信濃 | バカ日記第5番「四方山山人録」

バカ日記第5番「四方山山人録」

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 事実上、日本軍最後の空母にして、当時世界最大の空母、そしてまともに完成・運用していれば間違いなく世界でも類を見ない空前絶後の洋上要塞基地空母だったはずの信濃。その信濃を紹介して、自分の再勉強のためにも始めたこのブログの第二次世界大戦当時日本軍戦艦・空母紹介を終わりたい。

 信濃は、改装空母である。改装されたのは、大和型戦艦3番艦「信濃」であった。大和型戦艦は4番艦まで計画され、信濃は建造番号第110号艦、4番艦は第111号艦と呼ばれた。

 大和は呉、武蔵は長崎で建造されたが、信濃は横須賀だった。ちなみに111号艦は大和のドックを利用してまた呉で起工された。横須賀では呉や長崎と同じく、大和型の船体を建造できる巨大ドックの製作からスタートした。皇紀2600(S15/1940)年4/7起工。完成は皇05(S20/45)年3月末の予定だった。

 皇01(S16/41)年11月、真珠湾を翌月に控え、既に海軍内では米国との戦争に備え建造艦艇の大幅な見直しが行われ、潜水艦と航空機の建造が最優先とされ建造中の大型艦は全て建造中止となった。信濃(このころはまだ110号艦)は船体下部構造の途中までできていたが、信濃より半年後に起工した111号は船底までで工事ストップされた。このころ呉では進水した大和の偽装工事がまだどっさり残っているために呉海軍工廠の力は大和に注がれ、111号は名前も付けられずに呆気なく解体された。もしそのまま建造されていたら「紀伊」だったという説がある。残った資材は、信濃や伊勢・日向の改装(航空戦艦化)にも使われた。

 その後、信濃は「戦艦として建造中止、出渠できるまで工事再開し、すみやかに出渠せよ」という命令が出る。すなわち「邪魔だ」というのである。「解体するには工事が進みすぎており、仕方ないから船体までとっとと造って出てけ」ということである。皇02(S17/42)年10月の船体完成を目指し工事が再開されたが、損傷艦修理優先で資材が回らず、現場の士気もダダ下がりで工事は思うように進まなかった。

 皇02(S17/42)年アメリカが主力・護衛とも空母量産に着手したという情報を得た日本は大鳳、雲龍型の建造を検討。4/18ドーリットル空襲、6/5-7ミッドウェー。日本は主力空母4隻を一気に喪失。商船ほか艦艇の空母改装を優先し、大鳳と雲龍型の建造を即時決定。信濃は船体建造70%まで進んでいたが、いよいよガチで邪魔になってきた。

 おりしも、1基2500トンと駆逐艦1隻分もの重量になる大和型戦艦の主砲を専門に運搬する特殊船樫野が9/4台湾沖で撃沈され、もし戦艦として艤装を行うのであれば呉で製作された主砲を横須賀まで運べない事態に陥った。樫野は武蔵のために呉と長崎を3往復して、他の輸送任務中に撃沈されてしまったのである。そのため、樫野をもう1隻造るか、主砲を細かく分解して他の船で少しずつ運ぶか、信濃を呉まで曳航するかの三択となったが、戦争中であり、費用・時間共にどれも実現性に乏しかった。

 事ここに到り、大和型戦艦3番艦は空母として改装されることに決まった。

 ただし、どのような空母を作るかで上層部に意見の相違があった。このころ研究されていた「アウトレンジ戦法」にのっとり、他空母から飛び立った航空機が、途中で巨大な信濃へ寄り補給して再び飛び立つ、あるいは損傷を受けた空母の艦載機を受け入れる「移動要塞としての洋上基地」とする前代未聞の計画と、普通に超巨大攻撃空母として前線に立つ計画である。

 アウトレンジ戦法はミッドウェーや珊瑚海の教訓で、空母を前に出さないで後方から航空機の長大な足を活かした戦法で、信濃を大鳳と同じく装甲空母とし、大和型の頑丈な船体を活かしてちょっとやそっとでは沈まない不沈空母、また他の空母の艦載機のための予備の燃料弾薬を搭載し要塞空母とする案であった。

 そもそも、そのアウトレンジ戦法に懐疑的な勢力は、とうぜん通常の主力空母として建造するよう主張した。が、結局種々検討の結果、洋上基地として計画が立案された。急ぎ設計され、9月、工事再開。

 ところがこの年はガダルカナル攻防戦があり、多数の艦船が沈み、また損傷を受けその修理に各工廠はてんやわんやとなった。そのため翌皇03(S18/43)年になると損傷艦修理優先、建造は松型駆逐艦と潜水艦優先で、信濃はまたもや工事がストップとなる。それなのに、どういうわけか竣工予定が皇05(S20/45)年2月から1月に早められた。

 翌皇04(S19/44)年、6/19-20マリアナ沖海戦。日本軍が練りに練ったはずの一大アウトレンジ攻撃作戦は、米軍の水も漏らさぬ迎撃態勢の前に大敗北を喫した。米軍は既に空母の大量配備を進行中で、駆逐艦や潜水艦に到るまで高性能レーダーを装備。日本軍を丸裸にしつつ、VT信管付対空弾やF6F戦闘機をもってまさに「七面鳥がごとく」日本軍機を完膚なきまでに叩き落した。「マリアナの七面鳥撃ち」である。

 さらに、日本側の駆逐艦の少なさ(対潜哨戒の限界)の隙を突き、歴戦の翔鶴と最新鋭の大鳳が潜水艦により撃沈される。翌日には洋上補給中を狙われ、200機もの攻撃隊が来襲。飛鷹が沈没。空母3隻ほかタンカー2隻を失い、ほか損傷艦多数の大敗北であった。

 なによりこの敗北で航空隊が壊滅状態となり、生き残った空母も載せる飛行機が無いありさまとなって、機動部隊は崩壊した。すなわち、これから竣工する空母は雲龍型3隻をはじめ、信濃も空母として用をなさなくなってしまった。

 信濃のモデルとなった装甲空母大鳳の沈没は関係者に衝撃を与え、米軍の侵攻に備えて信濃の竣工はさらに5か月も早められて同年10月の予定となり、不眠不休の工事が進んだ。

 とはいえ、いかに戦艦と空母の違いがあるとはいえ、武蔵で19か月を要した艤装作業を3か月で行い、また熟練工が軒並み徴兵にとられて学徒から民間から朝鮮人台湾人女子挺身隊と、ありとあらゆる未熟工員を結集して行われた超超超超吶喊作業は、無理が無いというほうが無理な話であった。防水扉や隔壁の気密試験などの重要な工程を省略に継ぐ省略で工期短縮にはげみ、まさに横須賀の総力を挙げて「形だけ無理やり仕上げた」というに相応しい。

 なんといっても、数万本あるリベット打ちにしても、武蔵では完璧をきすためにリベット打ちの修練からスタートし、数十センチもある巨大リベットを1ミリの狂いも無くまっすぐ打てるようになってから初めて武蔵のリベットを打つことが許された。信濃は、語るに及ばずであろう。

 過労や事故により10名以上も死者を出して、信濃はとにかく水へ浮かべる状態までもってきた。10/5進水。しかしドック内へ注水作業中に単純な人為ミスで想定より早くドックの扉があき、大量の海水が雪崩こんだ。まだ完全に浮いていなかった船体は一気に浮力を得てバランスを崩しワイヤーと麻の150本にも及ぶ係留ロープが次々に切れ、船体が支えを失って泳ぎだしたからたまらない。甲板上にいた海軍技術士官が海面へ落下し、信濃は巨大な艦首や艦尾を何度もドックの内壁へぶつけてバルバスバウとその内部の水中ソナー、スクリューが破損した。

 とにかく運が無いというより、余裕が無いことによる仕事の段取りの不徹底が招いた人災であった。ドックの扉が想定より早く開いたのだが、原因は、ドックの扉内への海水注水を忘れていた。つまり、想定より扉が軽かったため、ゆっくり開くところが浮力を得てボーン! と一気に開いてしまったのである。

 翌日の命名式は延期されたが、10/8正式に110号艦から「信濃」となって横須賀鎮守府所属となった。

 それから再度ドック入りし、111号艦の資材を流用して修理した。10/23に修理完了し、横須賀沖合で係留された。竣工は1か月後の11/19であった。日本軍最後の空母竣工となった。しかし、見た目だけで、内部や外装はまだまだ工事中であった。

 竣工までの間、航行試験を兼ねて航空機の着艦試験を行った。外洋に出るのはもはや危険とし、東京湾内で行われた。その際の、貴重な写真が伝わっている。これは戦後30年も経って発見、公表されたもので、それまで信濃はイラストくらいしか存在しない幻の空母だった。また、偵察型B-29が高高度よりとらえた写真も残っている。

 

 

 唯一、信濃の全体像の分かる貴重な写真。11/11の東京湾での公試。

 

 

 B29のとらえた写真。米軍も戦後になってこれが信濃だったと分かったという。それまで、何の船だか認識していなかった。


 試験では横浜の本牧ふ頭沖から対岸の木更津冲まで航行しながら行われたが、信濃の速度が速く思ったより短時間で対岸へ到達してしまったため、何度も往復して行われたという。11/11に零戦、天山のほか、翌11/12には紫電改の艦載型開発を想定した試製紫電改二、流星、彩雲の着艦試験に成功した。
 
 さて超巨大要塞空母信濃であるが、まず形状は大鳳型をモデルにした大きな艦橋と一体化した斜形煙突が分かる。ただし、戦艦からの改装であり艦首と甲板が一体化したハリケーンバウではない。艦首と甲板の間に、他の日本軍空母と同じく隙間があるので見分けられる。

 

 

 艦橋と煙突はこの大鵬を踏襲しているが、信濃はハリケーンバウではなく艦首と甲板に隙間がある。


 その艦首はまた、大和型そのままなので、大和・武蔵に詳しい方ならそれで判別できるだろう。

 

 

 

 艦首形状をよく見比べてほしい。同じ船型であることが分かる。


 背の低さにも注目いただきたい。結局、洋上要塞空母として建造された信濃は、自身の艦載機搭載数は軽空母並みの45機前後で、残りのスペースは他空母艦載機の補給用の航空燃料や魚雷、弾薬の保管にあてられた(はずだった)。すなわち格納庫が狭く1段式で小さかった。ただし、日本軍の空母に多い密閉式ではなく、被弾した時に爆風を逃がす開放式であった。

 戦艦の船体はむしろ幅が大きくそのため甲板もかなり広いのだが、船体そのものは隔壁や装甲、その他構造の関係で格納庫が収まりきらず、同じ大きさの最初から空母設計の艦と比べると格納庫が上にはみ出るほかはないのである。同じく戦艦から改装された赤城・加賀を参照すると、両艦は2段式格納庫が船体から半分もはみ出て異様に背が高くなっていることが分かるだろう。

 

 

 赤城(プラモ) 船体から2段式格納庫がはみ出て、船体の高さの倍にもなっているのが分かる。

 

 

 同じく加賀。船体と甲板を支える柱の長さが半端無い。異様に背が高いのが分かる。

 

 

 飛龍と比較する。格納庫は同じく2段だが、船体に収まって背は低い。船体が最初からそう設計されている。

 

 

 翔鶴とも参考。2段式格納庫が船体に収まり、背が低い。


 甲板には大鳳と同様に甲鉄の装甲が施され、500kg爆弾の直撃に耐えられた。また船体も空母としては充分すぎるほどの重巡並の装甲を有していた。大鳳沈没の戦訓により、航空燃料庫周辺にはコンクリートを充填した。

 すなわち、もし信濃を赤城・加賀と同じく2段式格納庫にした場合、重心が高くなりすぎて装甲甲板の重さで容易に転覆する危険があったのである。そのため、信濃の1段式の狭い格納庫は設計構造上の産物でもあった。

 

 

 もう1回信濃。背の低さは通常空母並だが、戦艦改装なので格納庫が1段式なのである。


 大和型に相応しく艦内は異様に広く、複雑を極め作業員が迷子になり自分の作業箇所までたどり着くのに半日かかったこともあったという。大和・武蔵でも、兵員が艦内位置構造に熟知するまで相当(少なくとも1年以上)の時間を要していたという。

 不思議なことに、弾薬、魚雷、航空燃料搭載予定量は巨体のわりにやけに少なく、翔鶴型や雲龍型より少なかった。これでは洋上要塞基地空母として機能せず、かといって攻撃型主力空母というでもない中途半端な仕上がりで、もはやなんのために信濃が建造されたのかよく分からない。膨大な時間と資材と人員をかけて、無用の巨大(造りかけ)戦艦をもう本当にどうしようもなく空母にしてみました的な、日本軍末期の混乱を表している。

 それでも、とにかく11/19に海軍へ引き渡された。しかし、10/23-25に行われたレイテ沖海戦により、海軍は機動艦隊はおろか聯合艦隊が事実上壊滅してしまう。くわえて、11/15小澤司令は正式に機動部隊を解散してしまった。

 さて、書類上竣工したとはいえ信濃は残工事が山ほど残っており、とても完成品ではなかった。まず対空火器類がほとんど取り付けられてなかったし、内装工事もぜんぜんできていなかった。試験航海中も内部は溶接機器の電源コードが張り巡らされ、工事が続けられていた。なにより、機関12基の内8基しか動いておらず速度が最大27ノット中20ノットほどしか出なかった。

 さらに、このころ横須賀上空を偵察用B-29が飛来しており、空襲が近いと判断された。また徴用工だらけの横須賀では、残りの工事の出来具合も心配だった。

 それらを複合的に勘案し、呉でも「信濃の残工事は任せろ」という頼もしい回答があったので、呉へ回航させることが決定。このことが、皮肉にも信濃の運命を決定的に左右した。

 11/25 1400過ぎ、駆逐艦3隻(浜風、磯風、雪風)がレイテで傷ついた戦艦長門を護衛して横須賀到着。そのまま信濃の護衛に就く。たかが横須賀から呉へ行くのにこの3隻が多いのか少ないのかは、状況にもよるだろうから判断がつかない。しかも、浜風と磯風はレイテでの傷が癒えておらず、乗務員も休暇なしのまま任務に就いており見張りが不充分であり、水中ソナーも故障していた。そもそも、日本軍の対潜探知能力より、米軍潜水艦の索敵能力のほうがはるかに上だった。さらに台湾沖で戦艦金剛と共に駆逐艦浦風が撃沈され、第17駆逐隊司令が戦死、同駆逐艦隊は司令官不在のままだった。

 11/28 1330艤装工事要員約1000名を乗せ、内部工事を続けながら信濃は横須賀より呉へ向けて出発。ついでにロケット特攻兵器桜花(燃料・弾薬無し)を(一説には50機)輸送した。長門では総員甲板で帽を振り見送った。信濃でも返礼した。

 湾内で時間調整し、夜間に航行すべく1830 4隻は外洋へ出る。上述の通り信濃は機械室や機関で工事が続けられており、ボイラー出力は2/3で速度は20ノットほどだった。

 そのころ、米潜アーチャーフィッシュが静岡県浜名湖沖で撃墜されたB-29搭乗員救出任務を終え、商船を求めて東京湾へ向かっていた。従って、信濃隊とすれ違う格好となる。米軍は潜水艦にすらレーダーを搭載し、敵を探知していた。レーダー員の「島が動いています」という報告で、2048同潜水艦は信濃を発見。潜望鏡で確認するも、甲板上に航空機が無かったため巨大タンカーと考えたが、余りにも大きいのでとにかく追尾することにして反転浮上、艦尾方向に信濃が見えるように先を行った。

 艦首形状や格納庫の存在を確認し、同潜は信濃を空母と確信。また信濃側でも浜風が不審潜水艦と思しきマストを発見、接近する。3000mまで接近され、同潜は追跡を諦めて潜水離脱する直前まで追いつめられるも、信濃側でも「敵潜水艦を深追いして警備陣に隙間を空けないこと」が前もって通達されており、信濃から追跡中止、引き返せの発光信号。浜風は戻り、同潜は胸をなでおろす。

 2245信濃は右前方に浮上して航行する同潜を発見。浜風及び磯風が砲撃許可を求めるも、夜間に発砲してもしほかに敵潜水艦がいた場合にこちらの位置を知られるのを恐れ、信濃艦長阿部大佐は許可しなかった。同潜側でも信濃よりの発光信号を視認し、攻撃を覚悟したという。

 同潜はあまりに信濃が大きく、逃げられる可能性も考慮し2330無線傍受を覚悟で米潜水艦司令部へ増援を求める無線を発した。アメリカ潜水艦隊司令部の返電は「追跡を続けよ、ジョー、成功を祈る」で、ニミッツ提督司令部からは「相手は大物だ。君のバナナは今ピアノの上にある。逃がすな」だった。しかし、けっきょく応援は来ず、同潜は単独で信濃を狙うことになる。

 同潜は信濃隊の前方に位置しており、魚雷を発射する位置にどう移動するかが問題だった。しかも、信濃は20ノットで航行しており、同潜の最大速度は19ノットだったので、そのうち追い越されて逃げられる可能性が高かった。

 ところが運命はとことん皮肉である。その無線を傍受した信濃隊は敵潜水艦ありとして之字運動(ジグザグ航行)に移行。同潜が容易に追いつける状態となった。しかも、11/29  0000ころ信濃の右舷スクリュー軸受が過熱し、速度を18ノットに落とした。信濃では同潜の存在をつかんではいたが、位置まで特定できていなかったので対処できなかった。

 11/29 0313浜名湖南方176km地点にて、ついに同潜は信濃右舷へ向けて6本の魚雷発射。内4本が命中。たちまち浸水し、右舷傾斜。直ちに左舷注水して傾斜回復、そのまま速度を落とさずに20ノットで離脱したため同潜は追いつけずにとどめを刺せなかった。また駆逐艦から爆雷が投下されたが、位置を知られていない同潜は無事だった。

 さて信濃であるが、何といっても艦内はまだまだ工事中である。溶接用の電気配線が床を到るところに這いずり回り、防水ハッチが閉められないという有様であったのだから、浸水が止まるはずも無かった。

 くわえて、ど素人に近い新人乗組員に、そもそも工作作業員では適切なダメージコントロールを期待できるはずも無く、防水ハッチを閉める訓練すら省略されていたため閉め方が分からなかった。また迷路のような艦内で右往左往するばかり、被害個所にそもそもたどり着けない。舷側に食らった魚雷の衝撃で艦首のリベットが外れて浸水する、かろうじて閉められたハッチは2センチも隙間があって水漏れする、隔壁の水密試験が未実施で水漏れするという、目も覆いたくなる惨憺たる状況であった。当然、どんどん傾斜が酷くなる。

 それでもなんとか注排水指揮所の指示でさらに左舷注水し、傾斜は若干回復したが、注水弁故障でそれも断念。和歌山県潮岬方面へ向けて傾斜したまま航行するも、0500ころタービン停止。蒸気を水へ戻す復水器が故障して真水が欠乏し、0800ころには洋上で完全に立ち往生した。海水でボイラーを焚く案もあったが、多大なダメージをボイラーに与えるため見送られた。

 信濃被雷の報告を受けた海上護衛総司令部では緊急曳船の手配をしたが、関西方面からどれだけ急いでも数時間かかる距離だった。阿部艦長は工廠作業員(内装工事関係者)総員甲板上がれを命令したが、どういうわけか総員甲板上がれとして伝わり、乗員全員が甲板へ上がってきた。そのため、浸水復旧作業員まで作業を放棄して甲板へ出てきた。皮肉にも、そのために多く乗員が助かった。

 信濃では各駆逐艦に曳航命令を出したが、なにせ大和型の船体である。しかも傾斜し抵抗が大きい。駆逐艦2隻で曳航を試みたが何度もワイヤーが切れて断念した。阿部艦長自身が艦首で曳航作業を指揮した。

 

 この際、切れたワイヤーがはね上がって、1人、駆逐艦兵員の首を切断したという。

 

 この時点で既に右舷甲板が水に洗われており、いつ転覆してもおかしくなかった。甲板の乗員は格納庫排水作業に戻った。0830注排水指揮所が水没。最後まで排水作業をしていた指揮所要員9名が水死。注排水が不可能となった。

 曳航断念と注排水停止により、沈没は決定的となった。0932昭和天皇の御真影をカッターへ移乗し浜風へ移そうとしたが悪天候のためカッターが信濃の右舷バルジに乗り上げて転覆した。1025傾斜が35度に及び、軍艦旗降下。1027総員退艦。しかし艦内放送設備が故障しており、艦全体に命令が行き渡らなかったという。

 1057ころ、信濃は和歌山県潮岬冲48kmで右舷に転覆。完全にひっくり返って浮力を失い、ゆっくりと艦尾から沈んでいった。竣工から10日後、初出港から17時間後であった。日本軍で最も竣工から沈没まで短い船だった。

 低温海水と波浪により多数の乗員が行方不明となったが、燃料と弾薬のない桜花が多数プカプカと浮き上がり、それへ捕まって助かった乗員も多かった。皮肉なことに特攻兵器が多くの命を救った。

 大和と武蔵は沈没地点が特定し海底での様子も判明しているが、信濃はそのまま日本海溝の底約6000mへ沈んだと考えられ、いまもって詳細な沈没位置や海底の様子は不明のままである。

 一方、米潜アーチャーフィッシュは信濃沈没の瞬間をとらえられなかったため、米上層部では「そんなでかい空母がそんな簡単に沈むか」とし、28,000トンクラスの空母撃沈判定で納得させられた。62,000トンクラスの当時世界最大空母を撃沈したことが判明したのは、戦後であった。

おわりに

 戦前、日本は世界へ先駆けて空母を本格集中運用し、大なり小なり25隻もの空母を完成させ、未完成ながらあと4隻建造中であった。間違いなくアメリカに継ぐ空母大国であったし、そのアメリカも日本に対抗して空母を量産した。日本海軍といえば戦艦大和、武蔵が有名すぎて戦艦バカみたいなイメージがあるかもしれないが、私にとっては空母バカ一代である。とにかく空母を海戦の中心に据えてしまったし、アメリカへそれを認識させ、現代にも引き継がれている。マレー沖海戦と真珠湾がなければ、全く違った世界になっていただろう。

 これをもって、自分の再勉強のためにも始めた第二次世界大戦当時日本海軍戦艦・空母紹介を終わりたい。重巡軽巡もやろうと思ったが、きりが無いし気が乗らないのでやめておく。

 また、適当な画像ブログに戻るか、もしかしたらもう完全にTwitterへ移行しブログそのものをやめるかもしれない。(記事は残します)

令和元年8月13日追記

 

 8/11 BS1にて、幻の空母信濃スペシャルが放映された。此のプログすなわちWikipedia等以上の情報は、なんといっても第3の写真の発見であった。日本軍の航空写真に、ドック内の信濃がたまたま写っていたらしい。その大きさ、エレベーターの位置などから、貴重な擬装中の信濃であることが確認された。

 

 また、駆逐艦雪風元乗務員の証言によると、信濃曳航時に切れたワイヤーが天へ向かってはね上がり、浜風だかの兵員に当たって、首を引きちぎった悲劇も起きたという。

 

 信濃生存者の皆さんは、ほぼ当時16歳、17歳。みな悔しかったと証言されていた。一度も戦わず、世界最大空母と云われていても、何もせずに沈んでしまった。このまま、世に知られない幻のままでいいと。

 

 やはり、他の船に比べて、何もせずにやられてしまった負い目があるのだろう。

 

 しかし、私はやはりいろいろと日本海軍の混乱の象徴として、記憶に残さなくてはならないと感じた。良い番組であった。