バカ日記第5番「四方山山人録」

バカ日記第5番「四方山山人録」

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 事実上、日本軍最後の空母にして、当時世界最大の空母、そしてまともに完成・運用していれば間違いなく世界でも類を見ない空前絶後の洋上要塞基地空母だったはずの信濃。その信濃を紹介して、自分の再勉強のためにも始めたこのブログの第二次世界大戦当時日本軍戦艦・空母紹介を終わりたい。

 信濃は、改装空母である。改装されたのは、大和型戦艦3番艦「信濃」であった。大和型戦艦は4番艦まで計画され、信濃は建造番号第110号艦、4番艦は第111号艦と呼ばれた。

 大和は呉、武蔵は長崎で建造されたが、信濃は横須賀だった。ちなみに111号艦は大和のドックを利用してまた呉で起工された。横須賀では呉や長崎と同じく、大和型の船体を建造できる巨大ドックの製作からスタートした。皇紀2600(S15/1940)年4/7起工。完成は皇05(S20/45)年3月末の予定だった。

 皇01(S16/41)年11月、真珠湾を翌月に控え、既に海軍内では米国との戦争に備え建造艦艇の大幅な見直しが行われ、潜水艦と航空機の建造が最優先とされ建造中の大型艦は全て建造中止となった。信濃(このころはまだ110号艦)は船体下部構造の途中までできていたが、信濃より半年後に起工した111号は船底までで工事ストップされた。このころ呉では進水した大和の偽装工事がまだどっさり残っているために呉海軍工廠の力は大和に注がれ、111号は名前も付けられずに呆気なく解体された。もしそのまま建造されていたら「紀伊」だったという説がある。残った資材は、信濃や伊勢・日向の改装(航空戦艦化)にも使われた。

 その後、信濃は「戦艦として建造中止、出渠できるまで工事再開し、すみやかに出渠せよ」という命令が出る。すなわち「邪魔だ」というのである。「解体するには工事が進みすぎており、仕方ないから船体までとっとと造って出てけ」ということである。皇02(S17/42)年10月の船体完成を目指し工事が再開されたが、損傷艦修理優先で資材が回らず、現場の士気もダダ下がりで工事は思うように進まなかった。

 皇02(S17/42)年アメリカが主力・護衛とも空母量産に着手したという情報を得た日本は大鳳、雲龍型の建造を検討。4/18ドーリットル空襲、6/5-7ミッドウェー。日本は主力空母4隻を一気に喪失。商船ほか艦艇の空母改装を優先し、大鳳と雲龍型の建造を即時決定。信濃は船体建造70%まで進んでいたが、いよいよガチで邪魔になってきた。

 おりしも、1基2500トンと駆逐艦1隻分もの重量になる大和型戦艦の主砲を専門に運搬する特殊船樫野が9/4台湾沖で撃沈され、もし戦艦として艤装を行うのであれば呉で製作された主砲を横須賀まで運べない事態に陥った。樫野は武蔵のために呉と長崎を3往復して、他の輸送任務中に撃沈されてしまったのである。そのため、樫野をもう1隻造るか、主砲を細かく分解して他の船で少しずつ運ぶか、信濃を呉まで曳航するかの三択となったが、戦争中であり、費用・時間共にどれも実現性に乏しかった。

 事ここに到り、大和型戦艦3番艦は空母として改装されることに決まった。

 ただし、どのような空母を作るかで上層部に意見の相違があった。このころ研究されていた「アウトレンジ戦法」にのっとり、他空母から飛び立った航空機が、途中で巨大な信濃へ寄り補給して再び飛び立つ、あるいは損傷を受けた空母の艦載機を受け入れる「移動要塞としての洋上基地」とする前代未聞の計画と、普通に超巨大攻撃空母として前線に立つ計画である。

 アウトレンジ戦法はミッドウェーや珊瑚海の教訓で、空母を前に出さないで後方から航空機の長大な足を活かした戦法で、信濃を大鳳と同じく装甲空母とし、大和型の頑丈な船体を活かしてちょっとやそっとでは沈まない不沈空母、また他の空母の艦載機のための予備の燃料弾薬を搭載し要塞空母とする案であった。

 そもそも、そのアウトレンジ戦法に懐疑的な勢力は、とうぜん通常の主力空母として建造するよう主張した。が、結局種々検討の結果、洋上基地として計画が立案された。急ぎ設計され、9月、工事再開。

 ところがこの年はガダルカナル攻防戦があり、多数の艦船が沈み、また損傷を受けその修理に各工廠はてんやわんやとなった。そのため翌皇03(S18/43)年になると損傷艦修理優先、建造は松型駆逐艦と潜水艦優先で、信濃はまたもや工事がストップとなる。それなのに、どういうわけか竣工予定が皇05(S20/45)年2月から1月に早められた。

 翌皇04(S19/44)年、6/19-20マリアナ沖海戦。日本軍が練りに練ったはずの一大アウトレンジ攻撃作戦は、米軍の水も漏らさぬ迎撃態勢の前に大敗北を喫した。米軍は既に空母の大量配備を進行中で、駆逐艦や潜水艦に到るまで高性能レーダーを装備。日本軍を丸裸にしつつ、VT信管付対空弾やF6F戦闘機をもってまさに「七面鳥がごとく」日本軍機を完膚なきまでに叩き落した。「マリアナの七面鳥撃ち」である。

 さらに、日本側の駆逐艦の少なさ(対潜哨戒の限界)の隙を突き、歴戦の翔鶴と最新鋭の大鳳が潜水艦により撃沈される。翌日には洋上補給中を狙われ、200機もの攻撃隊が来襲。飛鷹が沈没。空母3隻ほかタンカー2隻を失い、ほか損傷艦多数の大敗北であった。

 なによりこの敗北で航空隊が壊滅状態となり、生き残った空母も載せる飛行機が無いありさまとなって、機動部隊は崩壊した。すなわち、これから竣工する空母は雲龍型3隻をはじめ、信濃も空母として用をなさなくなってしまった。

 信濃のモデルとなった装甲空母大鳳の沈没は関係者に衝撃を与え、米軍の侵攻に備えて信濃の竣工はさらに5か月も早められて同年10月の予定となり、不眠不休の工事が進んだ。

 とはいえ、いかに戦艦と空母の違いがあるとはいえ、武蔵で19か月を要した艤装作業を3か月で行い、また熟練工が軒並み徴兵にとられて学徒から民間から朝鮮人台湾人女子挺身隊と、ありとあらゆる未熟工員を結集して行われた超超超超吶喊作業は、無理が無いというほうが無理な話であった。防水扉や隔壁の気密試験などの重要な工程を省略に継ぐ省略で工期短縮にはげみ、まさに横須賀の総力を挙げて「形だけ無理やり仕上げた」というに相応しい。

 なんといっても、数万本あるリベット打ちにしても、武蔵では完璧をきすためにリベット打ちの修練からスタートし、数十センチもある巨大リベットを1ミリの狂いも無くまっすぐ打てるようになってから初めて武蔵のリベットを打つことが許された。信濃は、語るに及ばずであろう。

 過労や事故により10名以上も死者を出して、信濃はとにかく水へ浮かべる状態までもってきた。10/5進水。しかしドック内へ注水作業中に単純な人為ミスで想定より早くドックの扉があき、大量の海水が雪崩こんだ。まだ完全に浮いていなかった船体は一気に浮力を得てバランスを崩しワイヤーと麻の150本にも及ぶ係留ロープが次々に切れ、船体が支えを失って泳ぎだしたからたまらない。甲板上にいた海軍技術士官が海面へ落下し、信濃は巨大な艦首や艦尾を何度もドックの内壁へぶつけてバルバスバウとその内部の水中ソナー、スクリューが破損した。

 とにかく運が無いというより、余裕が無いことによる仕事の段取りの不徹底が招いた人災であった。ドックの扉が想定より早く開いたのだが、原因は、ドックの扉内への海水注水を忘れていた。つまり、想定より扉が軽かったため、ゆっくり開くところが浮力を得てボーン! と一気に開いてしまったのである。

 翌日の命名式は延期されたが、10/8正式に110号艦から「信濃」となって横須賀鎮守府所属となった。

 それから再度ドック入りし、111号艦の資材を流用して修理した。10/23に修理完了し、横須賀沖合で係留された。竣工は1か月後の11/19であった。日本軍最後の空母竣工となった。しかし、見た目だけで、内部や外装はまだまだ工事中であった。

 竣工までの間、航行試験を兼ねて航空機の着艦試験を行った。外洋に出るのはもはや危険とし、東京湾内で行われた。その際の、貴重な写真が伝わっている。これは戦後30年も経って発見、公表されたもので、それまで信濃はイラストくらいしか存在しない幻の空母だった。また、偵察型B-29が高高度よりとらえた写真も残っている。

 

 

 唯一、信濃の全体像の分かる貴重な写真。11/11の東京湾での公試。

 

 

 B29のとらえた写真。米軍も戦後になってこれが信濃だったと分かったという。それまで、何の船だか認識していなかった。


 試験では横浜の本牧ふ頭沖から対岸の木更津冲まで航行しながら行われたが、信濃の速度が速く思ったより短時間で対岸へ到達してしまったため、何度も往復して行われたという。11/11に零戦、天山のほか、翌11/12には紫電改の艦載型開発を想定した試製紫電改二、流星、彩雲の着艦試験に成功した。
 
 さて超巨大要塞空母信濃であるが、まず形状は大鳳型をモデルにした大きな艦橋と一体化した斜形煙突が分かる。ただし、戦艦からの改装であり艦首と甲板が一体化したハリケーンバウではない。艦首と甲板の間に、他の日本軍空母と同じく隙間があるので見分けられる。

 

 

 艦橋と煙突はこの大鵬を踏襲しているが、信濃はハリケーンバウではなく艦首と甲板に隙間がある。


 その艦首はまた、大和型そのままなので、大和・武蔵に詳しい方ならそれで判別できるだろう。

 

 

 

 艦首形状をよく見比べてほしい。同じ船型であることが分かる。


 背の低さにも注目いただきたい。結局、洋上要塞空母として建造された信濃は、自身の艦載機搭載数は軽空母並みの45機前後で、残りのスペースは他空母艦載機の補給用の航空燃料や魚雷、弾薬の保管にあてられた(はずだった)。すなわち格納庫が狭く1段式で小さかった。ただし、日本軍の空母に多い密閉式ではなく、被弾した時に爆風を逃がす開放式であった。

 戦艦の船体はむしろ幅が大きくそのため甲板もかなり広いのだが、船体そのものは隔壁や装甲、その他構造の関係で格納庫が収まりきらず、同じ大きさの最初から空母設計の艦と比べると格納庫が上にはみ出るほかはないのである。同じく戦艦から改装された赤城・加賀を参照すると、両艦は2段式格納庫が船体から半分もはみ出て異様に背が高くなっていることが分かるだろう。

 

 

 赤城(プラモ) 船体から2段式格納庫がはみ出て、船体の高さの倍にもなっているのが分かる。

 

 

 同じく加賀。船体と甲板を支える柱の長さが半端無い。異様に背が高いのが分かる。

 

 

 飛龍と比較する。格納庫は同じく2段だが、船体に収まって背は低い。船体が最初からそう設計されている。

 

 

 翔鶴とも参考。2段式格納庫が船体に収まり、背が低い。


 甲板には大鳳と同様に甲鉄の装甲が施され、500kg爆弾の直撃に耐えられた。また船体も空母としては充分すぎるほどの重巡並の装甲を有していた。大鳳沈没の戦訓により、航空燃料庫周辺にはコンクリートを充填した。

 すなわち、もし信濃を赤城・加賀と同じく2段式格納庫にした場合、重心が高くなりすぎて装甲甲板の重さで容易に転覆する危険があったのである。そのため、信濃の1段式の狭い格納庫は設計構造上の産物でもあった。

 

 

 もう1回信濃。背の低さは通常空母並だが、戦艦改装なので格納庫が1段式なのである。


 大和型に相応しく艦内は異様に広く、複雑を極め作業員が迷子になり自分の作業箇所までたどり着くのに半日かかったこともあったという。大和・武蔵でも、兵員が艦内位置構造に熟知するまで相当(少なくとも1年以上)の時間を要していたという。

 不思議なことに、弾薬、魚雷、航空燃料搭載予定量は巨体のわりにやけに少なく、翔鶴型や雲龍型より少なかった。これでは洋上要塞基地空母として機能せず、かといって攻撃型主力空母というでもない中途半端な仕上がりで、もはやなんのために信濃が建造されたのかよく分からない。膨大な時間と資材と人員をかけて、無用の巨大(造りかけ)戦艦をもう本当にどうしようもなく空母にしてみました的な、日本軍末期の混乱を表している。

 それでも、とにかく11/19に海軍へ引き渡された。しかし、10/23-25に行われたレイテ沖海戦により、海軍は機動艦隊はおろか聯合艦隊が事実上壊滅してしまう。くわえて、11/15小澤司令は正式に機動部隊を解散してしまった。

 さて、書類上竣工したとはいえ信濃は残工事が山ほど残っており、とても完成品ではなかった。まず対空火器類がほとんど取り付けられてなかったし、内装工事もぜんぜんできていなかった。試験航海中も内部は溶接機器の電源コードが張り巡らされ、工事が続けられていた。なにより、機関12基の内8基しか動いておらず速度が最大27ノット中20ノットほどしか出なかった。

 さらに、このころ横須賀上空を偵察用B-29が飛来しており、空襲が近いと判断された。また徴用工だらけの横須賀では、残りの工事の出来具合も心配だった。

 それらを複合的に勘案し、呉でも「信濃の残工事は任せろ」という頼もしい回答があったので、呉へ回航させることが決定。このことが、皮肉にも信濃の運命を決定的に左右した。

 11/25 1400過ぎ、駆逐艦3隻(浜風、磯風、雪風)がレイテで傷ついた戦艦長門を護衛して横須賀到着。そのまま信濃の護衛に就く。たかが横須賀から呉へ行くのにこの3隻が多いのか少ないのかは、状況にもよるだろうから判断がつかない。しかも、浜風と磯風はレイテでの傷が癒えておらず、乗務員も休暇なしのまま任務に就いており見張りが不充分であり、水中ソナーも故障していた。そもそも、日本軍の対潜探知能力より、米軍潜水艦の索敵能力のほうがはるかに上だった。さらに台湾沖で戦艦金剛と共に駆逐艦浦風が撃沈され、第17駆逐隊司令が戦死、同駆逐艦隊は司令官不在のままだった。

 11/28 1330艤装工事要員約1000名を乗せ、内部工事を続けながら信濃は横須賀より呉へ向けて出発。ついでにロケット特攻兵器桜花(燃料・弾薬無し)を(一説には50機)輸送した。長門では総員甲板で帽を振り見送った。信濃でも返礼した。

 湾内で時間調整し、夜間に航行すべく1830 4隻は外洋へ出る。上述の通り信濃は機械室や機関で工事が続けられており、ボイラー出力は2/3で速度は20ノットほどだった。

 そのころ、米潜アーチャーフィッシュが静岡県浜名湖沖で撃墜されたB-29搭乗員救出任務を終え、商船を求めて東京湾へ向かっていた。従って、信濃隊とすれ違う格好となる。米軍は潜水艦にすらレーダーを搭載し、敵を探知していた。レーダー員の「島が動いています」という報告で、2048同潜水艦は信濃を発見。潜望鏡で確認するも、甲板上に航空機が無かったため巨大タンカーと考えたが、余りにも大きいのでとにかく追尾することにして反転浮上、艦尾方向に信濃が見えるように先を行った。

 艦首形状や格納庫の存在を確認し、同潜は信濃を空母と確信。また信濃側でも浜風が不審潜水艦と思しきマストを発見、接近する。3000mまで接近され、同潜は追跡を諦めて潜水離脱する直前まで追いつめられるも、信濃側でも「敵潜水艦を深追いして警備陣に隙間を空けないこと」が前もって通達されており、信濃から追跡中止、引き返せの発光信号。浜風は戻り、同潜は胸をなでおろす。

 2245信濃は右前方に浮上して航行する同潜を発見。浜風及び磯風が砲撃許可を求めるも、夜間に発砲してもしほかに敵潜水艦がいた場合にこちらの位置を知られるのを恐れ、信濃艦長阿部大佐は許可しなかった。同潜側でも信濃よりの発光信号を視認し、攻撃を覚悟したという。

 同潜はあまりに信濃が大きく、逃げられる可能性も考慮し2330無線傍受を覚悟で米潜水艦司令部へ増援を求める無線を発した。アメリカ潜水艦隊司令部の返電は「追跡を続けよ、ジョー、成功を祈る」で、ニミッツ提督司令部からは「相手は大物だ。君のバナナは今ピアノの上にある。逃がすな」だった。しかし、けっきょく応援は来ず、同潜は単独で信濃を狙うことになる。

 同潜は信濃隊の前方に位置しており、魚雷を発射する位置にどう移動するかが問題だった。しかも、信濃は20ノットで航行しており、同潜の最大速度は19ノットだったので、そのうち追い越されて逃げられる可能性が高かった。

 ところが運命はとことん皮肉である。その無線を傍受した信濃隊は敵潜水艦ありとして之字運動(ジグザグ航行)に移行。同潜が容易に追いつける状態となった。しかも、11/29  0000ころ信濃の右舷スクリュー軸受が過熱し、速度を18ノットに落とした。信濃では同潜の存在をつかんではいたが、位置まで特定できていなかったので対処できなかった。

 11/29 0313浜名湖南方176km地点にて、ついに同潜は信濃右舷へ向けて6本の魚雷発射。内4本が命中。たちまち浸水し、右舷傾斜。直ちに左舷注水して傾斜回復、そのまま速度を落とさずに20ノットで離脱したため同潜は追いつけずにとどめを刺せなかった。また駆逐艦から爆雷が投下されたが、位置を知られていない同潜は無事だった。

 さて信濃であるが、何といっても艦内はまだまだ工事中である。溶接用の電気配線が床を到るところに這いずり回り、防水ハッチが閉められないという有様であったのだから、浸水が止まるはずも無かった。

 くわえて、ど素人に近い新人乗組員に、そもそも工作作業員では適切なダメージコントロールを期待できるはずも無く、防水ハッチを閉める訓練すら省略されていたため閉め方が分からなかった。また迷路のような艦内で右往左往するばかり、被害個所にそもそもたどり着けない。舷側に食らった魚雷の衝撃で艦首のリベットが外れて浸水する、かろうじて閉められたハッチは2センチも隙間があって水漏れする、隔壁の水密試験が未実施で水漏れするという、目も覆いたくなる惨憺たる状況であった。当然、どんどん傾斜が酷くなる。

 それでもなんとか注排水指揮所の指示でさらに左舷注水し、傾斜は若干回復したが、注水弁故障でそれも断念。和歌山県潮岬方面へ向けて傾斜したまま航行するも、0500ころタービン停止。蒸気を水へ戻す復水器が故障して真水が欠乏し、0800ころには洋上で完全に立ち往生した。海水でボイラーを焚く案もあったが、多大なダメージをボイラーに与えるため見送られた。

 信濃被雷の報告を受けた海上護衛総司令部では緊急曳船の手配をしたが、関西方面からどれだけ急いでも数時間かかる距離だった。阿部艦長は工廠作業員(内装工事関係者)総員甲板上がれを命令したが、どういうわけか総員甲板上がれとして伝わり、乗員全員が甲板へ上がってきた。そのため、浸水復旧作業員まで作業を放棄して甲板へ出てきた。皮肉にも、そのために多く乗員が助かった。

 信濃では各駆逐艦に曳航命令を出したが、なにせ大和型の船体である。しかも傾斜し抵抗が大きい。駆逐艦2隻で曳航を試みたが何度もワイヤーが切れて断念した。阿部艦長自身が艦首で曳航作業を指揮した。

 

 この際、切れたワイヤーがはね上がって、1人、駆逐艦兵員の首を切断したという。

 

 この時点で既に右舷甲板が水に洗われており、いつ転覆してもおかしくなかった。甲板の乗員は格納庫排水作業に戻った。0830注排水指揮所が水没。最後まで排水作業をしていた指揮所要員9名が水死。注排水が不可能となった。

 曳航断念と注排水停止により、沈没は決定的となった。0932昭和天皇の御真影をカッターへ移乗し浜風へ移そうとしたが悪天候のためカッターが信濃の右舷バルジに乗り上げて転覆した。1025傾斜が35度に及び、軍艦旗降下。1027総員退艦。しかし艦内放送設備が故障しており、艦全体に命令が行き渡らなかったという。

 1057ころ、信濃は和歌山県潮岬冲48kmで右舷に転覆。完全にひっくり返って浮力を失い、ゆっくりと艦尾から沈んでいった。竣工から10日後、初出港から17時間後であった。日本軍で最も竣工から沈没まで短い船だった。

 低温海水と波浪により多数の乗員が行方不明となったが、燃料と弾薬のない桜花が多数プカプカと浮き上がり、それへ捕まって助かった乗員も多かった。皮肉なことに特攻兵器が多くの命を救った。

 大和と武蔵は沈没地点が特定し海底での様子も判明しているが、信濃はそのまま日本海溝の底約6000mへ沈んだと考えられ、いまもって詳細な沈没位置や海底の様子は不明のままである。

 一方、米潜アーチャーフィッシュは信濃沈没の瞬間をとらえられなかったため、米上層部では「そんなでかい空母がそんな簡単に沈むか」とし、28,000トンクラスの空母撃沈判定で納得させられた。62,000トンクラスの当時世界最大空母を撃沈したことが判明したのは、戦後であった。

おわりに

 戦前、日本は世界へ先駆けて空母を本格集中運用し、大なり小なり25隻もの空母を完成させ、未完成ながらあと4隻建造中であった。間違いなくアメリカに継ぐ空母大国であったし、そのアメリカも日本に対抗して空母を量産した。日本海軍といえば戦艦大和、武蔵が有名すぎて戦艦バカみたいなイメージがあるかもしれないが、私にとっては空母バカ一代である。とにかく空母を海戦の中心に据えてしまったし、アメリカへそれを認識させ、現代にも引き継がれている。マレー沖海戦と真珠湾がなければ、全く違った世界になっていただろう。

 これをもって、自分の再勉強のためにも始めた第二次世界大戦当時日本海軍戦艦・空母紹介を終わりたい。重巡軽巡もやろうと思ったが、きりが無いし気が乗らないのでやめておく。

 また、適当な画像ブログに戻るか、もしかしたらもう完全にTwitterへ移行しブログそのものをやめるかもしれない。(記事は残します)

令和元年8月13日追記

 

 8/11 BS1にて、幻の空母信濃スペシャルが放映された。此のプログすなわちWikipedia等以上の情報は、なんといっても第3の写真の発見であった。日本軍の航空写真に、ドック内の信濃がたまたま写っていたらしい。その大きさ、エレベーターの位置などから、貴重な擬装中の信濃であることが確認された。

 

 また、駆逐艦雪風元乗務員の証言によると、信濃曳航時に切れたワイヤーが天へ向かってはね上がり、浜風だかの兵員に当たって、首を引きちぎった悲劇も起きたという。

 

 信濃生存者の皆さんは、ほぼ当時16歳、17歳。みな悔しかったと証言されていた。一度も戦わず、世界最大空母と云われていても、何もせずに沈んでしまった。このまま、世に知られない幻のままでいいと。

 

 やはり、他の船に比べて、何もせずにやられてしまった負い目があるのだろう。

 

 しかし、私はやはりいろいろと日本海軍の混乱の象徴として、記憶に残さなくてはならないと感じた。良い番組であった。

 

 

 最後に紹介する信濃も事実上は「未完成」であったが、いちおう自力航行も可能で書類上は竣工したことになっていた。本項は、戦局悪化で正式に建造中止となった空母4隻を紹介する。

 笠置

 雲龍型4番艦笠置は、写真を見ても分かる通り「ほぼ完成」していた。進捗率は84%であった。ただ、自力航行は不可能だった。皇紀2603(S18/43)年4/14長崎で起工。機関は天城と同じく改鈴谷型(伊吹型)重巡のものを流用した。竣工は皇05(S20/45)年6月の予定だったが、同年4/1で建造中止命令が出た。建造中止の後佐世保へ曳航され、そこで終戦を迎えた。戦後昭和21年(1946)年9/1解体開始。S22(47)年12/31解体完了した。

 

 

 戦後に米軍が撮影した笠置。甲板の上にやぐらのようなものがあるが、曳航の際の指揮所だそうである。

 


 阿蘇

 雲龍型5番艦阿蘇は、皇03(S18/43)年6/8呉で起工、進捗率60%、船体完成し皇04(S19/44)年11/1に進水したが、11/9これから上部構造の偽装着手というところで建造中止命令。機関は葛城と同じく重巡用も間に合わず駆逐艦用主機を2機搭載し、そのため設計より速度が落ちた。皇05(S20/45)年7/20の終戦間際、陸軍特攻用新型機首搭載爆弾「桜弾」他特攻用爆弾の実験標的艦に使用され、威力は限定的ながら浸水し着底。そのまま終戦。戦後、浮揚に成功しS22(47)年4/26解体完了した。

 

 

 浮揚後に撮影されたもの。

 


 生駒

 雲龍型6番艦生駒は、皇03(S18/43)年7/5神戸で起工、進捗率60%、船体完成し進水直前の04(S19/44)年11/9阿蘇と同日付で建造中止命令。その後、11/17に浸水し、そのまま神戸沖でしばし放置された。生駒は阿蘇までと異なり、搭載機が最初から烈風、流星、彩雲の新型機想定でエレベータ等各部のサイズが一回り大きく計画された。また、爆弾や魚雷の移動装置(機器)も新設計だったという。機関は改鈴谷型(伊吹型)重巡と同じだった(流用ではなく新造の模様)。皇05(S20/45)年4月上旬に小豆島へ疎開。そこで終戦。S22(47)年3/10解体完了した。

 

 

 戦後に撮影。上部構造がまだ無く、煙突がむき出しになっているのが分かる。

 


 伊吹

 真珠湾直前、改鈴谷型重巡2隻の建造が計画され、1番艦は伊吹と命名された。従って伊吹型ともいう。皇紀02(昭和17/1942)年4/24呉で起工。しかしミッドウェーでの主力空母4隻喪失によりほかの艦艇の空母改装や大鳳、雲龍型建造が優先され工事中止。進水したまま係留放置。海軍では伊吹の船体を高速給油艦、水上機母艦、高速輸送船などに使えないかと種々検討したが、けっきょく空母不足を補うために改装空母とすることにした。皇03(S18/43)年11/22佐世保で改装工事開始。

 しかし重巡としてかなり完成してからの改装だったので、主砲塔の取り外しから行うなど、かなり難工事だった。また佐世保では新型軽巡阿賀野型3番艦矢矧や4番艦酒匂の建造、ほか艦船修理などが優先され工事は遅々として進まず、皇05(S20/45)年になってもまだ工事中だった。3/16進捗率80%でついに建造中止。終戦まで放置された。S22(47)年8/1解体完了した。

 なお本艦は重巡から空母へ改装されるさい主機(ボイラー及びタービン)を半分にし、建造予定だった2番艦の分と合わせて余剰となったので空母天城及び笠置へ流用された。

 

 
 戦後、解体のために入渠した伊吹。

 

  

 解体中の伊吹。

 

 雲龍型3番艦、葛城。15隻が計画された雲龍型はこの葛城の完成をもってストップ。4番艦笠置、5番艦阿蘇、6番艦生駒は戦局悪化により建造中止、7番艦鞍馬以降は計画中止となった。

 葛城は雲龍や天城よりさらに物資、人員不足に悩まされ、また建造期間短縮のため様々な工夫が凝らされた。

・対空砲の座台が、製造簡略化のため半円から台形となった。
・防空シールド付き三連対空機銃が4機から2機へ減少。
・主機が重巡用の物すら間に合わず、駆逐艦用を2機連結した。そのため速度低下。空いたスペースには重油タンク増設。
・喫水を10cm浅くしたため、330トン減量している。
・対空墳進砲を8連装から30連装へ強化。
・その他形状の変化。

 皇紀2602(昭和17/1942)年12月8日に呉で起工、竣工は皇04(S19/44)年10月15日、雲龍や天城より2か月遅かった。それでも、起工から僅か1年10か月という、超々吶喊工事であった。

 鹿児島沖で公試運転を行ったが、レイテも終わると戦局はどんづまり。まともに戦える空母群は壊滅し、11/15付で機動艦隊も解散。生き残った空母は聯合艦隊直属となる。とはいえ、雲龍、天城と同じく動かす油にも事欠き、乗せる航空隊も無かったため呉で係留のまま本土決戦に温存されることとなった。

 

 

 鹿児島沖で公試中。


 12月に入り、雲龍が天城の代わりにロケット特攻兵器桜花及び陸軍兵、陸戦兵器等を満載しフィリピン輸送任務へ就くが、19日に米潜レッドフィッシュの襲撃を受けて沈没した。

 翌皇05(S20/45)年、3/19呉空襲で艦橋に被弾、小破。天城と共に呉沖合の三ツ子島へ避難。甲板へ網を張り樹木を植え迷彩艤装する。4/7の大和特攻が失敗に終わると、いよいよ海軍の艦艇は燃料枯渇により身動きもままならなくなる。4/20海軍は残った大型艦を全て予備艦指定。6/1付で残った戦艦及び空母を特殊警備艦(すなわち浮き砲台)へ指定する。葛城は遅れて7/10に特殊警備艦となった。7/24及び7/28の呉空襲で直撃弾及び至近弾数発を受けるものの、前方甲板の一部が吹き飛び甲板も膨れ上がって変形した程度で終わり、浸水して横倒しとなった天城と異なり航行可能なまま終戦を迎えた。

 

 

 呉で空襲を受ける葛城(手前) 奥は龍鳳か。


 終戦時に航行可能だった空母は4隻あったが、そのうち隼鷹は機関故障のまま片軸運転で外洋航海不可、龍鳳も格納庫と甲板の損傷が激しく外洋航海不可ということでそのまま解体された。唯一五体満足だった鳳翔と小破の葛城は、しばしの余生を復員船として奉公することとなった。

 連合国軍の調査と武装解除の後、盛り上がったままの甲板は張り替える余裕はなく格納庫につっかえ棒をして崩落を防いだという。その他、居住性を少しでも上げるために甲板へ通風孔を開け、船体を迷彩から塗り直し、日の丸と英語で KATSURAGI と書くなどして、さっそく昭和20(1945)年12月より第二復員省(旧海軍省)佐世保地方復員局管轄の特別輸送艦(復員船)として運航を開始した。主に駆逐艦や輸送船などが復員船として使われた中、中型とはいえ主力空母の葛城は3000から5000名を一気に運べ、最大の復員船であった。

 

 

 甲板の一部が破壊された。

 

  

 中央部が爆風で膨れ上がっている。 


 大型で、かつ輸送船などと比べてとうぜん高速であり、担当は遠方の南洋諸島であった。本来は空母として訪れるはずだったラバウル、パプアニューギニア、仏印諸島、南大東島、オーストラリアなどを、戦中は瀬戸内海に留まりっぱなしで、戦後に復員船として訪れた。

 

 

 復員船としての葛城。


 1年間で日本と南洋を8往復し、49,390人を運んだ。ボイラーの真水が不足し、外洋で立ち往生したこともあるという。

 

 

 たいへん貴重な、生きている日本空母のカラー映像写真。

 

 

 

 

 復員の様子も生々しい。

 

 


 S21(46)年11月まで復員船として働き、11/20特別輸送艦の指定を解かれた。12/22より解体開始。翌年11/30に解体完了、その身を復興日本の建築資材へ捧げた。

 この様子もカラー映像で残っている。

 

 

 

 

 

 雲龍型2番艦、天城である。天城という艦は3代目で、初代は明治時代の艦だから本稿では取り上げ対象外ながら、2代目は既に記述している。空母赤城及び加賀の項を参照いただきたいが、八八艦隊計画で長門型戦艦の2隻に続いて、長門型を超える規模の大戦艦として、天城型巡洋戦艦と加賀型戦艦の建造に着手していたが、軍縮条約で戦艦の建造が取りやめになり、天城と2番艦の赤城はそれぞれ空母へ改装、加賀と土佐は標的艦として利用後に廃棄されることとなった。

 ところが折しも関東大震災が発生。空母改装中の天城が、乾ドック内で「横倒しになって」しまった。復旧不可能の損傷を受け、急遽廃艦予定の加賀が空母となったのである。

 そのようなわけで雲龍型2番艦の空母に、3代目として天城の名が与えられたが、那須という候補もあったという。

 雲龍型は戦時急増計画として、既に中型空母として優秀だった飛竜の設計図を基に設計され、改飛龍型とも呼ばれる。実現は不可能だったが、雲龍型15隻の建造が計画され、雲龍、天城、葛城まで完成、続く笠置は完成寸前、阿蘇と生駒は船体まで完成していた。その後は、7番艦の鞍馬まで名称決定していたが鞍馬も含め計画中止となっている。

 なお、専用の機関を設計・製造する時間が無く、改鈴谷型(伊吹型)重巡洋艦用の機関を流用した。ほぼ1番艦の雲龍と同時に長崎で建造が進められ、戦争も押し迫ってきた皇紀2604(S19/1944)年8月10日に竣工した。それでも、当初の竣工予定は同年12月だったので4か月も早く仕上がった。1番艦の雲龍が8月6日竣工なので、ほとんど同時に竣工したといってよい。

 

 

 公試中。


 すぐさま横須賀へ移り、雲龍と共に第三艦隊第一航空戦隊を編成。旗艦となる。しかし乗せる航空隊は既に無く、動かす油もおぼつかない事態に陥っていた。航空隊の再編を待つ身であったが、最後まで航空隊は復活しなかった。

 11月、栄光と挫折の機動艦隊は解散。空母達は聯合艦隊へ帰属した。このころより、海軍はロケット特攻兵器桜花の実戦投入へ執念を燃やした。桜花は一式陸攻へ懸吊し、空中で切り離して発射する特攻兵器だったが、陸攻ごと運搬中に撃墜される事例が多く、いまもって世辞にも有効な兵器とは云い難い。しかし、日本にはもうそれくらいしか敵と戦う術が無かったという空しくも哀しい現実である。

 フィリピンへ桜花を海上輸送することとなったが、当初、天城がその任務にあてられたが錬度不足ということで雲龍に変わった。結果、雲龍は12月19日、桜花を含む陸軍兵士その他陸上兵器を運搬中に米潜レッドフィッシュに襲われ、撃沈された。

 翌皇05(S20/45)年、天城はいよいよ動かす油も無く呉で係留されるだけとなった。呉にはレイテを生き残った戦艦伊勢、日向、榛名、その他空母鳳翔、龍鳳、重巡利根、軽巡大淀なども係留されたまま浮き砲台になっていた。

 3月19日の呉空襲で直撃弾1により小破。呉港外へ移動し甲板へ樹木を並べて島に偽装した。4月20日には予備艦となった。7月24日の空襲では甲板に直撃弾2、機関室まで損傷し、浸水して左舷へ傾斜した。予備艦であったため応急人員が不足し、適切な対応ができなかった。続く7月28日の空襲で直撃弾1、至近弾5を受け、さらに浸水。やはり人員不足でどうにもならず、浸水が止まらぬまま翌29日左舷方向に大傾斜してそのまま浅瀬に「横倒しになって」しまった。奇しくも天城は、二代続けて横倒しの運命であった。

 

 

 

 

 戦後に米軍の撮影による。


 復旧不可能と云うことでそのまま沈没と判断され、終戦を迎えた。

 戦後、解体して再利用することとなったが、岸壁に近く作業は難航した。巨大フロートと大型排水ポンプを駆使し、2年後の昭和22(1947)年7月にようやく浮揚成功。ドックまで曳航し解体された。

 興味深いことに、船体の一部が当時の運輸省鉄道総局へ譲渡され、なんと船底の部分をほぼそのまま再利用して青函連絡船の修理用ポンツーン(浮桟橋)となって函館港で利用された。

 しかしそれも利用期間は1年ほどで終わり、翌年には売却されスクラップとなった。

 ちなみに、護衛艦かがの就航時にポンツーンとして使用されたのは、2代目の巡洋戦艦天城の解体鋼材を利用して作られたもので、この天城ではない。

 日向や伊勢、榛名と同じく、戦後すぐに連合軍の撮影したカラー映像や写真が多く残っており、たいへん貴重な記録となっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 皇紀2600年(昭和15/1940)年の時点で、対米戦に備え、戦時急増艦の計画を策定。真珠湾後にその実行に移される。設計を終えていた大鳳以降の新型空母は全て改装空母であり、新造空母は設計や試験が間に合わず、また大鳳も建造に数年かかることから既にある空母の設計図を流用・改良することとなった。そのため、中型空母としては理想的だった飛龍の設計図を流用し、新たに雲龍型空母が建造されることになった。

 従って、雲龍型を改飛龍型(または飛龍改)とも呼ぶ。

 さらに、設計中にミッドウェーが、艤装中にマリアナが発生し、随時戦訓を取り入れて改装を加えている。

 主な変更点は以下の通りである。

 飛龍では進行方向へ向かって左舷に艦橋があったが、航空隊から不評であった。プロペラ機はプロペラの回転の方向状、自然に左側へ寄るため、左舷艦橋はパイロットへ心理的な不安を与えていたという。そのため艦橋は蒼龍と同じく右舷へ変更された。

 舵を蒼龍と同じく吊下式二枚舵とした。

 エレベーターを戦時急増のため前中後3基から前後2基へ変更。また、搭載機大型化へ対応し、14m四方と大鳳と同じ大きさにした。

 ミッドウェーの戦訓により、対空機銃を増設し、また12cm8連装対空墳進砲を追加。また罐室の空気取り入れ口を右舷のみから左右両舷とし、竣工時から対潜迷彩塗装とした。

 マリアナの戦訓により、航空燃料用ガソリン庫周囲にはコンクリを充填して防御を施した。

 皇01(S16/41)年ミッドウェーを受け、改装空母の回想着手と同時に、改大鳳級5隻、改飛龍型中型空母15隻の建造が決定した。夢物語ではあったが、3番艦葛城の後は笠置、阿蘇、生駒までは船体が完成していた。その後、鞍馬は建造中止。それ以降は計画のみ。

 既に対米戦開始後の皇02(S17/42)年8月に横須賀で起工。飛龍型の建造は3年であったところ2年に短縮した戦時突貫工事で、竣工は皇04(S19/44)年8/6であった。すぐさま長崎で建造され8/10に竣工した姉妹間の天城と共に第一航空戦隊へ編入。しかし、度重なる航空戦の敗北とマリアナの惨敗により、海軍はまともに運用できる航空隊を失っていた。

 

 

 横須賀を出て公試中の雲龍。

 

 一時は米軍の小笠原・硫黄島空襲に対処するため雲龍1隻と護衛の軽巡1、駆逐艦2で「急襲部隊」を編制。東京湾で訓練した。この際、これまでの攻撃機と急降下爆撃機を兼ね備えた新型攻撃機「流星」のロケット発艦実験を行ったという。これは、2000馬力誉エンジンに4枚ペラの流星はかなり大型の機体で、発艦には大きな甲板と速度、もしくはカタパルトが必要だったが、日本軍は油圧式カタパルトを実用化できなかったため、発艦時に使い捨てのロケット墳進機を使用する実験だったと推測する。

 だが急襲部隊は出撃することはなく、1か月ほどで解散し第三艦隊へ戻る。10/15には雲龍型3番艦葛城が竣工。雲龍型3隻(雲龍、天城、葛城)で一航戦を編成したが搭載する飛行機が無く、これも出撃の機会はなかった。

 10月下旬、一連のレイテ沖海戦勃発。これまでの記事で何度も記してきたが、事実上、聯合艦隊そのものが壊滅したうえ、艦載機が無くまともに戦えぬ空母は囮任務で出撃し、瑞鶴、瑞雲、千歳、千代田が沈没。この時点で日本に残る空母は8隻。そのうち鳳翔は練習艦になっており、海鷹は護衛総司令部所属、また大和型戦艦3番艦を改装した空母信濃はまだ艤装中であったため、実質は龍鳳、隼鷹、雲龍、天城、葛城の5隻であった。(その他建造中が数隻)

 小澤司令はその5隻で一航戦を編成。最初雲龍を旗艦とし、その後龍鳳を旗艦としたが機動艦隊そのものが解散。一航戦はそのまま(組織上)聯合艦隊麾下となる。ここに、栄光と挫折の大日本帝国海軍機動艦隊は消滅した。

 11/20聯合艦隊はレイテ沖海戦後にフィリピンを侵攻する米軍撃滅のため空母発進の特攻隊を組織、神武特別攻撃隊として雲龍を母艦として出撃準備が進められたが、陸上基地からの発進に改められ、雲龍は出番を失った。

 その後、海軍はロケット特攻機桜花の実戦投入に執念を燃やし、とにかくフィリピンへ輸送するべく苦心した。一式陸攻で懸吊したまま航空輸送は輸送中を襲われたらひとたまりもないうえ、時間も労力も燃料もかかるため不可能であった。必然、空母で輸送することとなる。先に陸攻のみ航空輸送し、後に空母で桜花を輸送する。

 雲龍は桜花30機のほか陸軍の弾薬、陸上兵器、陸軍空挺部隊他要員合わせて1500人に大発動艇、さらには陸軍の輸送グライダー「四式特殊輸送機」を満載し、12/17に駆逐艦3隻(時雨、檜、樅)に護衛されてマニラへ向かって呉を出港した。

 しかし既に翌18日には米潜の無線を多数傍受。対潜警戒を強める。19日は台風の影響(フィリピンで米軍を翻弄したコブラ台風)で天候が荒れる中、懸命に対潜哨戒に努める。上空からは海軍陸上基地の部隊が雲龍隊の哨戒をした。

 しかし、それが仇となったものかどうか。運命とは分からない。

 19日1345陸上部隊が米潜を発見、爆弾攻撃を行う。隼鷹を襲って航行不能せしめた米潜レッドフィッシュだった。陸上航空隊は撃沈を報告したが、レッドフィッシュは無事だった。さらに、その攻撃で近海を重要艦隊航行中と判断し、索敵に入る。

 1600過ぎ、レッドフィッシュは奄美島沖(米軍報告では上海沖)で雲龍を中心とする艦隊を発見。距離5400mで魚雷4本を発射した。魚雷発射音及び雷跡を確認した雲龍では回避運動に入り、3本まで回避したが最後の1本が1637右舷中央部艦橋下へ命中した。右舷傾斜し、第1、第2罐室に浸水、電源も落ちて火災発生したが予備電源に切り替わり消火に成功するも、速度低下の後、たちまち航行停止してしまった。

 乗員は輸送中の物資を投棄して、懸命に傾斜回復に努めた。が、1645駆逐艦檜より爆雷攻撃を受けるレッドフィッシュが反転して脱出する前に放った艦尾魚雷1本が命中。しかも、先ほど被雷した右舷中央艦橋下の近くだった。運の悪いことに傾斜して格納庫下部まで水面下に沈んでおり、そこに魚雷が命中したものだから、格納庫に並んでいた30機もの桜花が次々に誘爆。桜花1機で敵戦艦・空母を撃沈せしめる特攻機である。高角砲弾薬庫が誘爆したとの説もあるが、とにかく雲龍は大爆発した。

 猛煙猛火を噴き上げながらすぐさま艦首より沈みはじめ、総員退艦命令。その際、1656米潜レッドフィッシュが沈没する直前の雲龍を潜望鏡カメラに収めている。1657には、雲龍は黒煙ごと海中へ没した。

 

 


 中型主力空母ながら一度も航空戦を行わず、輸送任務中に沈んでしまった。夜陰と荒天で救助は難航し、乗員・輸送員3000名の内救助者は150名ほどで、海軍史上最も犠牲者を出した空母であったという。輸送中の陸軍兵は、ほとんどが戦死した。

 
 

 長々と自分の再勉強のためにもやってきた大日本帝国海軍空母紹介も、残るは5隻(大鳳、雲龍、天城、葛城、信濃)となった。

 

 


 艦これではゲームのシステム上「正規空母」と「軽空母」という分け方をされているが、これは正確ではない。本来そんな分類はなく、全部「航空母艦」である。あえて云うならば「主力空母」「改装空母」「護衛空母」などになるが、これも便宜上のもので、軍で正式にそのように分類していたわけではない。自分の知る範囲では、軍で分けていたのは「航空母艦」と「特設航空母艦」のみだ。その違いはよく分からない。改装空母はいったん特設空母になって、後に正式に空母になるという流れに見える。

 ところでこの大鳳であるが、久々に改装空母ではなく最初から空母として設計・建造された。順番で云うと瑞鶴以来となるから、真珠湾以前からこっち、日本軍で竣工したのは全て改装空母であった。原因はやはり、ミッドウェーにおいて主力空母4隻撃沈の余波で、日本の作戦計画が根本から覆り、目先の空母確保に予算と時間を取られたからと推測する。

 また、対米戦といっても実質は4年半とちょっとである。じっくり空母の運用計画など練る暇はない。特に新機軸を盛り込んだ新型は設計から始めて模型実験を繰り返し、竣工させるにはどんなに急いでも数年かかるので、瑞鶴の次が大鳳なのも常時では普通と考えられる。

 さて、ミッドウェーの戦訓として「日本空母の防御力の弱さ」があった。これは構造上の問題で、格納庫が密閉式(閉鎖式)であったことや、機関が集中式であったこと等が挙げられる。米空母は格納庫が解放式で、波浪による航空機の塩害という弱点があるが、いざ爆撃を食らうと爆発が外に逃げて損害を減らし、また誘爆を起こす爆弾・魚雷や延焼した航空機を人力(ブルドーザー)で海へ投棄することができる。機関は戦艦のようにブロックごとに分かれており、魚雷の1、2発では機関を全てやられない。日本の空母は特に潜水艦の攻撃でわりとあっさり沈むのに、米軍の空母は爆撃されようが魚雷を食らおうがなかなか沈まない。自軍の自沈処理でも沈まなくて放棄されているくらいである。また、消火設備や訓練も雲泥の差があった。ダメージコントロール技術でも、米軍のほうがずっと上だった。

 それらは、改装空母では元の船の設計もあり、なかなか改善できなかった。隼鷹、飛鷹で戦訓により消火設備を充実させたが、飛鷹は肝心の消火ポンプ故障で火災が収まらず沈んだ。機関は翔鶴や瑞鶴で既に2ブロックで分けていたが、それを参考にして同様に分けた。また最も重要なのは、英空母イラストリアスで既に実践されていた甲板へ装甲を装備する、日本軍初の「装甲空母」として大鳳は設計されたことである。

 装甲といっても半端ではない。全面ではないが、500kg爆弾の直撃に耐えられる最大厚95ミリもの甲鉄板を甲板下に張ったので自重が増加。重心も上がったため、格納庫容積を減らして背を低くして重心を下げ、甲板と船体が一体化したハリケーンバウを採用する等、設計を工夫した。空母は船体の上に半分埋め込みで箱(格納庫)を乗っけて、その天井部分から甲板が伸びており、船首と甲板に隙間があって柱が見えているのが日本空母の外見的な特徴だったが、大鳳はそこへも船側を張り付けて米空母や現代空母と同じく船体と甲板が一体化している。日本軍が初めて採用した形状の空母であった。

 しかし格納庫が圧迫され、物理的に狭くなったので翔鶴型より一回り大きいのに搭載機数は格段に減っている。マリアナ時翔鶴77機、大鳳54機であった。これは、格納庫が狭くなったことに加え搭載機が新型で旧式機より大型の烈風、天山、彗星、流星想定となり、零戦、97式、99式に比べて必然、搭載機数が減ったこともある。

 また機関や燃料タンク周囲にも厳重に甲鉄板よる防護壁が施された。

 艦橋は戦訓により空母での艦隊指揮も考慮し大型化した。かつて飛龍で艦橋に指揮所が無くえらい苦労したのであった。また、既に隼鷹型で試されていた大型艦橋と一体化した斜形煙突が採用されている。ただし、これはもともと大鳳のために設計されたものを先行して隼鷹型で試して効果を得ていたもの。

 

 

 ハリケーンバウ、大型艦橋、そして艦橋と一体型の斜形煙突が分かる。


 最新鋭の装甲空母だったが、弱点もあった。

 航空機を格納庫から甲板へ出し入れするエレベーターの床は、甲板へ上がると甲板になる。そのため、エレベーター床にも装甲が施されたが、それによりエレベーター1基の重量が100トンを超え、いちど故障すると艦内工作員では復旧不可能だった。実際そうなった。

 格納庫が密閉式なうえに、他の空母では爆撃された場合の衝撃や爆風が甲板を突き抜けて逃げるのだがそこが装甲で塞がれているため、被害が甚大になる恐れがあった。じっさい被害甚大であった。

 鋭意建造中、既に戦争は佳境に入っており、熟練工が軒並み徴集されて建造精度に難があった。じっさいたった被雷1本の衝撃で航空燃料であるガソリン庫の溶接が外れ、漏洩したガソリンが元で沈没した。

 さて、大鳳はマル4計画により計画されたが運用や仕様に紆余曲折があった。皇紀2601(昭和16/1941)年7月10日に建造開始、その冬には真珠湾により対英米蘭戦勃発。工事を突貫して行い2年後の皇03(S18/43)年4/7に進水、艤装も超突貫で行い工期短縮に継ぐ短縮で翌皇04(S19/44)年3/7に竣工した。

 さっそく訓練に入り、同年3/28に兵員輸送を兼ねて呉を出発。大鳳飛行隊の第六〇一航空隊の航空機である零戦、天山、彗星のほか、百式司令偵察機、月光、零式観測機、零式水上偵察機を運んだ。4/4-5シンガポールで兵と輸送航空機を下ろし、4/9にリンガ泊地到着。4/15に小澤機動艦隊旗艦を拝命。第一航空戦隊(一航戦)として翔鶴、瑞鶴と共に着艦訓練に勤しんだ。5/14タウイタウイ泊地へ移動。二航戦(隼鷹、飛鷹、龍鳳)、三航戦(千歳、千代田、瑞鳳)と合流。マリアナ沖海戦へ備える。

 

 

 タウイタウイの大鳳。奥に翔鶴か瑞鶴、右上に金剛か榛名が見える。デジタル彩色。大鳳の甲板は木の甲板説とラテックス説があるが、自動復元を見るに木の甲板っぽい。

 
 しかしタウイタウイは周囲に大きな陸上基地が無く、また外洋で航行しながら訓練を行おうにも米潜がウヨウヨ集結しており、警戒の日本軍駆逐艦が逆に5隻以上も撃沈される始末であり、まったく航空隊の訓練ができない状況だった。

 6/13、陸上基地を利用して訓練を行うべくフィリピンのギマラスへ移動。訓練を行ったが、対潜哨戒を行っていた天山が着艦ミスで事故が起き、甲板上で炎上、露店駐機していた航空機多数と搭乗員、整備員計8人が戦死した。嫌な予感を抱えたまま、米軍のサイパン攻略公算大として「あ号作戦」が発令。たった2日後、ろくな訓練もできないまま6/15運命のマリアナ沖へ向かう。

 マリアナ沖海戦は、既にパラオ空襲の際に二式大艇で脱出した海軍上層部が墜落により米軍に捕らわれ作戦大綱が奪われるという「海軍乙事件」により、米軍の知るところであった。日本軍はこの大航空戦に米機動艦隊壊滅を賭けて一大アウトレンジ作戦を慣行した。ミッドウェーの戦訓により水上部隊を前衛に出して囮または防御とし、後衛の甲乙丙(それぞれ一、二、三航戦)機動部隊より矢継ぎ早に攻撃隊が発艦、米軍を叩く。

 これもミッドウェーの戦訓による三段構えの水も漏らさぬ索敵により、日本軍は米軍より先に敵を発見していた。6/18各陸上基地から攻撃隊が米軍へ向かったが、返り討ちにあい半壊した。このため、陸上基地隊との共同作戦が頓挫。同日夕刻近く、甲部隊より攻撃隊が発艦したが、帰還が夜間になるため夜間着陸による事故を恐れ、攻撃は中止。甲部隊は反転した。(この反転により、米潜行動圏に入ったのだという。)


 翌19日も早朝より日本軍の索敵が先に米軍を発見した。この時点で、米機動部隊は日本艦隊を発見できていない。小澤司令は攻撃を決意する。

 しかし、このころには、甲部隊へ米潜カヴァラ及びアルバコアが接近、追尾していた。日本軍は艦隊規模のわりに護衛の駆逐艦が少なく、潜水艦の接近にまったく気づいていなかった。

 0630より各艦とも順調に攻撃隊を発艦させ、大鳳では0800ころ第一次攻撃隊の発艦を終えた。艦隊には楽観ムードさえ漂い、手すきの者は甲板で帽振れの令が出され、各員帽子を振って航空隊を見送った。無線傍受していた軍令部でも勝利の気分が漂った。

 しかし、文字通りそれを全て吹き飛ばす悪夢が始まる。0810まず潜水艦アルバコアが大鳳へ向けて魚雷発射。編隊合流中の彗星1機が上空よりそれを発見し海面へ突っこんで阻止しようとした。大鳳でも雷跡発見し取舵いっぱい急旋回したものの、右舷前方へ1発が命中する。

 浸水し右舷傾斜したが注水により復旧。速度低下したものの航空隊発艦作業が続けられた。

 ところが、雷撃の衝撃で零戦を乗せて動いていた前部エレベータが甲板まであと1mというところで止まってしまった。昇降用のワイヤーが滑車よりはずれたのだという。エレベーター重量が記述のとおり100トンあり、艦内工兵では復旧不可能だった。そのため、工兵総動員でダメコン用の丸太角材、さらには食堂の椅子テーブルまで組み上げて、なんとか甲板の穴(14m四方)を埋めた。

 補強部の強度を確かめ、武装を外して軽量化した零戦や天山を飛ばし、瑞鶴へ移動させた。その後、1030から翔鶴や瑞鶴より第二次攻撃隊発進。

 そのころより、大鳳内では先の攻撃で漏洩した航空燃料のガソリンが気化充満し始めた。ガソリン庫は電気溶接だったが、それがたった1発の魚雷の衝撃で裂けてしまった。前部海面下ガソリン庫の近くに被雷したのであった。そのため漏れたガソリンが浸水により押し上げられ、格納庫まで上がってきたのが原因であるという。運の悪いことに前部エレベーターは塞がれたまま動かず、密閉式の格納庫ではそもそも排気に限界があり、気化ガソリンは艦内を述べなく舐めた。ガソリン庫近くの部署は気化ガスにより退出を余儀なくされ、復旧作業のため近づいたものは失神するほど濃度であったため、ガソリンの漏洩を防げなかった。

 火花を恐れて工作道具の使用も憚られ、艦内は火気厳禁のまま成す術なく窓を全開にする、排気ファンを全開にする、後部エレベーターを下げる、格納庫の壁を一部破壊するなどの措置で必死に換気したが、まるで追いつかなかった。格納庫内では眼も開けられない程にガソリンが充満した。艦内換気扇を全開にしたためかえって艦内全域に気化ガソリンが行き渡った。

 そうこうしている間に、1120米潜カヴァラの放った魚雷のうち3~4本が翔鶴右舷へ命中。これもガソリン庫が破れ引火し、先に大火災を起こした。

 1200ころ大鳳などを発艦した第一次攻撃隊が戻ってきたが、アメリカ軍のとてつもない反撃を受け、なんと大鳳隊で帰還できたのは42機中たったの4機(零戦3、二式試偵1)であった。天山及び彗星は全滅した。米軍は既に日本軍のそれを遥かに超える高性能レーダー、VT信管付対空兵器、さらにはF6Fヘルキャット戦闘機を備え、錬度の低い日本機を「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄するほどメチャクチャに叩き落したのである。

 翔鶴が大炎上中であり、やむなく大鳳でも米軍を発見できずそのまま戻ってきた翔鶴第二次攻撃隊の収容が細心の注意を払って行われることになった。

 1400すぎ、ついに翔鶴が前方より沈み始めた。甲板へ逃れていた生存者はそのまま燃え盛るエレベータ孔へ次々に滑り落ち、地獄絵図であった。

 さらに1432戻ってきた攻撃隊の収容が始まった直後、大鳳が大爆発する。戻ってきた1機めが胴体着陸した瞬間だったというが、他にも数機着陸後に爆発した、何機か着陸後に零戦が何らかの理由によりタッチアンドゴーで飛び立った瞬間に爆発した、艦内換気扇のモーターが焼けて発火した、電気室後部の罐室に気化ガソリンが到達し罐の熱で発火したなど、各種説がある。

 とにかく「関東大震災のような」揺れが艦を襲い、装甲の装備された甲板が飴細工のようにひん曲がって押し上げられた。しかしその装甲のせいで爆圧が甲板を抜けず艦の下へ向かって吹きつけ、機関まで達して甚大な被害となった。

 大鳳の後部を航行していた重巡羽黒では、大鳳の格納庫の壁が吹き飛んで炎が吹き抜け、まるで大鳳が火柱に串刺しにされているような光景が見られた。その際、航空機や人間が大量に吹き飛ばされた。前部甲板はたちまち猛火に包まれた。

 艦橋では直ちに消火装置のスイッチが入れられたが延焼が酷く鎮火できなかった。爆発の衝撃で機関がやられ見る間に速度低下、ついには航行停止した。潤滑油配管が破れ機械油が漏洩し、機関が破壊されたのだという。また機関室と連絡が取れず、消火管が開けられず火は全く衰えなかった。あまりの猛火に機関員全滅と判断されたが、一部は助かって脱出成功している。

 直ちに重巡羽黒や駆逐艦若月に救助が命じられたが、爆発が連続して続き接近できなかった。翔鶴沈没、大鳳大炎上により翔鶴の二次攻撃隊は随時瑞鶴に着艦した。

 小澤長官は大鳳へ残ることを希望したが、周囲の説得で参謀長らと共に脱出。艦橋が楯となり助かった唯一のカッターボートで若月へ移動。その後羽黒へ移った。周囲の船から次々にカッターボートが派遣され、生存者を救出した。最後は駆逐艦磯風が果敢にも燃え盛る大鳳艦尾に接舷し、救助を行った。

 その間にも大鳳は左舷へ大きく傾斜し、救出断念し磯風が離艦した直後の1628(爆発から2時間後)そのまま左舷から沈没した。

 大鳳は日本海軍の中でも1、2を争う運の悪さで、竣工から3か月、初陣で沈んでしまった。

 その後、日本軍は残る瑞鶴、また乙丙部隊から第6次まで攻撃隊を繰り出したが、ほとんどが全滅または壊滅の憂き目を見たうえ、翌日は補給のため洋上集結しているところを米軍に発見され200機もの大逆襲を受ける。この空襲で飛鷹及びタンカー2隻が撃沈され、他にも損傷艦多数というミッドウェー以上の大敗北を喫した。

 艦艇も然る事ながら航空隊が壊滅的被害を受け、乗せる航空機の無い機動艦隊は二度と立ち直らなかった。このことはもう日本艦隊にまともな航空機掩護が着かないことを意味し、レイテ、沖縄特攻でも事実そうなった。

 

 

 まさに近代的な最新空母に相応しい日本を代表する空母であるが、まことに不運な沈み方をした。

 

 

 

 空母千代田は、ほとんどすべての戦いを姉妹艦の千歳と過ごし、沈没したのも同じレイテの戦い……エンガノ岬沖海戦だったので、千歳の記事と内容の大部分が重なる。

 

 

 東京湾において公試。


 マル2計画により建造を決定。当初は特殊潜航艇「甲標的」母艦として作られる予定であったが、秘匿のため水上機母艦として計画される。千歳に送れること5か月。皇紀98(昭和13/1938)年12月25日に水上機母艦千代田として竣工する。

 水上機とは艦載機の一種だが火薬式カタパルトより射出され、偵察等の任務終了の後に水上へ着水、クレーンで吊って回収する。港湾基地での運用も可能である。千代田は千歳と同じく、九四式及び九五式水上偵察機を運用した。

 

 

 特殊潜航艇「甲標的」

 

 

 94式水上偵察機

 

 

 95式水上偵察


 2年後、皇00(S16/40)年5月、千代田のみ当初の計画通り甲標的母艦へ改造される。甲標的12機を格納し、艦尾スリットより発進可能であった。また、そのための甲標的用指揮マストが新設された。それでも水上機12機も運用可能であった。

 

 

 千歳型水上機母艦。


 翌月、さっそくミッドウェーへ参加。水上部隊本隊付随として、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の空母4隻をメインとする先行部隊の吉報を待つも、もたらされたのは主力空母4隻喪失の衝撃だった。日本軍はいざというときのために空母改装を前提とした船を多数建造していたが、千代田を含む5隻(千歳、千代田、貨客船ぶらじる丸、同あるぜんちな丸、ドイツ客船シャルンホルスト)がこの時空母改造決定し、次年度予算が承認された。

 ただし、ぶらじる丸が空母化のため日本へ回航途中に米潜の雷撃により沈没してしまったため、4隻が空母となった。

 あるぜんちな丸は空母海鷹(かいよう)へ、シャルンホルストは空母神鷹(しんよう)へ改造された。千歳と千代田は、艦名が変わらなかった。

 年度も押し迫った皇03(S18/43)年の2月、空母化工事開始。同年の12月に空母千代田は完成した。

 

 

 デジタル彩色。

 

 船団護衛に従事したのち、翌皇04(S19/44)年6月、千代田は日本海軍の大規模反攻作戦である「あ号作戦」へ参加。マリアナ沖海戦である。日本軍は艦隊付属可能な全空母9隻を集め、米機動艦隊へ超大規模アウトレンジ戦法を仕掛けることになった。

 しかしパラオ空襲の際に脱出した海軍高官が捕虜となり、あ号作戦の概要が事前に米軍の手に渡るという「海軍乙事件」が発生していた。米軍は日本軍の倍以上(日本軍:空母9、戦艦5、重巡11、軽巡2、駆逐艦20、計47隻に対し米軍:空母15、戦艦7、重巡8、軽巡12、駆逐艦67!の計109隻)の兵力を備え、日本を待ち受けていた。そもそも日本軍集結地のタウイタウイ泊地周辺には封じ込めのため米潜がウヨウヨしており、空母群は訓練もままならずに作戦へ突入した。

 6月18日、一足早くグアム、トラック、ヤップなどの基地航空隊が米軍を攻撃。しかし反撃にあい壊滅的損害を受ける。これにより日本軍の基地航空隊との共同作戦は頓挫。日本軍は三段索敵により米艦隊を発見し、大鳳から攻撃隊が飛び立った。しかし夕刻に近く、小澤艦隊司令から夜間攻撃になるとこを危惧し攻撃中止命令。発艦した部隊は爆弾を捨てて帰投する。しかし、錬度未熟により満足な着艦すらできず、数機が失敗して大破したという。大鳳は嫌な予感で重苦しい空気となった。

 6月19日、依然、米軍は日本艦隊を発見できず、逆に米艦隊を発見していた日本軍は先制攻撃を決意。ミッドウェーの轍を踏み護衛の水上部隊を前衛に、後方に甲(大鳳、翔鶴、瑞鶴)乙(隼鷹、飛鷹、龍鳳)丙(瑞鳳、千歳、千代田)の三群に分けた空母部隊を配した。しかし日本軍の第1次から第6次まで行われた波状攻撃隊は最新鋭レーダー、VT信管付最新対空弾、零戦の倍の馬力で飛び零戦の弾では落とせない装甲を持った最新艦載機F6Fヘルキャットの配備、などにより、攻撃隊の半数以上を失うという「壊滅」の憂き目にあった。特に最新鋭の天山艦攻と彗星艦爆は、搭乗員の錬度未熟もあってほぼ全滅した。

 千代田は丙部隊配属。小澤艦隊司令の元、次々に艦載機を飛ばすも大半が未帰還であった。しかも甲部隊では米潜の攻撃により虎の子最新鋭の大鳳が沈没、翔鶴も米潜の攻撃でその日のうちに沈没した。どちらも魚雷攻撃により航空燃料が漏れて気化し、引火して大爆発した。

 翌20日、補給のためタンカー部隊と合流し、洋上給油しているところを200機もの米軍に急襲される。機動部隊は電探にていち早く襲来を察知し避難するも、補給部隊へ指揮命令する権限がなくタンカーを見捨てて自分たちだけ逃げたかっこうとなった。どちらにせよ空襲を受け、飛鷹が沈没、タンカーも2隻大破後処分された。その他艦艇損傷多数。小澤司令は米軍への反撃も試みたが、駆逐艦らの燃料枯渇の危険があり断念。米軍も逃げた日本艦隊を発見できず撤退した。

 日本軍は「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されたこの戦いにより航空戦力が大打撃をうけ、空母はもはや飛ばせる航空機が無くなってしまったうえ損傷艦多数により、機動部隊は事実上壊滅した。一方、米軍の艦艇被害はほとんど無かった。米軍損失の航空機も、半分以上が夜間攻撃による着艦失敗の自損であった。

 乗せる航空機の無い空母など、輸送か囮にしか使えない。日本軍は生き残ってまともに動く主力空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)を、囮部隊として編成する。

 皇04(S19/44)年10月、日本海軍は米軍のフィリピン侵攻を阻止すべく捷一号作戦を発動。最後の一艦まで戦う覚悟で聯合艦隊の総力を挙げて米軍を迎え撃つ。戦艦大和、武蔵、長門、金剛、榛名を中心とする栗田艦隊を水上部隊本体とし、要撃部隊として戦艦扶桑、山城を中核とする西村艦隊、その補佐の志摩艦隊、さらには主力空母4隻に護衛の航空戦艦伊勢、日向を有する小澤艦隊を囮として配置した。

 小澤艦隊はレイテ島へ向けて南下し、米軍のハルゼー提督率いる機動部隊を引き付ける役目を追っていたが、なにせ無線の調子が悪く日本軍の連携は定まらなかった。10月23日、本体である栗田艦隊がパラワン水道にて米潜水艦隊の攻撃を受け、重巡愛宕、麻耶が沈没、高雄が大破撤退という被害を受け第4戦隊が壊滅。翌24日シブヤン海へ入るも米機動艦隊の5波にわたる大空襲を受け、戦艦武蔵が沈没した。

 しかし、ハルゼー提督は空襲中に南下する小澤艦隊を発見。空母4隻を有するそちらが「日本軍の本隊」と誤認し空襲を中止、北上する。助かった栗田艦隊は、バラバラになった艦隊を立て直すために一時反転せざるを得なくなった。

 小澤艦隊は栗田艦隊反転を撤退と判断。自身も南下を中止し、北上する。25日未明、栗田艦隊反転を知らない西村艦隊が志摩艦隊の到着を待たず単独スリガオ海峡へ突入。駆逐艦時雨を残し壊滅する。

 25日、小澤艦隊は追撃してくるハルゼー艦隊との戦闘を決意。囮として北上を続けつつ、錬度未熟機を陸上基地へ退避させ、艦隊直掩の零戦を瑞鶴と千代田から上げる。しかし、その数は空母4隻でたったの18機であった。

 小澤艦隊は6群に分かれて航行していたが、25日0815ついに米機動部隊の第1波空襲180機の攻撃を受ける。この時の 「敵艦上機約80機来襲我と交戦中。地点ヘンニ13」(1KdF機密第250815電) の電報はしかし、機器の不調か、栗田艦隊に届かなかった。

 0835いきなり瑞鳳が被弾、小破ですんだものの甲板をやられ発着艦不可能となる。同時刻姉の千歳も直撃弾3、至近弾多数で浸水。0837には瑞鶴被雷、速度低下のうえ通信不能となって旗艦の役割を果たせなくなる。このため艦隊は以後自立運動となる。戦艦伊勢、軽巡大淀も小破。0850駆逐艦秋月がいきなり大爆発轟沈。軽巡多摩も被雷により大破落伍。0937ころ千歳沈没。

 1000ころ第2次攻撃。それまで無傷だった千代田に直撃弾1、大火災。1016には航行不能となって艦隊落伍。小澤司令は瑞鶴から大淀へ旗艦移動。直掩の零戦は空母がみな着艦不可能なため海上着水し、救助された。

 

 

 爆撃とされる千歳もしくは千代田。

 

 


 1300ころ第3次攻撃。残っていた瑞鶴と瑞鳳に攻撃集中。1414瑞鶴沈没。瑞鳳は1526に沈没した。

 さて航行不能で漂流していた千代田は、軽巡五十鈴が曳航を準備していたが燃料不足で断念。五十鈴と駆逐艦槙が生存者救助の後雷撃処分を命じられた。しかし五十鈴は千代田と接触し曳航を諦めず準備。そこへ米軍の空襲があり被弾、曳航を断念し退避した。遅れて到着した槙も米軍の空襲で被弾。2隻は夜まで待って救助と雷撃処分を行おうと海域を離れる。

 そこへ1648米軍の偵察機が千代田を発見。ハルゼー提督は呼び戻されて海域を離れており、残存艦隊処理を任されたデュポーズ少将率いる水上部隊へ通報。巡洋艦隊は直ちに現場へ向かい、漂流する千代田を発見、砲撃を開始。一斉者を受けた千代田は左に傾斜し、おそらく1747に沈没した。総員戦死。

 26日には、五十鈴が沖縄の中城へ、伊勢、日向、大淀、霜月、若月、槙はそれぞれ29日に呉へ避難。随伴の補給部隊もタンカー2隻がやられた。

 小澤艦隊は見事囮任務を果たしたかに見えたが、栗田艦隊へ報が届かず、米機動艦隊も途中から引き返したため中途半端に終わった。サマール沖海戦を経て再びハルゼーの脅威にさらされた栗田艦隊は、西村艦隊壊滅と志摩艦隊撤退の報を受け、ついにレイテ湾突入を断念。「栗田ターン」をもって離脱した。

 以後、残存空母僅かにして動かす燃料も飛ばす航空機も搭乗員も無く、栄光の機動部隊は解散。各空母は聯合艦隊麾下となるもその聯合艦隊も戦闘可能な残存艦艇少なく事実上壊滅した。

 

 ミッドウェー海戦における主力空母4隻同時喪失に伴い、海軍がいそぎ不足空母の穴を埋めるべく、日本に留まっていたドイツ客船の改装空母化へ着手したものである。

 そもそも日本は軍縮条約の規制により空母建造枠を使い切っており、将来的に空母へ改装しうる他種の船舶を多く建造していた。また、民間貨客船にも将来、有事の際には徴傭し空母改装を行うのを条件に補助金を出す制度である「優秀船舶建造助成施設」により作られた貨客船や豪華客船も空母へ改装している。

 日本軍において別種の船として建造後に改装された空母は、以下のとおり。

 客船春日丸(大鷹 たいよう)
 客船八幡丸(雲鷹 うんよう)
 客船新田丸(冲鷹 ちゅうよう)
 貨客船あるぜんちな丸(海鷹 かいよう)
 客船橿原丸(隼鷹 じゅんよう)
 客船出雲丸(飛鷹 ひよう)
 
 潜水母艦大鯨(龍鳳)
 水上機母艦剣先(祥鳳)
 水上機母艦高先(瑞鳳)
 水上機母艦千歳(千歳)
 甲標的母艦千代田(千代田)

 そしてドイツ客船シャルンホルストを改装したのが、この空母神鷹(しんよう)である。

 

 


 そもそも、どうしてドイツ客船を日本軍が空母に改装することになったのかというと、やはりミッドウェーへ遡る。

 客船シャルンホルストは1935(昭和10)年4月に竣工したが、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)政権下にあって初めて竣工した大型客船で、竣工式にはヒトラー総統、ゲーリンク国家元帥、レーダー海軍元帥らを筆頭に政府要人が列席したという。ブレーメン~横浜間を含む多くの航路を走った。しかし39(S14)年8月、神戸からシンガポールなどを経てドイツへ向かう途中、ドイツ軍の暗号伝聞を受け日本へ引き返す。第二次世界大戦の勃発により、イギリス軍に拿捕されるのを恐れたのだという。ドイツ人の乗員乗客は当時まだ国交のあったソ連を経由し、シベリア鉄道でドイツへ戻った。シャルンホルストはそのまま神戸に3年間、繋留される。

 既に皇紀2602(昭和17/1942)年の4月には、シャルンホルストが日本へ譲渡されていたという記録もあるようだが、一般的には、6月5日のミッドウェーにて主力空母4隻を喪失した日本軍が、ドイツへ建造途中の大型空母グラーフ・ツェッペリンの譲渡を打診。しかし、現在の情勢では極東までの回航は不可能であるとの回答を受ける。その代わり、ドイツは神戸に留めっぱなしで扱いに困っていたであろうシャルンホルストの売却を打診。ドイツ大使館との交渉により、日本は戦後にドイツ船価の倍の料金を払うことで折り合いがついた。

 

 

 客船シャルンホルスト。

 

 

 

 


 6月12日、神戸より呉へ回航。ミッドウェー後たったの7日であった。6月30日、日本軍はあるぜんちな丸、ぶらじる丸、シャルンホルスト、千歳、千代田の空母改装を決定。呉で空母化工事の始まったシャルンホルストには、建造中止となった大和型戦艦4番艦(第111号艦。竣工していれば戦艦「紀伊」の予定であったという)の資材も流用された。

 シャルンホルストは先に空母化された新田丸級客船と設計が酷似しており、空母化工事は大鷹型空母の要領で行うことができた。ただし詳細設計図がドイツにあり、日本の技術者が現場で採寸しながら設計図を書き直した。

 また船体は新田丸級より若干大きく、排水量は20,000トンを超え飛龍型に匹敵した。従って格納庫も大きく二段式にすることも可能だったが資材節約と工期短縮のため小型空母と同じく一段式にし、艦橋も船首甲板下に作られた。改装工事は1年3か月かかり、皇03(S18/43)年12月15日竣工。

 

 

 デジタル彩色。


 さて戦争も末期になり、日本軍は陸海ともアメリカの徹底した通商破壊作戦により完全に干上がっており、戦争当初の被害予想の数倍のトン数の輸送船を米潜水艦に沈められていた。しかも日本の輸送船は海軍の建造だけではとても賄えず、漁船も含めた民間船を大量に徴傭していたため、軍人ではない軍属民間人が多数戦死していた。

 さらには、聯合艦隊には輸送船部隊を護衛する義務も指揮命令する権限も無かったため、トラックでは米軍の空襲を察知して聯合艦隊だけ撤退命令が出て、輸送部隊(ほとんど民間船)を見捨てて脱出したし、マリアナ沖海戦において海上補給中に米軍の空襲を受けた際も、レーダーでいち早く敵機襲来を察知した聯合艦隊だけタンカー部隊を置いて逃げ出す始末であった。これは、聯合艦隊には輸送部隊に情報共有し退避命令を出す権限も義務も、そのようにしろという命令も無いためである。日本人は変なところに律儀なので、こういうときでも縦割り行政を厳守する。

 神鷹竣工の1か月前、皇03(S18/43)年11月、日本海軍は海上交通路保護と対潜掃討を目的とする「海上護衛総司令部」を設立。聯合艦隊とは別個に動き、遅ればせながら輸送船団護衛へ本格的に乗り出す。

 12月に海上護衛総司令部へ配属となった神鷹は、さっそく翌皇04(S19/44)年1月8日、航空機輸送のため大鷹、護衛の駆逐艦3隻と共に呉を出発したが機関故障により佐伯で泊まり、神鷹だけ呉へ戻った。1月19日、再び輸送任務を受け試運転したが機関の調子が悪く、呉へ戻った。

 ここにきてシャルンホルストの機関であるドイツ製ヴァグナー式高温高圧タービンと電気推進機の併設はトラブルが多く日本の技術者では扱いきれないこともあり、このままの運用は難しいと判断。甲板と一部船体を切断除去し、日本軍の標準蒸気ボイラーへの機関総取換工事を急遽行った。それに3か月を要したうえ、速度が低下し合成風力が得られず彗星、天山の新型艦載機の運用が難しくなったため、旧型の97式艦攻、99式艦爆を運用することとなった。

 2月に工事が終わり、3月より運用再開。訓練を積み、7月にようやく第一海上護衛司令官の指揮下へ入った。その後は、他の大鷹型と同じく大規模輸送船団である「ヒ船団」の護衛任務に就く。

 7月14日、ヒ69船団護衛として門司を出発。空母は他に大鷹と海鷹がいたがこの2隻は航空機輸送任務であり、神鷹のみ対潜哨戒を行った。ただし、神鷹にも海軍の局地戦闘機「雷電」が10機、輸送のために積まれていた。台湾、マニラを経由し31日にシンガポール着。直ちにヒ70船団として8月2日にシンガポールを出発。日本へ原油などを運んだ。途中マニラで中破していた軽巡北上と合流し、台湾を経て8月15日(終戦のちょうど1年前)に船団は門司へ到着した。

 8月18日ヒ71船団を護衛していた大鷹が撃沈される。9月8日整備を終えた神鷹はヒ75船団護衛任務にて門司を出発。台湾を経由し、一部はマニラを目指して別れ、9月22日にシンガポール到着。停泊中に神鷹搭載の97式艦攻が周囲を対潜哨戒したが戦果無し。

 10月2日(もしくは3日)ヒ76船団が物資を積み日本へ向けてシンガポールを出発。台湾を経て日本へ向かう途中、沖縄空襲や台湾沖航空戦のため海南島へ避難。15日(もしくは16日)に出発するも、アメリカ軍のフィリピン空襲に備え海南島へ戻る。18日に再出発するも一部はレイテへ向かう栗田艦隊へ給油するために分離した。25日、なんとか日本到着。神鷹は呉で修理に入った。

 11月13日、修理を終えた神鷹はヒ81船団を護衛し、マニラを経てシンガポールを目指した。このヒ81船団には陸軍第23師団(一部)が乗っており、マニラ攻防戦へ参加する予定だった。第23師団はノモンハン以来機械化装甲師団の先駆けとして満州に長く駐屯していたが、戦局悪化に伴い虎の子としてフィリピン防衛へ派遣されたものだった。ヒ81船団を含み数回に分けてレイテへ移動の途中であった。

 またヒ81船団には陸軍の特殊揚陸艦あきつ丸も同行していた。あきつ丸は空母のように全通甲板を持ち、見た目は空母そのものである。哨戒機を運用できたが、この時は通常輸送任務でった。

 

 

 あきつ丸。

 

 厳重な対潜警戒を行いつつ関門海峡から対馬沖へ出たが、待ち伏せの米戦艦と思わしき無線を多数傍受。念のため引き返して14日五島列島で仮泊した。翌15日出発。神鷹より哨戒機を飛ばし入念なる対潜警戒を行っていたが正午少し前、済州島沖にてあきつ丸が米潜クィーンフィッシュの雷撃を受ける。自衛用爆雷や輸送中だった陸軍兵器の弾薬が誘爆し、たったの数分で転覆、沈没した。輸送中の23師団陸軍兵2000名が戦死した。

 あきつ丸の生存者を収容した船団はいったん朝鮮半島まで逃れ、巨文島から済州島と島伝いに移動。17日朝、再び出港した。しかし米潜と中国大陸からの米海軍哨戒機に発見され、執拗な追尾を受けた。米潜は神鷹の哨戒機が飛べなくなる日没を待ち、1830ころ米潜ピグーダの発射した魚雷が陸軍特殊船麻耶山丸を襲った。麻耶山丸はものの10分で轟沈。輸送中の第23師団司令部と歩兵師団は壊滅した。4500人中約3200人が戦死した。

 護衛の海防艦が懸命に爆雷投下したが、それから5時間後の2300ころ、米潜スペードフィッシュの放った魚雷6本中4本が神鷹右舷へ命中。航空燃料に引火し、神鷹は爆発を繰り返しながら大炎上した。10分後には総員退艦。それから20分後、被雷からたったの30分で神鷹は艦尾から沈没してしまった。燃え盛るガソリンが海上に流れ、生存者は少なかった。

 朝を迎え、船団は命からがら潜水艦の近づけない浅い海域を陸地沿いに進み、18日夕刻に泗礁山泊地(浙江省、上海の南)へ避難した。爆雷投下と生存者救助、対潜哨戒で離れた護衛艦群を待ち、21日に出発。陸地伝いに南下し、25日、陸軍を乗せた輸送船は途中で別れて高雄へ向かった。陸軍部隊はタマ33船団として30日にマニラへ到着した。

 ヒ81船団はタンカー部隊となって12月4日にシンガポールへ到着した。

 精鋭第23師団の司令部と半数を失ったヒ81船団の悲劇は大本営に衝撃を与え、マニラ防衛の準備が整わないままに翌皇05(S20/45)年1月の米軍上陸を迎えてしまい、マニラ攻防戦は非常に苦戦することとなる。

 この空母千歳と姉妹艦の千代田は、瑞鳳、翔鳳、龍鳳らと異なり、潜水母艦ではなく水上機母艦から空母になった。水上機母艦とは、巡洋艦や戦艦より火薬式カタパルトで射出し偵察、索敵を行い帰りは海上に着水してクレーンで吊って回収する航空機である水上機を専門に搭載する艦である。

 もっとも、計画当初は水上機母艦ではなく、甲標的母艦であった。甲標的とは1人乗りの特殊潜航艇で、例えば敵海上基地の近くで母艦より発進、湾内、泊地などに侵入し至近距離から魚雷を1発だけ撃つ秘密兵器である。真珠湾で実践参加した。しかし計画は秘匿され、千歳と千代田は水上機母艦として建造された。その後、千代田のみ計画通り甲標的母艦に改装された。

 

 

 現存する甲標的。船首に敵の防護網を切断するカッターが装備されている。


 したがって厳密には、千代田は水上機母艦→甲標的母艦→空母となった。千歳は、水上機母艦のままで甲標的母艦にはならなかった。

 

 

 

 

 水上機母艦千歳もしくは千代田。背部の特徴的な高架が認められる。


 マル2計画により、皇紀2598(S9/1938)年7月、水上機母艦として竣工。上記の通り元は特殊潜航艇甲標的母艦として設計されたが、秘匿のため水上機母艦として完成した。搭載したのは九四式水上偵察機、九五式水上偵察機で、後に零式観測機、零式水上偵察機へ変わった。機関は艦本式蒸気タービンとディーゼルエンジンとの併用だった。

 

 

 九四式水上偵察機

 

 

 九五式水上偵察機 

 

 

 零式観測機 

 

 

 零式水上偵察機

 

 一時、水上機母艦として中国大陸へ進出したのち、真珠湾後の太平洋戦線にも水上機母艦として参加。皇02(S17/42)年6月のミッドウェーにも参加した。ただし前衛部隊の空母4隻全滅により、ミッドウェー島攻略が中止となり、途中で引き返した。

 主力空母喪失の穴を補うため、潜水母艦大鯨(龍鳳)、貨客船あるぜんちな丸(海鷹)、ドイツ客船シャルンホルスト(神鷹)、貨客船ぶらじる丸(撃沈され未改装)、そしてこの水上機母艦千歳と、甲標的母艦千代田の空母改装が決定する。

 その前には、同年8月の第2次ソロモン海海戦へ水上機母艦として参加。龍驤隊が囮となり、翔鶴、瑞鶴がヘンダーソン航空基地を爆撃する作戦だったが、敵航空隊に逆襲され、龍驤が沈み基地攻撃も不発に終わってしまった。この一連のガ島攻防戦は1回1回の戦いはそうでもないが、同年12月のガ島撤退までに失った艦船、航空機、弾薬燃料、人員は総数でこの後のどの戦いよりも大きく、日本海軍の体力を大きく奪った。

 翌皇03(S18/43)年1月より佐世保で空母改装開始。順調に進み、同年の8月1日に工事は完成。12月に正式に空母となり、竣工を迎えた。

 

 

 竣工直後。

 

 この年、聯合艦隊では大きな戦いはなかったが、日米とも休んでいたわけではなく、戦争は継続中。大規模な航空戦が行われ、空母艦載機は基地航空隊へ派遣。消耗した航空機やパイロットの補充がままならず、日本は航空戦力をすり減らし、また大艦隊が作戦出撃しては会敵せずを繰り返してついにトラック基地の備蓄燃料が底をつきかける事態となったうえ、米潜水艦による補給船の被害は増える一方。空母にまでドラム缶を積んで燃料輸送する有様であった。

 皇04(S19/44)年6月、日本は航空戦力及び艦隊随伴可能空母を結集し、米機動艦隊へ超アウトレンジ作戦を挑んだ。マリアナ沖海戦である。

 結集した空母は9隻。その護衛補給随伴部隊を含め、大艦隊であった。ミッドウェーの轍を踏み、戦艦水上部隊を前衛に出し、後方の空母群からのアウトレンジ攻撃だった。

 空母は3隻ずつ甲乙丙の3群に分かれ、護衛部隊を引き連れて進軍した。甲部隊(大鳳、翔鶴、瑞鶴)乙部隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)丙部隊(千歳、千代田、龍鳳)であった。

 しかし敵はパラオ空襲時に海軍の参謀将校が捕虜となり、後のマリアナ作戦要綱が米軍の手に渡るという「海軍乙事件」によりこの「あ号作戦」を事前に掴んでいた。米軍は前衛の水上部隊を無視し、日本軍と同じく超アウトレンジ戦法をとった。また日本軍の潜水艦攻撃隊に備え、駆逐艦を日本軍の3倍もの67隻配備したうえ、日本軍の護衛艦の少なさに注目してか、逆に潜水艦隊を派遣した。さらには、最新鋭艦戦F6Fヘルキャット、VT信管付対空弾、空母戦艦はもとより巡洋艦駆逐艦にまで最新式レーダー搭載と、日本のそれを遥かに凌駕する戦力を充実させていた。

 結果は、惨憺たるものであった。6月19日、早朝の第1次から薄暮の第6次にまで渡って行われた日本軍の航空攻撃は半数以上を失ったうえ、敵被害はほぼゼロという大敗北。しかも攻撃隊発進中に最新鋭空母大鳳と歴戦の翔鶴が米潜により雷撃され、それが元で航空燃料が漏れ引火し大爆発。2隻ともその日のうちに沈没した。

 翌日20日、海上補給のため艦隊集結していたところを米軍航空隊が逆襲、総勢200機にも及ぶ大編隊に襲われる。艦隊は散り散りとなり、特にタンカー部隊は混乱した。空母飛鷹とタンカー2隻が撃沈され、各艦も小破中破の損害を受けた。千代田も直撃弾1をうけ火災発生した。20日夕刻には日本軍も米軍を発見し攻撃隊を発進させたが、全損し攻撃失敗した。

 日米とも残存艦隊を集め追撃に移ったが、日本軍は小型艦艇の燃料不足が懸念されたため追撃を諦め、撤退した。米軍も日本軍を追ったが発見できなかったため、21日2120に追撃中止し撤退した。

 米軍より「マリアナの七面撃ち」などと呼ばれたという歴史的大敗北により、日本軍は航空隊が壊滅。空母は乗せる艦載機とパイロットを失い、機動艦隊は事実上戦力を失った。

 同年10月、海軍は最後の攻勢にうってでる。マリアナ沖海戦の勝利によりマリアナ諸島方面の制海・制空権を得た米軍はそこを拠点にフィリピンへ戦力を結集しはじめた。日本軍はフィリピン防衛のため、米軍の大規模輸送上陸部隊を撃滅せんと史上最大の海戦を計画。米軍もまたそれを迎え撃つため、最強の布陣を敷いた。

 レイテ沖海戦である。日本軍は部隊を4つに分け、司令官の名をとってそれぞれ「栗田艦隊」「西村艦隊」「志摩艦隊」「小澤艦隊」と通称する。小澤艦隊のみ空母を主力とした機動部隊で、他は全て空母無しの水上部隊である。すなわち、制空権はほぼフィリピンの基地航空隊に依存するほかはなかった。戦艦大和、武蔵、長門を要する栗田艦隊を本体とし、生き残った空母瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田の4隻と航空戦艦伊勢、日向の小澤艦隊が陽動(囮)として北東より米機動艦隊を引き付け、その隙に西北より侵入した栗田艦隊がパラワン水道を抜けシブヤン海を横断、レイテ島を北周りに進撃しレイテ湾へ突入、集結していた米上陸部隊を叩く。また背後より戦艦扶桑、山城を中心とする西村艦隊と、日本より南下した重巡那智を中心とする志摩艦隊がスリガオ海峡を抜け南西からレイテ湾へ侵入、栗田艦隊と合流するという空前絶後の超大作戦であった。

 詳細は専門サイト等を参照していただくとして、空母千歳は小澤艦隊として囮作戦に参加する。航空機がまともに確保できない空母は、もはや輸送か囮にしか使えない。

 エンガノ岬沖海戦である。既にシブヤン海では栗田艦隊がハルゼー提督の執拗な空襲に襲われており、戦艦武蔵が落伍(後日沈没)していた。しかし、その空襲がぴたりとやむ。ハリゼー提督は南下する小澤艦隊の前衛部隊を発見。空母4隻を有するため、そちらが主力と「誤認」したのであった。ここに、小澤艦隊は見事に囮の役割を果たすことになるが、栗田艦隊は被害の大きさに一時反転せざるを得なくなる。

 小澤艦隊はその報を受け、栗田艦隊が撤退したと判断。自身も反転し北上を開始。結果的に、さらにハルゼーを誘引することに成功した。小澤艦隊はその旨を栗田艦隊に打電したが、届かなかった。

 10月24日、米機動部隊の襲来が避けられないと判断した小澤艦隊は錬度未熟と思われる航空機を陸上基地へ避難させる。これにより、艦隊を護る直掩の零戦はたったの18機という様相を呈した。この18機は勇躍奮戦し、敵機撃墜17機を報告している。

 0815、180機もの敵機襲来。第1次攻撃である。小澤中将は全軍に当てハルゼー提督を誘引成功を意味する打電をするが、どこにも届かなかった。第1次空襲で早々に瑞鳳が被弾、落伍する。瑞鶴も魚雷1発受け速度低下。0850ころ駆逐艦秋月が突如として大爆発し轟沈。原因は不明である。0900ころ千歳は直撃弾5至近弾多数を受け、喫水線下で爆発が起き大浸水。航行不能となり、0930総員退艦。救助作業もむなしく0937に沈没した。その他艦艇も被害多数。

 

 

 

 

 エンガノ岬沖にて爆撃を受ける千歳と思わしき空母。

 

 その後、攻撃は第4次まで行われ、ハルゼー提督は再び栗田艦隊へ向かったため攻撃は中止された。ただし、一部水上部隊が残存日本艦艇を求めて追撃した。千歳の後、瑞鶴、瑞鳳も沈没。特に瑞鶴は米軍にとって真珠湾以来の宿敵であり、最後の大物空母であった。千代田は第2次攻撃で直撃を受け大火災。航行不能となり漂流していたところ、味方の雷撃処分を待たずにデュポーズ少将の率いる重巡2軽巡2駆逐艦多数の追撃部隊に発見され、砲撃により撃沈された。

 ここに日本の機動艦隊は壊滅。本土には竣工したばかりの雲龍型や、故障中の隼鷹、龍鳳、練習艦となっていた翔鳳らがいたが、機動艦隊は解散し空母は単独で行動することとなった。空母4戦艦2軽巡3駆逐艦8総勢17隻の小澤艦隊で生き残ったのは、戦艦2(伊勢、日向)軽巡2(大淀、五十鈴)駆逐艦3(霜月、若月、槙)の7隻であった。

 武蔵沈没後の24日深夜、西村艦隊が志摩艦隊の到着の遅れを理由にスリガオ海峡へ単独突入。米軍の大迎撃を受け、壊滅する。志摩艦隊が到着した時には、駆逐艦時雨を残して海峡が燃え盛る炎で真っ赤に染まっていた。志摩艦隊は時雨と合流し、突入を断念、反転する。

 体勢を立て直した栗田艦隊は進撃を再開。翌25日にサマール島沖で米第3護衛艦隊と遭遇、ハルゼー部隊と「誤認」し戦闘開始。勇戦するも、報告を受けた第1第2護衛艦隊群からも艦載機が飛び立ち、逆に200機もの航空機に襲われる。米軍は油圧カタパルトを実装しており、搭載数が20機ていどの小型空母にも大型の最新航空機を配備していた。そんな護衛空母が10隻集まれば、200機もの攻撃隊を運用できた。

 栗田艦隊は大した戦果もあげられぬまま追撃中止。さらに南下するも、燃料弾薬の欠乏、味方艦艇の沈没、損傷激しく、また西村艦隊壊滅と志摩艦隊撤退の報を受け作戦遂行を断念。「栗田ターン」をもってレイテを離れたのであった。

 ここに日本は聯合艦隊も壊滅し、制空権、制海権を失ったため残存艦艇を本土へ集めるのにも苦労する。翌皇05(S20/45)年4月の大和特攻が、最後の大規模海戦となった。その後は、動かす油も無いまま、残存艦艇は呉などで浮遊砲台と化す。
 

 大鷹(たいよう)型航空母艦の1つである海鷹(かいよう)は、厳密には大鷹型ではなく、一定の大きさの商船改装空母を分類上便宜的に大鷹型としたものである。大鷹型は新田丸級客船改装空母の大鷹、雲鷹(うんよう)、冲鷹(ちゅうよう)の3隻のみで、貨客船あるぜんちな丸改装のこの海鷹と、ドイツ客船シャルンホルストを改装した神鷹(しんよう)は、独立した1隻のみの空母となる。

 

 


 有事の際に優先的に海軍が徴収、または買収して軍務に就かせることを条件に軍が建造費を融資する「優秀船舶建造助成施設」補助金で貨客船「あるぜんちな丸」と「ぶらじる丸」が大阪商船によって建造された(竣工した)のは、皇紀2599(S14/1939)の5月(あるぜんちな丸)と12月(ぶらじる丸)であった。大型のディーゼルエンジンを積み、16500馬力で最大21.5ノットを出せた。さっそく南米航路へ投入され、海軍へ徴傭されるまでブラジルへ日系移民を運ぶなど、大いに活躍した。

 

 

 貨客船あるぜんちな丸。上の写真と比べて、船首の形状がそのまま海鷹へ残っているのがわかる。


 2年後の皇01(S17/41)年9月、真珠湾を控え、両船は海軍に徴傭される。12月真珠湾。対英米蘭戦開始。翌年5月、ミッドウェー海戦に備えて兵員を輸送し、6月の海戦にもミッドウェー島上陸占領作戦用の兵員を乗せて作戦に参加した。しかし、ミッドウェーは主力空母4隻重巡1隻を失う大敗北を喫し、出番なく撤退する。

 その後、6月30日、空母不足を補うために日本軍は次年度予算としてあるぜんちな丸、ぶらじる丸、ドイツより譲渡された客船シャルンホルスト、水上機母艦千歳、千代田の空母改装を決定する。

 しかし8月5日、空母改装準備のためトラックから横須賀へ向かっていたぶらじる丸が米潜グリーンリングの攻撃によって撃沈されてしまう。このため、あるぜんちな丸のみが空母となった。

 あるぜんちな丸はアリューシャン方面や東南アジア方面への兵員輸送作戦へ従事したのち、12月20日、長崎の三菱造船にていよいよ空母改装へ着手した。翌皇03(S18/43)年11月23日工事完成。空母海鷹となる。龍鳳と同じく、ディーゼル主機をすべて陽炎型蒸気タービンへ換装した大工事だった。

 

 

 改装直後の公試。まだ菊の御紋にカバーがついている。


 既に海軍は度重なる徴傭補給船の被害に業を煮やし、聯合艦隊とは異なる「海上護衛総司令部」を設立。海防艦、駆逐艦、それに大鷹型空母を編入し大規模補給船団の護衛にあたらせた。が、当初はまだ護衛艦隊として動く準備ができておらず、護衛司令部付きのまま、連合艦隊麾下として航空機輸送を行う。

 翌皇04(S19/44)年1月、護衛の駆逐艦とともにシンガポール、マニラ、パラオ方面へ航空機輸送。2月20日に呉へ戻った。

 3月17日、ヒ57船団護衛として護衛艦隊初任務。何事もなく4月16日シンガポール到着。帰路はヒ58船団として物資を積み4月21日に日本へ向かい、5月3日に門司へ到着した。5月29日ヒ65船団としてシンガポールへ向けて出発。台湾沖で米潜ギターロの襲撃にあい海防艦淡路が沈没。輸送船2隻が回避行動中に衝突、1隻が大破し練巡香椎に曳航され台湾へ逃れたが他はなんとか離脱、6月11日にシンガポール到着。帰路ヒ66船団は6月17日にシンガポール出発、6月26日に無事門司へ戻った。
 
 マリアナ後、日本軍はフィリピンへ戦力を終結させる。修理の後、海鷹は大鷹、神鷹らと共にヒ69船団に加わる。ただし対潜哨戒を行ったのは神鷹のみで、大鷹と海鷹は零戦、彗星、天山、雷電、月光などの航空機を輸送した。米潜により第17号海防艦が中破したが他に被害無く7月20日にマニラ到着。帰路は神鷹がヒ69船団護衛としてシンガポールへ、大鷹がヒ68船団護衛として日本へ向かった。

 7月5日、海鷹はマモ01船団護衛で台湾を経て日本へ向かう。8月3日日本到着、海鷹はドック入りし10月まで機関修理する。

 10月17日、再び聯合艦隊に所属した海鷹は龍鳳と共に台湾沖航空戦で被害を受けた高雄へ向けての物資や損耗した航空機補充のため台湾へ向かう。しかし台湾空襲が始まり船団は非難しつつ基隆や高雄へ入港、物資を下ろし、またアルコールや砂糖を積んで日本へ戻った。呉で11月まで再び補修。

 レイテでも大敗し戦争も末期を迎える11月下旬、海鷹は最後の船団護衛任務を受ける。海鷹のほか駆逐艦5、海防艦5に守られた貨客船5とタンカー3他2隻からなるヒ87船団が日本を出発、高雄を経由し、一部はマニラへ向かい、12月13日、シンガポール到着。海防艦1隻が米潜の雷撃で失われた。12月26日、ヒ84船団としてシンガポールを出発。香港を経由して翌皇05(S20/45)年1月13日、門司へ無事に到着した。

 その後、燃料の枯渇と何より制海権、制空権の亡失により大規模輸送船団は運航停止に追い込まれ、海鷹も燃料不足により活動できなくなって、瀬戸内海で訓練艦(標的目標艦)となった。

 3月19日の呉空襲において、海鷹は空母天城、葛城近くに停泊していたところ、爆弾の直撃を受けた。しかし方向・角度が幸いしたのか、甲板を貫通して海面で炸裂したため、被害は少なかった。その後、同じく呉で生き残った空母仲間の龍鳳、鳳翔、天城、葛城と共に甲板へ植物などを置きカモフラージュする。

 その後、呉にてドック入りし修理したのち、瀬戸内海伊予灘にあって特高兵器桜花、回天の目標艦を務めた。終戦直前の7月18日、別府湾沖にてB-29の投下した機雷に接触し、損害軽微だったものの湾内へ戻る。7月24日米機動部隊の空襲を受けたが対空兵器で応戦、回避し無事だった。しかし空襲の終わった夕刻に退避のため湾を出たところ再び機雷に接触、機関と舵をやられ航行不能となる。駆逐艦夕風の曳航で別府湾内の日出に擱座。

 

 7月28日、再び米機動部隊艦載機による空襲。動けない海鷹は直撃弾3発をくらい浸水。発電機が停止し、排水ポンプが動かず浸水増大で完全に着底した。火災発生により艦内に煙が充満したが、排煙装置が作動せず総員退艦。どうしようもなく放棄された。

 

 

 着底した様子。引き揚げの後、解体された。


 そのまま終戦を迎え、昭和26(1946)年9月1日解体開始。S28(48)年1月31日解体完了した。スクラップ材として、戦後復興に貢献した。

 
 解体途中。