ミレーは何故「落穂ひろい」を描いたのか? | バルビゾンの風

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バルビゾン派(バルビゾンは、École de Barbizon)は、
1830年から1870年頃にかけて、フランスで発生した絵画の一派である。
フランスのバルビゾン村やその周辺に画家が滞在や居住し、
自然主義的な風景画や農民画を写実的に描いた。1830年派とも呼ばれる。

ミレーの【落穂ひろい】


この作品の背景にあるもの
【ミレーはどうしてこの作品を描いたのか。】


元々ミレーはフランス北西部ノルマンディー地方の

寒村グレヴィルのグリュシー地区に生まれた。

 

シュルブールから海岸沿いに15キロ西に行った

アーグ岬の突端にある断崖が続き、その上にある石造りの古い農家と

切り立った断崖の斜面の畑と牛の放牧を世話しながら育ったのである。

 

そしてミレー21歳の時に一家の大黒柱の父を失ったのであるが

生前の父の遺志でもあり祖母ルイーズ・ジュムランの

勧めもあって画家になる決心をしたのですが

兄弟姉妹8人もありながら長男としての決心は

ミレーの心底におおきな傷痕を残し

ストレスをためることになるのです。

そんなミレー41歳の時の作品【落穂ひろい】

エッチング1855年作が完成したのです。

 

当時はレンブラントやゴヤの版画展が行われ創作版画ブームが興り

版画の芸術性がクローズアップされたころであります。

そんな中ミレーはジャックから

エッチンングの制作を教わり版画の制作を始めたのです。

1848年2月24日フランス2月革命までの

フランスでは1830年の7月革命による
オルレアン公ルイ=フィリップの自由王政が敷かれていたが、

実際は大ブルジョアの支配によって労働者や農民の権利が無視されて、

地方で農民暴動が起きるなど、人々の不満が高まっていきました。

 

さらに1846年の大凶作に端を発した

穀物価格の急騰から翌1847年には恐慌が起こり、

パリの人口過剰も相まって2月革命へと至る。国王は英国に亡命し、

臨時政府が樹立していわゆる第二共和政が始まりました。

 

そして4年後第2帝政期に入ります、

ギリシャローマ時代からの互助的慣習であった

「落穂ひろい」は地主の麦畑の収穫を手伝う零細農民にとって、

手間賃の他に一割ほど残された落穂を拾う権利があったのです。

 

ところが第二帝政期に入った

1854年、貴族階級を中心とする地主たちが

この「落穂ひろい」の権利を止めさせようと

ナポレオン3世に嘆願したのです。

 

ミレーはこのことを知り神の恵みの

麦穂を作る農民の崇高さを表そうと1855年に、

この【エッチングの落穂ひろい作品】を創りあげたのです。

結局1856年にナポレオン3世は

条件付きで「落穂ひろい」を残したのです。

その条件とは、監視人を置き、女、

子供だけで而も日没までという条件でした。

この後に油彩の「落穂ひろい」

1857年に完成して57年のサロンに出品されるのです。

作品を見ていると油彩の作品は色彩が非常にまろやかであり、
ゆったりした景観になっております。

 

その前に完成したエッチングは神経が全てに

行き届いているような斑のない

表情の硬い厳しい作品と対照的であります。

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