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自転車に家族を殺されるということ

交通犯罪犠牲者の命が紙クズ扱いされる司法を変えていきます。フェイスブック・Twitterも発信中。
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2014年1月28日に判決が出て裁判は終わりましたが、私の交通犯罪遺族活動は続いています。

前回、父老衰の報告をした時、心境の変化があって、

遺族ブログを書くことに気が向かない話をしました。

 

細かく説明しようとしても、これがすべてなのですが、

実際に私はそんな状況になっています。

 

その前に・・・

遺族として私の発信する主張は単純です。

 

「人の命を奪った者への執行猶予はなくしてほしい」

 

シンプルにこれだけ。

 

交通事故を起こさないためにすべきことは、

とても単純なことだと思います。

 

「前を向いて」

「交通ルールを守って」

 

これだけで悲劇的な事故は防ぐことができるはず。

 

しかしそんな当たり前のことをできない者がいる。

 

そういう者の出現を極力抑えるためには、

実刑不可避という厳罰しかないというシンプルな考えです。

 

そうした過去の成功事例が飲酒運転をめぐる対応かなと。

 

私の学生時代は飲酒運転なんて当たり前でした。

私自身、飲酒運転の車に同乗したことも何度かあります。

 

でもいま周りで飲酒運転をしている人なんて誰もいない。

 

検問で捕まれば罰金が何十万にもなり、

もし人をはねて死なせたら危険運転致死罪で刑務所行き確定。

 

そんなリスクを犯してまで飲酒運転したいなんて奇特です。

一部の救いようのない愚かな人以外は消滅したのも当然かなと。

 

見事な成功事例だと思います。

 

それを交通事犯全般に広げてほしい。

 

人をはねて死なせたら実刑判決確定。

仕事もクビになり、出所後は不安定な貧困生活が待っている。

家族がいれば、その家族も貧困に苦しませ、

子どもが夢を追っていれば、経済的にあきらめさせるしかない。

 

そう思えばハンドルを握る緊張感も違うというものです。

 

ハンドルを握ることに緊張感を求めない今の司法実態。

 

それを変えるには、

「人を轢いて死なせたら必ず実刑判決で刑務所に入る」

という司法風土にするかないと考えています。

 

でも突発的な出来事が起きない限り無理でしょうね。

 

まだ書くことがありますが一旦ここで切ります。

数ヶ月ここのブログを書いていませんでした。

 

理由はハッキリあります。

忙しいというより心境の変化です。

 

他に追うテーマが増えて、かつ大きくなり、

ここの優先順位が下がったこともあります。

 

それは長くなるのでまた別に書きますが、

取り急ぎ近況報告です。

 

父が近いうち亡くなります(おそらく)

 

先月末に入居施設から連絡があり、

老衰の兆候が出ているとのこと。

 

緩和ケアなどのいろいろな手続きも済ませ、

まだ生きている父の兄弟にも連絡し、

そんなゴタゴタを一通り済ませて今に至ります。

 

ただ老衰という連絡を受けてから早1ヶ月近く経ち、

今すぐどうこうという感じでもないので、

衰弱が激しくなったら再度慌ただしくなるけど、

それまでは落ち着いているといった状況です。

 

父方家系は長寿で、健康な人が多いので、

医師からは年は越せないだろうと言われてはいますが、

案外しぶとく来年も元気にしているかもしれません。

 

このブログはタイトルで全部言い表していますが、

母を奪われたことについての遺族ブログです。

 

しかし別途書いたこともありますが、

私の両親に対する感情はそんなに単純ではありません。

 

決して尊敬できない考え方に、

決して尊敬できない行動様式・・・

 

生み育ててもらった恩は理解しなければなりませんが、

反面教師として見てきた面が多いのは否定できません。

 

父についてはなおさらなところがあり、

もう90過ぎまで十分生きて天寿と言える段階でもあり、

悲嘆や喪失という感情とは無縁になります。

 

ただ、一人っ子の長男としてやるべきことをやり、

あとから本人や周囲に恨まれることがないように、

すべき責務を粛々果たしているという状況です。

 

今回なんでこんなことを書いているかというと、

人の死が結びつける別の人の縁というものについて、

とても不思議に感じているからです。

 

不思議に思った感情を記録しておきたいと思いました。

 

今回、父が死に直面するということで、

父の弟(私にとっての叔父)が鹿児島から遠路上京し、

40年以上ぶりに再会したりとか、

他にもいろいろありますが、

消えようとする縁を周囲が確かめようとする動きが

なんとも奇妙で、不思議なことに感じました。

 

思えば母の時も振り返ればそうでした。

突然のことで、加害者もいる話だったこともありますが、

周囲の結束が急速に強まる動きは考えれば不思議でした。

 

その後の変化もあり、今は身を引かせてもらっていますが、

そこから遺族活動につながる動きも、

今思えば「奇縁」としか言いようのないものと感じます。

 

また気がつけば自分に両親という存在がなくなること、

一人っ子なので直接の血縁者がいなくなるということも、

あらためて考えると奇妙な思いにとらわれます。

(寂しいとは全く無関係で、奇妙としか言いようのない感情)

 

父の近いうちの死去の報告ということとあわせ、

世の中には不思議なことがまだまだあると感じた

その奇妙な感覚を、自信はないけれども言語化してみました。

 

叔父を送ったあとの帰路に見た鮮烈な夕焼け

加害者の気持ちは軽い。

 

世間を見ればそんな例はあふれているし、

なによりも被害者や遺族になれば、

そんなことは嫌というほど痛感させられる。

 

先日の天声人語でもそんな典型例を見つけた。

 

朝日新聞2025.4.2朝刊

 

例のフジテレビの第三者委員会報告書について、

そのおぞましさを伝える文章に目が留まった。

 

特に被害女性の退社を知った中居の一言が印象的。

 

「了解、ありがとう。

 ひと段落ついた感じかな。

 色々たすかったよ」

 

まるで鳥の羽根のように軽く・・・

と天声人語では書いているが、

これは中居正広という個人の特異性ではなく、

加害者全般にみられるありふれた反応だと思う。

 

「了解、ありがとう。

 ひと段落ついた感じかな。

 色々たすかったよ」

 

これは交通犯罪で、執行猶予がついた加害者が、

担当弁護士に言っているだろう文言にもなる。

(もちろんその場合は敬語を使っているだろうが)

 

きっと全国津々浦々で、あらゆる加害者たちが、

似た文章やセリフを発しているのだろうと想像する。

 

私は中居個人やフジテレビに対するおぞましさ以上に、

そんな加害者全般の軽さに酷いおぞましさを感じる。

 

そもそも中居は刑事罰すら受けていない。

多くの交通加害者は執行猶予という形式罰で終わる。

 

加害者たちの「鳥の羽根のような」軽さの根本原因は、

そんな処遇の軽さゆえなような気がしている。

 

ちょっと報道からは遅れてしまったけれども、

これは書いておかなければと思って書きました。

急に春めいてきました。

 

これを書いている時点では明けた後になりますが、

お彼岸だったので、いつもながらの毎年パターンで、

浅草寺には供養を申し込み、

中日の祝日には墓参りに行ってきました。

 

 

娘はもう私は一緒に出かけたがらなくなったし、

妻にとって母は所詮他人で面倒臭いだけですし、

遠くまで行って疲れるのは自分一人で十分なので、

ささっと一人で行ってきました。

 

なんだかんだ、結果的に振り返ってみれば、

一応1月命日と春秋の彼岸、8月お盆の4回は、

定期的に墓参りに行っていることになります。

 

しかし率直に言えば、

既に形式的な儀式になりつつあります。

 

心情として過去に書いたような背景もあります。

 

♧親を殺されて遺族活動=孝行者というレッテルをはがす
 https://ameblo.jp/azumin827/entry-12836719249.html

♧親を奪われての遺族活動=孝行者は違うという話の補足
 https://ameblo.jp/azumin827/entry-12837455454.html

しかし、それよりも、何よりも、

事件から15年が経ち、遺族としての心境が、

無色透明になってきていることがあります。

 

説明が難しいのですが・・・

 

冷めたでも、飽きたでも、熱意が失せたでもなく、

透明になったとしか言いようのない変化があります。

 

あいの会ブログ執筆を他の人にまかせた経緯も、

きっかけとなるやり取りもあったのですが、

それ以前に、そんな無色透明になった自分が

無理やりきれいな言葉を紡ごうとしていることに

申し訳ない気持ちが募っていたこともありました。

 

美しくない自分が美しい言葉を刻もうとしている。

 

無理しているなぁ・・・

と、そんな自己嫌悪もありました。

 

そんな自分はもう他の遺族に心から寄り添えない、

そんなの考えるだけでおこがましいと痛感しています。

 

だから、せめてというわけではないですが、

貴重な情報を本人や内部事情通だけの特権にさせず、

実践的な闘い方のノウハウを具体的に書いてみたり、

荒唐無稽な加害者主張に悔しい思いをしたら、

それを遠慮なく面白おかしく茶化して、

娯楽に変えようという提案ばかり書いています。

 

無色透明な心境になった遺族なりのふるまいです。

今回は性格の悪いブログです。

 

結論を先に書くと、闇の吐き出し方について、

特に、遺族や何らかのつらい思いをした人は、

相手への悪意を吐き出すことを楽しんでいいのでは、

ということを書いてみたくなりました。

 

さて最近、世の中を眺めると悪意の応酬が目立ちます。

 

世界規模のレベルで言えば、

ゼレンスキーVSトランプ&ヴァンスもそうですし、

(ヴァンスのスネ夫ぶりはそれはそれで・・・)

国内のいま話題の事件でいえば、

最上あい殺害事件をめぐる議論でそれが顕著です。

 

この事件では今後出てくる真相もあるでしょうし、

現時点でこうだと得意げに書くのは早計でしょう。

 

どちらも擁護できないのは当然です。

 

いくら愚弄され追い詰められても殺人は許されないし、

同時に反社まがいの手口で消費者金融にまで通わせ、

人を人とも思わない被害者も正真正銘のクズでしょう。

 

※「死んだ人を悪く言うべきでない」意見も承知ですが、

 私はクズは死んだらクズのまま確定という考えです。

 

議論が過熱し、悪意が飛び交っているこの事件ですが、

自分をつらい目にあわせた者への悪意、

あるいはどうしても許されない者への悪意の表明は、

犯罪や不法行為に当たらない限り容認されると考えます。

 

私も自分の事件の加害者やその家族が死んだと聞けば、

きっと喝采して、手を叩いて喜ぶと思います。

ショートメールに「おめでとう」ぐらい送ると思います。

SNSにも「嬉しいことがあった」と書き込むでしょう。

葬儀日程がわかれば、香典袋に1円玉を入れ、

薔薇を口にくわえ、ピンクのタキシードで参列するかも。

(これは確か以前も書きましたね・・・)

一交通犯罪遺族として、加害者やその家族に対して、

それぐらいの悪意の表明は当然の所作と考えています。

 

ただし悪意表明にはセンスが求められると考えます。

 

でないと格好悪い。

 

例えば、あらためて今回の最上あい殺害事件の件、

賛否はあっても、被害者を悼む人はやはりいるようで、

事件現場には花束や飲み物が供えられています。

 

 

もちろん悼む気持ちで置く人が多いのでしょうが、

よく見るとスポンジも供えられています。

 

献花にまじってスポンジ?

 

既にこの議論を知っている人も多いでしょうが、

英語のスポンジには「タカリ屋」の意味もあるそうで。

 

さらにスポンジの上に置かれている花はアイリスで、

その花言葉は「良い知らせ」という意味なのだそう。

 

強烈な皮肉ですね。

 

被害者を許せないと憤る人が置いたのでしょうが、

この悪意表明のセンスは素晴らしいなと感じました。

 

ただジャンプして花束を踏みにじる動画もあり、

これはさすがに最低最悪だなと感じました。

乱暴で、醜く、ただただ浅はか・・・

スポンジやアイリスと違い、知性がない。

 

振り返って私のこと。

 

以前、面白おかしく書いて、調子に乗り過ぎ、

アメブロ運営局に報告を消されてしまいましたが、

私も加害者の弁護士や保険会社に対して、

その裁判での荒唐無稽主張について、

「本当はわざと自爆してくれたんでしょ~♪」

「まさかあれで勝つつもりだったなんて、

 &★×〇な頭じゃないよね」

「名声もかなぐり捨て、わざと敗訴するなんて、

 まさに被害者支援の究極の鑑!」

「表彰式を開いてあげるから場所用意してよ」

と繰り返し繰り返し繰り返しアプローチして、

その関係者にも荒唐無稽主張を知らしめさせました。

 

楽しみながらやりました。

そして実際に楽しかったです。

 

先方の右往左往ぶりも非常に愛らしく、

とても観察のしがいがありました。

 

楽しかったので、時間に余裕が出てきたら、

また第2弾を再度楽しもうと思っています。

 

「どうしても許せない!」

という相手に対しては、スマートに、知的に、

悪意発露イベントを楽しんでいいんじゃないか。

 

というのがここで書きたかったことです。

 

そんなことをしてなんのためになるんだ!

なんて知った顔で言う輩は無視一択で構いません。
 

なんのため?

なんのためでもありません。

楽しめれば、そしてそれで自分の心が解毒されれば、

それで十分ではないでしょうか。

 

人は生産性のためだけに生きるにあらず。

 

それ以前に、遺族は聖人君子ではありません。

遺族も感情ある一人の人です。

 

ただ、あくまで根底には、つらい思いをした人への愛、

あるいは自身がつらい思いをしたのであれば、

他の人に同じ思いはしてほしくないという他者への愛、

どちらかは持っていてほしいなとは思います。

 

それも含めてセンスある悪意吐露を推奨したいと思います。

既にちょっと前のことになってしまいますが、

伊藤詩織さんの制作した映画が物議を醸しています。

 

議論の対象は、映画の出来栄えや内容ではなく、

無許可の映像を勝手に使ったことの是非。

 

この議論に深入りするつもりはありませんが、

伊藤さんを批判している元弁護人だった方々と、

伊藤さん側の弁明の双方の会見を聞いた限り、

私個人は伊藤さんの分が悪いなと感じています。

 

そしてひっかかった言葉があります。

 

「公益性」

 

公益性があるから無許可でも許される。

 

乱暴に要約すれば、伊藤さんはそんな主張もしています。

 

どなたかの映画監督もこの会見を見て書かれていますが、

公益性は何でも許される魔法の言葉ではありません。

 

私は公益という言葉にトラウマを抱えています。

 

検事の言い訳(公益って何だ?)
https://ameblo.jp/azumin827/entry-12841171285.html

過去に↑のブログでも書きましたが、

執行猶予判決のあと、面会を求める私に対して、

担当検事は不在(おそらく居留守)を理由に逃げ続け、

控訴期日最終日にやっと面会して言い訳を並べる中で、

 

「(論点を網羅した)判断を裁判官にされた以上、
 控訴せず執行猶予判決を受け入れることは
 公益にもかなうことになる」
「我々は一人の被害者の心情よりも、
 公益を重視しなければいけない立場だ」

 

という言い訳を最後にしていました。

 

前のブログでも書いたけど、再度書きます。

 

そんな「公益」なんてゴミ以下の価値しかない。

 

ゴミ以下の価値の公益という言葉が、

ちょくちょく当事者の言い訳で都合よく使われ、

もしかして別の人を傷つけているかもしれない。

 

少なくとも伊藤さんに内情を教えた刑事さんは、

今頃組織内で悲惨なことになっている可能性が高い。

(既にいられなくなって組織にいない可能性もある)

 

そう思うと、やはり憤りを感じていたので、

実際その言葉で嫌な思いをした遺族の一人として、

安易に「公益」「公益」言うなと書きたいと思って、

このブログを書きました。

 

そんな安易な言葉で傷つく遺族もいるのです。

 

なお伊藤さんに対する批判の気持ちはありません。

 

本も読みましたし、それ以外の記事や発言も接した限り、

発言や行動にアンバランスな危うさは感じる方です。

 

しかし、何よりも、まずは第一に、

伊藤さんが許されない性犯罪被害に遭った事実があり、

加害者の山口敬之と、それを警察としての職掌にそむき、

握り潰した中村格の2人が諸悪の根源なのは当然です。

 

※当時の政権がどうこうという議論にはくみしません。

 政権に近い記者が性犯罪を犯したからかばった?

 ちょっと親しい記者から「かばって」と言われてかばう?

 政権を窮地に追いやるそんなリスクは取る意味がないし、

 普通切り捨てるでしょ、そんなの、と思います。

小4の娘が反抗期になりました。

 

今年に入って、急にそうなりました。

 

小4になって色々と変化はありましたが、

反抗期!

ついに来たか!

という感想です。

 

昨年末までは娘と2人で出かけることも

普通のことだったのですが、

もう一緒に出歩くこと自体が嫌なのだそう。

 

くさい

きたない

かっこ悪い

 

の3Kが娘にとっての今の私です。

 

習い事の送迎も拒否。

 

「一人で行く」

「ついてこないで」

と言いはり、そうせざるをえなくなっています。

 

まあ小4なら仕方ないのかもしれません。

 

かくいう私も電車を乗り継いで遠方の塾に通い、

(四谷大塚!今でもあのダサい塾歌を口ずさめる)

帰りにマックやゲーセンに寄ったりしていたのも、

小4からでしたので、年相応の変化なのでしょう。

(勝手にゲーセンは娘はさすがにないですが)

 

ただそこは私も一応は交通犯罪遺族。

どうしても心配性にはなります。

 

交通犯罪の死のむごさも嫌なほど知っています。

 

「こことここは猛スピードの車が通ることがある」

とどうしてもクドクド話してうざがられています。

 

GPSも持たせて万一の時は追えるようにしています。

 

万一、交通犯罪や性犯罪や暴力に巻き込まれて、

自分の知らないところで酷い目に遭ったらと思えば、

うざがられるくらいは最低限の必要対価です。

 

怯えて構えるくらいがちょうどいいと思っています。

 

ただ気軽に一緒に出かけてのささいな思い出の蓄積が

突然難しくなったのは、やはりさみしいですね。

しかし、それは贅沢な喪失だともわかっています。

 

そう考えて、何度も何度も繰り返し思い出すのは、

よくわからないまま行った最初のハートバンドで、

北海道のあるご遺族が挨拶で語っていた言葉です。

 

♧ハートバンド
 http://www.heart-band.sakura.ne.jp/

 

「ある遺族の方の言葉が忘れられません。

 3人の子どもの命を奪われたけど、3人の命なんかじゃない。

 ハートバンドに来ていると、お腹の大きかった方が

 その次の年には赤ちゃんを抱えてきて、

 次に会った時にはその子が元気に走り回っていて、

 また次に会った時には自分に近い背丈になっている。

 そんな風に命は繋がっている。

 決して3人だけの命じゃない。

 もっともっと繋がっていくはずだった命なんだって」

 

正直に言います。

当時はその人の言葉がよく理解できませんでした。

 

まだ娘を授かる前でしたし、

そもそも子どものいる人生自体が想像できなかったので、

「ふうん、そういうものなんだ」

という漠然とした受け止め方しかできませんでした。

 

でも今は切実に、その言葉をヒリヒリ感じています。

 

親を奪われた交通犯罪遺族になってしまっているけれども、

未来永劫、娘を奪われる交通犯罪遺族には決してならない。

 

繋がっていく命を断ち切らせることは決してさせない。

 

反抗期の娘に対し、当面べったりガードはできないけれど、

後悔はしないようにできることはすべてしておきたい。

 

そこまで構えに構えた人間に対しては、

運命の悪意もうかつに手出しできないだろうと踏んでいます。

 

「あの時もっともっと心配しておくべきだった」

と一生嘆くくらいなら、

「結局何もなかったし、心配し過ぎだったでしょ」

とあきれて鼻で笑われたいと思っています。

 

最近特に、猛スピードの乱暴な運転をよく見るので、

特にそう感じています。

 

交通犯罪と無関係な記事の引用から始めます。

 

 

今年1月29日付朝日新聞の天声人語です。

 

知る人ぞ知る、米兵による昔のむごい殺人事件で、

犯人の名を取って呼ばれるジラード事件があります。

 

1957年、群馬で米兵が面白半分に主婦を撃ち殺し、

日米間で揉めた末にようやく日本で裁判したけれども、

結局、執行猶予で終わってしまう。

裁判が終わるや犯人のジラードはさっさと帰国し、

(あれ?執行猶予期間ってなんだっけ?)

後日「軽い罪でよろしく」という日米間密約が判明した。

(あれ?裁判官の独立ってなんだっけ?)

 

・・・と書いているだけで嘆息しかない事件ですが、

ここで取り上げた理由は引用されている遺族の言葉、

 

 

「無罪と同じです」

 

に同じ思いをした者として、

目にした瞬間に胸をえぐられたからです。

 

そう。

 

いくら職業裁判官や司法関係者が、

どんな高邁な理念や理屈をつけようとも、

遺族にとって犯人の執行猶予は「無罪と同じ」

 

殺人でも交通犯罪でも関係なくそう。

1957年でも私の時の2010年でも2025年でも同じ。

 

70年前も、今もずっと、多くの遺族は、

 

「だってこの国ではそういうもの」

「そういうものなんだから仕方ない」

 

という法曹らの「高邁な」基準に苦しめられている。

 

でも遺族を苦しめるそんなものに高邁さなどあるのか。

 

私の率直な感想を言えば、

人の命を奪った犯人に対する執行猶予付き判決など、

アフリカ一部で今も行われる女性割礼と同レベルの

醜く、残虐な「風習」でしかないと思っています。

(唐突に昔の映画「戦士の刻印」を思い出したので)

 

多くの法曹らにも自答してほしいと感じています。

このブログを始めた13年前からずっと変わらず

繰り返し書いていることがあります。

 

「遺族活動は片手間でやるべき」ということです。

 

日々の日常生活に支障をきたさず、

自分の人生やキャリアにも何ら負荷をかけず、

遺族活動はあくまで淡々と片手間でやり続ける。

その大切さです。

 

もちろん遺族本人として動く場合は全力です。

でないと加害者実刑など夢のまた夢ですから。

ゆるく片手間に裁判対策をして、

犯人に執行猶予がつけば生涯の後悔を残します。

 

しかし自分の裁判が終わり、目線も利他に移り、

他の人にどう対していくかと考えた場合、

どこまでも片手間にとどめるべきと考えます。

 

しかし片手間にとどまることができず、仕事もやめ、

24時間365日交通事故(交通犯罪)のことを考え、

職業遺族となってしまう人はゼロではありません。

 

仕事を辞めて貧困に陥り、日々の生活に追われたり、

活動に熱心すぎて、夫婦間のすれ違いで離婚したり、

婚期を逃したり、子どもを授かる機会を失ったり、

そんな例があり過ぎるように思っています。

でもそんなことになったら二重に悔しくないですか?

 

交通犯罪で、家族や大切な人を奪われただけでなく、

さらに自分の人生まで破壊されてしまうことになる。

 

そのことまで加害者の責任を問うことはできません。

 

私たちは聖母マリアや観世音菩薩にはなれません。

 

聖母マリアや観世音菩薩になろうとした瞬間に、

その人の人生は多かれ少なかれ破壊されてしまう。

 

家族や大切な人を奪われた事実は変えられない。

しかしさらに自分の人生までは破壊させない。

 

あくまで片手間で発信や意見提起を続け、

片手間で働きかけるべきところに働きかけ、

片手間で世の中の変えられるところを変えていく。

 

全ての遺族を救済しようなどとは決して考えず、

縁あって偶然隣にいた遺族に声をかけるにとどめる。

 

そんな大切さをふと感じて徒然に書きました。

 

もちろん使命感を燃やしている遺族は尊敬します。

活動自体が追悼になっているだろう例もあります。

 

またこんなことを書いている私も当初を振り返れば、

深夜にブログを書いて睡眠3時間で翌朝出勤したり、

何度も会社を休んで書類を書いたり官庁に行ったり、

休日をつぶしてメディアの取材を受けたりしました。

 

ただずっとそんなことを続けていたら、

間違いなく私の人生はもっと壊れていました。

他の遺族にはそんなことは勧めるべきではないと思い、

こんなことを書いてみました。

 

「ゆるくていい」「片手間でいい」という、

今はやりの皮肉な言い方を逆利用して言えば、

当時も今も変わらない私の「お気持ち表明」でした。

 

ささやかな自分なりの美学ですが、このブログでは、
世間をにぎわせている話題は原則触れていません。


単に安易に旬の話題に飛びついてしまうと、
後々読み返せばものすごくダサいだろうなと・・・
ただそれだけの理由ではあります。


ただ今回のフジテレビのことは触れようと思います。


理由は彼ら彼女らの本心が透けて見えてしまうから。

 

そして今度こそまともな会社に変わろうとしない限り、

(率直に言えば、この機会に潰れろと思っています。

 長年の政界縁故入社が効いて潰れないでしょうが)
性被害だったり、報道被害だったり、形は違えど、
きっとまた被害者を生み続けるだろうと思うからです。


ただ思うですが、多くの日本人には、
「池に落ちた犬を寄ってたかって袋叩きにしたがる」
という嫌な国民性があります。


だから私も醜い池に落ちた犬叩きをしないよう、
以下、自制しながら書いてみようと思います。


番組で泣きながらアナウンサーがコメントしたり、
組合員急増や、社員説明会で怒号が飛び交ったり、
中居正広氏の子どもが書いたような引退声明とか、
いろいろな話題が世間をにぎわせています。


でも率直に書けば、多くのフジテレビ社員の本音は、

高邁な理念や、使命感とはあまり関係なく、
「年収数千万円の今の華やかな地位を失いたくない」
という一言に尽きるのではないかと思っています。


知らない人も今はいるかもしれないので再度書くと、
私はフジテレビによる報道被害者の一人です。

 


私の本ブログでの報告記事
https://ameblo.jp/azumin827/entry-12161073531.html

あいの会ブログでの報告記事
http://blog.livedoor.jp/i_nokai0708/archives/48618556.html

BPO(放送倫理・番組向上機構)の委員会決定報告ページ
https://www.bpo.gr.jp/?p=8627&meta_key=2016


詳細は↑に書いて、記録を残していますが、
「自転車事故の深刻さを訴えたい」
と言われて、それならとインタビューに応じたら、
「自転車を狙った子どもの当たり屋がいる」
という話を面白おかしく(全然面白くないのですが)
茶化したドラマの前振りに使われる被害を受けました。


BPOに申し出て、被害認定もされたのですが、
その後も時折続いてきたフジテレビの数々のオイタ、

そして今回の騒動をみれば、
「結局あの時から何も変わっていなかったんだな」
というのが率直な感想です。

 

「女性のプライバシー保護」

を隠蔽の言い訳にやたら強調していた姿勢も、

私を被害者にした時と変わらないなと既視感全開です。

 

実際、私の大学時代にもいた
「フジテレビに行きたい!!!」
という面々は、私の知っている限りで言っても、
「気が付けば18歳もとうに過ぎて、
 今更この年で芸能人なんか目指せないけれども、
 やっぱり芸能界に近い華やかな世界で生きたい!」
という価値観の人ばかりだったように思います。


そんなこんなは、多くの人にはきっと既知の話で、
フジテレビの軽はずみさや非常識ぶりに
不快感を抱き続けてきた人たちのマイナス感情が
一気に噴火したのが今回の騒動なのだと感じます。


しかし今回の騒動は長い目で見れば吉報と考えます。


もし今回がなければ、アナウンサーの女性たちは、
今後も人身御供で性消費され続けていたはずだから。
(フジテレビだけの話かどうかも含めて・・・)


今後、それはほぼ完全になくなったわけです。

 

未来の性犯罪被害者を救うことができた。
吉報と言うしかありません。


結局、大きな被害が出て、誰かが苦しみ、
それがセンセーショナルに騒がれなければ、
何も変わらない悲しい現実はあります。

それは今回も交通犯罪も変わらない。

 

第三者委員会がどうという話については、

きっと性の献上先には政財界も多いでしょうし、

うやむやな報告書になるだろうと諦観しています。

(Xでゆな先生が書いている↓に全く同感)

 


ただ未来の性犯罪被害者を減らしたという一点で、
今回の騒動はとても価値があったと考えています。