自転車に家族を殺されるということ

自転車に家族を殺されるということ

交通犯罪犠牲者の命が紙クズ扱いされる司法を変えていきます。フェイスブック・Twitterも発信中。
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2014年1月28日に判決が出て裁判は終わりましたが、私の交通犯罪遺族活動は続いています。

父の成年後見年次報告書の作成に忙殺されています。
毎年提出しているものですが、結局今日までで終わらず・・・
この土日はそれに忙殺されて過ごす予定です。
提出の締切は週明けの12月15日・・・憂鬱です。

先ほどXで徒然なるままにポストしたのですが、
今のクリスマスシーズンが1年で一番好きな季節です。
しかし毎年この時期のこの作業だけは頭が痛い。
ハッキリいって苦痛です・・・

 



「加害者のせいで父はこんなにダメージを被っていますよ!」
という被害アピールの裁判対策として父につけた成年後見。

しかし結局、そんな主張は裁判では認められず、
(他でもまず認められないそうで、まあプロレスの一環ですね)
勝手につけられた後見監査人なるうさんくさい司法書士に、
結局計数百万円にのぼる後見監査人手数料を取られただけ。


これは明確に「被害」だと認識しています。


「おかしいじゃないか!こんなこと聞いてないぞ!外せ!」
とあちこちに抗議して、やっとその監査人を外すことに成功し、
信託銀行に財産を預ける後見信託制度にして今に至っています。

司法書士の養分からはなんとか脱したけれども、

一度つけた成年後見の苦痛は続くよどこまでも・・・

『成年後見制度の闇』(長谷川学・宮内康二著、飛鳥新社刊)
でも裁判所に司法書士や弁護士を勝手に後見人につけられ、
高額な後見人報酬に苦しむ人の事例がいくつも載っていますが、
私もそんな養分搾取の被害に遭った被害者の一人でした。
(出版社がアレで、痛いところも少々散見の本ですが・・・)

当時も頭も手も動かして書類を作っているのは自分なのに、
たぶん1時間程度でチェックして、間違いを指摘するだけで、
毎年数十万円ももらえるなんておいしい仕事だと思います。


もともと成年後見は弁護士に言われるままに、
「まあ父が詐欺被害に遭ったらすぐ無効にできるだろう」
程度の認識でつけたけれども、やっていることは簿記の真似事。

いろいろとトンチンカンな失敗制度だと思います。

まあとにかく今週末はがんばります。

娘は明日土曜日は某YouTuberのイベント。

翌日曜は仲間とわいわい行く合唱団のイベント。
1日1日が今後の人生の可能性に大きく影響する年齢ですし、
とにかく無為な土日にならなくてよかったと思っています。
やっぱり娘には充実した毎日を過ごしてほしい。
私がいなくてもどんどん前に向かって歩んでいる娘を見ると、
こうして親離れしていくんだなという感慨と寂しさがあります。

この夏に、父に老衰の兆候があり、

年は越せないだろうと言われたと書きました。

 

その年越せももう間もなくですが・・・

いまも父は元気にしています。

 

いや、元気というのは正確ではないですね。

 

相変わらず枯れ木のような様子ですし、

何かあれば一気に容態が急変するのでしょうが、

安定していて、おそらく年は越せそうです。

 

年賀状を用意するかどうかまだ微妙ですが、

12月20日時点で安定したままなら年賀状も発注し、

これまで通りの年越しとなりそうです。

 

そんな今、12月上旬は毎年大変な時期でもあります。

 

父に成年後見をつけているのですが、

家庭裁判所宛の報告書提出期限が毎年12月15日で、

その作成で毎年、時間と労力をかなり費しています。

 

父につけたこの成年後見、

これまでも何度か書いていますが裁判対策の結果です。

 

結局何の意味もなく、ただ無駄な費用と、

無駄な時間と、無駄な労力ばかりが吸い取られ、

やらなければよかったと心から思っている制度です。

 

ハッキリ言って制度自体がクソという側面もあります。

 

成年後見年次報告書の作成と並行して、

この交通遺族のつける成年後見の問題であるとか、

父が亡くなりそうとなったことで入った情報だとかは、

今年中にはなんとか書いておきたいと思っています。

 

という予告だけ今回はメモ代わりに書いておきます。

また数日後に書きます。

 

 

まず最初に、今回は自戒で書いています。

 

娘が生まれ、ある程度分別がつくようになってから、

遺族集会に何度か連れて行ったことがあります。

 

命の大切さを知る機会に触れさせたい。

 

そう思ってのことで、

そうした思い自体は決して偽りではありません。

 

しかしそんな正論を言う自分の心の奥底に、

決して人に誇れない、いやらしい自意識がなかったか。

 

我が身を冷静に振り返って、ハッキリ告白すると、

私の中にはそうした醜い自意識は確かにありました。

 

私は交通犯罪で母親を亡くしています。

しかし過去何度か書いたように親子関係は実は複雑で、

親を殺されたという意識も過去のものになっています。

 

そんな自分が遺族の集まる集会に娘を連れていく。

我が子を無惨に奪われた人もいる場に連れていく。

 

そこまではっきり自覚したものではなかったけれども、

娘をお披露目して自慢したいというエゴであるとか、

自分は娘の成長を見守る幸せがあるという安心の確認とか、

人様の悲劇を娘の教育に役立てようという利己心とか、

そんなこんながないまぜの俗物意識がなかったかといえば、

決してゼロではなかったと告白しなければなりません。

 

心の奥の奥に燻ぶっていた小さな黒点みたいなものですが、

それでも確かにそんな黒点は私の中にうごめいていました。

 

ハッキリ自覚しているレベルでは悩んではいました。

我が子を奪われた人を傷つけることになりはしないか、

そうしたご遺族への冒瀆になってしまうのではないか、

それ以前にそもそも常識的に無神経なことではないか、

などなど、いろいろ考えてはいました。

 

妻からも、

「娘さんを亡くされた人は傷つくから連れていくべきではない」

と言われたこともありますが、当時信頼していた方から、

「そんなことは誰も気にしないし、東さんも気にしなくていい」

という助言にも接していて、それを勝手に免罪符にしてしまい、

結局そうした場に娘を連れ回すということをしてしまった。

 

「私は娘を亡くした。他の人が娘といる姿なんか見たくない。

 傷つくから、そんな人は遺族の集まりには来ないでほしい」

そんな思いを正面から言ってくれる遺族はいないわけで・・・

 

私自身、他者への想像力が足りなかったと後悔しています。

 

なんでいま、こんなことをつらつら書いているかというと、

いま犯罪被害者週間であちこちでそうした催しがあることと、

(そういえば書いている今日がちょうどハートバンドでした)

娘が反抗期になって、自分と二人では出かけてくれなくなり、

そんな状況で当時のふるまいを振り返ることも多くなっていて、

やはり醜い自意識の存在と認めざるをえないと感じていたので、

はっきり言語化して、我が身への自戒にしたいと思いました。

 

以前、村田らむさんのトークショーに行ったことがあります。

 

色々な特異な世界を紹介しているルポライターの方ですが、

その方主宰の世界の様々な悲惨な死に方を取り上げる

ある意味悪趣味なトークイベントだったのですがその中で、

 

「他人の死なんて所詮エンターテイメントなんだよ。

 死んだのが他人だったら、こっちは楽しめばいいんだよ。

 自分の身内が亡くなったら、その時は悲しむ順番だから、

 そんな自分の順番が回ってきたら悲しめばいいんだよ」

 

そんな村田さんの発言がありました。

 

賛否はあると思います。

乱暴な言い方ではありますが、私は真実だと思います。

残酷な現実ではありますけれどもね。

 

ずっと東京(神奈川とか大阪もかな)に住んでいたら、

電車の人身事故(はっきり言えば飛び込み自殺)に、

遭遇した経験は誰だって1~2回以上はあると思います。

 

その時ホームにいる人の多くはどんな反応をするか。

 

そうでない人ももちろん少なくないはずですが、

多くの人がバラバラ死体を一目見ようと殺到し、

(恥ずかしながら過去の私もそんな一人でした・・・)

中にはスマホのカメラを向けている人もいる。

 

私自身の小学生の時の原体験もあります。

 

同学年(同じクラスではない)の子が浴室事故で亡くなり、

そのクラスの子たちが集団で葬儀に行ったのですが、

整列時の少なくない生徒の好奇心に爛々と輝いた目を見て、

強烈な印象を抱いたことを今も鮮明に覚えています。

 

あの時はその強烈な印象を言語化できずにいましたが、

あれはきっと彼らにとってエンターテイメントだったんだな、

と今になれば振り返ることができます。

 

高校の時も別のクラスの同級生のお父さんが亡くなりました。

 

ある日、うちのクラスの豪快キャラが息せき切って駆け込み、

「ぎゃははは!〇〇のおやじ死んだんだってよ!」

とわいわい騒いでいたことがありました。

(豪快キャラ氏も悪意ではなく、完全にノリで騒いでいました。

 弁護ではないですが、彼も決して悪い人物ではありません。

 「彼はロクな人生にならない」と思う人もいるかもですが、

 豪快キャラ氏はその後、順風で幸せな人生を送り、

 お父さんを亡くした方は悪く考え込んで人生が暗転しました)

 

振り返れば知る他人の死はどれもこれも多くの人の本音では、

どこまでもエンターテイメントだったと考えさせられます。

 

私自身、交通遺族になってしばらくしてから職場復帰した際、

本当に気にかけてくれる人は黙って接してくれましたが、

「落ち着きましたか?」

とわざわざ声をかけてきた約2名については、

押し隠した好奇心が表情に出ていて、不快に感じました。

(以前もここのブログで書いたように思いますが、

 「落ち着くって何ですかね?意味がよくわかりませんが」

 とニコリともせず真顔で返したら、アワアワ立ち去りました)

 

彼らにとって私の存在はエンターテイメントだったのでしょう。

 

前回、娘のダンスコンテスト会場の満員の観客席を見て、

我が子の晴れ舞台を応援できる稀有さと尊さを書きましたが、

そんなこんなをいろいろ考えてしまうと、

少なくとも娘が学生の間は自分は絶対に死ぬわけにいかないし、

娘にも決して若くして死なないでと思わずにはいられません。

 

他人の好奇心を満たすためのエンターテイメントとして、

自分や家族の尊厳を消費させるわけにはいかないと思いました。

 

書いててあらためて気づきましたが、

私はどこまでも人の尊厳ということに関心があるようです。

あっという間に連休最終日・・・

 

土曜日は娘の習っているダンスのコンテストでした。

 

8月の関東予選で入賞してチームが決勝進出となり、

それを受けての全国決勝大会が大宮でありました。

 

 

どの教室のどのチームとか書けないのでボカしますが、

無事に入賞を果たしてホッとした連休初日でした。

※上も踊っているシーンの写真にしようと思ったのですが、

 ユニフォームでどこかわかるのでやめにしました。

 

昨年も予選通過できたのですが、

全国決勝大会ではかすりもせずみんな悔し涙だったので、

やはり親としては素直に嬉しい1日でした。

 

ただ娘も小学校高学年になるといろいろ考えてしまいます。

 

幼少期のように無限に未来が広がっている感覚は既になく、

努力なしには人生が前に進まない凡人であることは痛感。

しかしもはや親の言うとおりに動くことは拒む年齢。

 

学校でも優等生は将来の逸材としての萌芽を見せているし、

その一方で登校拒否に苦しんでいる家庭もあったりで、

能力と人生の不平等ということを考えてしまいます。

 

親としてはやはり今できていることを少しでも続けて伸ばし、

将来の可能性を拡げていってほしいと願うばかりです。

 

さてここは遺族ブログ・・・汗

 

ただの子ども雑感だけなら、ここには書かず、

子育てブログとか新しく立ち上げて書いていると思いますが、

ここで触れたいなと思うこともあったので書いています。

 

土曜日も我が子を応援する親で観客席はビッシリでしたが、

母親と父親がそろって我が子の晴れ舞台を応援する、

ということがどれだけ稀有で尊いものかということを、

ビッシリの観客席をみて、端くれ遺族は思ってしまいます。

 

そして「母親と父親がそろって」といま書いたけれども、

毎回お母さんだけ、あるいはお父さんだけという家庭もあり、

他人の家庭事情などいちいち詮索すべきではない話ですが、

「シングルなのかな」

「もしかして死別とかなのかな」

「悲しい経験をしていなければいいな」

とついつい思ってしまったりしています。

 

娘が仲良くしている同じダンスチームの女の子で、

いつもお父さんが一人で連れてきている子がいて、

ずっと内心引っかかっているものがあったのですが、

土曜日に、お母さんもいて幼い弟さんを見ているだけと知り、

(それはそれで大変なことではありますが)

とても気持ちの良い娘さんとお父さんだっただけになおさら、

聞いてホッとした気持ちになったということもありました。

 

しかし生きているだけで平安が突然断ち切られることがある。

 

やはりどうしてもそのことを深く深く警戒してしまいます。

 

我が子が奪われたら晴れ舞台も何も未来永劫なくなるわけで、

自分なり妻なりが命を落としたら、

娘も心に深い傷を負ってその後を生きていかなければならない。

(死ぬのが私なら経済的困窮という困難も抱えることになる)

 

そんな悲劇は一つでも減ってほしいという祈りの感覚で、

満員の観客席をみて感じた気持ちを結晶にして残したいと思い、

連休中の雑感を徒然に文章にしてみました。

前回触れたように遺族活動について、

「醒めてしまった」
と告白しなければならない自分がいます。

(細かいけれども「冷めてしまった」ではない)

 

♧積極的に発信したいとは思わなくなった

 

 

なのでここのブログもどうしようかというところですが、

「交通犯罪をなくそう!」

「加害者に厳罰を!」

「安全な社会を!」

という大文字の主張はもう今後書かないと思います。

 

正しいことだし、それはそれでその通りなのですが、

もう自分が時間とエネルギーを注ぐことではないなと。

 

書く気そのものがありません。

 

実はXでは複数のアカウントを使い分けて、

全く別世界で、いろいろと面白いものを見つけて、

そちらでの書き込みややり取りが楽しいこともあります。

 

ここはふと書きたいと感じたことがあるときだけの感じかな。

あとは(私個人になど関心ないでしょうが)日常雑感とか。

 

元々半径10メートルくらいしか関心を持たない人です。

 

肩の力が抜けて、それが本来の自分だなと感じています。

 

ただ・・・元々私を知っている人はご存じでしょうが、

私はトラブル大好きドS変態でもあります。

 

ありえないこととか、悪意とか、救いようのない悪人とか、

そうしたものが自分の視界に入ってきたら、

徹底的に叩き潰さないと気が済まない人でもあります。

 

自分の半径10メートル内にそうしたものが入ってきたら、

狂喜乱舞してサディスティックに振る舞ってしまいます。

 

例えば、訴訟で愚かな主張をしてきた三井住友海上とか、

その使い走りの言われるままの作文を書いた無名弁護士とか、

さらにその使い走りの作文担当の医師や医師会だったりとか、

加害者に弁護士を当てがって現在幹部にしているENEOSとか、

「黙っていて下さい」しか言わなかった現水戸家裁所長とか、

今までもそうしたものをからかう記事をアップしてきました。

 

また、三井一派に「自爆ありがとう」の表彰式を提案したり、

ENEOS現社長宛にアクセスしたり(実は先月最新謄本取得済)

医師会にあらためて医の倫理を問いただしてみたり、

そんな気晴らしはこれからも気まぐれにしようと思っています。

 

これは完全に趣味の世界でもありますが、

同時にそれなりの公益性もある行為だと自負しています。

 

いままで遺族が愚弄され続けてきたのは、

そんな目に遭っても誰も彼も沈黙してきたからが大きい。

 

沈黙が彼らを図に乗らせてきたのは否定できない。

 

沈黙は悪をのさばらせます。

 

まさか上に書いた彼らも、10年以上経って、

当時をチクチク言われ続けるなんて思ってもいなかったと思う。

 

彼らにとっては残念なお知らせ!

これからもチクチク言い続けます。

 

そんな面倒臭い遺族がこの世に一人いるだけで、

「同じようなことを別の遺族にもされたらたまらない」

「襟を正して相手の尊厳を大切して真摯に対応しよう」

という自制効果を生むことができるんじゃないかなと思います。

 

まあ半分は趣味ですけどね。

 

あらためて遺族としての単純な主張
https://ameblo.jp/azumin827/entry-12932582558.html

上の前回ブログで、遺族としての私の発信は、
「人の命を奪った者への執行猶予はなくしてほしい」

だけの単純な主張であること。

飲酒運転厳罰化で飲酒運転がほぼ消滅したように、

(実に見事な成功事例!)

「人を轢いて死なせたら必ず実刑判決で刑務所行き」

にして、運転に緊張感を求める司法が必要と書きました。

 

でもそれは突発的出来事が起きない限り無理だろうとも。

 

・・・あえて炎上覚悟で不謹慎なことを書きます。

 

国民的スター(今の日本で該当者がいるかはさておき)や、

やんごとなき方々が、交通犯罪で命を落としたらどうなるか。

 

加害者は、

・飲酒運転も(当然ドラッグも)していない

・100キロを超える猛スピードも出していない

・当然無免許でもない

 

あくまで、

・うっかりしていただけ

・ついボーッとしてしまっていただけ

・犠牲者は1人のみ

・公判でも謝罪や反省を口にした

 

となればどうなるか。

 

世論はものすごいことになっていると思いますし、

加害者やその家族へのバッシングも猛烈と予想します。

 

そんななかで裁判官はどんな判決を出すか。

 

・超然主義と判例主義で執行猶予付き判決を出すか。

・世論に(+何らかの圧力)に屈して実刑判決を出すか。

 

世論と圧力に屈して実刑判決を出すだろう。

というのが私の予想です。

 

裁判官も人の子です。

出世もしたいし、収入も多い方がいいし、

国民の大半を敵に回す立場になんかなりたくはない。

 

そしてそんなことが起きてはじめて、

「これまでの交通犯罪の司法って何?おかしいだろ!」

という世論が沸騰し、流れが一気に作られるのだろうと。

 

ではそんな事態を期待しているのかと言えば、

そんな大きな国民的犠牲など望むわけもない。

 

そしてそんな国民的大事件でも起きない限り、

犠牲者1名の交通犯罪には執行猶予が量産され続ける。

 

既に昭和な古い表現ですが、金太郎飴のように。

 

私は今の日本の司法に深く絶望しています。

 

折に触れて必要な発信は今後もしていきたいと思うけど、

もう積極的に発信していきたいとは思わなくなりました。

 

今の自分の人生には目の前にもっと大事なことがあり、

そちらに時間とエネルギーを集中して注いでいきたい。

 

これが偽らざる本音です。

前回、父老衰の報告をした時、心境の変化があって、

遺族ブログを書くことに気が向かない話をしました。

 

細かく説明しようとしても、これがすべてなのですが、

実際に私はそんな状況になっています。

 

その前に・・・

遺族として私の発信する主張は単純です。

 

「人の命を奪った者への執行猶予はなくしてほしい」

 

シンプルにこれだけ。

 

交通事故を起こさないためにすべきことは、

とても単純なことだと思います。

 

「前を向いて」

「交通ルールを守って」

 

これだけで悲劇的な事故は防ぐことができるはず。

 

しかしそんな当たり前のことをできない者がいる。

 

そういう者の出現を極力抑えるためには、

実刑不可避という厳罰しかないというシンプルな考えです。

 

そうした過去の成功事例が飲酒運転をめぐる対応かなと。

 

私の学生時代は飲酒運転なんて当たり前でした。

私自身、飲酒運転の車に同乗したことも何度かあります。

 

でもいま周りで飲酒運転をしている人なんて誰もいない。

 

検問で捕まれば罰金が何十万にもなり、

もし人をはねて死なせたら危険運転致死罪で刑務所行き確定。

 

そんなリスクを犯してまで飲酒運転したいなんて奇特です。

一部の救いようのない愚かな人以外は消滅したのも当然かなと。

 

見事な成功事例だと思います。

 

それを交通事犯全般に広げてほしい。

 

人をはねて死なせたら実刑判決確定。

仕事もクビになり、出所後は不安定な貧困生活が待っている。

家族がいれば、その家族も貧困に苦しませ、

子どもが夢を追っていれば、経済的にあきらめさせるしかない。

 

そう思えばハンドルを握る緊張感も違うというものです。

 

ハンドルを握ることに緊張感を求めない今の司法実態。

 

それを変えるには、

「人を轢いて死なせたら必ず実刑判決で刑務所に入る」

という司法風土にするかないと考えています。

 

でも突発的な出来事が起きない限り無理でしょうね。

 

まだ書くことがありますが一旦ここで切ります。

数ヶ月ここのブログを書いていませんでした。

 

理由はハッキリあります。

忙しいというより心境の変化です。

 

他に追うテーマが増えて、かつ大きくなり、

ここの優先順位が下がったこともあります。

 

それは長くなるのでまた別に書きますが、

取り急ぎ近況報告です。

 

父が近いうち亡くなります(おそらく)

 

先月末に入居施設から連絡があり、

老衰の兆候が出ているとのこと。

 

緩和ケアなどのいろいろな手続きも済ませ、

まだ生きている父の兄弟にも連絡し、

そんなゴタゴタを一通り済ませて今に至ります。

 

ただ老衰という連絡を受けてから早1ヶ月近く経ち、

今すぐどうこうという感じでもないので、

衰弱が激しくなったら再度慌ただしくなるけど、

それまでは落ち着いているといった状況です。

 

父方家系は長寿で、健康な人が多いので、

医師からは年は越せないだろうと言われてはいますが、

案外しぶとく来年も元気にしているかもしれません。

 

このブログはタイトルで全部言い表していますが、

母を奪われたことについての遺族ブログです。

 

しかし別途書いたこともありますが、

私の両親に対する感情はそんなに単純ではありません。

 

決して尊敬できない考え方に、

決して尊敬できない行動様式・・・

 

生み育ててもらった恩は理解しなければなりませんが、

反面教師として見てきた面が多いのは否定できません。

 

父についてはなおさらなところがあり、

もう90過ぎまで十分生きて天寿と言える段階でもあり、

悲嘆や喪失という感情とは無縁になります。

 

ただ、一人っ子の長男としてやるべきことをやり、

あとから本人や周囲に恨まれることがないように、

すべき責務を粛々果たしているという状況です。

 

今回なんでこんなことを書いているかというと、

人の死が結びつける別の人の縁というものについて、

とても不思議に感じているからです。

 

不思議に思った感情を記録しておきたいと思いました。

 

今回、父が死に直面するということで、

父の弟(私にとっての叔父)が鹿児島から遠路上京し、

40年以上ぶりに再会したりとか、

他にもいろいろありますが、

消えようとする縁を周囲が確かめようとする動きが

なんとも奇妙で、不思議なことに感じました。

 

思えば母の時も振り返ればそうでした。

突然のことで、加害者もいる話だったこともありますが、

周囲の結束が急速に強まる動きは考えれば不思議でした。

 

その後の変化もあり、今は身を引かせてもらっていますが、

そこから遺族活動につながる動きも、

今思えば「奇縁」としか言いようのないものと感じます。

 

また気がつけば自分に両親という存在がなくなること、

一人っ子なので直接の血縁者がいなくなるということも、

あらためて考えると奇妙な思いにとらわれます。

(寂しいとは全く無関係で、奇妙としか言いようのない感情)

 

父の近いうちの死去の報告ということとあわせ、

世の中には不思議なことがまだまだあると感じた

その奇妙な感覚を、自信はないけれども言語化してみました。

 

叔父を送ったあとの帰路に見た鮮烈な夕焼け

加害者の気持ちは軽い。

 

世間を見ればそんな例はあふれているし、

なによりも被害者や遺族になれば、

そんなことは嫌というほど痛感させられる。

 

先日の天声人語でもそんな典型例を見つけた。

 

朝日新聞2025.4.2朝刊

 

例のフジテレビの第三者委員会報告書について、

そのおぞましさを伝える文章に目が留まった。

 

特に被害女性の退社を知った中居の一言が印象的。

 

「了解、ありがとう。

 ひと段落ついた感じかな。

 色々たすかったよ」

 

まるで鳥の羽根のように軽く・・・

と天声人語では書いているが、

これは中居正広という個人の特異性ではなく、

加害者全般にみられるありふれた反応だと思う。

 

「了解、ありがとう。

 ひと段落ついた感じかな。

 色々たすかったよ」

 

これは交通犯罪で、執行猶予がついた加害者が、

担当弁護士に言っているだろう文言にもなる。

(もちろんその場合は敬語を使っているだろうが)

 

きっと全国津々浦々で、あらゆる加害者たちが、

似た文章やセリフを発しているのだろうと想像する。

 

私は中居個人やフジテレビに対するおぞましさ以上に、

そんな加害者全般の軽さに酷いおぞましさを感じる。

 

そもそも中居は刑事罰すら受けていない。

多くの交通加害者は執行猶予という形式罰で終わる。

 

加害者たちの「鳥の羽根のような」軽さの根本原因は、

そんな処遇の軽さゆえなような気がしている。

 

ちょっと報道からは遅れてしまったけれども、

これは書いておかなければと思って書きました。