昨年、往年の大投手・稲尾和久が亡くなった。

プロ野球を語る人では、知らない人はいないであろう一人である。


「鉄腕」、「神様、仏様、稲尾様」、などの名を欲しいままにした。


現在の投手の先発ローテーションが生まれたのも、彼の功績である。



記録だけで見れば、シーズン最多勝利の42勝。

デビューから8年連続20勝、3年連続30勝。

同一シーズン内20連勝のプロ野球記録。

現在のパ・リーグ記録であるシーズン防御率1.06.


投手が野球人生を賭けて目標とする200勝までは、

25歳86日での達成と言う、とんでもない記録の持ち主である。


当時の記録であった、シーズン78登板。

今では考えられない連投に次ぐ連投。

単純計算で2試合に1試合は投げていた。


入団当初は注目はされず、打撃投手を務めていたとまで言われている。

3球ストライクを投げて打たせ、1球は際どいボール球を投げる。

ただ投げるだけではなく、この練習をもって、抜群のコントロールを鍛えたと言われる。


もっとも、後日談ではあるが

その頃は専属の打撃投手を雇う時代ではなかった台所事情があったとか。


今でも語り次がれる、1958年の日本シリーズ。

スーパースター長嶋茂雄が入団した巨人が相手。

3連敗をした西鉄は、第1戦、3戦に先発した稲尾を4戦にもマウンドに上げる。

これが俗に言われる、5連投だ。

そこから4連勝をして、奇跡の日本シリーズ制覇に貢献した。

第5戦では、自らサヨナラホームランまで放っている。


当時の監督の三原脩は

「この年は3連敗した時点で負けを覚悟していた。

それで誰を投げさせれば選手やファンが納得してくれるかを考えると、稲尾しかいなかった」

と告白している。


7戦目では既に限界を超えているので

ボールを握る握力さえなく、気力で投げていた。



通算で276勝を上げているが、先程述べた通り

数字だけ見ていくと、もっと勝ち星があってもいいはずであるが

9年目は未勝利でシーズンを終えてしまう。


登板過多により、酷使してしまったのだ。


1956年から1963年までの1シーズンあたりの平均登板数は66試合、

平均の投球回数は345イニング。

現在の投手の倍以上の数字を残していた。

故障しない方がおかしいであろう。


その翌年からはリリーフに回ったが、往年の成績を上げる事は出来ず

1970年、現役引退。



わずか32歳であった。



彼の故障により、当時のエースは先発・リリーフとフル回転していて

大投手も選手寿命が短く、故障で早期引退の改革が起こった。


登板間隔が開き、中3日、中4日、現在は中6日(週1回)とまでなったのだ。



研究に研究を重ねる事でも有名で、

相手打者を打ち取る球から遡って配球を組み立てる、

いわゆる「逆算のピッチング」を編み出したのも稲尾とされている。

これを会得したのは、1958年の日本シリーズ第6戦における長嶋茂雄との対決だったという。

ボール半個分を自由自在に出し入れすると言われた正確なコントロールに裏打ちされた投球術であった。



稲尾和久と言う男は、まさに時代の功労者という言葉がぴったりだ。

どんな業界にもまだ整備されていない事は沢山ある。

それは大きな物を失ったりした時に初めて改革などがなされるのだ。


今この時代に彼のような投手がいたら、いったいどうなっているのだろう?と思う。