自転車に家族を殺されるということ

自転車に家族を殺されるということ

交通犯罪犠牲者の命が紙クズ扱いされる司法を変えていきます。フェイスブック・Twitterも発信中。
http://www.facebook.com/azumin827
https://twitter.com/azumin827
2014年1月28日に判決が出て裁判は終わりましたが、私の交通犯罪遺族活動は続いています。

全く個人的なことですが、

しなければいけない課題が山積しています。

 

そしてそれがなかなか進まない。

(タスク表は作って日々更新していますが、

 なかなか完了フラグに変えていけない・・・)

 

平日は帰ったら疲れて寝てしまうだけが続くので、

この連休はその課題群を少しは進めようと思いつつ、

連休最終日の今日も書いている時点で23時過ぎ・・・

 

やろうと思ってできたことは半分くらいでした。

 

こうして人は無為に老いて死んでいくのだと思うと、

もっと我が身に激しく鞭打たなければと痛感します。

 

連休なので一応家族のお出かけもしました。

初日はドライブがてらの少々遠出の買い物。

 

 

 

 

しかしこの日はどこも大渋滞に次ぐ大渋滞・・・

長時間ずっとハンドルを握っていたので、

次の日、手のひらがピリピリ痛くなっていました。

 

 

連休2日目の土曜日は基本ゆっくりタイムでしたが、

夕方だけ娘の入っている合唱団のレッスンがあり、

その日は私が父母会当番だったので、貼り付いて対応。

これがなんだかんだ気を使うのですよね・・・

 

 

連休最終日の日曜は、私は午前中は茅ケ崎まで墓参。

やはり父が亡くなって最初のお彼岸なので、

そうした最低限の定石は踏まなければと思いました。

 

 

ほぼ帰宅と入れ替わりで、妻と娘は友達親子と外出。

 

娘が今好きなカラフルピーチ(「からぴち」と略すらしい)

というYouTuberのファンミーティングに当選してその当日。

 

帰って来たのは21時近くでしたが楽しんできたらしい。

 

 

そんな連休でした。

 

泊まり旅行もなく、地味かもしれないけれども、

そんな地味な日常を大事にしたいと思っています。

 

今度の週末は地元の桜まつり。

娘が出演するステージプログラムもあって、

なおさら風邪や事故がないようにと慎重になっています。

 

書きたいリストが溜まり、本当は自転車報道のこととか、

遺族が遺族を差別しようとする悲しさとか、

そんなことを書きたいと思っていたのですが次回にします。

 

抽象化したりボカしたりが必要なことばかりの内容ですが、

しがらみを気にしなくてよくなると書きたいことが増える。

これも一個いっこ書き進めていこうと思っています。

ここの読者には既に周知のことになってしまいますが、

一応ここは今でも遺族ブログ(休眠予定ですが)で、

私は交通犯罪被害者遺族のはしくれとなります。

 

加害者が自転車だったという少々特殊なカテゴリーで、

そのカテゴリー内でこうして発信を続けている遺族は、

おそらく日本全国で私一人なのではないかと思います。

 

なのでその責任感もあって、ちょっと触れておきます。

 

4月から施行される自転車の新交通ルールについてです。

 

 

 

結論・・・

まあ混乱するでしょうね・・・

 

もちろん大枠は当然のことばかりだと思います。

 

イヤホンしながら運転するなとか、並走するなとか、

スマホいじるなとか、これまでの非常識な運転者に、

「それはダメだよ」

と明文化して違反を取り締まるのは歓迎すべきこと。

 

しかし問題は原則車道のルール。

 

いやいや、ほとんどの道路は無理でしょ・・・

 

少なくとも都内で大丈夫そうなところなんてわずか。

 

インフラが整備されていないのに、

机上の空論で、頭の中だけで考え出したのが丸わかり。

 

このあたり、官僚って頭が悪いんですよね・・・

紙面(PC画面)だけ見て、現実を見ていないというか。

 

安全性に何の問題もない歩道を走って捕まって、

「おかしいでしょ!」

というトラブルかあちらこちらで頻発するか。

 

それとも無理にがんばって車道を走った結果、

車にひっかけられて転倒する事故が頻発するか。

 

きっと時に痛ましい悲劇だって起きるでしょう。

 

私の疑問の核心は、この車道原則を考えた人たちは、

ひっかけ転倒事故をどこまで想定したかということ。

 

たぶんほとんど考えていない。

 

その責任をどう考えているのかなという疑問があります。

 

Xでしか書いていなかったと思うので再度触れると、

この自転車新ルールの話題を見て連想するのは、

各線の駅で懸命にPRしている

「エスカレーターの右側も歩かず止まりましょう」

の問題です。

 

結局、誰も守っていない。

 

時に仁王立ちで無理に通せんぼしている人もいますが、

見れば、明らかに頭か性格のおかしい人ばかり。

 

彼ら彼女らの目的は、ルールを守ることではなく、

歩く人に怒鳴り散らしたいだけのただのトラブル愛好者。

 

私見ですが60歳過ぎの高齢者が多い気がします。

 

駅エスカレーター問題は、机上論失敗の典型例ですが、

自転車新ルールも似た末路を辿りそうだと感じます。

 

もちろん安全性を目指すことに異論はありません。

 

だから新ルールをくさすつもりもありません。

 

今のインフラでは車道云々は無理があると思いますが、

それ以外はどんどん取り締まっていってもらいたい。

 

時にトラブルが起きたり、時に悲劇が起きたり、

そんな状況を受けてインフラも整備されていったり、

そうした紆余曲折を経てになると思いますが、

最終的には良いものになってもらえればと思っています。

私の見た限り、つまりあくまで私の偏見の範囲内ですが、 

遺族活動をする、あるいは何か自分の思いを発信する人は、 

とてもピュアな人が多い印象を持っています。 

 

これは良い意味でも、悪い意味でも、両方においてです。 

 

そんな中で私なんかは性格ねじくれ最右翼なわけですが、 

だからこそ傍から見て、もどかしく感じる場面もありました。 

 

良い意味でのピュアさはその真っ直ぐさゆえに、 

多くの応援を受け、大きなことを達成する強さになります。 

 

しかし悪い意味でのピュアさは悪人に貪られる弱さにもなる。 

 

具体的に書くのは控えますが、悪い意味でのピュアさゆえに、

企みや策略に簡単に転ばされている人も時折見てきました。

 

だから図らずも悲運に見舞われて遺族になってしまった人が、

何か発信したい、あるいは活動したいと思ったら、

世にはびこる悪意や愚かさや、そういった醜悪なものに対し、

最低限の武装はしておいてほしいと考えています。

 

そのピュアさが悪意の餌食にならないようにです。

 

少し前、SNS上で『ナニワ金融道』には社会に出ていく上で、

必要なことがたくさん書かれているから、

全ての学生は必ず読むべき参考書だという議論がありました。

 

 

私も全くもって同感です。

 

「古い漫画だけど全然古びていない」

というコメントも目にしましたが全くその通りですね。

 

同時に『闇金ウシジマくん』も役立つ参考書に挙げたい。

 

 

どちらも決して楽しく読める漫画ではありません。

胸から苦い汁が出てくるような苦しい感覚で読む作品です。

 

『ナニワ金融道』と『闇金ウシジマくん』

 

それぞれその毛色はかなり異なります。

 

『ナニワ金融道』は悪意を持って悪事を仕掛ける悪人に対し、

どうあしらうか、あるいはどう撃退するか教えてくれる作品。

(なおこの作品の最後は愛の物語に集約していきます)

 

『闇金ウシジマくん』は言葉の通じない粗暴な馬鹿に対し、

どう叩きのめすかの所作を教えてくれる作品。

 

どちらも人生に有用な作品であること論を俟ちません。

 

なお(こんな性格のためか)私は経験がないままでしたが、

「慰謝料入ったんでしょ。ちょっとは援助してよ。グヘヘ」

という輩が接近してきた話は何人かの遺族から聞いています。

そんな場面なら、元々どんなお人好しな人でも気弱な人でも、

『ナニワ金融道』と『闇金ウシジマくん』さえ読んでいえば、

「自分が何言っているのかわかってる?とっとと消えろ」

という言葉が自然に出る可能性は高められると思います。

 

ピュアさは捨てる必要はない。

ただそのピュアさを守るための強さは持ってほしい。

 

悪意を打ち負かす強さも遺族には必要と思って書きました。

 

私は人を疑う人間です。

 

 安易に人を信じて結局酷い目に遭い、

 「もう人なんて絶対信じない!」

なんて境地に陥ってしまうよりも、

 人を疑った末に自分の狭量さを思い知らされ、

 「人はまだ捨てたものじゃなかった」 

という感動を経験する人生のほうが素晴らしいと考えます。

以前書いたブログの続き、または補足です。

 

加害者の謝罪パフォーマンスを目の当たりにして、

交通遺族はハラワタの煮えくり返る思いをします。

 

しかしそんな交通遺族だって、もし加害者になれば、

執行猶予を取るために間違いなく同じことをします。

 

「自分はそんなことはしない!」

なんて言う人がいれば、それはただの偽善者か、

自分も騙してしまうくらい自分に酔っているだけか、

条件反射で否定する思考停止君のいずれかでしょう。

 

誰だって自分が一番かわいい。

 

だから謝罪パフォーマンスを行うことそれ自体、

別に異常人格なことでもなんでもなくて、

殊更に責めるのは違うのではという話を書きました。

 

 

しかし人としての最低限の行いは別です。

 

日本の司法慣習では、よほどのことがない限り、

人ひとり轢き殺したところで、執行猶予前提なので、

キャリア断絶や貧困転落の恐れはありませんし、

勤務先や家族に知られずやり過ごすことも可能です。

 

それでも過失とはいえ、人の命を奪ってしまった。

 

だからこそ、せめて遺族への謝罪を繰り返すのは、

人として最低限の行いだということは変わりません。

 

しかし例えば、遺族の電話番号を着信拒否にしたり、

命日に花を手向けるという約束を反故にしたり、

動悸がするからと意味不明な理由で謝罪を拒否などは、

はっきり「クズ」と言うべきふるまいなのは当然です。

 

最低限のことすらできない人間は最低でしかない。

 

そこは混同されては困るので、補足を書いておきます。

 

執行猶予目的の謝罪パフォーマンスなんて当然のこと。

私だって誰だって加害者になればそれくらいする。

(私なら私の事件の加害者よりはずっと上手に演じます)

 

しかし謝罪を行うこともこれまた当然のことです。

 

当たり前の謝罪すらできない加害者に対しては、

その人格欠陥ぶりは責められて当然と考えます。

本当はもっと早く書くべきだったブログですが、

書かないよりは書いたほうがいいと思って書きます。

 

2月の連休前後に父の四十九日と納骨を済ませました。

 

四十九日法要は、母の時もお願いしたお坊様。

 

最初こそは葬儀会社経由の事務的な出会いでしたが、

(別ブログでも書いたボッタクリの葬儀会社・・・)

2010年よりかれこれ17年も縁が続いたことになります。

 

既にXでもちょこちょこ書いていましたが、

ちょうど今年は母の17回忌にも当たっていました。

しかし自称仏教通だったはずの自分も頓着しておらず、

その場でお坊様に言われて初めて思い至りました。

 

「ご縁ですのでお母さまの17回忌もいたしましょう」

と全くのサービスで急遽執り行っていただき、

その心遣いのきめ細かさと温かさを痛感もしました。

 

納骨は茅ケ崎の寺院に併設の霊園で。

連休最終日の夏日でした。

 

 

 

 

納骨の法要について、事前に寺院に問い合わせると、

「うちでやらせていただくことになっています」

との話で、それぞれ全く別々に行うことになりました。

 

うちの代々宗派は浄土真宗で、墓地のある寺院は曹洞宗。

 

当時の母も父も宗教には無頓着でしたが、

そうした詳細は当時はどこもフォローがなかったため、

寺院の方も悪い方ではないのだけれども、

傍から見たらチグハグなことになっていたと思います。

(戒名に釋が付く真宗の故人の納骨法要で、

 禅宗で唱える大悲心陀羅尼が唱えられることに、

 違和感を覚える人もいるかも・・・とは思いました)

 

その後も、市役所各部署をハシゴしての手続き、

(父の障害者が課税課未登録で長期の超過課税も発覚!)

成年後見をつけていたので法務局でのその廃止手続き、

銀行での相続手続き・・・と続くことになりましたが、

父をめぐる法要関係はこの連休で一区切りとなりました。

 

なので、納骨法要後はラフな服装に着替えて、

一家で八景島シーパラダイスに行ってきました。

 

一家で揃ってどこかに出かけるということも、

よく考えれば、あと何回あるかわからないなと考えてです。

少しでも家族の時間の思い出が積み重なればと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

警察や検察にクレームを入れることについて、

交通遺族はある意味プロフェッショナルと言えます。

(もちろん個人差はあります)

 

理由はそれなりに相手の手の内がわかっているから。

 

もちろん完全にそうすることは不可能な話ですが、

警察や検察をある程度、意のままに動かすことは、

そうでない人よりも遺族はたやすい現実があります。

 

かく言う私自身もそうです。

 

詳細は伏せますが、人命の関わらない程度の話で、

(ある意味、些末と言えば些末な事案で)

普通の人だったらあきらめているような事例で、

2回ほどそれぞれ警察と検察を動かしたことがあります。

 

特に警察は仕事を増やすこと自体を嫌がります。

 

特に刑事課は残業月80時間超の世界に生きている方々で、

少しでも事件を受理しないように懸命になりがちです。

(これも個人差あり。尊敬に値する警察官も大勢います)

 

嘘を並べて告訴状や被害届を拒否するのは日常茶飯事。

 

そのために非礼な言葉で被害者を罵倒することもあります。

 

そんなことはやめろという通達もありますが守られていません。

 

 

 

 

送検された後も油断はできません。

 

人の生き死にの関わらない犯罪である限り、

検察はよほど重大と判断しない限り多くは不起訴にします。

 

不起訴理由も丁寧に説明しなさいという内部通達もありますが、

事実上それが順守されているとは言えない現実があります。

 

 

 

 

 

 

また検察審査会もその多くはガス抜き用のお飾りに過ぎません。

 

被害にあった多くの一般人はそんな事例に直面し、

混乱したり、憤ったりしますが、最終的に、

「はあ・・・わかりました・・・」

と引き下がってしまいます。

 

しかし少なくない交通遺族はそうではない。

 

失礼な物言いに接すれば、

「ちょっと待ってください。今のその言い方は何ですか?」

とまずはその非礼さを指摘します。

 

おかしな言い訳に直面したら、

「それが本当なのか確認させてください」

と冷静に切り返します。

 

また画像で出した各通達への言及も最低限のたしなみです。

 

またそれでも現場がシノゴノ言っている場合は、

警視総監(県警本部長)や検事正に配達証明で抗議文を送り、

動かすすべもある程度は常識の範囲内だったりします。

 

しかし多くの一般人はそこまで考えが回らない。

 

交通遺族がその方面のプロフェッショナルたるゆえんです。

 

しかし同時に節度も必要だと考えています。

 

私は前回のブログで、

「自分は遺族様だ」

と選民意識で傲慢になる場合もあると書きました。

 

細かくは書きません(書けません)が、

醜いふるまいを目にしてウンザリしたこともたびたびです。

 

ここでどうしてこうしたブログを書いているかと言えば、

警察や検察は一般人にもごまかさない対応をしてほしいし、

一般人はこうした知見も知ってもっと賢くなってほしいし、

遺族は節度をもって社会的使命の範囲内で動き、

クレーマーやモンスターにならぬよう自制すべきと思ってです。

 

そんな思いをこうしてSNSで発信して意見提起すると同時に、

私自身への自制と自省にしたいと思って文章を残しました。

これはもしかしたら多くの交通遺族の反発を買うかな。

 

結論から言ってしまうとタイトルの通りです。

 

私の事故の加害者のふるまいを振り返ると、

 

・一切謝罪なし

・公判直前に弁護士に入れ智慧でバタバタ謝罪申し出

 (一方的に実家に花束を置いたり手紙も書いたりもあり)

・公判で花束を置いたり手紙も書いたりを強調

・また公判中に絶叫の謝罪パフォーマンス(台本棒読み)

・執行猶予判決を聞いて、ホーっと息を吐いて背中を丸め、

 裁判官に対して「ありがとうございます」

・民事は弁護士任せで一切対応せず

・それ以降私へのコンタクトも一切せず

 

こんな感じです。

 

行動の濃淡はあるけど、聞く限りどこの加害者もそんな感じ。

 

私も当時はめちゃくちゃ怒りました。

そして多くの遺族もめちゃくちゃ怒ります。

 

こんなんで執行猶予か?

裁判官ってバカの集まりか?

 

多くの遺族はそう感じます。

 

私は今も裁判官という人種を信頼していません。

(もっとハッキリ言えば世間知らずのバカと思っています)

 

しかしここ数年、感じているのですよね。

 

もし自分が誤って人を轢き殺してしまったら、

どんなことを考え、どんなふるまいをするだろうか。

加害者を罵る資格のあるふるまいをするだろうかと。

 

「私は人様の尊い命を奪ってしまいました!

 責任逃れをするつもりはありません!

 刑務所に入って犯した罪を償います!

 執行猶予判決なしの実刑判決を出してください!」

 

そんな主張をするだろうか。

 

まずしないと思います。

 

執行猶予を勝ち取るためにできることは全てします。

 

そしてそれは決して自分だけではないと思っています。

多くの遺族も加害者になれば同じかと。

 

人を轢いた瞬間は、相手の命や家族の悲劇よりも、

「うわー!やっちまった!」

「俺の人生どうなってしまうんだろう!」

という思いがまず脳裏をかけめぐるでしょうし、

その後の公判にあたっても、遺族に手紙を書いたり、

公判中に謝罪パフォーマンスをしたり手は尽くします。

 

そして無事に執行猶予判決を勝ち取れれば、

(よほどのへまをしない限り執行猶予は既定路線ですが)

ホッと一安心で、あとの民事は弁護士お任せでしょう。

 

もちろん私の事故の加害者はドヘタクソでした。

加害者は慶應志木高同窓会の学年リーダーでしたが、

(つまり実質的にも学年のボスだったと思われる)

そんな慶應付属校上がりとは思えないグダグダぶりでした。

 

それでも余裕の定番の執行猶予判決だったわけですが、

もっと計画的に、段階を踏んで、タスク管理表も作って、

謝罪パフォーマンスを繰り返してポイントをためておけば、

もっと余裕で執行猶予判決を迎えていただろうにと思います。

 

私だったら間違いなくもっと要領よくやります。

 

これを読んで怒る遺族がいたら、

「綺麗事を言わず、胸に手を当ててよく内省してごらん」

と言いたい。

 

本当にあなたは刑務所に入るために全力を尽くすのかと。

 

絶対そんなことは避けようと懸命になるはずです。

「自分は違う」

なんて言うのがいれば、そんなのはただの偽善者です。

 

交通遺族になったからと言って、

確かに悲劇や悪意への対処法の経験値は一気に上がりますが、

(私も人のあしらい方は遺族になって格段に上手くなった)

一足飛びに人格が高潔になって、聖人君子となるわけではない。

 

命の尊さや交通安全については一家言を持つようになりますが、

それ以外ではそんなに大きく人格が変わるわけではない。

元々ダメなところがある人はその後も大抵ダメなままですし、

「自分は遺族様だ」との選民意識から傲慢になる場合もある。

 

みんな自分が一番かわいい生身の人間です。

 

元々私は、愛する我が子を奪われた悲憤があるわけでもなく、

両親も決してあたたかい家庭を築いてくれたわけでもなく、

数年前から遺族活動に距離を置きたいと思う状況も重なって、

よけい冷静に考えてしまっているところもあると思います。

 

ただ被害者・加害者の両方を冷静に俯瞰してみてみれば、

遺族を苛立たせる加害者の行動はそんなに突飛でもないし、

自分も同じ立場だったら同じことをするだろうと思いました。

 

お行儀良くすれば執行猶予なら、誰でもそうするのが当たり前。

特段異常者のように責める話でもないと思うようになりました。

それがおかしいというなら執行猶予廃止が大前提だと思います。

私は人生の決断が遅い人間だとつくづく思います。

 

私は30代半ばで結婚し、40代半ばで娘を授かりました。

 

そしてその間の39歳で交通犯罪遺族になりました。

 

結婚も子ども授かりもどちらももっと早くできたこと。

 

特に遅くに娘を授かったことについては、

遺族活動に熱心になってしまったことがあります。

 

いや・・・

熱心になっていたからというのはごまかしがある。

あくまで遺族活動を理由にして、

子どもを持つ責任から逃げていたのではなかったか。

 

また裁判を闘ったり、メディアにも露出したことで、

浅はかな高揚感もあったのではなかったか。

そんな我が身の卑小さも感じています。

 

生殖機能だって年齢とともにどんどん落ちていく。

(あまりおおっぴらげに語られることのない話ですが、

 高齢出産の子は愚鈍な子が多いともよく聞く話です。

 『ゲーテとの対話』でもそんな話が出てきた記憶あり)

 

いま振り返ればあれは正解だったのか・・・

少なくとも「正解だった」と胸を張ることはできません。

 

きちんとあるべき年齢の段階で、

あるべき人生のライフステージを通過する。

 

こんな書き方をすると、

「人それぞれ多様な生き方があることを否定するな!」

と怒り出す人もいるかもしれません。

しかし、子どもがいないままの人生だったり、

いても遅くになって子ども成人前に定年になる人生は、

やはり寂しさや危うさと紙一重の人生だと感じています。

 

仮に30代のうちに子どもを授かっていたとしたら、

今の娘と完全に異なる別人なのか・・・

もちろん生物学的にはそうなのでしょうが、

本当のところはどこまでも謎なようにも感じています。

 

反抗期でもう一緒に行動してはくれなくなりましたが、

今の娘は唯一かけがえのない娘で、替えはありえません。

 

別のタイミングだったら別人なのだとしたら、

時間を戻せると言われても、間違いなく断っています。

 

また男の子を育てるという発想は昔も今も全くないので、

もし男の子が生まれると知ったらガッカリして、

生まれたあとの子育ても適当になっていたと思います。

(こうして文章にするとひどい人間ですね・・・)

 

人生は手に持っているカードで勝負していくしかない。

 

被害者遺族になってしまったことは他責の不可抗力ですが、

遺族活動も遅くに娘を授かろうとしたことも自分の選択。

 

今更変えられない結果の今の手持ちのカードです。

その手持ちのカードで今後の安寧を追求したいと思います。

 

ただし・・・

遺族と言われる人たちを見ていると、婚期を逃したり、

あまりにも安易に職を投げうって貧困に陥ったり、

熱心になるあまり配偶者とすれ違って離婚したり・・・

これまで何度も書いていますがやはりそんな人が多すぎます。

 

遺族活動そのものは決して否定しないし、

何かを良い方向に変えようとするのは素晴らしいことです。

 

しかし遺族活動に没頭するあまり、

「気がついたら・・・」

とならないように一遺族から書いておきたいと思いました。

時間も年齢も止まってはくれません。

 

全体を俯瞰し、自分自身の人生を毀損することのないように。

 

時間と年齢ほど、人生で残酷なものはないと思っています。

2月から会社での担当業務が少し変わったことと、

それに伴って朝も早くなったこともあって、

平日は疲れて何もできなかったのでまとめて雑感。

 

今回は簡単な日記的なブログです。

 

この前の日曜日は娘のダンスのイベントでした。

 

 

前日土曜日に37度の熱が出てヒヤヒヤし、

なんとかおさまったので安心して会場に行ったら、

(親と子は入場時点で完全に隔離される)

出番の1時間くらい前に、

「なんか気持ち悪い・・・」

と娘からLINEが・・・

夫婦でバタバタして、なんとか娘の体調も持ち直し、

本番では元気にダンスを披露できました。

 

と思ったら翌月曜に再び熱を出して学校はお休み。

 

ただ思い出を欠落させることなく乗り切り、

本人も満足できたので、良かったと思っています。

 

今年に入って、娘の習い事からみの変更もあったり、

学校での新年度でのクラス編成の要望を出したり、

3月と5月は合唱団の発表があったり、

娘からみで何かと慌ただしい日程が続きます。

(父の四十九日と納骨も今月でとにかく慌ただしい)

 

Xでも書いていたけれども、

こうして日常の思い出を積み重ねられることは、

実は本当に稀有なことで、

一つひとつを大切にしていかないとと思っています。

 

感謝の気持ちと、それを奪われないための警戒心。

その両方が必要だと感じています。

 

ちょっとスピリチュアルっぽいことを書いてしまうと、

(ちなみに真っ当は怪談好きはスピが大嫌いです。

 あの愚かさと安っぽさがどうしても我慢ならない!)

何かを警戒しているとそれが起きない気がします。

 

私の人生の限りにおいての肌感覚ですが・・・

 

運命がもうそれは学ぶ必要なしと判断して、

私の人生の試練リストから除外してくれるのか。

 

少なくとも私の人生でのこれまでの不運や不幸は、

すべて想定外の不意打ちで襲いかかられています。

 

なのでこれからも再度交通遺族にならないよう、

最大限の警戒のアンテナは張っておきたいと思います。

 

以前も書いたけど、父葬儀を依頼した地元の葬儀社は、

とても丁寧で、良心的で、信頼できるところでした。

 

しかし・・・最後の最後で、位牌作成に関して、

首をかしげるやり取りに遭遇してしまいました。

 

葬儀社そのものとしては全く問題なかったのですが、

最後にやり取りした方の言葉に一気に醒めました。

 

「位牌を依頼する時はぜひ私の携帯に連絡ください。

 直接問屋とやり取りさせてもらいますので、

 会社を通すよりかなり安くできますから」

 

しかも「内緒ね」というジェスチャー付きで。

 

※あくまでイメージ(実際はオジサマだしこんな可愛くない)

 

なんかもうね・・・

 

「うわー安くできるんですか!ありがとうございます!」

 

なんて言われると思われたのかと考えると悲しくなりました。

 

本当に安くしようとしての親切心だったのかもしれません。

しかし普通に考えれば、仮に少しは安くなったとしても、

目的はマージンの私的全取りだろうと誰でもわかる話です。

(※私がひねくれているわけではなく普通の感想ですよね?)

 

そんな情弱だと思われていたのかと思うと興ざめしました。

 

それよりもなによりも、安くなるかどうかよりも、

死者を扱うもので非正規ルートで値引きするとかしないとか、

それ自体が冒瀆だと思うので、どのみちお断り一択になります。

 

結局、位牌は誰でも知っているとある仏具店にお願いしました。

 

おそらく葬儀社ではなく、その人個人の問題なのでしょうが、

故人をめぐるやり取りでそうした話はやめてほしいですね。

 

情弱がひっかかる可能性もあるのかもしれないけれども、

それ以上に一般的な感覚の多くの人を去らせることになる。

 

葬儀社などの悲嘆や不幸に接することを仕事にする方は特に、

そんな当たり前のことはわかってほしいなと切に思います。