雲龍 | バカ日記第5番「四方山山人録」

バカ日記第5番「四方山山人録」

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 皇紀2600年(昭和15/1940)年の時点で、対米戦に備え、戦時急増艦の計画を策定。真珠湾後にその実行に移される。設計を終えていた大鳳以降の新型空母は全て改装空母であり、新造空母は設計や試験が間に合わず、また大鳳も建造に数年かかることから既にある空母の設計図を流用・改良することとなった。そのため、中型空母としては理想的だった飛龍の設計図を流用し、新たに雲龍型空母が建造されることになった。

 従って、雲龍型を改飛龍型(または飛龍改)とも呼ぶ。

 さらに、設計中にミッドウェーが、艤装中にマリアナが発生し、随時戦訓を取り入れて改装を加えている。

 主な変更点は以下の通りである。

 飛龍では進行方向へ向かって左舷に艦橋があったが、航空隊から不評であった。プロペラ機はプロペラの回転の方向状、自然に左側へ寄るため、左舷艦橋はパイロットへ心理的な不安を与えていたという。そのため艦橋は蒼龍と同じく右舷へ変更された。

 舵を蒼龍と同じく吊下式二枚舵とした。

 エレベーターを戦時急増のため前中後3基から前後2基へ変更。また、搭載機大型化へ対応し、14m四方と大鳳と同じ大きさにした。

 ミッドウェーの戦訓により、対空機銃を増設し、また12cm8連装対空墳進砲を追加。また罐室の空気取り入れ口を右舷のみから左右両舷とし、竣工時から対潜迷彩塗装とした。

 マリアナの戦訓により、航空燃料用ガソリン庫周囲にはコンクリを充填して防御を施した。

 皇01(S16/41)年ミッドウェーを受け、改装空母の回想着手と同時に、改大鳳級5隻、改飛龍型中型空母15隻の建造が決定した。夢物語ではあったが、3番艦葛城の後は笠置、阿蘇、生駒までは船体が完成していた。その後、鞍馬は建造中止。それ以降は計画のみ。

 既に対米戦開始後の皇02(S17/42)年8月に横須賀で起工。飛龍型の建造は3年であったところ2年に短縮した戦時突貫工事で、竣工は皇04(S19/44)年8/6であった。すぐさま長崎で建造され8/10に竣工した姉妹間の天城と共に第一航空戦隊へ編入。しかし、度重なる航空戦の敗北とマリアナの惨敗により、海軍はまともに運用できる航空隊を失っていた。

 

 

 横須賀を出て公試中の雲龍。

 

 一時は米軍の小笠原・硫黄島空襲に対処するため雲龍1隻と護衛の軽巡1、駆逐艦2で「急襲部隊」を編制。東京湾で訓練した。この際、これまでの攻撃機と急降下爆撃機を兼ね備えた新型攻撃機「流星」のロケット発艦実験を行ったという。これは、2000馬力誉エンジンに4枚ペラの流星はかなり大型の機体で、発艦には大きな甲板と速度、もしくはカタパルトが必要だったが、日本軍は油圧式カタパルトを実用化できなかったため、発艦時に使い捨てのロケット墳進機を使用する実験だったと推測する。

 だが急襲部隊は出撃することはなく、1か月ほどで解散し第三艦隊へ戻る。10/15には雲龍型3番艦葛城が竣工。雲龍型3隻(雲龍、天城、葛城)で一航戦を編成したが搭載する飛行機が無く、これも出撃の機会はなかった。

 10月下旬、一連のレイテ沖海戦勃発。これまでの記事で何度も記してきたが、事実上、聯合艦隊そのものが壊滅したうえ、艦載機が無くまともに戦えぬ空母は囮任務で出撃し、瑞鶴、瑞雲、千歳、千代田が沈没。この時点で日本に残る空母は8隻。そのうち鳳翔は練習艦になっており、海鷹は護衛総司令部所属、また大和型戦艦3番艦を改装した空母信濃はまだ艤装中であったため、実質は龍鳳、隼鷹、雲龍、天城、葛城の5隻であった。(その他建造中が数隻)

 小澤司令はその5隻で一航戦を編成。最初雲龍を旗艦とし、その後龍鳳を旗艦としたが機動艦隊そのものが解散。一航戦はそのまま(組織上)聯合艦隊麾下となる。ここに、栄光と挫折の大日本帝国海軍機動艦隊は消滅した。

 11/20聯合艦隊はレイテ沖海戦後にフィリピンを侵攻する米軍撃滅のため空母発進の特攻隊を組織、神武特別攻撃隊として雲龍を母艦として出撃準備が進められたが、陸上基地からの発進に改められ、雲龍は出番を失った。

 その後、海軍はロケット特攻機桜花の実戦投入に執念を燃やし、とにかくフィリピンへ輸送するべく苦心した。一式陸攻で懸吊したまま航空輸送は輸送中を襲われたらひとたまりもないうえ、時間も労力も燃料もかかるため不可能であった。必然、空母で輸送することとなる。先に陸攻のみ航空輸送し、後に空母で桜花を輸送する。

 雲龍は桜花30機のほか陸軍の弾薬、陸上兵器、陸軍空挺部隊他要員合わせて1500人に大発動艇、さらには陸軍の輸送グライダー「四式特殊輸送機」を満載し、12/17に駆逐艦3隻(時雨、檜、樅)に護衛されてマニラへ向かって呉を出港した。

 しかし既に翌18日には米潜の無線を多数傍受。対潜警戒を強める。19日は台風の影響(フィリピンで米軍を翻弄したコブラ台風)で天候が荒れる中、懸命に対潜哨戒に努める。上空からは海軍陸上基地の部隊が雲龍隊の哨戒をした。

 しかし、それが仇となったものかどうか。運命とは分からない。

 19日1345陸上部隊が米潜を発見、爆弾攻撃を行う。隼鷹を襲って航行不能せしめた米潜レッドフィッシュだった。陸上航空隊は撃沈を報告したが、レッドフィッシュは無事だった。さらに、その攻撃で近海を重要艦隊航行中と判断し、索敵に入る。

 1600過ぎ、レッドフィッシュは奄美島沖(米軍報告では上海沖)で雲龍を中心とする艦隊を発見。距離5400mで魚雷4本を発射した。魚雷発射音及び雷跡を確認した雲龍では回避運動に入り、3本まで回避したが最後の1本が1637右舷中央部艦橋下へ命中した。右舷傾斜し、第1、第2罐室に浸水、電源も落ちて火災発生したが予備電源に切り替わり消火に成功するも、速度低下の後、たちまち航行停止してしまった。

 乗員は輸送中の物資を投棄して、懸命に傾斜回復に努めた。が、1645駆逐艦檜より爆雷攻撃を受けるレッドフィッシュが反転して脱出する前に放った艦尾魚雷1本が命中。しかも、先ほど被雷した右舷中央艦橋下の近くだった。運の悪いことに傾斜して格納庫下部まで水面下に沈んでおり、そこに魚雷が命中したものだから、格納庫に並んでいた30機もの桜花が次々に誘爆。桜花1機で敵戦艦・空母を撃沈せしめる特攻機である。高角砲弾薬庫が誘爆したとの説もあるが、とにかく雲龍は大爆発した。

 猛煙猛火を噴き上げながらすぐさま艦首より沈みはじめ、総員退艦命令。その際、1656米潜レッドフィッシュが沈没する直前の雲龍を潜望鏡カメラに収めている。1657には、雲龍は黒煙ごと海中へ没した。

 

 


 中型主力空母ながら一度も航空戦を行わず、輸送任務中に沈んでしまった。夜陰と荒天で救助は難航し、乗員・輸送員3000名の内救助者は150名ほどで、海軍史上最も犠牲者を出した空母であったという。輸送中の陸軍兵は、ほとんどが戦死した。