千歳 | バカ日記第5番「四方山山人録」

バカ日記第5番「四方山山人録」

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 この空母千歳と姉妹艦の千代田は、瑞鳳、翔鳳、龍鳳らと異なり、潜水母艦ではなく水上機母艦から空母になった。水上機母艦とは、巡洋艦や戦艦より火薬式カタパルトで射出し偵察、索敵を行い帰りは海上に着水してクレーンで吊って回収する航空機である水上機を専門に搭載する艦である。

 もっとも、計画当初は水上機母艦ではなく、甲標的母艦であった。甲標的とは1人乗りの特殊潜航艇で、例えば敵海上基地の近くで母艦より発進、湾内、泊地などに侵入し至近距離から魚雷を1発だけ撃つ秘密兵器である。真珠湾で実践参加した。しかし計画は秘匿され、千歳と千代田は水上機母艦として建造された。その後、千代田のみ計画通り甲標的母艦に改装された。

 

 

 現存する甲標的。船首に敵の防護網を切断するカッターが装備されている。


 したがって厳密には、千代田は水上機母艦→甲標的母艦→空母となった。千歳は、水上機母艦のままで甲標的母艦にはならなかった。

 

 

 

 

 水上機母艦千歳もしくは千代田。背部の特徴的な高架が認められる。


 マル2計画により、皇紀2598(S9/1938)年7月、水上機母艦として竣工。上記の通り元は特殊潜航艇甲標的母艦として設計されたが、秘匿のため水上機母艦として完成した。搭載したのは九四式水上偵察機、九五式水上偵察機で、後に零式観測機、零式水上偵察機へ変わった。機関は艦本式蒸気タービンとディーゼルエンジンとの併用だった。

 

 

 九四式水上偵察機

 

 

 九五式水上偵察機 

 

 

 零式観測機 

 

 

 零式水上偵察機

 

 一時、水上機母艦として中国大陸へ進出したのち、真珠湾後の太平洋戦線にも水上機母艦として参加。皇02(S17/42)年6月のミッドウェーにも参加した。ただし前衛部隊の空母4隻全滅により、ミッドウェー島攻略が中止となり、途中で引き返した。

 主力空母喪失の穴を補うため、潜水母艦大鯨(龍鳳)、貨客船あるぜんちな丸(海鷹)、ドイツ客船シャルンホルスト(神鷹)、貨客船ぶらじる丸(撃沈され未改装)、そしてこの水上機母艦千歳と、甲標的母艦千代田の空母改装が決定する。

 その前には、同年8月の第2次ソロモン海海戦へ水上機母艦として参加。龍驤隊が囮となり、翔鶴、瑞鶴がヘンダーソン航空基地を爆撃する作戦だったが、敵航空隊に逆襲され、龍驤が沈み基地攻撃も不発に終わってしまった。この一連のガ島攻防戦は1回1回の戦いはそうでもないが、同年12月のガ島撤退までに失った艦船、航空機、弾薬燃料、人員は総数でこの後のどの戦いよりも大きく、日本海軍の体力を大きく奪った。

 翌皇03(S18/43)年1月より佐世保で空母改装開始。順調に進み、同年の8月1日に工事は完成。12月に正式に空母となり、竣工を迎えた。

 

 

 竣工直後。

 

 この年、聯合艦隊では大きな戦いはなかったが、日米とも休んでいたわけではなく、戦争は継続中。大規模な航空戦が行われ、空母艦載機は基地航空隊へ派遣。消耗した航空機やパイロットの補充がままならず、日本は航空戦力をすり減らし、また大艦隊が作戦出撃しては会敵せずを繰り返してついにトラック基地の備蓄燃料が底をつきかける事態となったうえ、米潜水艦による補給船の被害は増える一方。空母にまでドラム缶を積んで燃料輸送する有様であった。

 皇04(S19/44)年6月、日本は航空戦力及び艦隊随伴可能空母を結集し、米機動艦隊へ超アウトレンジ作戦を挑んだ。マリアナ沖海戦である。

 結集した空母は9隻。その護衛補給随伴部隊を含め、大艦隊であった。ミッドウェーの轍を踏み、戦艦水上部隊を前衛に出し、後方の空母群からのアウトレンジ攻撃だった。

 空母は3隻ずつ甲乙丙の3群に分かれ、護衛部隊を引き連れて進軍した。甲部隊(大鳳、翔鶴、瑞鶴)乙部隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)丙部隊(千歳、千代田、龍鳳)であった。

 しかし敵はパラオ空襲時に海軍の参謀将校が捕虜となり、後のマリアナ作戦要綱が米軍の手に渡るという「海軍乙事件」によりこの「あ号作戦」を事前に掴んでいた。米軍は前衛の水上部隊を無視し、日本軍と同じく超アウトレンジ戦法をとった。また日本軍の潜水艦攻撃隊に備え、駆逐艦を日本軍の3倍もの67隻配備したうえ、日本軍の護衛艦の少なさに注目してか、逆に潜水艦隊を派遣した。さらには、最新鋭艦戦F6Fヘルキャット、VT信管付対空弾、空母戦艦はもとより巡洋艦駆逐艦にまで最新式レーダー搭載と、日本のそれを遥かに凌駕する戦力を充実させていた。

 結果は、惨憺たるものであった。6月19日、早朝の第1次から薄暮の第6次にまで渡って行われた日本軍の航空攻撃は半数以上を失ったうえ、敵被害はほぼゼロという大敗北。しかも攻撃隊発進中に最新鋭空母大鳳と歴戦の翔鶴が米潜により雷撃され、それが元で航空燃料が漏れ引火し大爆発。2隻ともその日のうちに沈没した。

 翌日20日、海上補給のため艦隊集結していたところを米軍航空隊が逆襲、総勢200機にも及ぶ大編隊に襲われる。艦隊は散り散りとなり、特にタンカー部隊は混乱した。空母飛鷹とタンカー2隻が撃沈され、各艦も小破中破の損害を受けた。千代田も直撃弾1をうけ火災発生した。20日夕刻には日本軍も米軍を発見し攻撃隊を発進させたが、全損し攻撃失敗した。

 日米とも残存艦隊を集め追撃に移ったが、日本軍は小型艦艇の燃料不足が懸念されたため追撃を諦め、撤退した。米軍も日本軍を追ったが発見できなかったため、21日2120に追撃中止し撤退した。

 米軍より「マリアナの七面撃ち」などと呼ばれたという歴史的大敗北により、日本軍は航空隊が壊滅。空母は乗せる艦載機とパイロットを失い、機動艦隊は事実上戦力を失った。

 同年10月、海軍は最後の攻勢にうってでる。マリアナ沖海戦の勝利によりマリアナ諸島方面の制海・制空権を得た米軍はそこを拠点にフィリピンへ戦力を結集しはじめた。日本軍はフィリピン防衛のため、米軍の大規模輸送上陸部隊を撃滅せんと史上最大の海戦を計画。米軍もまたそれを迎え撃つため、最強の布陣を敷いた。

 レイテ沖海戦である。日本軍は部隊を4つに分け、司令官の名をとってそれぞれ「栗田艦隊」「西村艦隊」「志摩艦隊」「小澤艦隊」と通称する。小澤艦隊のみ空母を主力とした機動部隊で、他は全て空母無しの水上部隊である。すなわち、制空権はほぼフィリピンの基地航空隊に依存するほかはなかった。戦艦大和、武蔵、長門を要する栗田艦隊を本体とし、生き残った空母瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田の4隻と航空戦艦伊勢、日向の小澤艦隊が陽動(囮)として北東より米機動艦隊を引き付け、その隙に西北より侵入した栗田艦隊がパラワン水道を抜けシブヤン海を横断、レイテ島を北周りに進撃しレイテ湾へ突入、集結していた米上陸部隊を叩く。また背後より戦艦扶桑、山城を中心とする西村艦隊と、日本より南下した重巡那智を中心とする志摩艦隊がスリガオ海峡を抜け南西からレイテ湾へ侵入、栗田艦隊と合流するという空前絶後の超大作戦であった。

 詳細は専門サイト等を参照していただくとして、空母千歳は小澤艦隊として囮作戦に参加する。航空機がまともに確保できない空母は、もはや輸送か囮にしか使えない。

 エンガノ岬沖海戦である。既にシブヤン海では栗田艦隊がハルゼー提督の執拗な空襲に襲われており、戦艦武蔵が落伍(後日沈没)していた。しかし、その空襲がぴたりとやむ。ハリゼー提督は南下する小澤艦隊の前衛部隊を発見。空母4隻を有するため、そちらが主力と「誤認」したのであった。ここに、小澤艦隊は見事に囮の役割を果たすことになるが、栗田艦隊は被害の大きさに一時反転せざるを得なくなる。

 小澤艦隊はその報を受け、栗田艦隊が撤退したと判断。自身も反転し北上を開始。結果的に、さらにハルゼーを誘引することに成功した。小澤艦隊はその旨を栗田艦隊に打電したが、届かなかった。

 10月24日、米機動部隊の襲来が避けられないと判断した小澤艦隊は錬度未熟と思われる航空機を陸上基地へ避難させる。これにより、艦隊を護る直掩の零戦はたったの18機という様相を呈した。この18機は勇躍奮戦し、敵機撃墜17機を報告している。

 0815、180機もの敵機襲来。第1次攻撃である。小澤中将は全軍に当てハルゼー提督を誘引成功を意味する打電をするが、どこにも届かなかった。第1次空襲で早々に瑞鳳が被弾、落伍する。瑞鶴も魚雷1発受け速度低下。0850ころ駆逐艦秋月が突如として大爆発し轟沈。原因は不明である。0900ころ千歳は直撃弾5至近弾多数を受け、喫水線下で爆発が起き大浸水。航行不能となり、0930総員退艦。救助作業もむなしく0937に沈没した。その他艦艇も被害多数。

 

 

 

 

 エンガノ岬沖にて爆撃を受ける千歳と思わしき空母。

 

 その後、攻撃は第4次まで行われ、ハルゼー提督は再び栗田艦隊へ向かったため攻撃は中止された。ただし、一部水上部隊が残存日本艦艇を求めて追撃した。千歳の後、瑞鶴、瑞鳳も沈没。特に瑞鶴は米軍にとって真珠湾以来の宿敵であり、最後の大物空母であった。千代田は第2次攻撃で直撃を受け大火災。航行不能となり漂流していたところ、味方の雷撃処分を待たずにデュポーズ少将の率いる重巡2軽巡2駆逐艦多数の追撃部隊に発見され、砲撃により撃沈された。

 ここに日本の機動艦隊は壊滅。本土には竣工したばかりの雲龍型や、故障中の隼鷹、龍鳳、練習艦となっていた翔鳳らがいたが、機動艦隊は解散し空母は単独で行動することとなった。空母4戦艦2軽巡3駆逐艦8総勢17隻の小澤艦隊で生き残ったのは、戦艦2(伊勢、日向)軽巡2(大淀、五十鈴)駆逐艦3(霜月、若月、槙)の7隻であった。

 武蔵沈没後の24日深夜、西村艦隊が志摩艦隊の到着の遅れを理由にスリガオ海峡へ単独突入。米軍の大迎撃を受け、壊滅する。志摩艦隊が到着した時には、駆逐艦時雨を残して海峡が燃え盛る炎で真っ赤に染まっていた。志摩艦隊は時雨と合流し、突入を断念、反転する。

 体勢を立て直した栗田艦隊は進撃を再開。翌25日にサマール島沖で米第3護衛艦隊と遭遇、ハルゼー部隊と「誤認」し戦闘開始。勇戦するも、報告を受けた第1第2護衛艦隊群からも艦載機が飛び立ち、逆に200機もの航空機に襲われる。米軍は油圧カタパルトを実装しており、搭載数が20機ていどの小型空母にも大型の最新航空機を配備していた。そんな護衛空母が10隻集まれば、200機もの攻撃隊を運用できた。

 栗田艦隊は大した戦果もあげられぬまま追撃中止。さらに南下するも、燃料弾薬の欠乏、味方艦艇の沈没、損傷激しく、また西村艦隊壊滅と志摩艦隊撤退の報を受け作戦遂行を断念。「栗田ターン」をもってレイテを離れたのであった。

 ここに日本は聯合艦隊も壊滅し、制空権、制海権を失ったため残存艦艇を本土へ集めるのにも苦労する。翌皇05(S20/45)年4月の大和特攻が、最後の大規模海戦となった。その後は、動かす油も無いまま、残存艦艇は呉などで浮遊砲台と化す。