ムッチーの禁煙日記3 -3ページ目

原田マハにハマる

 先週のこと。図書館で本を物色していると、どこかのおじいさんがふらふらと歩いてきて、よろよろとよろけて僕にぶつかったのです。突然の事でした。
「おや、失礼しました」
「いえ、大丈夫ですか」
 と、幸いお互い怪我はなかったのですが、その時僕がとっさに掴んだ本があったのです。
 
 それが原田マハ著『ごめん』と『楽園のカンヴァス』という本でした。それで、「これも何かの縁」と、借りて読むことにしたのです。

原田マハ/ごめん 楽園のカンヴァス

 原田マハ氏の作品を読むのは初めてでした。まずは『ごめん』から読むことにしました。
 『ごめん』は四編からなる短編集です。一話目『天国の蝿』の冒頭、野草を摘む母子が描かれています。しかも他人の田んぼの中です。その摘んだ野草を夕飯のおかずにするという設定です。その描写一発で原田マハにハマってしまいました。
 その他にも秀逸な短編が三篇収められていて、一冊さらりと読むことができました。
 
 つぎに『楽園のカンヴァス』です。僕はこの本の表紙を見ただけで、この物語が良作だということを確信しました。なぜなら、表紙に使われているのがアンリ・ルソーの絵だったからです。何を隠そう、僕は三十年来のアンリ・ルソーのファンなのです。
 ルソーの素晴らしさについて、ここで語りたいのはやまやまなのですが、とても長く熱くなりそうなので涙を飲んで割愛します。彼の絵画の素晴らしさについては本書でマハ氏が十分に著しておられます。
 
 読み終えて、やはり良作でした。本書に「この物語は史実に基づいたフィクションです」と断り書きがあるように、当時ルソーと親交があったピカソや詩人のアポリネールが主要キャストとして登場します。
 どこまでが真実で、どこからが作者の創造なのかは、僕には知る由もありませんが、そんな事を考えながら読んでいくと、十九世紀末のパリへタイムスリップしてしまったような感覚に囚われます。ルソーのジャングルのようなアトリエ、そこに散らばった油絵の具やテレビン油も目に浮かぶようです。
 おそらく、マハ氏もルソーが大好きなのでしょう。容易に想像ができます。

 この本は絵画好きの人には是非おすすめの本です。尚且つルソー好きなら必読必携の良書です。絵画にまったく興味のない人でも、この物語の最後の結末を読めば、心が震え、原田マハにハマること間違いないでしょう。

ダウランドを聴きながら(禁煙427日目)

 しかしそこは残酷な世界でした。シェイクスピアの芝居に感心したり、ダウランドの美しい音楽に耳を澄ますことのできるのは、おそらくほんの一部の人だけだったでしょう。
(村上春樹著『1Q84』より)


 僕がジョン・ダウランドに初めて出会ったのはエディンバラでのパーティの席上ではなく、ツタヤでレンタルしてきたオムニバスアルバムの中でした。そのアルバムのタイトルは『おやすみo'clockクラシック』で、その中にジョン・ダウランドの『来たれ深い眠り』というリュート伴奏による歌曲が収録されていたのです。
 あの世に天国があったらきっとそこには清らかなる湖があって、きっとそこにはこんな清らかな音楽が流れているのだろうな、と思わせる、なんとも甘美で切ない歌声でした。
 堪らずamazon.co.jpでダウランドのCDを探しました。そこで購入したのが『ダウランド/リュート伴奏歌曲集』です。
 
ダウランド/リュート伴奏歌曲集

 全26曲が収録されていますが、どれも素晴らしい曲ばかりです。
例えば1曲目の『Come again』はこんな切ない詩をリュートに乗せて歌い上げます。

おいでもう一度 今 甘美な愛が
遠くなったあなたの魅力を招いている
私に相応な喜びを与えるために
無上の甘美を共に感じながらあなたと再び
見つめあい 声を聞き 触れあい 口づけし ひとつになるために

おいでもう一度 そうすればあなたの非情な侮蔑にも
私は嘆かなくてもすむだろう
今私はひとりとり残され 見捨てられて
死ぬほどの苦しみと はてしないみじめさのうちに
腰を落とし 嘆息し すすり泣き 気は遠く死にそうだ

 
  2曲目は、『あふれよ、我が涙』


ジョン・ダウランドはイギリスの作曲家でリュート奏者でした。彼が活躍したのはヨハン・セバスティアン・バッハより前の16世紀末から17世紀初めのルネサンス末期です。J.S.バッハ以前にこんな素晴らしい音楽が存在した事が驚きです。

 でも本当に良かったです。偶然でもジョン・ダウランドに出会えて本当に良かったと思います。これで僕の人生の何割かが快適になった事は間違いありません。少なくともダウランドを聴けないほど、僕の人生は残酷ではなかったという事です。

 最近では寝る時も新聞読む時も走る時もダウランドを聴いています。昨日ふと、このCDの素敵な歌声はどんな女性が発しているのだろうと思い、ちょっと調べてみたら、「カウンターテナー:スティーヴン・リッカーズ」


スティーヴン・リッカーズ

 カウンターテナー、つまり男声でした。歌っているのが男性と知り、少し興醒めの九月の朝。でも、ジョン・ダウランドの素晴らしさは変わらないのです。

ウナギよ、さらば

 2009年某月、塚本勝己教授はニホンウナギの産卵場所を探すため、学術研究船『白鳳丸』にのって太平洋上にいました。

 ニホンウナギの産卵場所は長年の謎でした。調査を始めた頃は、日本近海だと思われていました。それが、沖縄、台湾沖、フィリピン沖と、だんだんと推定場所が南下していったのです。  調査中、白鳳丸を何度も台風が襲いました。その度に調査を中断し退避しなければならないので、貴重な調査期間がどんどんなくなっていきました。このままでは、産卵場所を見つけることが出来ません。 
 困った彼は賭けに出ました。産卵場所を北赤道海流の塩分フロントと海嶺が交差する付近と予測したのです。塩分フロントとは、ハワイ沖からの強い蒸散作用を受けた高塩分水と熱帯特有の降雨がもたらす低塩分水の境目で、海嶺とは海底山脈の事。  
 
 その付近をピンポイントで調査する事に彼は賭けたのです。名付けて『ハングリー・ドッグ(飢えた犬)作戦』。飢えた犬が嗅覚を働かせ餌まで最短距離で辿り着くように、彼はそのポイントに船を進めました。
 そして4回目の網でついに、孵化直前のニホンウナギの卵を採取する事に成功したのです。
 
 日本から2000km以上離れたグアムに近いマリアナ諸島西方海域での事でした。
 
 さて、マリアナ海溝付近で産まれたウナギの赤ちゃんはどうやって日本まで辿りつくのでしょうか?その回遊経路や生態はまだはっきりとは解明されてはいませんが、予想されているのは、北赤道海流を西に進み、フィリピン沖で黒潮に乗りかえ日本沿岸に至る経路です。その間、3~4ヶ月。距離にして約5000kmと考えられています。
 やっと日本の河川に辿りついたウナギの赤ちゃんたちを待ち受けているのが、シラス漁師たちです。満ち潮に乗って川に上ろうとするシラスウナギを一網打尽にします。シラス漁師たちの一晩の稼ぎは、最盛期で一晩に数十万だったとか。シラス漁師たちは目の色を変えて、シラスウナギを獲り続けました。
 ところが、1960年代に200㌧あったシラスウナギの漁獲量が、昨年は5㌧、今年で16㌧に激減してしまいました。すごく当然の結果だと思うのですが、驚いた事に、養鰻業界やシラス漁師たちは不漁を嘆いているとの事。
 一網打尽にしたシラスウナギを全部養殖池に放り込み続ける。養殖池で大きくさせられたウナギは産卵することもなく消費者のお腹の中へ消える。それを何年も何年も繰り返し続けていれば、ウナギの数が減るのは子どもでも分かる理屈だと思うのですが、養鰻業界の方の頭の宜しさには感心させられます。
 今年6月、国際自然保護連合(IUCN)がニホンウナギを絶滅危惧種に指定して『レッドリスト』に掲載しました。このままでは2016年のワシントン条約で輸出入の規制対象になるかもしれません。
 業界団体は直ちに痛みを覚悟で自主的規制を定め、ウナギ資源回復に全力を注ぐ事が急務です。行政も、国と自治体が一体となった資源管理のための規制、施策を協議するべきです。
 我々消費者の責任も重く、今までのように資源を食べ尽くすような下劣な消費活動を反省し、限られた資源をどうやって持続可能にできるかを考え、環境への深い配慮のある消費活動をするべきだと思います。

 あなたが昨日食べたウナギについて少しばかり考えてみて下さい。どこで生まれて何処からやってきたのか?
 私たちは私たちの無責任な消費活動によって、ウナギが食べられなくなってしまうかもしれないのです。

ルナの死

今朝の新聞に小学校4年生の魚田あやかちゃんの詩が掲載されていました。(『大切な命』/金魚が死んだ/とても悲しかった/2年もいっしょに過ごしたのに/病気で苦しみながら死んだ/小さくても大切な命)。

一昨日、我が家の猫が死にました。名前はルナ(雌)。16年もいっしょにすごしたのに。

ルナは16年前、ダンボールに入れて捨てられていました。それを娘たちが拾ってきたので我が家で飼うことになったのです。ルナは黒いキジ猫で尻尾が長くチャーミングでとても人懐こい猫でした。誰彼構わず寄って行ってはペロペロ舐めるのです。それが彼女の愛情表現だったようです。人を噛んだことなど一度もありません。とても優しい性格の猫でした。ルナは子供を産むことはありませんでした。飼い始めてすぐに、我々家族の都合で避妊手術を受けさせられたからです。でも、うちの娘たちに可愛がられて幸せだったと思います。晩年は子供達がここを出て行ったのでルナも寂しかった事でしょう。

ルナの最後を僕の知る限り書きたいと思います。それが僕がルナにしてあげられる唯一の弔いだからです。

ルナが死ぬ前日の事です。母(80歳)が夕食を食べてるテーブルの上に、ルナが飛び乗ったそうです。普段はそういう粗相はしないのに珍しい出来事でした。それで母は激怒し罰としてルナを家から締め出したそうです。しかし、普段ならルナは自分で頃合を見計らって帰って来るそうなのですが、その夜は帰って来ず、母もルナが帰って来ていない事に気付かなかったと、後になってポツリポツリ言っていました。

翌朝、玄関の門扉の横でルナが横たわっているのを母が見つけました。すぐにルナに声を掛けて抱き上げたのですが、すでに冷たくなっていたそうです。その上、昨夜から強い雨が降っていたためルナの身体はびしょ濡れだったそうです。どうして死んでしまったのか原因はわかりませんが、かわいそうな最後でした。

ルナの死で一番ショックを受けているのは母です。あの夜、ルナを締め出した事を激しく悔やんでいるようです。ルナが死んで二日が経ちましたが、我が家の玄関はずっと猫が入れる分だけ(15cmほど)開けてあります。僕が無用心だからと玄関を閉めるのですが、気が付いたらまた15cmほど開いているのです。きっと、ルナがいつでも帰って来れるように、母が開けているのだと思われます。

さて、命とは何でしょう?死ぬとはどういう事でしょう?例えば、あやかちゃんの金魚の命と、ルナの命と、明日潰えるかもしれない僕の命と、何か違いがあるのでしょうか?僕の寂しい命なんかはどうでも良いとして、あやかちゃんの金魚の命はあやかちゃんの4行詩の中で命が輝いているし、ルナの命は母の健気な悔恨の中にこそ救われているように思われます。そして、ルナの訃報を知り電話を掛けてきてくれる娘たちの心の中にも、ルナの命や魂は生き続けると信じています。僕もルナのことは忘れません。

ルナ、我が家に来てくれてありがとう。
安らかに眠ってくださいニャー。

辻原登著『夢からの手紙』を読んで

時間はみじかく流れたり、ながく流れたりするものでござりますから、ちょうど最上川の流れに似ておりますゆえ…(『もん女とはずがたり』より)





『夢からの手紙』読了。

時代小説の短編集です。とてもおもしろかったです。私のように時代小説を読み慣れていない無学者でも、解りやすくサクサク読めました。

全6篇収録されてますが、ホラー、コメディ 、ラブロマンス、サクセスストーリー等、ジャンルが多種多様で飽きません。怖いやつはマジで恐いし、おもしろいやつは落語のネタみたいです。

何より文体のリズムが心地いい。次は長編を読みたいです。辻原ワールド、病みつきになりそう。