バルビゾンの風

バルビゾンの風

バルビゾン派(バルビゾンは、École de Barbizon)は、
1830年から1870年頃にかけて、フランスで発生した絵画の一派である。
フランスのバルビゾン村やその周辺に画家が滞在や居住し、
自然主義的な風景画や農民画を写実的に描いた。1830年派とも呼ばれる。

↑↑ クリックすると動画が流れます ↑↑

 

 

 

居眠りする羊飼いの少女  1869年作

種類    キャンバスに油彩  (本画)

作品名 The Shepherdess 1869年作

CHARLES-ÉMILE JACQUE
シャルル=エミール・ジャック(1813~1894)
種類 pastel on brown wove paper
サイズ 52.6×94.9 cm
※ワシントンナショナルギャラリーに

パステル画の習作(下絵)所蔵

 

"本作品の習作である作品が同じ

大きさで同じ構図で同じ1869年に描かれたパステル画が

ワシントンナショナルギャラリーに所蔵されています。

本作品は羊飼いの少女が居眠りをしている構図です。

そして見張り番の牧羊犬が代わりにしっかりと、

見張りをしております。

 

色彩も明るく大変のどかな秀逸な作品であり

ジャックの最高傑作でもあります。"
 

ピックアップ作品集

 

ミレーの名作が世界の美術館で

常設して見られるのは 20世紀も後半のこと、

19 世紀のミレ ー・ファンはまとまった個人画集もなく、

何を頼りに鑑賞していたのかと言えば、

ここに掲げたミレー原画の複製であった。

 

ミレー人気の安定した 1860年代から、農民画を中心に

数十種の複製が世に広まったのである。

 

もちろんミレーも自作の銅版画は制作したが、その数は希少であり、

 一般の愛好家は当時の美術雑誌や複製名画集に掲載された

モノクロの銅版画や写真製版の複製 画を鑑賞して、

原画の色彩や迫力を想像するに過ぎなかった。

 

しかしその複製想像力があってこ そゴッホは数多くの

ミレーの模写作品をなし、明治大正の日本のミレー・ファンの支持を

集めたことを忘れてはならない。とくに 6) 「帰路に着く羊の群れ」は

1890 年第2回明治美術展覧会 に林忠正の

将来品として展示された「帰群」である可能性が高い。

 

日本で初公開の「ミレー」も 実物でなく

複製版画であったと十分考えられるのである。

ここに出品展示された複製画は有名な

専門版画家と工房による手刷りの名人芸であり、

今日でも豊かな芸術性を保っている。5)8) など

油彩原画の現在行方不明のものもあり、ミレー研究上も貴重である。

 

--------------------------------------

2014年に開催された“生誕200年 ミレー展 

愛しき者たちのまなざし”展の府中市美術館と

宮城県立美術館で配布された井出洋一郎氏

(当時府中市美術館館長)執筆のパンフレットより

--------------------------------------

 

1) 「木を切る人(樵人)」

J.-A.ショヴェ作 Jules-Adolphe Chauvet (1828-1906)
1890年 27X21cm ヘリオグラビュール(写真凹版) 

原画は油彩 1853-54年 ルーヴル美術館」

 

1)  「木を切る人(樵人)」について
J.-A.ショヴェ作 Jules-Adolphe Chauvet (1828-1906)
1890年 27X21cm ヘリオグラビュール(写真凹版) 
原画は油彩1853-54 年 ルーヴル美術館

1)-1 上記の作品名、作家名、作品データなどは

井出洋一郎氏の原稿の記述です。井出洋一郎氏が

ミレーの複製版画10点についての原稿を書いたのが2014年でした。

 

それから今日の2021年までの間に新しく判った事が多々ありました。

これらの新発見を含めて複製版画10点を改めて紹介していこうと思います

(井出洋一郎氏は残念ながら亡くなられました。ご冥福をお祈り致します)


1)-2 ショヴェ作「(ミレーの)木を切る人」
   作者はジュール=アドルフ・ショヴェ

(1828-1898、フランスの画家・デザイナー・版画家。シセリの弟子)。

15歳から18歳まで軍隊に勤務。1855年に帝国自動車会社に入り

辻馬車の特約店で働く。その後デッサンを身に着け、

着色石版画を身に付けて石版画家となりました。


 <ショヴェ作「(ミレーの)木を切る人」> 
27x21cm ヘリオグラヴュール 1900年


版画の下に幾つかのコメントが印刷されています。

「(左上より)J.F.ミレー J.ショヴェによるヘリオグラヴュール 

薪を切り分ける男(木炭画) ドルフュス氏のコレクション 

デッサンの巨匠たち パリのシェ印刷所」と書かれています。 

<ショヴェ作「(ミレーの)木を切る人」> の余白日瓶のコメント

これらのコメントを解説してみましょう。
J.F.ミレー・・・作者:ミレー
J.ショヴェによるヘリオグラヴュール・・・版画の作者:J.ショヴェ
薪を切り分ける男(木炭画)・・・作品名
ドルフュス氏のコレクション・・・作品の所有者
デッサンの巨匠たち・・・このミレーの作品を紹介した雑誌もしくは画集
パリのシェ印刷所・・・版画工房
このようになっています。

1906年と言う井出氏による作家の没年は

1898年が正しいと思われます。

 

また、制作年の1890年はおそらく版が作られた年号で、

実際に販売もしくは出版された年は1900年頃だと思われます。

ここで興味深いのは版画の

技法の「ヘリオグラヴュール」です。

19世紀後半から新しい版画の技術が発明され、

このヘリオグラヴュールもその一つです。

作品をカメラで撮影し、

出来たポジフィルムを銅板に投影して原版を作る技法です。

 

作業は
① 作品を撮影してポジを作る


② 銅板の上に感光性のある版材

(アスファルトの粉を敷いて溶かし、

その上にザラチン乳材の感光材を置く)を作る


③ ①を②に露光して腐食液に漬けて凹版を作る
と言う様子です(ネットのWeblioを参考にまとめました。

現在では使われていない技術なので情報が少ないです)。

1)-3 ミレー作の「木を切る人」

原画の「薪を切り分ける男(木炭画)」は

現在ニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されていて、

美術館のHPに作品データが記されているので紹介します。

題名:薪を整える樵
作家:ジャン=フランソワ・ミレー
制昨年:1853-54
材質:茶色のレイド紙に短いコンテ・クレヨン(クレヨンの一種)
大きさ:38.1x29.8㎝
提供者:ルウィソン氏による贈与、1943年
収蔵番号:43.123
来歴:ジャン・ドルファス氏(フランス)
   (1912年3月4日のドゥルオーのオークションに出品)
   ノエドラー商会ニューヨーク店(フランス・イギリス・アメリカ)
   アドルフ・ルウィソン氏(ニューヨーク)
サム・ルウィソン氏
メトロポリタン美術館(1943年、サム・ルウィソン氏による贈与

   展覧会歴:(省略)
   文献:フランス美術の100年展、

1899年から1900年の部、図録番号1194

(会場:1900年のパリ万国博覧会)
     (一部省略)


ミレー展、1975年から76年、

グラン・パレ(パリ)とヘイワード画廊(ロンドン)


 
   <ミレー作「薪を整える樵」>


(画像:「ミレー展」図録 101頁―102頁、1976年、ヘイワード画廊出版)
1)-4 複製版画、ショヴェ作「(ミレーの)木を切る人」の制作意図
    上記の事から、このショヴェ作「(ミレーの)木を切る人」は

書籍「デッサンの巨匠たち」(1899年頃から毎月出版されたデッサンを

版画にして販売した)の1900年1月1日号のために企画され、

当時の最新技術であるヘリオグラヴュールという技法で

版画化された事が判りました。また1900年のパリの万国博覧会

(1900年4月15日―11月12日、来場者約5千万人)の会場でミレーの「木を切る人」が

紹介され、ショヴェ作の複製版画が販売された、と推測出来ます。


万国博覧会は、その国の芸術や最新技術を他国に

紹介する機会でもあり、最新技術で制作されたミレーの複製版画は

フランスの芸術と技術を世界に広める絶好の逸品であったと思われます。
 
<デッサンの巨匠たち、1900年1月1日号(古書販売のHPより)>
 

2) 「箕をふるう人」

E.ヴェルニエ作 Emile Vernier (1829-87) 

リトグラフィー 1124X17.5cm 

原画は油彩 1853 - 57年 ルーヴル美術館

 

 

2)-1  作者エミール・ヴェルニエについて
エミール・ルイ・ヴェルニエ(1829-1887)は

フランスの画家・リトグラフ版画家。ブザンソンの

王立学校で軍人としての教育を受けるが、

美術学校への転籍が認められアレクサンドル・コレットの教室で学ぶ。

 

その後リトグラフの版画家として知られるようになり

1857年のパリのサロンに初出品。1860年には

版画工房経営者のドラートル氏と版画の出版と

販売をしているカダール氏が設立した版画協会に参加し、

ミレー、クールベ、エンネルらが描いた数々の

作品がヴェルニエによって版画化されました。

2)-2  ヴェルニエ作「(ミレーの)箕を振るう人」について
 ① 1880年8月20日のゴッホの手紙(テオ宛)に

「それらは主に人物を勉強するためで、

ミレーのオリジナルの“耕す人”やミレーの“箕を振るう人”を

基にしたリトグラフです」と記述があります。ゴッホが画家になるための

教材としてテオにねだった版画の内の

一点こそがヴェルニエが制作したリトグラフでした。

 

1868年から1869年にかけて出版された

エドゥモン・リエヴル著の「世界の美術館」で

ミレーの作品の複製として紹介された、と考えられます

(書籍はグーピル商会、複製画はルメルシー商会が担当)。


以上の事からこのリトグラフは

1868年には既に制作されていたと判断できます。

 ② 作品の下部に書かれている文字から二つの事が判ります。
一つ目は「Imp.Lemercie et Cie Paris(ルメルシー商会にて印刷)」。
 

ルメルシー商会は1828年から1901年まで活動していた

パリのリトグラフ印刷・出版社で、

この作品がこの工房で制作された事が分かります。
 


<ヴェルニエ作「(ミレーの)箕を振るう人」の余白のコメント> 
二つ目は「Collection de Mr.Hadengue(アデング氏のコレクション)」。


 このリトグラフが制作されたときのミレーの作品の

所有者がアデング氏であった事が分かります。

 

また、名前の前に「Mr.」と書かれているので、

アデング氏は英語圏の人だったのかもしれません。

 

このアデング氏は美術品のコレクターだったようで、

彼の没後のオークションが1880年2月2日と3日にパリの

ドゥルオーで行われました(残念ながらミレーの油彩画

「箕を振るう人」は出品されていませんでした)。


③ ニューヨークのメトロポリタン美術館に

このリトグラフが収蔵されています。

 

美術館に収蔵されているということは

重要な作品である事を意味しています(収蔵番号24.32.3)。

2)-3  ミレー作の「箕をふるう人」
ミレー自身が描いた「箕をふるう人」の

油彩画は以下の三点が確認されています

(画像はいずれもウィキペディアより)。


     
 ①1848年のサロンに出品され好評を得た成功作。

フランスからアメリカに渡り、その後長い間“火災により消失”とされていたが

1972年にアメリカで発見され数年後にロンドンのナショナルギャラリーに収蔵されました。

日本の画商がこの作品を日本の美術館に収めようとしましたが、

美術館関係者に“この作品は焼失したという記録があるので購入すべきでない”と

言われ落札を断念した経緯がありました、日本に入ってくる可能性があったのに残念です。

 ②井出氏の「ミレーの生涯」の98頁に

“パリの美術愛好家アドルフ・ベルリーノが所蔵、

1848年作のものより落ち着いた雰囲気を持つ。

 

色彩は素晴らしい。エミル・ヴェルニエが石版画化している”との

記述があるように、ルーヴルに収蔵されている

“箕を振るう人”がヴェルニエ作<(ミレーの)箕を振るう人>の原画です

(首の角度からも判断出来ます)。

 

所有者がベルリーノ氏→アデング氏→ティエリー氏→ルーヴル美術館、と移り、

現在ではルーヴル美術館に収蔵されています

(寄贈されたティエリー氏のコレクションを一か所に

展示するために1848年以降の作品にもかかわらず

ルーヴル美術館に展示されていると思われます)。
     


 ③「1848年にルドリュ=ロラン

(1807-1874、フランスの弁護士、

政治家、1848年のフランス革命の指導者の一人)が

ミレーから500フラン(現在の金額で25万円位か)で直接購入した作品。

 

1878年にロラン・リシャール(1811-1886、

フランスの紳士服店経営者)のオークションで

16,605フラン(830万円位か)で落札された」との記録がありました

(“オークションでの巨匠たち”、1900年に出版)。


 その後、ロンドンに渡り、ブリュッセルに渡り、

パリに戻ってルーヴル美術館からオルセー美術館に収蔵されました。


2)-4 「ミレーの油彩画やデッサンや版画の

作品との最初に出会った時ほど驚かされた事はない。

 

展覧会やサロン展やショーウインドーで見た時、

コレクターの持っている作品から作られた版画を見た時、

その時々にあなたはブローニュの森の池から

ノルマンデイー地方の果樹園に瞬間移動をしたかのような

強烈な印象を与えられるであろう」と言う文章が

前出のミエドゥモン・リエヴル著の「世界の美術館」で

ヴェルニエ作の版画と共に添えられていました。
 

 

3) 「夏、蕎麦の収穫」

Ch.J-L. クルトリ作 

Charles Jean-Louis Courtry (1846-97)
エッチング 1875年 13.8X17.8cm 

原画は油彩 1868 - 74年 ボストン美術館

 

【クルトリー作「(ミレーの)夏、蕎麦の収穫」について】

この版画はフランスの版画家・挿絵画家である

シャルル・ジャン=ルイ・クルトリー(1846-1897)に

よって1875年に制作されました。

 <クルトリー作「(ミレーの)夏、蕎麦の収穫」

1875年 エッチング 13.8x17.8㎝>


3)-1 版画制作の目的は“ガゼット・デ・ボザール

(1859年に創刊された美術雑誌)”に掲載するため。

 

1875年5月号にエルネス・シュスノー氏による記事

「ジャン=フランソワ・ミレー」に掲載された3点の版画の内の1点で、

グーグル・ブックスの「ガゼット・デ・ボザールのまとめ

16番の1875年」版の438-439頁の挿画でした。

 
<作品下部の表記。左下に“ガゼット・デ・ボザール”

、右下に“パリ、A・サルモンにて印刷”>

3)-2 版画の基になったのはミレーが描いた

「夏、蕎麦の収穫」(1867-8、パステル、73x95㎝)で、

建築家エミール・ガヴェ(1830-1904)氏から依頼された素描

(黒いクレヨン、パステル、水彩など)の内の一枚。


<ミレー作「夏、蕎麦の収穫」 パステル 

73x95㎝ 右下に署名 1867-8 ボストン美術館蔵>


(画像:「ミレー展」図録 181頁、1976年、

ヘイワード画廊出版 より)
  筆者注:モノクロの画像が残念です。

ボストン美術館のHPでは鮮やかな色彩で紹介されています。

ボストン美術館のHPに作品データが記されているので紹介します。

題名:蕎麦の実の収穫
作家:ジャン=フランソワ・ミレー
制昨年:1868-70
材質:明るい茶色のレイド紙にパステル、

黒コンテ・クレヨン(クレヨンの一種)
大きさ:74x95.8㎝
提供者:マーチン・ブリマー夫人による贈与、1906年
収蔵番号:06.2425


来歴:

1868―1870年、エミール・ガヴェ氏

(ガヴェ氏がミレーに依頼した作品)


1875年6月11-12日、ドゥルオーの

オークションに出品(ガヴェ・コレク

ション・セール、出品番号52)。

ボストン在住のマーチン・ブリマー氏(1829-1896年)が落札


1896年 マリアンヌ・ティミンズ・ブリマー夫人(1827-1906年)

(マーチン・ブリマー氏の妻で彼の相続人)  
 

1906年 ボストン美術館

(マリアンヌ・ティミンズ・ブリマー夫人による寄贈)


3)-3 文献:①1875年4月6日〜5月6日、

「G氏のミレーのデッサンのコレクション展」のカタログの6番。
 

    
<1875年に開催されたミレーのデッサン展

(筆者注:パステル画も含まれる)のカタログ、
右の4ページの6番が‘グレヴィルの断崖“>

(babel.hathitrust.orgのHPより>

②1875年6月11日〜12日、「ガヴェ氏のオークション」、出品番号52。
③1900年、「偉大な画家のオークションにおける記録 

 

第11巻(ルイ・スリエ著、パリで出版)」の92ページ、

「(バス・ノルマンディーの)蕎麦の

実打ち、上記②のオークション、

13.100フラン(約1300万円)で落札」。

3)-4 このデッサンを基にして

描かれたと思われる油彩画

<ミレー作「夏、蕎麦の収穫」85.4x111.1㎝ 

右下に署名 1868-74年 ボストン美術館蔵>
(画像:「もっと知りたい ミレー 生涯と作品

(安井裕雄著)2014年株式会社東京出版 70頁より」)
 

 

4) 「落ち穂拾い、夏」

同上 クルトリ作

エッチング 1876年 19.5X15cm
原画は油彩 1853年 山梨県立美術館

 

クルトリー作「落ち穂拾い、夏」エッチング、

について(制作されたのは1876年ではなく1875年だと思われます) 

 クルトリー(1846-1897):フランスの版画家・挿絵画家。

14才の時に建築家のもとで学び、その後版画家の

レオポール・フラマン(1831-1911)に学ぶ。

生涯で500点余りの版画を制作。

 

1874年、1875年、1887年、1889年にパリのサロンに出品し入賞、

1881年にはレジオン・ドヌール勲章を受賞。

19世紀の最も偉大な版画家の一人。

 「落ち穂拾い、夏」のエッチングは、

1875年のオークション・カタログの挿画として制作されました。

1875年は書籍の挿絵として写真が使われる前の時代で、

美術書や展覧会の図録、新聞などの読者に

画像を伝える方法として版画が多く使われました。

 このオークションは1875年4月20日にドゥルオー

(パリのオークションハウス)で「H氏のコレクションの売立て」と

いうタイトルで行われました。

 出品番号54に「落ち穂ひろい 故ジャン=フランソワ・ミレー

1857年のサロンに出品された油彩画の

別バージョンクルトリーによる図版あり」と

書かれています。油彩画を紹介するために

制作されたのがこのエッチングです、

この当時は書籍に写真を掲載する事が出来なかったので、

版画が画像を読者に紹介する方法だったのです。

 

下記に載せたオークション・カタログに

この版画は含まれていませんでした

(持ち主が切り取って鑑賞したのだと思われます)。

 

<1875年4月20日のオークション・カタログの一部

(フランス国立図書館のHPより)

 

5) 「羊の番をする女」

G.グルー作 Gustave Greux (1838-1919) エッチング
1884年 25.0X19.5cm 

原画は油彩で行方不明、

パステルはメトロポリタン美術館

 

6) 「帰路に着く羊の群れ」

同上 グルー作エッチング
1881年 18.7x24.8cm 

原画は油彩「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」

山梨県立美術館

 

 

グルー作「(ミレーの)帰路に

就く羊の群れ」について

この版画はギュスターヴ・グルー

(1838-1919、フランスの画家・版画家)に

よって1881年に制作されました。

 
 <グルー作「(ミレーの)帰路に就く羊の群れ」

 1881年 エッチング 18.7x24.8㎝>

6)-1 版画制作の目的は“ラール誌

(1875年に創刊された美術週刊誌)”に掲載するため。

 

「1881年に出版されたラール27巻のためのエッチング、

広い平野を歩いている羊飼い、彼の群れを家に連れ帰るところ」

との記述が大英博物館のHPに記されています

(大英博物館所蔵番号1922,0722.18)。

 <作品下部の表記。中央下部に

“ジョルジュ・プチ氏のコレクション”、左下に“ラール誌”>

 


6)-2 ミレーが描いたこのデッサンの

1881年当時の所有者はジョルジュ・プチ氏

(1856-1920、フランスの美術商・オークショニア

かつ印象派の初期のバイヤーとして知られている)だと思われ、

作品の下部中央の題名(直訳すると‘羊の群れの帰宅“)の下に

”ジョルジュ・プチ氏のコレクション“と印刷されています。

6)-3 ミレーがこの題材を初めてデッサンに残したのは

1852年で、「“ビオ平原と同じ高さの羊を連れて歩く羊飼い“、

黒クレヨンによるクロッキー」という題名の作品が残されています。

彼が亡くなった1875年1月20日3か月半後の5月10日と11日に開催された

「画家ジャン=フランソワ・ミレーの没後の売立て」に出品されました。


1852年は少しずつ作品が売れ出した頃。

その時に構想をデッサンとして描いた作品を

家族が大切に保管していたと思われます(所在不明)。

ミレーは後に代表作となるような作品のテーマを

この時期に何点もデッサンに残しています。

 

“種をまく人(1851年)”や“樵の死(1858年)”は

この売立てに出品されましたし、“グリュシーの農家

(ミレーの生家)(おそらく1855年)”は1894年の

“故ミレー夫人の売立て”に出品されました。

6)-4 原画は現在ワシントンにある

国立美術館“ナショナル・ギャラリー・オブ・アーツ”に

収蔵されています。

 

1857-58年に完成し、ジョルジュ・プチ氏の手を経て後に

ワシントンの私立美術館“コルコーラン美術館(1874年設立)”に

収蔵され、2018年頃に現在の美術館に移管されました。

 <ナショナル・ギャラリー・オブ・アーツの

HP“30.5x40㎝ 額縁に入っていない状態”>


6)-5 このテーマでミレーが描いた油彩画は

現在、山梨県立美術館に収蔵されています。


 
<ミレー作“夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い

” 53.5x71㎝ 1857-60年 油彩・板>


(“生誕200年 ミレー展”の図録より)
(おそらく)サンスィエ→ガヴェ→ブラン→

(アメリカ)ギブソン→(サザビーズに出品)→

(1977年)山梨県、との来歴があり、

フランスからアメリカに渡った後に日本に来た、事が判ります。


 ミレーはもう一点この図柄の油彩画(この作品よりも大きい)を

描きましたが、アメリカ人のハリマン氏が購入し、

その後残念ながら行方不明となりました。

6)-6 この油彩画を基にしたエッチングによる版画が

クルトリーによって制作されました

(29x20㎝、1873年、デュラン・リュエル画廊の依頼による)。

デッサンを基にしたグルー制作の版画には

無い夕日を左に見る事が出来ます。
 
<クルトリー作“(ミレーの)夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い”>(e-bayのHPより)
 

 

7) 「草を焼く女」

A.フィス作(経歴不詳)

エッチング 1889年 17X12.2cm 

原画は油彩1860 頃 ルーヴル美術館

 

オーギュスト・ブラール(息子)作

「草を焼く農婦」エッチング、について
  *作者は「A・フィス」ではなく、

オーギュスト・ブラール(息子)(1852-1927)で

ある事が判明しました。

 

息子を意味するフィスが作家名とされてしまったと思われます。
   オーギュスト・ブラール(息子)はフランスの画家・版画家。

画家のオーギュスト・マリー・ブラール(1825-1897)の息子。

パリの美術学校でフェリクス・ブラックモンに学びました。

また父のもとでバルビゾン派の巨匠たち、

特にコロー、ミレー、ドービニー、

フランセ、アルピニーと知り合いになり彼らの

作品を基にしたエッチング版画を制作しました。


原画は1860年頃に描かれた

ミレー作「「草を焼く農婦」(37.0x28.0㎝)で、

1902年に所有者であるティエリー氏(1823-1902)によって

フランス国家に遺贈されました。

現在はルーブル美術館に展示されています。

この版画は1889年に制作されたとの記録があります。

1886年のオークションで原画を落札した会社(もしくは個人)が

販売用紹介図版としてブラールに制作を依頼した可能性があります。
 

(左) <ブラール(息子)作のエッチング17.0x12.0㎝> 

(右) <ミレー作「草を焼く農婦」、37.0x28.0㎝>

 

このブラールのエッチングは表現が豊かです。

特に立ち上る煙のうねりの表現や画面奥でみ見える二本の煙は

ミレーの油彩画では全体の中に溶け込んでいて見落とされがちですが、

この版画でははっきりと様子が判ります。


7)-1 ブラールの父について

オーギュスト・ブラール(息子)(1852-1927)の父は

オーギュスト・マリー・ブラールです。

1825にパリで生まれ(1897に没)、

レオン・コニエとトマ・クチュールに学びました。

 

サロンには1847年にデビューし、

肖像画・風俗画・静物画・風景画を出品しました。

 

1850年にパリ近郊に定住し、

ジュール・デュプレ、ドービニー、ドーミエ、

Th.ルソーらと親交を結びました。

またエドゥアール・マネは彼の弟子でした

(この項の参考文献:ウィキペディア)。
 

7)-2 ミレー作 「草を焼く農婦」について
すべての農作業を描こうとしたミレーの作品の一つです。
小さな作品だからか、それとも寄贈者の希望なのか理由は判りませんが、

おそらく海外の展覧会に貸し出しをされることなくルーブル美術館の

「トムリー・ティエリーのコレクション」コーナーに展示されています。

   
<ルーブル美術館の「草を焼く農婦」とキャプション

(2014年3月に筆者が撮影)>
 
残念ながらルーブル美術館にこの作品の解説はありません。

昔の書籍の「偉大な画家のオークションにおける記録 

第11巻(ルイ・スリエ著、1900年パリで出版)」の

17ページにこの作品が掲載されていました。

「草を焼く農婦」
夏のある暑い日の赤いチョッキを着た若い農婦。

彼女は長い灰色のスカートを穿き、

色褪せた赤いスカーフを頭に巻いている、

厳しい太陽の光から頭を守るためである。


彼女は平野の真ん中に立っていて、

両手で熊手を支え持ちながら集めた乾草が燃えてゆくのを見ている。 

縦37㎝、横28㎝。

来歴: 

J・van Praët画廊
100点の名品の展覧会 1883年
デフォー氏のオークション 1886年、図版あり、25,000フラン
       
<7)-3 ミレー作 「草を焼く農婦」について
デフォー氏のオークション 1886年、図版あり、25,000フラン>の続き
       
 尚、2014年に株式会社東京出版から出版された「もっと知りたい 

ミレー 生涯と作品(安井裕雄著)」の26ページにこの作品の解説が掲載されています。


 「1855年の万博年のサロン審査において、

この作品は“木こり”とともに落選し、

“接ぎ木をする農婦”のみが入選している。

もうもうと上がる煙が濃い霞となって視界は遮られ、

農婦の立つ空と大地はごく単純な色面に還元されている。

野良仕事に疲れたのであろうか、物思いにふけるかのような

メランコリックな雰囲気を漂わせている

この農婦像は、1902年に“木こり”“漂白する農婦”と

ともにルーヴル美術館に寄贈された。」
 
  ミレーの描いた油彩画とオーギュスト

・・ブラール(息子)が制作した版画を並べて観ることにより、

農村での日常をより深く知る事が出来るように思えます。


 

8) 「インゲンの採り入れ」

E.エドゥワン作 Edmond Hedouin (1820-89) 

エッチング1875年 20.5X16.5cm 

原画は油彩で行方不明 

 

E.エドゥワン作「インゲンの採り入れ」について

展覧会当時、原画であるミレー作の油彩画は行方不明でしたが、
現在デイトン美術館(オハイオ州、アメリカ)に収蔵されていることが判りました。
この美術館のHPに「ミレー作「インゲンの採り入れ」、1870年代、油彩・カンヴァス、
40.6x33㎝、ウィリアム.A.シエベンサラー夫妻による寄贈」と紹介されています。
また、画像も掲載されています。

作者のE.エドゥワン(1820-1889)はフランスの画家・版画家。
18歳の時にポール・ドラローシュのアトリエで絵画を学び、
セレスタン・ナントゥイユのアトリエで版画を学びました。

1845年から著名な画家の作品の複製版画の制作を始め、
1855年にはパリの万国博覧会に出品し二等賞を得ました。
(この項はウィキペディアより)

<E.エドゥワン作「(ミレーの)インゲンの採り入れ」、エッチング>

 

8)-1 E.エドゥワン作「(ミレーの)インゲンの採り入れ」について

版画の作者はエドモン・エドゥワン(1820-1889)で

フランスの画家・版画家でした。

 

18歳の時にポール・ドラローシュのアトリエで絵画を学び、

セレスタン・ナントゥイユのアトリエで版画を学びました。

 

1845年から著名な画家の作品の複製版画の制作を始め、

1855年のパリの万国博覧会に出品し二等賞を得ました。

(ウィキペディアより)

<E.エドゥワン作「(ミレーの)インゲンの採り入れ」、エッチング>
*中央下に「J.F.ミレー(の作品に)に

基づいたH.エドゥアン(の作品)」の文字あり

1859年4月に「美術新報(ガゼット・デ・ボザール)」誌はミレーの

“樵と死神”を銅版画にする際の版画家にエドゥアンを指名しました。

 

エドゥアンを心配したミレーは自ら出向いてエドゥアンに助言をした

(井出洋一郎氏著「ミレーの生涯」、171頁より)、という記録が残っています。

この“インゲンの採り入れ”を制作する

16年前には既に面識があったのです。
 
8)-2  エドモン・エドゥワンはこの版画を

美術雑誌“アール(=芸術)“に依頼されて1875年に制作しました

(アール誌はイラスト入りの美術専門週刊誌として

1875年に創刊されました)。

<アール誌「1875年総集編」の表紙> <掲載されているインゲンの採り入れの版画>

そのアール誌の“1875年の総集編”の149頁から

はじまるミレーの特集記事(シャルル・イリアルト氏の著)に

「1875年1月20日、ジャン=フランソワ・ミレー氏が

バルビゾンで亡くなりました、60歳でした」と

始まる論文の14ページ目に“インゲンの

採り入れ”についての記述があります。

 「(インゲンの採り入れに描かれている)

その庭はとても質素で田舎の素朴さを保っていた。

細かい部分まで整えられた庭は画家が描く材料を与えてくれた。

そして素晴らしい出来栄えも与えてくれた。

 

この作品はアール誌の依頼により

エドモン・エドゥアン氏によって再現された。

その家は父親大切にしていた大勢の家族で

活気に溢れていたのだった(注1)」
(注1):この油彩画は画家のプライベートの点で重要である。

 

なぜなら単に画家の父方の家を描いただけでなく、

インゲンを摘んでいる女性は画家の母親のきちんとした肖像だからである。

(この段落の出典:アール誌総集編、1875年版)


 ミレーは自分の母親の肖像画を描く事はなかったので、

私たちはこの作品によってミレーの

母親の姿を目にする事が出来るのです。


8)-3  ゴッホと“インゲンの採り入れ”

「もともとゴッホはミレーの作品を、

画家没後1875年6月の売立ての際に

パリ、オテル・ドゥルオーで見て感銘を受けており、

以降版画の模写などを通じて、画家修業の『「案内人、助言者』としていた」

(井出洋一郎氏著「ミレーの生涯」、329頁より)。


との井出氏の文章の通り、

ゴッホの手紙にエドゥアンの版画が登場しています。

 「昨晩、“アール誌総集編”と言う本を読んだ。

私の心を打ったのはミレーの作品を基に制作された木版画、

コローやブルトンの作品を基にした銅版画、そしてその他としては

ショヴェルらの銅版画、そしてミレーの作品を基にした『インゲン豆』である」

(1878年2月18・19日の手紙、テオ宛て、アムステルダムより)。

 手紙に敢えて「ミレーの作品を基にした

『インゲン豆』である」と記しているので、

ゴッホにとってこの版画は印象に残る

作品だったと思われます。

8)-4  ミレー作「インゲンの採り入れ」について
 

2014年の展覧会当時、原画であるミレー作の油彩画は

行方不明でしたが、デイトン美術館(The Dayton Art Institute。

オハイオ州、アメリカ)に収蔵されていることが判りました。

 

この美術館のHPで「ミレー作“インゲンの採り入れ”、

1870年代、油彩・カンヴァス、40.6x33㎝、

ウィリアム.A.シエベンサラー夫妻による寄贈」と

紹介されています(画像も掲載されています)。

 ミレーがこの作品を描いた1870年代は彼の最晩年にあたります。

普仏戦争中シェルブールに

疎開をしている時に得たテーマのうちの一つです。

 

既に他人の手に渡っていた実家の前で母親の姿を

思い出しながら描いたのだと思います。
 

9) 「グレヴィルの断崖」

B.L-A.ダマン Benjamin Louis-Auguste Damman (1835-1921)
エッチング 年代不詳 18.8X22.2cm 

原画はパステル 1871 頃 大原美術館

 

B-L=A・ダマン作「(ミレーの)グレヴィルの断崖」について
    
9)-1  作者:ベンジャルマン・ルイ=オーギュスト・ダマン

(Benjamin Louis-Auguste DAMMAN)。フランスの画家・版画家。

1835年ベルギー近くの街ダンケルクに生まれました。

ロベール・フルーリーの弟子でエッチングは

シャルル・ウォルトナーに学びました。

1877年から1920年までサロンで作品が展示さました。

<ダマン作「(ミレーの)グレヴィルの断崖」> 
エッチング 18.7x22.5㎝ 1894年


  
<作品下部左に“作画 ミレー”の文字、

下部右に“ダマン作版”の文字あり>

原画の持ち主は

①ミレー→

②エミール・ガヴェ→

③1875年のオークションで買った人→おそらく

④1888年のオークションで買った人、と変遷しています。

 

おそらく④番目の持ち主

(もしくは持ち主から依頼された版画工房)が

この版画を制作したのだと思われます。

9)-2 原画:1871年に制作された

「グレヴィルの断崖(紙・パステル、43.7x54.1㎝)」。

 

ミレーが普仏戦争(1870.07.19-1871.05.10)で

バルビゾンでの生活が危険となりシェルブールに

疎開をしている時に描かれた作品

(仕上げはバルビゾンに戻ってから?)。

大原美術館のHPの‘主な作品の紹介’に

「ミレーは油彩画の大作に仕上げるつもりだった」との

コメントが掲載されています。

<ミレー作「グレヴィルの断崖」 紙 パステル 1871年 43.7x54.1㎝>
(画像:Meisterdruck.frより)


 9)-3 原画の来歴:フランスの

建築家のガヴェ氏(1830-1904)がミレーに注文した

パステル画の内の一点(1865年からの二年間で

ミレーはガヴェ氏のために95点以上の

デッサンやパステル画を制作しました)。

1875年の4月から5月まで、ガヴェ氏は

“残されたミレーの家族の役に立つように”と自分の

コレクションの中から46点を厳選してパリで展覧会を開催しました。

出品番号32がこの作品です。

展覧会終了後の同年6月11日と12日に

これらの作品はオークションで売却されました

(出品番号22、落札価格4,900フラン、

現在では5百万円位だと思われます)。

 

その後、1888年のオークションで

7,300フラン(≒730万円)で落札され、

1922年に大原孫三郎氏の命を受けた画家の児島虎次郎氏が

パリの画廊で購入、1928年には日本に到着、

1928年には東京で公開され、現在では

大原美術館(岡山県倉敷市、1930年開館)に収蔵されています。
 

 
<1875年に開催されたミレーのデッサン展(パステル画も含まれる)のカタログ、
右ページの32番が‘グレヴィルの断崖“>
(babel.hathitrust.orgのHPより>

 9)-4 場所:ミレーの故郷のグリュシーの海岸にある断崖で、

おそらくミレー家がかつて所有していた土地です。

 

1764年の土地台帳を見ると描かれた場所の半分ほどが

ジャン・ミレー(ミレーの曽祖父、1706-1801)の所有、

1819年の土地台帳では描かれた土地の全てが

ジャン=ルイ・ミレー(ミレーの父、1791-1835)の所有でした。


 しかしミレーがこの地を訪れた1871年には

人手に渡っていて、「入るなと追い出されてとても悲しくなってしまった

(“ミレーの生涯”、井出洋一郎著、1998年出版、305頁より)」と

サンスィエに宛てた1871年6月20日の手紙に書いていました。


<グレヴィルの断崖(2003年7月に撮影)>
 

10) 「春、ダフニスとクロエ」

D.トリップ刊 Editeur D.Tripp 

年代不詳 写真製版40.7x23cm 

原画は油彩 1865年 国立西洋美術館(松方コレクション)

 

------------------------------------------

1)バルビゾン派の画家の作品を原画とする複製版画

 バルビゾン派の画家たちは版画も多数制作しました。

その中でもコロー、ルソー、デュプレ、ドービニー、ミレーらの版画は

デルタイユ氏によって1906年に発行されたレゾネで紹介され、

シェニョーの版画は1985年にバルビゾン市によって

発行されたレゾネで紹介されました。

 これらのオリジナル版画のほか、

美術雑誌や複製名画集に掲載する目的でも

バルビゾン派の画家たちの版画は制作されました。

 

入手が難しかったオリジナル版画に代わって

一般の愛好家はモノクロの銅版画や写真製版の

複製画を鑑賞して原画の色彩や迫力を想像していたのでした。

 画家たちも勉強のために複製版画を求めました。たとえばミレー。

1864年2月5日のサンスィエ宛ての手紙に「僕は二三日前に、

見物人としてフォンテーンヌブロオに行つて來たが、

あそこには悠くりと調べるべき面白いものが澤山あったので満足した。(中略)

ファールダンはブルテーレの賣立の目録を

二冊送つて來たが、繪のではなかった。」と書いていました。

 ゴッホはミレーの「耕す人」の模写を描こうとし、

1880年11月1日のテオ宛ての手紙に「シュミットさんのところで

ミレーが描いたデッサンの『耕す人』を見つけた。

 

それはブローン氏によってプリントされた複製写真だった。

シュミットさんは私にそれを貸してくれた」と書きました

(しばらく後にゴッホはミレーの銅版画の

「耕す人」を入手する事が出来ました)。

 このように複製版画は情報が少なかった時代、

国をまたぐ移動が困難な時代に美術のマニア

や画家のみならず、一般の人々にもバルビゾン派の芸術を知ってもらう役目を果たしたのでした。
 

------------------------------------------

 

 

【川辺の風景】

シャルル=フランソワ・ドービニー(1817~1878)

キャンパスに油彩 47.0×80.0cm


ドービニーの作品に付いて

オランダのゴッホ美術館が当館としても美術史上
とても大事な展覧会を開きました。
それは、「ドービニーとモネとゴッホの風景の印象」と
言うタイトルの展覧会です。

 これは、この題名にあります風景の印象とは
どういうことなのか、それこそ非常
に意味深いものがあります。

 まず印象派の印象と言う言葉が一番大事になります。
そもそも風景の印象とはこの風景は
どう思うかと言うことに発しています。
もちろんご存知のようにモネは正に印象派の代名詞であります。

それにドービニーは印象派の魁と呼ばれます通り
バルビゾン派の画家でありながら印象派にも
多大な影響を与えた画家であります。

ですから印象派と言っても過言ではありません。
それに若い頃のモネやルノアールやシスレーと
言った印象派の代表格を育てた画家であります。

しかしゴッホは違います、
ゴッホはポスト印象派と言われ後期印象派の画家です。

そこにはドービニーやモネとの画家としての接点がありません。
では、なぜドービニーとモネとの風景の印象展なのかと言いますと、
その前に、印象派の名前の由来はモネの
「印象日の出」の作品から来ております。

がゴッホは印象派ではなく印象派の前、いわゆる前期印象派の画家たち
すなわちバルビゾン派の崇拝者なのです。

そのゴッホがバルビゾン派の画家たちの様な
あんな美しい絵を私には描けないと最大限の賛辞を送っています。

特にバルビゾン派の巨匠であるジュール・デュプレには
あの色彩はまるで絵画のヴェートーベンとまで言い切っています。

そしてドービニーについては生涯尊敬していました、
ドービニ‐亡き後ドービニーの住まいがある
オーヴェル=シュル=オワーズで人生最後の時間を過ごし、
70点もの作品を描いたことで知らています.

そして、絶筆の作品であろうと言われます
「ドービニーの庭」と言う作品を
2点描いております。そのゴッホが
ポスト印象派と言われ印象派とは
まるで違った作品を展開しております

表現主義的な激しいタッチでありながら筆運びは
或る意味整然と色彩を華やかに色合いで
並べたキャンバスになっております。

ゴッホは弟テオに宛てた手紙では私には
バルビゾン派のあんな美しい絵は描けないが
私の絵として自分の絵を描いてゆくと言っております通り
その時には日本の葛飾北斎の浮世絵からヒントを得て
北斎の特徴をすっかり自分の絵にしているのです。

そうまさに印象派から脱却した絵を描いております。
ドービニー、モネ。ゴッホは或る意味非常に関係が深いのです

それらは作品に対する感覚の鋭さは同じでキャンバスに対する
自覚した色彩のタッチそれぞれの印象の表わし方の違いだけなのです。

 この前期印象派から印象派そして後期印象派と
言われるポスト印象派への移り変わりの変化を
特徴付けている展覧会でした。

その中に会ってドービニーの作品がいかに
彼らに影響を及ぼしたかが分かるほど素晴らしい作品群でした。

半分以上のドービニーの作品は圧巻で
ドービニーが果たした役割は絵画史上
特記されるべきものでありましょう。

ドービニーのこの作品は
淡い光を帯びて照らす川面の情景の静かさと沈みゆく
陽の名残りの色合いを暮れなずむ丘の樹陰が
しっかりと堅牢な空気感を浮かび上がらせている。

まさにドービニーの真骨頂の作品です

 

********************************************

 

【遠くに風車の見える収穫する農夫のいるモンマルトル風景】

ジョルジュ・ミシェル(1763-1843)

キャンバスに油彩 59.2×73.5cm

政治家でもあり、ロマン主義文学の指導者でもあった

シャトーブリアンは、18世紀の末に、早くも芸術家たちに、

自然の中へ出て行って、自然から直接学ぶことをすすめていた。

 

彼は同一の風景を一日の異なった時間に、

同一の風景を異なった季節に描くことをすすめていた。

彼の忠告はイギリスのコンスタブルやターナー、

フランスのバルビゾンの画家たちの絵によって具現されるが、

彼らよるも早く、同一の場所を様々な時間帯に、

さまざまな角度から、自然に即して描いていた画家がいた。

 

モンマルトルに住み、心にしみる荒涼たる

モンマルトル風景を数多く残したジョルジュ・ミシェルである。

若い頃から17世紀オランダ風景画家たちに

ひかれていた彼は、つくりものではない、

現実的な風景を最初に描いたフランス人といわれている。

 

時代に先行しすぎていた彼は、生存中はほとんど世に受け入れられず、

死後、ルソーとデュブレによってはじめて、正当な評価を与えられたという。

彼の絵には、初期の作品を除いては、

サインが入れられていない。「私は自分の絵にサインをしない。

 

絵はそれ自身で語らなければならないから」と言明していた

ミシュルの絵は、彼の時代の中で、際立った特徴をみせている。

 

光りを含む黄褐色の色調、荒々しい筆致、

風車のあるモンマルトル風景、どれひとつとりあげても、

十分にサインの役目をするものであった。そしてそれゆえに、

当時のアカデミーに受け入れられるものはなにもなかった。

 

彼はほとんどモンマルトル付近の風景しか描かなかったが、

自分のすべてを描くためには、丘へ登り、そこからつづく

小さな森の中を歩き、その近郊を訪れるだけで十分だと信じていた。

 

1810年頃からはサロンへの出品もやめてしまうが、

彼の絵はその後ますます力強くなっていったといわれている。

 

彼の絵は、1879年にルーヴル美術館に抑え入れられ、

近代風景画の先駆者として名を不滅のものとした。

 

バルビゾンでの制作はしていないが、

バルビゾン派の画家、バルビゾン派の先駆者ともいえる。

飯田昌平著・バルビゾンの画家たち 村内美術館名品選より。
 

***************

19世紀の優れた版画彫師による

バルビゾン派巨匠版画作品展

【彫師一覧】

 

彫師・・・版画を制作する際、
画家本人が行う場合と専門の彫師が行う場合とあります。
一般的には彫師が彫って擦る場合が多いです。

 

制作

・ルフォ-ル作LEFORT(1825-)
・ジュール・アドルフ・ショベ Jules-Adolph CHAUVET(1828-1898)
・テオフィル・ショヴェル作 Theophile Chauvel"(1831-1891)
・ダマン作Benjamin-Auguste-Louis・DAMMAN(1835-1925) 
・G.グル―作G.GREUX(1838-1919)
・ラギ-ユレルミ-作Frederic Auguste LAGUILLERMIE(1841-1934)
・A.ブラ-ルAuguste BOULARD Jr.(1852-1927)
・ジャナン Frederic=Emile JEANNIN(1859-1925)
・19世紀ジョルジュ・プチ画廊
(フランス1877年からバルビゾン派や

印象派の画家たちに貢献して1933年閉店)
・レシニュ作L,LESIGNE
・ブソ-作BOUSSOD グ-ビル商会関係者
(19世紀のフランスで活動した美術商会社)
・ロドリゲス RODORIGUEZ
・クロ-ド・フェヴル Claude FAIVRE


(1)画家名  コロ-(1796-1876)
   作品名  ワジェ通り
   種類    エッチング
  シ-トサイズ 39.6×43.0cm                
   彫師   F-E・ジャナン Frederic=Emile JEANNIN(1859-1925)
       〈左下に”コロ-作画”、下部中央に”ドゥエ-近くのワジェ-ル通り”、
        右下に”F.Eジャナン彫版”の文字有り〉



(2)画家名 コロ-(1796-1876)
   作品名 イタリア風景
   種類  ヘリオグラヴュール
   シ-トサイズ  40.2×29.6cm
   彫師  作者不詳



(3)画家名  コロ-(1796-1876)
   作品名  夕景
   種類   エッチング 
   シ-トサイズ  18.7×26.2c
   彫師  テオフィル・ショヴェル作(1831-1909)
        〈作品下部左に”C.コロ-作画”、下部中央に題名、
        下部右に”T.ショヴェル彫版”の文字あり〉    



(4)画家名 トロワイヨン(1810-1865)
   作品名 家路に就く羊飼い      
   種類  エッチング(1884年作)
   シ-トサイズ  28.8×41.0cm
   擦師 G.グル―作G.GREUX(1831-1891)
       〈作品下部左に”トロワイヨン作画”

下部中央に題名、下部右に”グル―彫版” の文字あり〉  

          

【5】画家名 ジュ-ル・デュプレ(1811-1889)
   作品名 近づく嵐
   種類  エッチング 
   シ-トサイズ  29.6×41.2cm
   擦師 G.グル―作G.GREUX(1831-1891)
       〈作品下部左に”デュプレ作画”、

下部右に”グル―彫版”の文字あり〉


 
【6】画家名 ジュ-ル・デュプレ(1811-1889)
   作品名 千し草を積んだ荷車
   種類 エッチング(1879年作) 
   シ-トサイズ 26.4×39.5cm
   擦師 テオフィル・ショヴェル作Theophile CHAUVEL(1831-1909)
   〈作品下部左に”デュプレ作画”、下部右に”Th.ショヴェル彫版” の文字あり〉



【7】画家名 ジュ-ル・デュプレ(1811-1889)

   作品名 潮流
   種類  エッチング 
   シ-トサイズ 25.5×33.5㎝
   擦師 ルフォ-ル作LEFORT(1825-)
〈作品下部左に”デュプレ作画、下部右に”ルフォ-ル彫版”の文字あり〉


    
【8】画家名 ジュ-ル・デュプレ(1811-1889)
   作品名 水飲み場
   種類  エッチング
   シ-トサイズ 27.5×18.3cm
   擦師 ラギ-ユレルミ-Frederic Auguste LAGUILLERMIE(1841-1934)
〈作品下部左に”デュプレ作画”、下部右に”ラギ-ユレルミ-彫版の文字あり〉


【9】画家名 テオド-ル・ルソ-(1811-1867)
   作品名 フォンテ-ヌブロ-の池
   種類 エッチング(1876年作)
   シ-トサイズ 30.0×42.0cm
   擦師 テオフィル・ショヴェル作(1831-1909)
       〈作品下部左に”TH.ルソ-作画”、下部中央に題名、
        下部右に”T.ショヴェル彫版”の文字あり〉



【10】画家名 シャルル=エミ-ル・ジャック(1813-1894)
   作品名 水飲み場
   種類  ヘリオグラヴュール 
   シ-トサイズ 22.3×17.2cm
   擦師 ジョルジュ・プチ画廊版(フランス1877年から

バルビゾン派や印象派の画家たちに貢献して1933年閉店)


   
【11】画家名 ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
   作品名 ブドウ畑の休息
   種類  エッチング 
   シ-トサイズ 26.5×37.4
   擦師 レシニュ L.LESIGNE作

〈作品下部右に”レシニュによる彫り”の文字あり〉

 

 


【12】画家名 ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
   作品名 薪拾い
   種類  ヘリオグラヴュ-ル  
   シ-トサイズ  39.3×38.8cm
   擦師 ショヴェ作Jules-Adolph CHAUVET(1828-1898)

〈作品下部左に”J.F.Mの版上サイン”、

下部中央に”J.Chuvetによるヘリオ”の文字あり〉


【13】画家名 ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
   作品名 休息する羊飼い
   種類 エッチング(1865年作)
   シ-トサイズ 29.3×42.3cm
   擦師 ダマン作Benjamin-Auguste-Louis DAMMAN(1835-1925)
   原画: グレヴィルの断崖、パステル、

43.7×54㎝1871年作大原美術館蔵



【14】画家名 ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
   作品名 洗濯する女
   種類  ヘリオグラヴュ-ル  
   シ-トサイズ 28.8×20.6cm
   擦師 ブソ-作BOUSSOD(グ-ビル商会関係者)




【15】画家名 シャルル=フランソワ・ドービニー(1817-1878)
   作品名 水飲み場
   種類  エッチング(1889年作)
   シ-トサイズ 25.4×38.0cm
   擦師 A.ブラ-ル作Auguste BOULARD Jr(1852×1927)
〈作品下部左に”ド-ビニ-作画”下部右に”ブラ-ル彫版”の文字あり〉 



【16】画家名 ジュリアン・デュプレ(1851-1910)
   作品名 囲いの中
   種類  エッチング(1890年作)
   シ-トサイズ 28.4×39.0cm 
   擦師 ロドリゲス作RODORIGUEZ
       〈作品下部中央”ロドリゲス エッチング。

下部右上に”ジュリアン・デュプレ”の版上サインあり〉



【17】画家名 オット-・ウェバ-(1832-1888)
   作品名 放牧
   種類  エッチング(1889年作) 
   シ-トサイズ 27.1×36.5cm
   擦師 クロ-ド・フェヴル作 ClaudeFAIVRE
       〈作品上部に”オット-・ウェ-バ-”、下部左に”

   

CL.Faivre"(クロ-ド・フェヴル)彫版、下部右下に”
        A.サルモンとアルダイユ印刷所の文字あり〉
   *** Otto WEBER 1832年ベルリンに生まれ、
            1888年ロンドンにて没。
            ドイツの画家。
       フランスのポンタヴェンのブルトン村で制作をした最初の
       画家の一人であった。

 

【バルビゾン派】
バルビゾン派(バルビゾンは、École de Barbizon)は、
1830年から1870年頃にかけて、フランスで発生した絵画の一派である。

フランスのバルビゾン村やその周辺に画家が滞在や居住し、
自然主義的な風景画や農民画を写実的に描いた。1830年派とも呼ばれる。



ミレー『落穂拾い』(1857年、オルセー美術館)などが有名

【主な画家】
コロー、ミレー、テオドール・ルソー、トロワイヨン、エミール・ジャック、
ディアズ、デュプレ、ビクトール・デュプレ(弟)、ドービニー、の
9人が中心的存在で、「バルビゾンの七星」と呼ばれている。

広義にはバルビゾンを訪れたことのある
あらゆる画家を含めてそのように呼ぶこともあり、総勢100人以上に及ぶ。

なお、写実主義の画家と位置づけられるクールベは
バルビゾン派には含まれていないが、
同派と交流しフォンテーヌブローを描いた作品もあることから、
関連する重要な画家と位置付けられている。



バルビゾンの画家達
フランスの19世紀は激動の時代であった。
ナポレオンの帝政、ブルボン王朝の復活、
七月革命、七月王政、2月革命、共和政府の樹立等が相次ぎ、
さらに産業革命が急速に進行して、人々の生活を根底から覆していた。

その激動の時代に、自分の手で自分の道を切り拓き、
今もなお多くの人々に愛され、親しまれている名画を残した画家たちが輩出した。
彼らはそれまでのフランス美術にはあまり見られなかった、
田園風景、働く人々、牛や馬や羊をありのままに描いて、画壇に新風を巻き起こした。

 彼らはパリ郊外、フォンテーヌブローの森の片隅にある
バルビゾンの村を根城とし、勤勉、自由、平等、友情を尊んで、
自然に囲まれて素朴な人生を送った。バルビゾンの村は
人口300足らずの小さな農村であったが、彼らを慕って
多くの若い画家達が押し寄せ、画家の村を形成した。

 彼らは個性を重んじ、派閥を作ることをしなかったが、
当時の新古典主義派の過度な理想化を捨て、
ロマン主義派の誇張を排し、観たものをありのままに
描く自然主義の立場をとった。併し彼等の試みた仕事は
ひとつの主義に収まるものではなく広範囲に及んでいるため、
彼等は彼らの愛した村の名前に因んで、
バルビゾンの画家と呼ばれて親しまれている。

ルソー、ミレー、コロー、ディアズ、デュプレ、
トロワイヨン、ドービニー、ジャック、らがその中心であり、
クールベ、ドーミエ、ドカンらも彼らの仲間に入れられている。

[バルビゾン派]と言う呼び名を採用したのは
イギリスの画商でバルビゾン派を広めた
ディビット・クロール・トムソンである。

彼は1890年ロンドンで
「画家たちのバルビゾン派」と言う本を著した。
それから[バルビゾン派]と呼ばれるようになった。

因みにディビット・クロール・トムソンは
パリの画廊ブッソ・バラドン商会のロンドン支店、
グービル画廊の支配人になっている。

その時に彼は1885年にファン・ゴッホと
弟のテオをやといいれていた。

【バルビゾン派の代表的な作家たち】

● ラザール・ブリュアンデ (1755-1804)
● ジョルジュ・ミシェル (1763-1843)
● ジャン・バプティスト・カミーユ・コロー (1796-1875)★
● カミーユ・フレール (1802-1868)
● アレクサンドル・カブリェル・ドカン (1803-1860)
● ポール・ユエ (1803-1869)
● ナルシス・ヴィルジール・ディアズ・ドラ・ペーニャ (1807-1876)★
● オノレ・ドーミエ (1808-1879)
● コンスタン・トロワイヨン (1810-1865)★
● ジュール・デュプレ (1811-1889)★
● ピエール・エティエンヌ・テォドール・ルソー (1812-1867)★
● ニコラ・ルイ・キャバ (1812-1893)
● シャルル・エミール・ジャック (1813-1894)★
● ラヴィエ・オーギュスト・フランソワ (1814-1895)
● フランソワ・ルイ・フランセ (1814-1897)
● ジャン・フランソワ・ミレー (1814-1875)★
● シャルル・ルルー (1814-1895)
● アントワーヌ・シャントルイユ (1816-1873)
● レオン・ヴィクトール・デュプレ (1816-1879)★
● シャルル・フランソワ・ドービニー (1817-1878)★
● ギュスターヴ・クールペ (1819-1877)
● アンリ・ジョセフ・アルピニー (1819-1916)
● オーギュスト・ポール・シャルル・アナスタジー(1820-1889)
● ユージェーヌ・アントワーヌ・サミュエル・ラヴィエイユ (1820-1899)
● ロジイエ・ジュール・シャルル (1821-1882)
● アレクサンドル・ドフォー (1826-1900)
● トルイユベール・ポール・デジレ (1829-1900)
● シャルル・フェルディナン・セラマノ (1829-1909)
● ジャン・フェルディナン・シェノー (1830-1906)
● レニェ・ジャン・エミール (1835-1910)
● ルイ・エメ・ジャピィー (1840-1916)
● イボリット・カミーユ・デルピィー (1842-1910)
● カール=ピエール・ドービニー(1846-1886)
● レオン・リッシュ (1847-1907)
● ピエール・エマニュエル・ダモア (1847-1916)
● ジュリアン・デュプレ (1851-1910)
● ジャン=バティスト・ジョルジュ・ガシー (1829-1919)