大鳳 | バカ日記第5番「四方山山人録」

バカ日記第5番「四方山山人録」

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 長々と自分の再勉強のためにもやってきた大日本帝国海軍空母紹介も、残るは5隻(大鳳、雲龍、天城、葛城、信濃)となった。

 

 


 艦これではゲームのシステム上「正規空母」と「軽空母」という分け方をされているが、これは正確ではない。本来そんな分類はなく、全部「航空母艦」である。あえて云うならば「主力空母」「改装空母」「護衛空母」などになるが、これも便宜上のもので、軍で正式にそのように分類していたわけではない。自分の知る範囲では、軍で分けていたのは「航空母艦」と「特設航空母艦」のみだ。その違いはよく分からない。改装空母はいったん特設空母になって、後に正式に空母になるという流れに見える。

 ところでこの大鳳であるが、久々に改装空母ではなく最初から空母として設計・建造された。順番で云うと瑞鶴以来となるから、真珠湾以前からこっち、日本軍で竣工したのは全て改装空母であった。原因はやはり、ミッドウェーにおいて主力空母4隻撃沈の余波で、日本の作戦計画が根本から覆り、目先の空母確保に予算と時間を取られたからと推測する。

 また、対米戦といっても実質は4年半とちょっとである。じっくり空母の運用計画など練る暇はない。特に新機軸を盛り込んだ新型は設計から始めて模型実験を繰り返し、竣工させるにはどんなに急いでも数年かかるので、瑞鶴の次が大鳳なのも常時では普通と考えられる。

 さて、ミッドウェーの戦訓として「日本空母の防御力の弱さ」があった。これは構造上の問題で、格納庫が密閉式(閉鎖式)であったことや、機関が集中式であったこと等が挙げられる。米空母は格納庫が解放式で、波浪による航空機の塩害という弱点があるが、いざ爆撃を食らうと爆発が外に逃げて損害を減らし、また誘爆を起こす爆弾・魚雷や延焼した航空機を人力(ブルドーザー)で海へ投棄することができる。機関は戦艦のようにブロックごとに分かれており、魚雷の1、2発では機関を全てやられない。日本の空母は特に潜水艦の攻撃でわりとあっさり沈むのに、米軍の空母は爆撃されようが魚雷を食らおうがなかなか沈まない。自軍の自沈処理でも沈まなくて放棄されているくらいである。また、消火設備や訓練も雲泥の差があった。ダメージコントロール技術でも、米軍のほうがずっと上だった。

 それらは、改装空母では元の船の設計もあり、なかなか改善できなかった。隼鷹、飛鷹で戦訓により消火設備を充実させたが、飛鷹は肝心の消火ポンプ故障で火災が収まらず沈んだ。機関は翔鶴や瑞鶴で既に2ブロックで分けていたが、それを参考にして同様に分けた。また最も重要なのは、英空母イラストリアスで既に実践されていた甲板へ装甲を装備する、日本軍初の「装甲空母」として大鳳は設計されたことである。

 装甲といっても半端ではない。全面ではないが、500kg爆弾の直撃に耐えられる最大厚95ミリもの甲鉄板を甲板下に張ったので自重が増加。重心も上がったため、格納庫容積を減らして背を低くして重心を下げ、甲板と船体が一体化したハリケーンバウを採用する等、設計を工夫した。空母は船体の上に半分埋め込みで箱(格納庫)を乗っけて、その天井部分から甲板が伸びており、船首と甲板に隙間があって柱が見えているのが日本空母の外見的な特徴だったが、大鳳はそこへも船側を張り付けて米空母や現代空母と同じく船体と甲板が一体化している。日本軍が初めて採用した形状の空母であった。

 しかし格納庫が圧迫され、物理的に狭くなったので翔鶴型より一回り大きいのに搭載機数は格段に減っている。マリアナ時翔鶴77機、大鳳54機であった。これは、格納庫が狭くなったことに加え搭載機が新型で旧式機より大型の烈風、天山、彗星、流星想定となり、零戦、97式、99式に比べて必然、搭載機数が減ったこともある。

 また機関や燃料タンク周囲にも厳重に甲鉄板よる防護壁が施された。

 艦橋は戦訓により空母での艦隊指揮も考慮し大型化した。かつて飛龍で艦橋に指揮所が無くえらい苦労したのであった。また、既に隼鷹型で試されていた大型艦橋と一体化した斜形煙突が採用されている。ただし、これはもともと大鳳のために設計されたものを先行して隼鷹型で試して効果を得ていたもの。

 

 

 ハリケーンバウ、大型艦橋、そして艦橋と一体型の斜形煙突が分かる。


 最新鋭の装甲空母だったが、弱点もあった。

 航空機を格納庫から甲板へ出し入れするエレベーターの床は、甲板へ上がると甲板になる。そのため、エレベーター床にも装甲が施されたが、それによりエレベーター1基の重量が100トンを超え、いちど故障すると艦内工作員では復旧不可能だった。実際そうなった。

 格納庫が密閉式なうえに、他の空母では爆撃された場合の衝撃や爆風が甲板を突き抜けて逃げるのだがそこが装甲で塞がれているため、被害が甚大になる恐れがあった。じっさい被害甚大であった。

 鋭意建造中、既に戦争は佳境に入っており、熟練工が軒並み徴集されて建造精度に難があった。じっさいたった被雷1本の衝撃で航空燃料であるガソリン庫の溶接が外れ、漏洩したガソリンが元で沈没した。

 さて、大鳳はマル4計画により計画されたが運用や仕様に紆余曲折があった。皇紀2601(昭和16/1941)年7月10日に建造開始、その冬には真珠湾により対英米蘭戦勃発。工事を突貫して行い2年後の皇03(S18/43)年4/7に進水、艤装も超突貫で行い工期短縮に継ぐ短縮で翌皇04(S19/44)年3/7に竣工した。

 さっそく訓練に入り、同年3/28に兵員輸送を兼ねて呉を出発。大鳳飛行隊の第六〇一航空隊の航空機である零戦、天山、彗星のほか、百式司令偵察機、月光、零式観測機、零式水上偵察機を運んだ。4/4-5シンガポールで兵と輸送航空機を下ろし、4/9にリンガ泊地到着。4/15に小澤機動艦隊旗艦を拝命。第一航空戦隊(一航戦)として翔鶴、瑞鶴と共に着艦訓練に勤しんだ。5/14タウイタウイ泊地へ移動。二航戦(隼鷹、飛鷹、龍鳳)、三航戦(千歳、千代田、瑞鳳)と合流。マリアナ沖海戦へ備える。

 

 

 タウイタウイの大鳳。奥に翔鶴か瑞鶴、右上に金剛か榛名が見える。デジタル彩色。大鳳の甲板は木の甲板説とラテックス説があるが、自動復元を見るに木の甲板っぽい。

 
 しかしタウイタウイは周囲に大きな陸上基地が無く、また外洋で航行しながら訓練を行おうにも米潜がウヨウヨ集結しており、警戒の日本軍駆逐艦が逆に5隻以上も撃沈される始末であり、まったく航空隊の訓練ができない状況だった。

 6/13、陸上基地を利用して訓練を行うべくフィリピンのギマラスへ移動。訓練を行ったが、対潜哨戒を行っていた天山が着艦ミスで事故が起き、甲板上で炎上、露店駐機していた航空機多数と搭乗員、整備員計8人が戦死した。嫌な予感を抱えたまま、米軍のサイパン攻略公算大として「あ号作戦」が発令。たった2日後、ろくな訓練もできないまま6/15運命のマリアナ沖へ向かう。

 マリアナ沖海戦は、既にパラオ空襲の際に二式大艇で脱出した海軍上層部が墜落により米軍に捕らわれ作戦大綱が奪われるという「海軍乙事件」により、米軍の知るところであった。日本軍はこの大航空戦に米機動艦隊壊滅を賭けて一大アウトレンジ作戦を慣行した。ミッドウェーの戦訓により水上部隊を前衛に出して囮または防御とし、後衛の甲乙丙(それぞれ一、二、三航戦)機動部隊より矢継ぎ早に攻撃隊が発艦、米軍を叩く。

 これもミッドウェーの戦訓による三段構えの水も漏らさぬ索敵により、日本軍は米軍より先に敵を発見していた。6/18各陸上基地から攻撃隊が米軍へ向かったが、返り討ちにあい半壊した。このため、陸上基地隊との共同作戦が頓挫。同日夕刻近く、甲部隊より攻撃隊が発艦したが、帰還が夜間になるため夜間着陸による事故を恐れ、攻撃は中止。甲部隊は反転した。(この反転により、米潜行動圏に入ったのだという。)


 翌19日も早朝より日本軍の索敵が先に米軍を発見した。この時点で、米機動部隊は日本艦隊を発見できていない。小澤司令は攻撃を決意する。

 しかし、このころには、甲部隊へ米潜カヴァラ及びアルバコアが接近、追尾していた。日本軍は艦隊規模のわりに護衛の駆逐艦が少なく、潜水艦の接近にまったく気づいていなかった。

 0630より各艦とも順調に攻撃隊を発艦させ、大鳳では0800ころ第一次攻撃隊の発艦を終えた。艦隊には楽観ムードさえ漂い、手すきの者は甲板で帽振れの令が出され、各員帽子を振って航空隊を見送った。無線傍受していた軍令部でも勝利の気分が漂った。

 しかし、文字通りそれを全て吹き飛ばす悪夢が始まる。0810まず潜水艦アルバコアが大鳳へ向けて魚雷発射。編隊合流中の彗星1機が上空よりそれを発見し海面へ突っこんで阻止しようとした。大鳳でも雷跡発見し取舵いっぱい急旋回したものの、右舷前方へ1発が命中する。

 浸水し右舷傾斜したが注水により復旧。速度低下したものの航空隊発艦作業が続けられた。

 ところが、雷撃の衝撃で零戦を乗せて動いていた前部エレベータが甲板まであと1mというところで止まってしまった。昇降用のワイヤーが滑車よりはずれたのだという。エレベーター重量が記述のとおり100トンあり、艦内工兵では復旧不可能だった。そのため、工兵総動員でダメコン用の丸太角材、さらには食堂の椅子テーブルまで組み上げて、なんとか甲板の穴(14m四方)を埋めた。

 補強部の強度を確かめ、武装を外して軽量化した零戦や天山を飛ばし、瑞鶴へ移動させた。その後、1030から翔鶴や瑞鶴より第二次攻撃隊発進。

 そのころより、大鳳内では先の攻撃で漏洩した航空燃料のガソリンが気化充満し始めた。ガソリン庫は電気溶接だったが、それがたった1発の魚雷の衝撃で裂けてしまった。前部海面下ガソリン庫の近くに被雷したのであった。そのため漏れたガソリンが浸水により押し上げられ、格納庫まで上がってきたのが原因であるという。運の悪いことに前部エレベーターは塞がれたまま動かず、密閉式の格納庫ではそもそも排気に限界があり、気化ガソリンは艦内を述べなく舐めた。ガソリン庫近くの部署は気化ガスにより退出を余儀なくされ、復旧作業のため近づいたものは失神するほど濃度であったため、ガソリンの漏洩を防げなかった。

 火花を恐れて工作道具の使用も憚られ、艦内は火気厳禁のまま成す術なく窓を全開にする、排気ファンを全開にする、後部エレベーターを下げる、格納庫の壁を一部破壊するなどの措置で必死に換気したが、まるで追いつかなかった。格納庫内では眼も開けられない程にガソリンが充満した。艦内換気扇を全開にしたためかえって艦内全域に気化ガソリンが行き渡った。

 そうこうしている間に、1120米潜カヴァラの放った魚雷のうち3~4本が翔鶴右舷へ命中。これもガソリン庫が破れ引火し、先に大火災を起こした。

 1200ころ大鳳などを発艦した第一次攻撃隊が戻ってきたが、アメリカ軍のとてつもない反撃を受け、なんと大鳳隊で帰還できたのは42機中たったの4機(零戦3、二式試偵1)であった。天山及び彗星は全滅した。米軍は既に日本軍のそれを遥かに超える高性能レーダー、VT信管付対空兵器、さらにはF6Fヘルキャット戦闘機を備え、錬度の低い日本機を「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄するほどメチャクチャに叩き落したのである。

 翔鶴が大炎上中であり、やむなく大鳳でも米軍を発見できずそのまま戻ってきた翔鶴第二次攻撃隊の収容が細心の注意を払って行われることになった。

 1400すぎ、ついに翔鶴が前方より沈み始めた。甲板へ逃れていた生存者はそのまま燃え盛るエレベータ孔へ次々に滑り落ち、地獄絵図であった。

 さらに1432戻ってきた攻撃隊の収容が始まった直後、大鳳が大爆発する。戻ってきた1機めが胴体着陸した瞬間だったというが、他にも数機着陸後に爆発した、何機か着陸後に零戦が何らかの理由によりタッチアンドゴーで飛び立った瞬間に爆発した、艦内換気扇のモーターが焼けて発火した、電気室後部の罐室に気化ガソリンが到達し罐の熱で発火したなど、各種説がある。

 とにかく「関東大震災のような」揺れが艦を襲い、装甲の装備された甲板が飴細工のようにひん曲がって押し上げられた。しかしその装甲のせいで爆圧が甲板を抜けず艦の下へ向かって吹きつけ、機関まで達して甚大な被害となった。

 大鳳の後部を航行していた重巡羽黒では、大鳳の格納庫の壁が吹き飛んで炎が吹き抜け、まるで大鳳が火柱に串刺しにされているような光景が見られた。その際、航空機や人間が大量に吹き飛ばされた。前部甲板はたちまち猛火に包まれた。

 艦橋では直ちに消火装置のスイッチが入れられたが延焼が酷く鎮火できなかった。爆発の衝撃で機関がやられ見る間に速度低下、ついには航行停止した。潤滑油配管が破れ機械油が漏洩し、機関が破壊されたのだという。また機関室と連絡が取れず、消火管が開けられず火は全く衰えなかった。あまりの猛火に機関員全滅と判断されたが、一部は助かって脱出成功している。

 直ちに重巡羽黒や駆逐艦若月に救助が命じられたが、爆発が連続して続き接近できなかった。翔鶴沈没、大鳳大炎上により翔鶴の二次攻撃隊は随時瑞鶴に着艦した。

 小澤長官は大鳳へ残ることを希望したが、周囲の説得で参謀長らと共に脱出。艦橋が楯となり助かった唯一のカッターボートで若月へ移動。その後羽黒へ移った。周囲の船から次々にカッターボートが派遣され、生存者を救出した。最後は駆逐艦磯風が果敢にも燃え盛る大鳳艦尾に接舷し、救助を行った。

 その間にも大鳳は左舷へ大きく傾斜し、救出断念し磯風が離艦した直後の1628(爆発から2時間後)そのまま左舷から沈没した。

 大鳳は日本海軍の中でも1、2を争う運の悪さで、竣工から3か月、初陣で沈んでしまった。

 その後、日本軍は残る瑞鶴、また乙丙部隊から第6次まで攻撃隊を繰り出したが、ほとんどが全滅または壊滅の憂き目を見たうえ、翌日は補給のため洋上集結しているところを米軍に発見され200機もの大逆襲を受ける。この空襲で飛鷹及びタンカー2隻が撃沈され、他にも損傷艦多数というミッドウェー以上の大敗北を喫した。

 艦艇も然る事ながら航空隊が壊滅的被害を受け、乗せる航空機の無い機動艦隊は二度と立ち直らなかった。このことはもう日本艦隊にまともな航空機掩護が着かないことを意味し、レイテ、沖縄特攻でも事実そうなった。

 

 

 まさに近代的な最新空母に相応しい日本を代表する空母であるが、まことに不運な沈み方をした。