2. 歌は白く 心 燃やす
♪澄みきった泉には 穢れない 純潔の人魚が 住むという
ひと知れず彼女が 歌えば 魚たち 尾を叩いて集まる そこいは…
冒頭から極めて色鮮やかな印象の歌詞…。 そして、
♪若人はあこがれる うわべの 夢という名の情熱 戦略
キレイな世界ほど汚れる 溜まった 水はいつか腐ると 知ればいい
曲のタイトルとは裏腹に、「水」にまつわる…もしくは、水の性質に喩えた表現が目立つ。
地に降りそそぐ雨も、やがて上昇する湿度も、空気も、自然界のおよそ65%は水分であり、
その全体の7割ちかくの「水」は当然、この地球上で我々人間が生きるためになくてはならない。
その必要不可欠な水分バランスは、季節や地域差により異なっても
人間の肉体において、やはり、およそ65%という取り決めがある。そして人間だれもが、
腰にある腎臓と表裏【ひょうり】を成す膀胱によって、
その体水分の調節をしている。…いついかなるときも休みなく。
これらの陰陽バランスは、部分的に単独にあるわけではなく、皮膚呼吸や生殖機能も含め
あらゆる臓器と相互に関係した機能、役割、補助、還元作用などによって構成され
その肉体ひとまとまり すべての細胞が、酸素供給と血液循環、栄養分の展開の基にある。
そしてそういう肉体を持つ人間が生かされているこの自然界では
地に降りそそぐ雨。その水が、やがて澄んだ泉となり、谷を流れる川となり、海へ注がれ、
再び大気へ循環されるという繰り返しの中で、樹木や花、緑、鳥や虫たち、罪のない獣、魚たち…
そうしたあらゆる命を生かす源となって、またその恩恵を授かって我々人間…
いま生きている者の数より死んだ者のほうが多い世の中の、大勢の営みがある。
つまり、人がこの世に肉体を持って生かされる基本条件としての、
空気を吸う、昼夜で休みなく血液を回す、食事を摂るという当たり前のことに基づいて
自分自身では意識的に目の見えないところで、手足の指や、いわゆる五感とも密接に関連した、
精密に規則正しい人間の臓器、臓物、臓腑【ぞうふ】の活動が、
自然界と対称に創られている事実、摂理、道理がある。
(…楽曲の紹介をしているはずのページが、なにやら専門的に難しい話に受け取られる方もいるかもしれない。
でも今ここに書いていることは、医学や宗教とか、科学でもヒトの神秘の解き明かしでもなく、
無論、何かの思想による但し書きでもない。あくまで、今日ここに紹介する12曲の、
その楽曲解説に必要なこととして綴っている自然界の道理の一部分でしかない。)
たとえば通常、人間は、耳で物音を聴くことができるように創られている。
ちょうどヒトが造作したステレオスピーカーなどのコーンの部分が電気的に震えて音を奏でるように
人間の耳の中の鼓膜が震えることで、音の強弱が判るようになっている。
すべてが全身の筋肉細胞に滞りなく、まんべんなく血液循環があってこそ
そうやって音楽を聴くことができる ありがたさも生きている人間の能力に備えられている 。
その鼓膜を支える耳の中の筋肉は、人間の身体の気と血の流れを介して
直接的に両方の手首中央と、腰にある腎臓機能 へつながっている。
そして昼も夜も、影も日向も、すべてにおいて陰陽の関係にある自然界では
人間の腎臓という臓器は水に喩えられる 。
Tetsuya Itami というシンガーソングライターが、そんなことを知ってか知らずか
この歌『歌は白く 心 燃やす 』は、揺るぎない自然界の道理が確立された内容に仕あげられている。
そんなことを誰がどこまで理解できようと どうあろうと、
ただ純粋に音楽として聴いた場合、
男女の関係をモチーフに普遍的に歌われる、いわゆる LOVE SONG とはべつに
社会的な問題提起を匂わせる部分が色濃く感じられる一曲、『歌は白く 心 燃やす 』。
現代の日本のミュージックシーンばかりか業界そのものをさりげなく皮肉るようでいて
誰の批判や世の中の何を非難したりすることもなく 、
人として様々な経験を積んだ今日まで。その今日を生きる自身の心情を歌に込めることで
「これはあくまで、俺の中で♪の問題だよ。でもみんなはどうかな?」
という投げかけをしているようにも感じられる。
かつて、The Rolling Stones のギタリストであるキース・リチャーズが
この世には音楽と音楽業界のふたつがある。
面白いのは、このふたつのどっちが主導権を握るかで、
ずっと微妙なバランスが保たれていた
by Keith Richards 1991@RS誌 インタビューより
そう云っていた時代も変貌し、最早この日本の音楽シーンでは
“その陰陽のバランス”も破壊し尽くされるままに
売上や人気度、ランキング…という、「数字」に囚われる者も多い現実がある。
判りやすくいうと、
「どんなにキレイゴト並べて、何を言い訳したとしても、数字は嘘をつきません。」という狭い常識の世界よりも
歌が好きな人がセンスよく歌い、タイミングよく奏で、それを聴く者がいて愉しめる喜びや感謝、感激…が
飾ることも構えることもなく自然に、両者バランスよく整えられた機会、遭遇、発見、人々の出逢いや
充実して有意義な交流が非常に限定されてしまっている世の中。
「誰においても生かされている感謝のもとに歌う義務はあっても、歌う権利などない!」
という…、そんなことを いつかどこかで誰かが云っていたことも通用しないほど
人間が音を楽しむという音楽の本来の在り方が大衆からかけ離れてしまっている。
最早、文部科学省配下にある学校の英語や音楽の授業より要らないような音楽番組も多い。
それでも、「アンダーグラウンドにも属さない操り人形にもなりはしない 」
その姿勢を崩さずに今日まで歌いつづけた独りの男は、なんと、
「そのバックのギター! そのリフはキース・リチャーズのゲスト参加ですか?」
と聴きたくなるほど、Bad Tuning らしき解放弦の余韻を響かせ、
この曲をフェードアウトさせることなく、贅沢にしめくくっている。
今まさに、FREEDOM!
ギターの弦だけで、このように人間の自由を表現できるアーティスト は、この時代やはり、数少ない。