バルビゾンの風

バルビゾンの風

バルビゾン派(バルビゾンは、École de Barbizon)は、
1830年から1870年頃にかけて、フランスで発生した絵画の一派である。
フランスのバルビゾン村やその周辺に画家が滞在や居住し、
自然主義的な風景画や農民画を写実的に描いた。1830年派とも呼ばれる。

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【特別篇】≪ドランとマティスの面白い絵≫

 

 

この二人の巨匠は1898年ドラン18歳マティス29歳の時に出会っている。
1905年5月に、この2人は目の前が地中海の煌びやかな
海と山と古城のある陽光の港町、コリウールに共同のアトリエを借りた。

コリウ-ルの港町はパリから南へ

スペインの国境20キロ地中海に面した港町である。
この港町の色彩感覚が2人の画風に決定的な影響を与えた。

2人は『チューブから出たそのままの色』を

用いて作品にに没頭した。


コリウールのあらゆるもの、港、尖塔、屋根や

通りの角が彼らの創作意欲を刺激した。

このコリウールの港町が友情の始まりであり

大きなコラボレーションとなった。
そしてフォーヴィズム(野獣派)のリーダーになった。

そして、この年の秋の展覧会、

サロン・ドートンヌに出品し、

フォーヴィズム運動が始まる
この時の作品がマティスの

【緑の筋のあるマティス夫人の肖像】である。


現在この作品はコペンハーゲン国立美術館所蔵である。

マティスは1898年29歳の時に

アメリ-・パレイユと結婚。


ドランは「乾燥中の帆」というコリウールの時に

制作した作品を出品している。


点描で描いている明るいコリウールの浜辺に帆を
広げて10艘以上のヨットが並んでいる作品である。

マティスは色彩の魔術師と言われるが、
この色彩の色に、夫人に対するマティスの想いが入っている。

ドランのこの作品【若い婦人像】

(バルビゾンの風所蔵)は1920年作の作品である。


新古典主義的な作品への回帰で描いているこの作品は

マティスの1905年作品のマティスの
【緑の筋のあるマティス夫人の肖像】に見立てている、
マティス夫人の緑の筋と同じような緑の筋が

ドランの婦人の中にも見受けられる。


野獣主義と言われた3年間の

この時期のこの作品を忘れえなかったのでしょう。

15年の月日を経て、マティス夫人の内面を表す
この作品とドランの【若い婦人像】とを対峙させて、
絵画の常に変遷する姿の表れだと主張してる。

この大きく違う作品、3年という野獣主義の期間と
長い新古典主義の対峙する作品がもたらすことは、
いろいろな角度からなる作品の出現を繰り返して
さらに先に進むということなのか、と問う作品になっている。

因みにマティスも1920年以降、
作風が古典に回帰している作品を描いている。

居眠りする羊飼いの少女  1869年作

種類    キャンバスに油彩  (本画)

作品名 The Shepherdess 1869年作

CHARLES-ÉMILE JACQUE
シャルル=エミール・ジャック(1813~1894)
種類 pastel on brown wove paper
サイズ 52.6×94.9 cm
※ワシントンナショナルギャラリーに

パステル画の習作(下絵)所蔵

 

"本作品の習作である作品が同じ

大きさで同じ構図で同じ1869年に描かれたパステル画が

ワシントンナショナルギャラリーに所蔵されています。

本作品は羊飼いの少女が居眠りをしている構図です。

そして見張り番の牧羊犬が代わりにしっかりと、

見張りをしております。

 

色彩も明るく大変のどかな秀逸な作品であり

ジャックの最高傑作でもあります。"
 

ピックアップ作品集

ミレーの【落穂ひろい】


この作品の背景にあるもの
【ミレーはどうしてこの作品を描いたのか。】


元々ミレーはフランス北西部ノルマンディー地方の

寒村グレヴィルのグリュシー地区に生まれた。

 

シュルブールから海岸沿いに15キロ西に行った

アーグ岬の突端にある断崖が続き、その上にある石造りの古い農家と

切り立った断崖の斜面の畑と牛の放牧を世話しながら育ったのである。

 

そしてミレー21歳の時に一家の大黒柱の父を失ったのであるが

生前の父の遺志でもあり祖母ルイーズ・ジュムランの

勧めもあって画家になる決心をしたのですが

兄弟姉妹8人もありながら長男としての決心は

ミレーの心底におおきな傷痕を残し

ストレスをためることになるのです。

そんなミレー41歳の時の作品【落穂ひろい】

エッチング1855年作が完成したのです。

 

当時はレンブラントやゴヤの版画展が行われ創作版画ブームが興り

版画の芸術性がクローズアップされたころであります。

そんな中ミレーはジャックから

エッチンングの制作を教わり版画の制作を始めたのです。

1848年2月24日フランス2月革命までの

フランスでは1830年の7月革命による
オルレアン公ルイ=フィリップの自由王政が敷かれていたが、

実際は大ブルジョアの支配によって労働者や農民の権利が無視されて、

地方で農民暴動が起きるなど、人々の不満が高まっていきました。

 

さらに1846年の大凶作に端を発した

穀物価格の急騰から翌1847年には恐慌が起こり、

パリの人口過剰も相まって2月革命へと至る。国王は英国に亡命し、

臨時政府が樹立していわゆる第二共和政が始まりました。

 

そして4年後第2帝政期に入ります、

ギリシャローマ時代からの互助的慣習であった

「落穂ひろい」は地主の麦畑の収穫を手伝う零細農民にとって、

手間賃の他に一割ほど残された落穂を拾う権利があったのです。

 

ところが第二帝政期に入った

1854年、貴族階級を中心とする地主たちが

この「落穂ひろい」の権利を止めさせようと

ナポレオン3世に嘆願したのです。

 

ミレーはこのことを知り神の恵みの

麦穂を作る農民の崇高さを表そうと1855年に、

この【エッチングの落穂ひろい作品】を創りあげたのです。

結局1856年にナポレオン3世は

条件付きで「落穂ひろい」を残したのです。

その条件とは、監視人を置き、女、

子供だけで而も日没までという条件でした。

この後に油彩の「落穂ひろい」

1857年に完成して57年のサロンに出品されるのです。

作品を見ていると油彩の作品は色彩が非常にまろやかであり、
ゆったりした景観になっております。

 

その前に完成したエッチングは神経が全てに

行き届いているような斑のない

表情の硬い厳しい作品と対照的であります。

              バルビゾンの風

 

 

ミレーの名作が世界の美術館で

常設して見られるのは 20世紀も後半のこと、

19 世紀のミレ ー・ファンはまとまった個人画集もなく、

何を頼りに鑑賞していたのかと言えば、

ここに掲げたミレー原画の複製であった。

 

ミレー人気の安定した 1860年代から、農民画を中心に

数十種の複製が世に広まったのである。

 

もちろんミレーも自作の銅版画は制作したが、その数は希少であり、

 一般の愛好家は当時の美術雑誌や複製名画集に掲載された

モノクロの銅版画や写真製版の複製 画を鑑賞して、

原画の色彩や迫力を想像するに過ぎなかった。

 

しかしその複製想像力があってこ そゴッホは数多くの

ミレーの模写作品をなし、明治大正の日本のミレー・ファンの支持を

集めたことを忘れてはならない。とくに 6) 「帰路に着く羊の群れ」は

1890 年第2回明治美術展覧会 に林忠正の

将来品として展示された「帰群」である可能性が高い。

 

日本で初公開の「ミレー」も 実物でなく

複製版画であったと十分考えられるのである。

ここに出品展示された複製画は有名な

専門版画家と工房による手刷りの名人芸であり、

今日でも豊かな芸術性を保っている。5)8) など

油彩原画の現在行方不明のものもあり、ミレー研究上も貴重である。

 

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2014年に開催された“生誕200年 ミレー展 

愛しき者たちのまなざし”展の府中市美術館と

宮城県立美術館で配布された井出洋一郎氏

(当時府中市美術館館長)執筆のパンフレットより

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1) 「木を切る人(樵人)」

J.-A.ショヴェ作 Jules-Adolphe Chauvet (1828-1906)
1890年 27X21cm ヘリオグラビュール(写真凹版) 

原画は油彩 1853-54年 ルーヴル美術館」

 

1)  「木を切る人(樵人)」について
J.-A.ショヴェ作 Jules-Adolphe Chauvet (1828-1906)
1890年 27X21cm ヘリオグラビュール(写真凹版) 
原画は油彩1853-54 年 ルーヴル美術館

1)-1 上記の作品名、作家名、作品データなどは

井出洋一郎氏の原稿の記述です。井出洋一郎氏が

ミレーの複製版画10点についての原稿を書いたのが2014年でした。

 

それから今日の2021年までの間に新しく判った事が多々ありました。

これらの新発見を含めて複製版画10点を改めて紹介していこうと思います

(井出洋一郎氏は残念ながら亡くなられました。ご冥福をお祈り致します)


1)-2 ショヴェ作「(ミレーの)木を切る人」
   作者はジュール=アドルフ・ショヴェ

(1828-1898、フランスの画家・デザイナー・版画家。シセリの弟子)。

15歳から18歳まで軍隊に勤務。1855年に帝国自動車会社に入り

辻馬車の特約店で働く。その後デッサンを身に着け、

着色石版画を身に付けて石版画家となりました。


 <ショヴェ作「(ミレーの)木を切る人」> 
27x21cm ヘリオグラヴュール 1900年


版画の下に幾つかのコメントが印刷されています。

「(左上より)J.F.ミレー J.ショヴェによるヘリオグラヴュール 

薪を切り分ける男(木炭画) ドルフュス氏のコレクション 

デッサンの巨匠たち パリのシェ印刷所」と書かれています。 

<ショヴェ作「(ミレーの)木を切る人」> の余白日瓶のコメント

これらのコメントを解説してみましょう。
J.F.ミレー・・・作者:ミレー
J.ショヴェによるヘリオグラヴュール・・・版画の作者:J.ショヴェ
薪を切り分ける男(木炭画)・・・作品名
ドルフュス氏のコレクション・・・作品の所有者
デッサンの巨匠たち・・・このミレーの作品を紹介した雑誌もしくは画集
パリのシェ印刷所・・・版画工房
このようになっています。

1906年と言う井出氏による作家の没年は

1898年が正しいと思われます。

 

また、制作年の1890年はおそらく版が作られた年号で、

実際に販売もしくは出版された年は1900年頃だと思われます。

ここで興味深いのは版画の

技法の「ヘリオグラヴュール」です。

19世紀後半から新しい版画の技術が発明され、

このヘリオグラヴュールもその一つです。

作品をカメラで撮影し、

出来たポジフィルムを銅板に投影して原版を作る技法です。

 

作業は
① 作品を撮影してポジを作る


② 銅板の上に感光性のある版材

(アスファルトの粉を敷いて溶かし、

その上にザラチン乳材の感光材を置く)を作る


③ ①を②に露光して腐食液に漬けて凹版を作る
と言う様子です(ネットのWeblioを参考にまとめました。

現在では使われていない技術なので情報が少ないです)。

1)-3 ミレー作の「木を切る人」

原画の「薪を切り分ける男(木炭画)」は

現在ニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されていて、

美術館のHPに作品データが記されているので紹介します。

題名:薪を整える樵
作家:ジャン=フランソワ・ミレー
制昨年:1853-54
材質:茶色のレイド紙に短いコンテ・クレヨン(クレヨンの一種)
大きさ:38.1x29.8㎝
提供者:ルウィソン氏による贈与、1943年
収蔵番号:43.123
来歴:ジャン・ドルファス氏(フランス)
   (1912年3月4日のドゥルオーのオークションに出品)
   ノエドラー商会ニューヨーク店(フランス・イギリス・アメリカ)
   アドルフ・ルウィソン氏(ニューヨーク)
サム・ルウィソン氏
メトロポリタン美術館(1943年、サム・ルウィソン氏による贈与

   展覧会歴:(省略)
   文献:フランス美術の100年展、

1899年から1900年の部、図録番号1194

(会場:1900年のパリ万国博覧会)
     (一部省略)


ミレー展、1975年から76年、

グラン・パレ(パリ)とヘイワード画廊(ロンドン)


 
   <ミレー作「薪を整える樵」>


(画像:「ミレー展」図録 101頁―102頁、1976年、ヘイワード画廊出版)
1)-4 複製版画、ショヴェ作「(ミレーの)木を切る人」の制作意図
    上記の事から、このショヴェ作「(ミレーの)木を切る人」は

書籍「デッサンの巨匠たち」(1899年頃から毎月出版されたデッサンを

版画にして販売した)の1900年1月1日号のために企画され、

当時の最新技術であるヘリオグラヴュールという技法で

版画化された事が判りました。また1900年のパリの万国博覧会

(1900年4月15日―11月12日、来場者約5千万人)の会場でミレーの「木を切る人」が

紹介され、ショヴェ作の複製版画が販売された、と推測出来ます。


万国博覧会は、その国の芸術や最新技術を他国に

紹介する機会でもあり、最新技術で制作されたミレーの複製版画は

フランスの芸術と技術を世界に広める絶好の逸品であったと思われます。
 
<デッサンの巨匠たち、1900年1月1日号(古書販売のHPより)>
 

2) 「箕をふるう人」

E.ヴェルニエ作 Emile Vernier (1829-87) 

リトグラフィー 1124X17.5cm 

原画は油彩 1853 - 57年 ルーヴル美術館

 

 

2)-1  作者エミール・ヴェルニエについて
エミール・ルイ・ヴェルニエ(1829-1887)は

フランスの画家・リトグラフ版画家。ブザンソンの

王立学校で軍人としての教育を受けるが、

美術学校への転籍が認められアレクサンドル・コレットの教室で学ぶ。

 

その後リトグラフの版画家として知られるようになり

1857年のパリのサロンに初出品。1860年には

版画工房経営者のドラートル氏と版画の出版と

販売をしているカダール氏が設立した版画協会に参加し、

ミレー、クールベ、エンネルらが描いた数々の

作品がヴェルニエによって版画化されました。

2)-2  ヴェルニエ作「(ミレーの)箕を振るう人」について
 ① 1880年8月20日のゴッホの手紙(テオ宛)に

「それらは主に人物を勉強するためで、

ミレーのオリジナルの“耕す人”やミレーの“箕を振るう人”を

基にしたリトグラフです」と記述があります。ゴッホが画家になるための

教材としてテオにねだった版画の内の

一点こそがヴェルニエが制作したリトグラフでした。

 

1868年から1869年にかけて出版された

エドゥモン・リエヴル著の「世界の美術館」で

ミレーの作品の複製として紹介された、と考えられます

(書籍はグーピル商会、複製画はルメルシー商会が担当)。


以上の事からこのリトグラフは

1868年には既に制作されていたと判断できます。

 ② 作品の下部に書かれている文字から二つの事が判ります。
一つ目は「Imp.Lemercie et Cie Paris(ルメルシー商会にて印刷)」。
 

ルメルシー商会は1828年から1901年まで活動していた

パリのリトグラフ印刷・出版社で、

この作品がこの工房で制作された事が分かります。
 


<ヴェルニエ作「(ミレーの)箕を振るう人」の余白のコメント> 
二つ目は「Collection de Mr.Hadengue(アデング氏のコレクション)」。


 このリトグラフが制作されたときのミレーの作品の

所有者がアデング氏であった事が分かります。

 

また、名前の前に「Mr.」と書かれているので、

アデング氏は英語圏の人だったのかもしれません。

 

このアデング氏は美術品のコレクターだったようで、

彼の没後のオークションが1880年2月2日と3日にパリの

ドゥルオーで行われました(残念ながらミレーの油彩画

「箕を振るう人」は出品されていませんでした)。


③ ニューヨークのメトロポリタン美術館に

このリトグラフが収蔵されています。

 

美術館に収蔵されているということは

重要な作品である事を意味しています(収蔵番号24.32.3)。

2)-3  ミレー作の「箕をふるう人」
ミレー自身が描いた「箕をふるう人」の

油彩画は以下の三点が確認されています

(画像はいずれもウィキペディアより)。


     
 ①1848年のサロンに出品され好評を得た成功作。

フランスからアメリカに渡り、その後長い間“火災により消失”とされていたが

1972年にアメリカで発見され数年後にロンドンのナショナルギャラリーに収蔵されました。

日本の画商がこの作品を日本の美術館に収めようとしましたが、

美術館関係者に“この作品は焼失したという記録があるので購入すべきでない”と

言われ落札を断念した経緯がありました、日本に入ってくる可能性があったのに残念です。

 ②井出氏の「ミレーの生涯」の98頁に

“パリの美術愛好家アドルフ・ベルリーノが所蔵、

1848年作のものより落ち着いた雰囲気を持つ。

 

色彩は素晴らしい。エミル・ヴェルニエが石版画化している”との

記述があるように、ルーヴルに収蔵されている

“箕を振るう人”がヴェルニエ作<(ミレーの)箕を振るう人>の原画です

(首の角度からも判断出来ます)。

 

所有者がベルリーノ氏→アデング氏→ティエリー氏→ルーヴル美術館、と移り、

現在ではルーヴル美術館に収蔵されています

(寄贈されたティエリー氏のコレクションを一か所に

展示するために1848年以降の作品にもかかわらず

ルーヴル美術館に展示されていると思われます)。
     


 ③「1848年にルドリュ=ロラン

(1807-1874、フランスの弁護士、

政治家、1848年のフランス革命の指導者の一人)が

ミレーから500フラン(現在の金額で25万円位か)で直接購入した作品。

 

1878年にロラン・リシャール(1811-1886、

フランスの紳士服店経営者)のオークションで

16,605フラン(830万円位か)で落札された」との記録がありました

(“オークションでの巨匠たち”、1900年に出版)。


 その後、ロンドンに渡り、ブリュッセルに渡り、

パリに戻ってルーヴル美術館からオルセー美術館に収蔵されました。


2)-4 「ミレーの油彩画やデッサンや版画の

作品との最初に出会った時ほど驚かされた事はない。

 

展覧会やサロン展やショーウインドーで見た時、

コレクターの持っている作品から作られた版画を見た時、

その時々にあなたはブローニュの森の池から

ノルマンデイー地方の果樹園に瞬間移動をしたかのような

強烈な印象を与えられるであろう」と言う文章が

前出のミエドゥモン・リエヴル著の「世界の美術館」で

ヴェルニエ作の版画と共に添えられていました。
 

 

3) 「夏、蕎麦の収穫」

Ch.J-L. クルトリ作 

Charles Jean-Louis Courtry (1846-97)
エッチング 1875年 13.8X17.8cm 

原画は油彩 1868 - 74年 ボストン美術館

 

【クルトリー作「(ミレーの)夏、蕎麦の収穫」について】

この版画はフランスの版画家・挿絵画家である

シャルル・ジャン=ルイ・クルトリー(1846-1897)に

よって1875年に制作されました。

 <クルトリー作「(ミレーの)夏、蕎麦の収穫」

1875年 エッチング 13.8x17.8㎝>


3)-1 版画制作の目的は“ガゼット・デ・ボザール

(1859年に創刊された美術雑誌)”に掲載するため。

 

1875年5月号にエルネス・シュスノー氏による記事

「ジャン=フランソワ・ミレー」に掲載された3点の版画の内の1点で、

グーグル・ブックスの「ガゼット・デ・ボザールのまとめ

16番の1875年」版の438-439頁の挿画でした。

 
<作品下部の表記。左下に“ガゼット・デ・ボザール”

、右下に“パリ、A・サルモンにて印刷”>

3)-2 版画の基になったのはミレーが描いた

「夏、蕎麦の収穫」(1867-8、パステル、73x95㎝)で、

建築家エミール・ガヴェ(1830-1904)氏から依頼された素描

(黒いクレヨン、パステル、水彩など)の内の一枚。


<ミレー作「夏、蕎麦の収穫」 パステル 

73x95㎝ 右下に署名 1867-8 ボストン美術館蔵>


(画像:「ミレー展」図録 181頁、1976年、

ヘイワード画廊出版 より)
  筆者注:モノクロの画像が残念です。

ボストン美術館のHPでは鮮やかな色彩で紹介されています。

ボストン美術館のHPに作品データが記されているので紹介します。

題名:蕎麦の実の収穫
作家:ジャン=フランソワ・ミレー
制昨年:1868-70
材質:明るい茶色のレイド紙にパステル、

黒コンテ・クレヨン(クレヨンの一種)
大きさ:74x95.8㎝
提供者:マーチン・ブリマー夫人による贈与、1906年
収蔵番号:06.2425


来歴:

1868―1870年、エミール・ガヴェ氏

(ガヴェ氏がミレーに依頼した作品)


1875年6月11-12日、ドゥルオーの

オークションに出品(ガヴェ・コレク

ション・セール、出品番号52)。

ボストン在住のマーチン・ブリマー氏(1829-1896年)が落札


1896年 マリアンヌ・ティミンズ・ブリマー夫人(1827-1906年)

(マーチン・ブリマー氏の妻で彼の相続人)  
 

1906年 ボストン美術館

(マリアンヌ・ティミンズ・ブリマー夫人による寄贈)


3)-3 文献:①1875年4月6日〜5月6日、

「G氏のミレーのデッサンのコレクション展」のカタログの6番。
 

    
<1875年に開催されたミレーのデッサン展

(筆者注:パステル画も含まれる)のカタログ、
右の4ページの6番が‘グレヴィルの断崖“>

(babel.hathitrust.orgのHPより>

②1875年6月11日〜12日、「ガヴェ氏のオークション」、出品番号52。
③1900年、「偉大な画家のオークションにおける記録 

 

第11巻(ルイ・スリエ著、パリで出版)」の92ページ、

「(バス・ノルマンディーの)蕎麦の

実打ち、上記②のオークション、

13.100フラン(約1300万円)で落札」。

3)-4 このデッサンを基にして

描かれたと思われる油彩画

<ミレー作「夏、蕎麦の収穫」85.4x111.1㎝ 

右下に署名 1868-74年 ボストン美術館蔵>
(画像:「もっと知りたい ミレー 生涯と作品

(安井裕雄著)2014年株式会社東京出版 70頁より」)
 

 

4) 「落ち穂拾い、夏」

同上 クルトリ作

エッチング 1876年 19.5X15cm
原画は油彩 1853年 山梨県立美術館

 

クルトリー作「落ち穂拾い、夏」エッチング、

について(制作されたのは1876年ではなく1875年だと思われます) 

 クルトリー(1846-1897):フランスの版画家・挿絵画家。

14才の時に建築家のもとで学び、その後版画家の

レオポール・フラマン(1831-1911)に学ぶ。

生涯で500点余りの版画を制作。

 

1874年、1875年、1887年、1889年にパリのサロンに出品し入賞、

1881年にはレジオン・ドヌール勲章を受賞。

19世紀の最も偉大な版画家の一人。

 「落ち穂拾い、夏」のエッチングは、

1875年のオークション・カタログの挿画として制作されました。

1875年は書籍の挿絵として写真が使われる前の時代で、

美術書や展覧会の図録、新聞などの読者に

画像を伝える方法として版画が多く使われました。

 このオークションは1875年4月20日にドゥルオー

(パリのオークションハウス)で「H氏のコレクションの売立て」と

いうタイトルで行われました。

 出品番号54に「落ち穂ひろい 故ジャン=フランソワ・ミレー

1857年のサロンに出品された油彩画の

別バージョンクルトリーによる図版あり」と

書かれています。油彩画を紹介するために

制作されたのがこのエッチングです、

この当時は書籍に写真を掲載する事が出来なかったので、

版画が画像を読者に紹介する方法だったのです。

 

下記に載せたオークション・カタログに

この版画は含まれていませんでした

(持ち主が切り取って鑑賞したのだと思われます)。

 

<1875年4月20日のオークション・カタログの一部

(フランス国立図書館のHPより)

 

5) 「羊の番をする女」

G.グルー作 Gustave Greux (1838-1919) エッチング
1884年 25.0X19.5cm 

原画は油彩で行方不明、

パステルはメトロポリタン美術館

 

6) 「帰路に着く羊の群れ」

同上 グルー作エッチング
1881年 18.7x24.8cm 

原画は油彩「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」

山梨県立美術館

 

 

グルー作「(ミレーの)帰路に

就く羊の群れ」について

この版画はギュスターヴ・グルー

(1838-1919、フランスの画家・版画家)に

よって1881年に制作されました。

 
 <グルー作「(ミレーの)帰路に就く羊の群れ」

 1881年 エッチング 18.7x24.8㎝>

6)-1 版画制作の目的は“ラール誌

(1875年に創刊された美術週刊誌)”に掲載するため。

 

「1881年に出版されたラール27巻のためのエッチング、

広い平野を歩いている羊飼い、彼の群れを家に連れ帰るところ」

との記述が大英博物館のHPに記されています

(大英博物館所蔵番号1922,0722.18)。

 <作品下部の表記。中央下部に

“ジョルジュ・プチ氏のコレクション”、左下に“ラール誌”>

 


6)-2 ミレーが描いたこのデッサンの

1881年当時の所有者はジョルジュ・プチ氏

(1856-1920、フランスの美術商・オークショニア

かつ印象派の初期のバイヤーとして知られている)だと思われ、

作品の下部中央の題名(直訳すると‘羊の群れの帰宅“)の下に

”ジョルジュ・プチ氏のコレクション“と印刷されています。

6)-3 ミレーがこの題材を初めてデッサンに残したのは

1852年で、「“ビオ平原と同じ高さの羊を連れて歩く羊飼い“、

黒クレヨンによるクロッキー」という題名の作品が残されています。

彼が亡くなった1875年1月20日3か月半後の5月10日と11日に開催された

「画家ジャン=フランソワ・ミレーの没後の売立て」に出品されました。


1852年は少しずつ作品が売れ出した頃。

その時に構想をデッサンとして描いた作品を

家族が大切に保管していたと思われます(所在不明)。

ミレーは後に代表作となるような作品のテーマを

この時期に何点もデッサンに残しています。

 

“種をまく人(1851年)”や“樵の死(1858年)”は

この売立てに出品されましたし、“グリュシーの農家

(ミレーの生家)(おそらく1855年)”は1894年の

“故ミレー夫人の売立て”に出品されました。

6)-4 原画は現在ワシントンにある

国立美術館“ナショナル・ギャラリー・オブ・アーツ”に

収蔵されています。

 

1857-58年に完成し、ジョルジュ・プチ氏の手を経て後に

ワシントンの私立美術館“コルコーラン美術館(1874年設立)”に

収蔵され、2018年頃に現在の美術館に移管されました。

 <ナショナル・ギャラリー・オブ・アーツの

HP“30.5x40㎝ 額縁に入っていない状態”>


6)-5 このテーマでミレーが描いた油彩画は

現在、山梨県立美術館に収蔵されています。


 
<ミレー作“夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い

” 53.5x71㎝ 1857-60年 油彩・板>


(“生誕200年 ミレー展”の図録より)
(おそらく)サンスィエ→ガヴェ→ブラン→

(アメリカ)ギブソン→(サザビーズに出品)→

(1977年)山梨県、との来歴があり、

フランスからアメリカに渡った後に日本に来た、事が判ります。


 ミレーはもう一点この図柄の油彩画(この作品よりも大きい)を

描きましたが、アメリカ人のハリマン氏が購入し、

その後残念ながら行方不明となりました。

6)-6 この油彩画を基にしたエッチングによる版画が

クルトリーによって制作されました

(29x20㎝、1873年、デュラン・リュエル画廊の依頼による)。

デッサンを基にしたグルー制作の版画には

無い夕日を左に見る事が出来ます。
 
<クルトリー作“(ミレーの)夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い”>(e-bayのHPより)
 

 

7) 「草を焼く女」

A.フィス作(経歴不詳)

エッチング 1889年 17X12.2cm 

原画は油彩1860 頃 ルーヴル美術館

 

オーギュスト・ブラール(息子)作

「草を焼く農婦」エッチング、について
  *作者は「A・フィス」ではなく、

オーギュスト・ブラール(息子)(1852-1927)で

ある事が判明しました。

 

息子を意味するフィスが作家名とされてしまったと思われます。
   オーギュスト・ブラール(息子)はフランスの画家・版画家。

画家のオーギュスト・マリー・ブラール(1825-1897)の息子。

パリの美術学校でフェリクス・ブラックモンに学びました。

また父のもとでバルビゾン派の巨匠たち、

特にコロー、ミレー、ドービニー、

フランセ、アルピニーと知り合いになり彼らの

作品を基にしたエッチング版画を制作しました。


原画は1860年頃に描かれた

ミレー作「「草を焼く農婦」(37.0x28.0㎝)で、

1902年に所有者であるティエリー氏(1823-1902)によって

フランス国家に遺贈されました。

現在はルーブル美術館に展示されています。

この版画は1889年に制作されたとの記録があります。

1886年のオークションで原画を落札した会社(もしくは個人)が

販売用紹介図版としてブラールに制作を依頼した可能性があります。
 

(左) <ブラール(息子)作のエッチング17.0x12.0㎝> 

(右) <ミレー作「草を焼く農婦」、37.0x28.0㎝>

 

このブラールのエッチングは表現が豊かです。

特に立ち上る煙のうねりの表現や画面奥でみ見える二本の煙は

ミレーの油彩画では全体の中に溶け込んでいて見落とされがちですが、

この版画でははっきりと様子が判ります。


7)-1 ブラールの父について

オーギュスト・ブラール(息子)(1852-1927)の父は

オーギュスト・マリー・ブラールです。

1825にパリで生まれ(1897に没)、

レオン・コニエとトマ・クチュールに学びました。

 

サロンには1847年にデビューし、

肖像画・風俗画・静物画・風景画を出品しました。

 

1850年にパリ近郊に定住し、

ジュール・デュプレ、ドービニー、ドーミエ、

Th.ルソーらと親交を結びました。

またエドゥアール・マネは彼の弟子でした

(この項の参考文献:ウィキペディア)。
 

7)-2 ミレー作 「草を焼く農婦」について
すべての農作業を描こうとしたミレーの作品の一つです。
小さな作品だからか、それとも寄贈者の希望なのか理由は判りませんが、

おそらく海外の展覧会に貸し出しをされることなくルーブル美術館の

「トムリー・ティエリーのコレクション」コーナーに展示されています。

   
<ルーブル美術館の「草を焼く農婦」とキャプション

(2014年3月に筆者が撮影)>
 
残念ながらルーブル美術館にこの作品の解説はありません。

昔の書籍の「偉大な画家のオークションにおける記録 

第11巻(ルイ・スリエ著、1900年パリで出版)」の

17ページにこの作品が掲載されていました。

「草を焼く農婦」
夏のある暑い日の赤いチョッキを着た若い農婦。

彼女は長い灰色のスカートを穿き、

色褪せた赤いスカーフを頭に巻いている、

厳しい太陽の光から頭を守るためである。


彼女は平野の真ん中に立っていて、

両手で熊手を支え持ちながら集めた乾草が燃えてゆくのを見ている。 

縦37㎝、横28㎝。

来歴: 

J・van Praët画廊
100点の名品の展覧会 1883年
デフォー氏のオークション 1886年、図版あり、25,000フラン
       
<7)-3 ミレー作 「草を焼く農婦」について
デフォー氏のオークション 1886年、図版あり、25,000フラン>の続き
       
 尚、2014年に株式会社東京出版から出版された「もっと知りたい 

ミレー 生涯と作品(安井裕雄著)」の26ページにこの作品の解説が掲載されています。


 「1855年の万博年のサロン審査において、

この作品は“木こり”とともに落選し、

“接ぎ木をする農婦”のみが入選している。

もうもうと上がる煙が濃い霞となって視界は遮られ、

農婦の立つ空と大地はごく単純な色面に還元されている。

野良仕事に疲れたのであろうか、物思いにふけるかのような

メランコリックな雰囲気を漂わせている

この農婦像は、1902年に“木こり”“漂白する農婦”と

ともにルーヴル美術館に寄贈された。」
 
  ミレーの描いた油彩画とオーギュスト

・・ブラール(息子)が制作した版画を並べて観ることにより、

農村での日常をより深く知る事が出来るように思えます。


 

8) 「インゲンの採り入れ」

E.エドゥワン作 Edmond Hedouin (1820-89) 

エッチング1875年 20.5X16.5cm 

原画は油彩で行方不明 

 

E.エドゥワン作「インゲンの採り入れ」について

展覧会当時、原画であるミレー作の油彩画は行方不明でしたが、
現在デイトン美術館(オハイオ州、アメリカ)に収蔵されていることが判りました。
この美術館のHPに「ミレー作「インゲンの採り入れ」、1870年代、油彩・カンヴァス、
40.6x33㎝、ウィリアム.A.シエベンサラー夫妻による寄贈」と紹介されています。
また、画像も掲載されています。

作者のE.エドゥワン(1820-1889)はフランスの画家・版画家。
18歳の時にポール・ドラローシュのアトリエで絵画を学び、
セレスタン・ナントゥイユのアトリエで版画を学びました。

1845年から著名な画家の作品の複製版画の制作を始め、
1855年にはパリの万国博覧会に出品し二等賞を得ました。
(この項はウィキペディアより)

<E.エドゥワン作「(ミレーの)インゲンの採り入れ」、エッチング>

 

8)-1 E.エドゥワン作「(ミレーの)インゲンの採り入れ」について

版画の作者はエドモン・エドゥワン(1820-1889)で

フランスの画家・版画家でした。

 

18歳の時にポール・ドラローシュのアトリエで絵画を学び、

セレスタン・ナントゥイユのアトリエで版画を学びました。

 

1845年から著名な画家の作品の複製版画の制作を始め、

1855年のパリの万国博覧会に出品し二等賞を得ました。

(ウィキペディアより)

<E.エドゥワン作「(ミレーの)インゲンの採り入れ」、エッチング>
*中央下に「J.F.ミレー(の作品に)に

基づいたH.エドゥアン(の作品)」の文字あり

1859年4月に「美術新報(ガゼット・デ・ボザール)」誌はミレーの

“樵と死神”を銅版画にする際の版画家にエドゥアンを指名しました。

 

エドゥアンを心配したミレーは自ら出向いてエドゥアンに助言をした

(井出洋一郎氏著「ミレーの生涯」、171頁より)、という記録が残っています。

この“インゲンの採り入れ”を制作する

16年前には既に面識があったのです。
 
8)-2  エドモン・エドゥワンはこの版画を

美術雑誌“アール(=芸術)“に依頼されて1875年に制作しました

(アール誌はイラスト入りの美術専門週刊誌として

1875年に創刊されました)。

<アール誌「1875年総集編」の表紙> <掲載されているインゲンの採り入れの版画>

そのアール誌の“1875年の総集編”の149頁から

はじまるミレーの特集記事(シャルル・イリアルト氏の著)に

「1875年1月20日、ジャン=フランソワ・ミレー氏が

バルビゾンで亡くなりました、60歳でした」と

始まる論文の14ページ目に“インゲンの

採り入れ”についての記述があります。

 「(インゲンの採り入れに描かれている)

その庭はとても質素で田舎の素朴さを保っていた。

細かい部分まで整えられた庭は画家が描く材料を与えてくれた。

そして素晴らしい出来栄えも与えてくれた。

 

この作品はアール誌の依頼により

エドモン・エドゥアン氏によって再現された。

その家は父親大切にしていた大勢の家族で

活気に溢れていたのだった(注1)」
(注1):この油彩画は画家のプライベートの点で重要である。

 

なぜなら単に画家の父方の家を描いただけでなく、

インゲンを摘んでいる女性は画家の母親のきちんとした肖像だからである。

(この段落の出典:アール誌総集編、1875年版)


 ミレーは自分の母親の肖像画を描く事はなかったので、

私たちはこの作品によってミレーの

母親の姿を目にする事が出来るのです。


8)-3  ゴッホと“インゲンの採り入れ”

「もともとゴッホはミレーの作品を、

画家没後1875年6月の売立ての際に

パリ、オテル・ドゥルオーで見て感銘を受けており、

以降版画の模写などを通じて、画家修業の『「案内人、助言者』としていた」

(井出洋一郎氏著「ミレーの生涯」、329頁より)。


との井出氏の文章の通り、

ゴッホの手紙にエドゥアンの版画が登場しています。

 「昨晩、“アール誌総集編”と言う本を読んだ。

私の心を打ったのはミレーの作品を基に制作された木版画、

コローやブルトンの作品を基にした銅版画、そしてその他としては

ショヴェルらの銅版画、そしてミレーの作品を基にした『インゲン豆』である」

(1878年2月18・19日の手紙、テオ宛て、アムステルダムより)。

 手紙に敢えて「ミレーの作品を基にした

『インゲン豆』である」と記しているので、

ゴッホにとってこの版画は印象に残る

作品だったと思われます。

8)-4  ミレー作「インゲンの採り入れ」について
 

2014年の展覧会当時、原画であるミレー作の油彩画は

行方不明でしたが、デイトン美術館(The Dayton Art Institute。

オハイオ州、アメリカ)に収蔵されていることが判りました。

 

この美術館のHPで「ミレー作“インゲンの採り入れ”、

1870年代、油彩・カンヴァス、40.6x33㎝、

ウィリアム.A.シエベンサラー夫妻による寄贈」と

紹介されています(画像も掲載されています)。

 ミレーがこの作品を描いた1870年代は彼の最晩年にあたります。

普仏戦争中シェルブールに

疎開をしている時に得たテーマのうちの一つです。

 

既に他人の手に渡っていた実家の前で母親の姿を

思い出しながら描いたのだと思います。
 

9) 「グレヴィルの断崖」

B.L-A.ダマン Benjamin Louis-Auguste Damman (1835-1921)
エッチング 年代不詳 18.8X22.2cm 

原画はパステル 1871 頃 大原美術館

 

B-L=A・ダマン作「(ミレーの)グレヴィルの断崖」について
    
9)-1  作者:ベンジャルマン・ルイ=オーギュスト・ダマン

(Benjamin Louis-Auguste DAMMAN)。フランスの画家・版画家。

1835年ベルギー近くの街ダンケルクに生まれました。

ロベール・フルーリーの弟子でエッチングは

シャルル・ウォルトナーに学びました。

1877年から1920年までサロンで作品が展示さました。

<ダマン作「(ミレーの)グレヴィルの断崖」> 
エッチング 18.7x22.5㎝ 1894年


  
<作品下部左に“作画 ミレー”の文字、

下部右に“ダマン作版”の文字あり>

原画の持ち主は

①ミレー→

②エミール・ガヴェ→

③1875年のオークションで買った人→おそらく

④1888年のオークションで買った人、と変遷しています。

 

おそらく④番目の持ち主

(もしくは持ち主から依頼された版画工房)が

この版画を制作したのだと思われます。

9)-2 原画:1871年に制作された

「グレヴィルの断崖(紙・パステル、43.7x54.1㎝)」。

 

ミレーが普仏戦争(1870.07.19-1871.05.10)で

バルビゾンでの生活が危険となりシェルブールに

疎開をしている時に描かれた作品

(仕上げはバルビゾンに戻ってから?)。

大原美術館のHPの‘主な作品の紹介’に

「ミレーは油彩画の大作に仕上げるつもりだった」との

コメントが掲載されています。

<ミレー作「グレヴィルの断崖」 紙 パステル 1871年 43.7x54.1㎝>
(画像:Meisterdruck.frより)


 9)-3 原画の来歴:フランスの

建築家のガヴェ氏(1830-1904)がミレーに注文した

パステル画の内の一点(1865年からの二年間で

ミレーはガヴェ氏のために95点以上の

デッサンやパステル画を制作しました)。

1875年の4月から5月まで、ガヴェ氏は

“残されたミレーの家族の役に立つように”と自分の

コレクションの中から46点を厳選してパリで展覧会を開催しました。

出品番号32がこの作品です。

展覧会終了後の同年6月11日と12日に

これらの作品はオークションで売却されました

(出品番号22、落札価格4,900フラン、

現在では5百万円位だと思われます)。

 

その後、1888年のオークションで

7,300フラン(≒730万円)で落札され、

1922年に大原孫三郎氏の命を受けた画家の児島虎次郎氏が

パリの画廊で購入、1928年には日本に到着、

1928年には東京で公開され、現在では

大原美術館(岡山県倉敷市、1930年開館)に収蔵されています。
 

 
<1875年に開催されたミレーのデッサン展(パステル画も含まれる)のカタログ、
右ページの32番が‘グレヴィルの断崖“>
(babel.hathitrust.orgのHPより>

 9)-4 場所:ミレーの故郷のグリュシーの海岸にある断崖で、

おそらくミレー家がかつて所有していた土地です。

 

1764年の土地台帳を見ると描かれた場所の半分ほどが

ジャン・ミレー(ミレーの曽祖父、1706-1801)の所有、

1819年の土地台帳では描かれた土地の全てが

ジャン=ルイ・ミレー(ミレーの父、1791-1835)の所有でした。


 しかしミレーがこの地を訪れた1871年には

人手に渡っていて、「入るなと追い出されてとても悲しくなってしまった

(“ミレーの生涯”、井出洋一郎著、1998年出版、305頁より)」と

サンスィエに宛てた1871年6月20日の手紙に書いていました。


<グレヴィルの断崖(2003年7月に撮影)>
 

10) 「春、ダフニスとクロエ」

D.トリップ刊 Editeur D.Tripp 

年代不詳 写真製版40.7x23cm 

原画は油彩 1865年 国立西洋美術館(松方コレクション)

 

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1)バルビゾン派の画家の作品を原画とする複製版画

 バルビゾン派の画家たちは版画も多数制作しました。

その中でもコロー、ルソー、デュプレ、ドービニー、ミレーらの版画は

デルタイユ氏によって1906年に発行されたレゾネで紹介され、

シェニョーの版画は1985年にバルビゾン市によって

発行されたレゾネで紹介されました。

 これらのオリジナル版画のほか、

美術雑誌や複製名画集に掲載する目的でも

バルビゾン派の画家たちの版画は制作されました。

 

入手が難しかったオリジナル版画に代わって

一般の愛好家はモノクロの銅版画や写真製版の

複製画を鑑賞して原画の色彩や迫力を想像していたのでした。

 画家たちも勉強のために複製版画を求めました。たとえばミレー。

1864年2月5日のサンスィエ宛ての手紙に「僕は二三日前に、

見物人としてフォンテーンヌブロオに行つて來たが、

あそこには悠くりと調べるべき面白いものが澤山あったので満足した。(中略)

ファールダンはブルテーレの賣立の目録を

二冊送つて來たが、繪のではなかった。」と書いていました。

 ゴッホはミレーの「耕す人」の模写を描こうとし、

1880年11月1日のテオ宛ての手紙に「シュミットさんのところで

ミレーが描いたデッサンの『耕す人』を見つけた。

 

それはブローン氏によってプリントされた複製写真だった。

シュミットさんは私にそれを貸してくれた」と書きました

(しばらく後にゴッホはミレーの銅版画の

「耕す人」を入手する事が出来ました)。

 このように複製版画は情報が少なかった時代、

国をまたぐ移動が困難な時代に美術のマニア

や画家のみならず、一般の人々にもバルビゾン派の芸術を知ってもらう役目を果たしたのでした。
 

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