亡くなった。

プロ野球を語る人では、知らない人はいないであろう一人である。


「鉄腕」、「神様、仏様、稲尾様」、などの名を欲しいままにした。


現在の投手の先発ローテーションが生まれたのも、彼の功績である。



記録だけで見れば、シーズン最多勝利の42勝。

デビューから8年連続20勝、3年連続30勝。

同一シーズン内20連勝のプロ野球記録。

現在のパ・リーグ記録であるシーズン防御率1.06.


投手が野球人生を賭けて目標とする200勝までは、

25歳86日での達成と言う、とんでもない記録の持ち主である。


当時の記録であった、シーズン78登板。

今では考えられない連投に次ぐ連投。

単純計算で2試合に1試合は投げていた。


入団当初は注目はされず、打撃投手を務めていたとまで言われている。

3球ストライクを投げて打たせ、1球は際どいボール球を投げる。

ただ投げるだけではなく、この練習をもって、抜群のコントロールを鍛えたと言われる。


もっとも、後日談ではあるが

その頃は専属の打撃投手を雇う時代ではなかった台所事情があったとか。


今でも語り次がれる、1958年の日本シリーズ。

スーパースター長嶋茂雄が入団した巨人が相手。

3連敗をした西鉄は、第1戦、3戦に先発した稲尾を4戦にもマウンドに上げる。

これが俗に言われる、5連投だ。

そこから4連勝をして、奇跡の日本シリーズ制覇に貢献した。

第5戦では、自らサヨナラホームランまで放っている。


当時の監督の三原脩は

「この年は3連敗した時点で負けを覚悟していた。

それで誰を投げさせれば選手やファンが納得してくれるかを考えると、稲尾しかいなかった」

と告白している。


7戦目では既に限界を超えているので

ボールを握る握力さえなく、気力で投げていた。



通算で276勝を上げているが、先程述べた通り

数字だけ見ていくと、もっと勝ち星があってもいいはずであるが

9年目は未勝利でシーズンを終えてしまう。


登板過多により、酷使してしまったのだ。


1956年から1963年までの1シーズンあたりの平均登板数は66試合、

平均の投球回数は345イニング。

現在の投手の倍以上の数字を残していた。

故障しない方がおかしいであろう。


その翌年からはリリーフに回ったが、往年の成績を上げる事は出来ず

1970年、現役引退。



わずか32歳であった。



彼の故障により、当時のエースは先発・リリーフとフル回転していて

大投手も選手寿命が短く、故障で早期引退の改革が起こった。


登板間隔が開き、中3日、中4日、現在は中6日(週1回)とまでなったのだ。



研究に研究を重ねる事でも有名で、

相手打者を打ち取る球から遡って配球を組み立てる、

いわゆる「逆算のピッチング」を編み出したのも稲尾とされている。

これを会得したのは、1958年の日本シリーズ第6戦における長嶋茂雄との対決だったという。

ボール半個分を自由自在に出し入れすると言われた正確なコントロールに裏打ちされた投球術であった。



稲尾和久と言う男は、まさに時代の功労者という言葉がぴったりだ。

どんな業界にもまだ整備されていない事は沢山ある。

それは大きな物を失ったりした時に初めて改革などがなされるのだ。


今この時代に彼のような投手がいたら、いったいどうなっているのだろう?と思う。