天川 彩の こころ日和

天川 彩の こころ日和

作家・自然派プロデューサーである

天川 彩(Tenkawa Aya)が

日々の中で感じたこと、出会ったこと、
見えたものなどを綴る日記です。

作家・自然派プロデューサー 


天川 彩のお仕事については


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那智の滝。


言わずと知れた日本屈指の名瀑です。熊野那智大社の別宮、飛瀧神社の御神体であるこの滝を背中にして、3月26日『能舞』2日目が行われました。


那智の滝といえば、一般的にはこの滝なことを指しますが、実は那智山には「那智四十八滝」と呼ばれる修験の行場があり、この名爆・那智の滝は行者の方々にとっては、一の滝。


今回の『能舞』奉納公演でもお世話になった熊野三山の中の一つ、那智山・青岸渡寺の高木亮英ご住職は、熊野修験を今の世に蘇らせた凄い方なのです。



平安の世から江戸時代まで続いていた神仏習合。しかし明治に入り、日本人の宗教観を大改革するべく、神仏分離令が発令。それに伴い修験道廃止令が出たことで、神仏習合・修験道の中心地でもあった熊野は、大打撃を受け、一度は熊野修験も途絶えてしまうのです。

そんな中、高木亮英住職は若かりし頃、この熊野修験復興を発願。


20年以上前のことになりますが、私が監督・脚本をした『熊野大権現』という映像作品を制作したことがあるのですが、その際、高木亮英ご住職から伺った話しなどをまずはご紹介します。


1987年。先先代であるご住職であったお父様が亡くなり、遺品整理をしていた時、しつけ糸がついたままの真新しい山伏装束を見つけられたそうです。修験復興がお父様の願いだったと知り、翌年にはその装束をご自身が着て、熊野から吉野まで、大峯の山々の道を200キロ踏破。これは、熊野古道の中で最も険しい「大峯奥駆道」と呼ばれる道で、熊野修験の行の一つを、まずは最初に成し遂げられたのです。


次に手がけられたのが、那智山の滝行。行場そのものの復興です。

当時不明とされていた那智四十八滝を古い絵巻から紐解き特定し、1992年には「那智四十八滝回峰行」を復興されました。


実は、かつて映像制作していた折「天川君も同行取材してもらって構わないよ」とお電話いただき、一度だけ途中まで同行させていただいたことがあります。

1月の凍てつくほどの空の下、夜明け前から那智山を駆け、世の平穏を祈り滝行をされる高木亮英住職の祈りの姿は、今も脳裏に焼きついています。


そして、2023年10月。修験道の開祖・役行者を祀る「熊野修験那智山行者堂」を再建されたのです。




いつも和やかな笑顔を絶やさない、優しいご住職ですが、一度行の世界に入られると、それはそれは厳しいお姿に。まさに行者。今生、ご縁ができて本当に良かったと思える方です。


そして、今回青岸渡寺の高木ご住職と共に『能舞』のの那智開演に、全面協力をしてくださったのが、熊野那智大社の男成洋三宮司様。



2016年より熊野那智大社の宮司様に就任された方です。前任の故・朝日宮司様にもお世話になっておりましたが、男成宮司様になられてから、より那智が身近に感じられる様になりました。朝日前宮司様の頃より毎年参列させていただいている「那智の火祭り」としても有名な



那智大社の例大祭。ありがたいことに、毎年、お声がけいただいているのですが、その迫力と美しさは息をのむほどです。


ただ、男成宮司様とのご縁は、宮司様が熊野にいらっしゃる前から実は始まっており…。


男成宮司様は、長い間、明治神宮でご奉職されておりました。二十世紀の終わりに、写真家・故星野道夫さんの友人たちが南東アラスカから神話を語りにやって来た催しが全国であり、私は東京実行委員長となり、明治神宮の大きなホールで開催させていただいたきました。


その折にも…


また、翌年2001年「東京 サルタヒコ!」という催しが行われ、私は運営プロデューサーとして関わったのですが、その折にも、男成宮司様は明治神宮でご奉職されていらしたのです。


当時、いずれも担当してくださったのが、現・明治神宮名誉宮司である中島様でした。男成宮司様熊野那智大社の宮司に就任された折、来賓として来られました。


ありがたいことに、中島様は私のことを覚えていてくださったていました。男成宮司様に私のことを紹介くださったのです。更にお隣に座っておられた熊野本宮大社の九鬼宮司様も、私のことを紹介してくださり…。お二人の重鎮が揃って私のことを紹介くださったことで、一気に男成宮司様との心の距離が近くなりました。以後、折に触れずっとお世話になり続けているのですが、ご縁に感謝するばかりです。


そんな、青岸渡寺の高木ご住職と、熊野那智大社の男成宮司様お二人に全面協力していただき、那智では神仏習合というカタチで『能舞』が行われました。


当日朝、まずは青岸渡寺へ。

熊野修験の法螺貝に合わせてご本堂へ向かい、如意輪観音の前でご住職はじめ、多くのお坊様によるご祈祷や般若心経が唱えられました。なんとも言葉にならないありがたさに包まれ…素晴らしい時間の中、鈴木啓吾さんはじめ謡方の能楽師の方々による神歌の奉納。

そして最後に高木ご住職様に法話をしていただきました。



お隣の那智大社でも、拝殿でご祈祷と神歌奉納が行われたのですが、宮司様のご配慮で、内陣まで案内していただきました。





そして午後3時半。

いよいよ、那智の大瀧の前で『能舞』二日目。那智の舞台のスタートです。

この日の私の衣装は、舞台衣装作家kuuさんが、演目『羽衣』に合わせてイメージして製作してくださったもの。



私も天女の羽衣のような美しい青い羽衣を纏わせていただき、天にも舞い上がるほど幸せでした。


とうとうたらり…

鳴ハ瀧の水…

渚乃砂 さくさくとして…

瀧の水 玲々として…


神歌の歌詞の中に、このフレーズがあります。これは、那智滝の情景を指しているのではないか、という話を以前、鈴木さんから伺っていましたが、那智の滝を前に神歌に触れ、感慨深い思いがありました。




このあと、この日、高木御住職様と男成宮司様、そして私の3人で鼎談させていただきました。



男成宮司様は、熊野の田楽についてお話しくださり、



高木御住職は、熊野修験についてのお話しを中心に語ってくださいました。


そして『羽衣』上演前に、火入れ式が行われました。那智は神仏習合。熊野修験による法螺貝に合わせて、伊藤禰宜様が両脇の篝火台に火を入れてくださる、という那智山ならではの贅沢なカタチに。





そして、いよいよシテ方観世流能楽師・鈴木啓吾さんによる『羽衣』の奉納です。



鈴木さんのお話によると、那智の滝はその姿から白龍とされることもあるそうです。

能『羽衣』に登場する人物の名前も白龍。

那智の滝そのものが天女の羽衣の様にも見えて…



那智の滝を背景に、羽衣伝説が舞われる姿は、この世のものとは思えないほど優美なものでした。


そして残すは、本宮大社だけとなり…


                つづく…










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明け方、目を覚ますとカーテンの隙間からマジックアワーの青紫の美し空が覗き込んでいました。この日は、雲一つ無い晴天。


2025年3月25日は、熊野三山奉納公演初日。奉納は新宮・速玉大社大社の日です。


熊野三山が平安時代、聖地として整えられていった折、神仏習合により神様に本地仏が重なり権現信仰となるのです。速玉大社大社の本地仏は薬師如来で過去世の救済。那智の本地仏は観音菩薩で現世利益。そして本宮は阿弥陀如来で来世のご加護を祈る場となり、熊野は三山を詣でることに意味があるとされました。


今回の奉納公演は、この過去世、現世、来世の順番で行うことになりました。


前日より一人早入りとして新宮入りしていた私は、ホテルの部屋から美しい空を見て、朝食前に速玉大社の元宮、御神体ゴトビキ岩を祀る神倉神社でお参りすることにしました。


この日は午後2時。最初に鈴木啓吾さんお一人による神歌奉納は、神倉神社の麓の鳥居前、ということは決まっていました。でも、やはりこれから3日間の奉納が上手く行くように、ご挨拶したいと思ったのです。

いや、それ以上にこの日の朝、神様が呼んでくださっているように感じたのです。


ゴトビキとは、地元の言葉でガマガエルのことを言い、街中からも、山中に炊き出した磐座がよく見えるのですが、

熊野権現垂迹縁起の中で、熊野権現が初めて地上に降臨したとされ、初代天皇・神武天皇が天ノ磐盾とも読んだ、熊野の聖地。険しい崖の上にあることから、源頼朝が寄進した五百数十段の石段を登った上にあります。



急勾配の石段が続くので、登るのは楽ではなく、これまでも、数えきれないほどゴトビキ岩にお参りに行きましたが、その都度、いつも少し息があがっていました。

更に、今回は当日までの体調管理も大切な仕事であると思い、無理はしない、と心に決めていたので、ゴトビキ岩まで行く予定は東京を出る時には無く、靴は革靴。あとは、神事用のパンプスか、衣装に合わせた草履。


これまでの経験から言えば、革靴で急勾配の石段を登るなど、通常考えられないのですが…。


この時は迷いはありませんでした。

そして、やはり神様が呼んでくださっていたのでしょう。神様が石段を減らしてくださったのか、石段を低くしてくださったのか。信じられないほど楽々、それも、あったいう間にゴトビキ岩まで辿りついたのです。


ちょうど、朝日が綺麗に神倉山にのぼり





桜が風に微かに揺れながら微笑んでいました。


ありがたいことに、後から登ってこられた方が写真を撮ってくださいました。


そして、ホテルに戻り朝の身支度を整え、いざ、速玉大社へ。


この日は、私だけが午前中から現地入り。鈴木さんはじめ、他のスタッフも午後から速玉大社入りということもあり、地元の友人たちや新宮市役所の方々に全面協力してもらい会場準備となりました。


お昼過ぎ、速玉大社に能舞でシテ(主役)をつとめららる鈴木啓吾さんや事務局、享ちゃんも到着。拝殿前や神社さんが準備してくださった木製の台の上に、鈴木さんは自ら東京から送っていたパンチカーペットを敷き詰めて、能舞台を作られ…。


舞台や会場準備完了後、鈴木さんと私は速攻で神倉神社の鳥居前へ。

お祓いを受け、鈴木啓吾さんによる最初の神歌奉納が行われました。朝、この石段を登って御神体にお参りしたばかりでしたが、今度は同じ場所でご神事とは、新鮮でした。

そして、速玉大社に戻り正式参拝。そして神歌の奉納がありました。




そして、いよいよ公式にインフォメーションしている時間となり「熊野三山奉納公演『能舞』」が始まりました。



まずは、主催者として、そして総合プロデューサーとしての挨拶をさせていただき、速玉大社で上演される『楊貴妃』の能でのストーリーを紹介。皆様真剣に聞いてくださり、ありがたかったです。私の衣装は、舞台衣装作家のkuuさんが制作してくださったものですが、この日の衣装は、演目『楊貴妃』をイメージして作ってくださったのだそう。


挨拶のあとは、舞台上でも神歌の奉納が行われ、



そして、鈴木さんが能装束に着替えている時間、速玉大社の上野顯宮司様に登壇いただき、


私との対談の中で、熊野と芸能、また速玉大社の歴史についてなど語っていただきました。

気がつくと大勢のお客様が。


そして準備が整い、速玉大社のご神火が入っての火入れ式が行われ…。

いよいよ能舞・速玉大社さんでの奉納『楊貴妃』上演です。


今回、特別に舞台の上で面(おもて)をつけらました。


速玉大社がある新宮市には、蓬莱山があり徐福伝説があることから、鈴木さんはこの演目『楊貴妃』を選ばれたそうです。

朱色が美しい、速玉大社の社殿を前に繰り広げられた幽玄な世界に、その話いた全ての人たちが引き込まれたのではないでしょうか。




美しい、美しい熊野三山・速玉大社での『能舞』1日目でした。


                   つづく…



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全てが動き始めたのは、昨年の初夏のことでした。鈴木さんの奥様、秀子さんから久しぶりに連絡があり「熊野三山とご縁ができたままだったので、コロナも落ち着いたこともあり、熊野で神歌を単独奉納しようと思っています。よければ一緒に行きませんか?」と誘ってくださったのです。


もちろん、喜んで!


と、思いつつ…。

その時、私は同時に思ったのです。9月にお一人で神歌奉納されるのは素晴らしい。けれど、前に計画していた能の奉納はされないのかしら、と。

私がかつて見えていたビジョンは、熊野三山で鈴木さんが能装束や面をつけておられるシテのお姿。


私は素直にその思いを伝えてみたのですが「さすがに、それは事が大き過ぎて、正直なところ、それは難しいかと思う」という返答でした。


ところが数日後。再び電話があり「整うのならば、やりましょう!」という嬉しい連絡をいただいたのです。


私は、翌年3月末がベストだと直ぐに思っていました。なぜなら、本宮大社の九鬼宮司様とその年の春に話しをしていた折、熊野三山を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録20周年は、2025年3月末まで、ということを伺っていたのです。


三山揃った能楽の催しを、世界遺産20周年のファイナルとして開催することが出来たなら、熊野の神様がどれほど喜ばれることだろう。それに、三山の何処か一つではなく、三山揃ってとお願いすることも、世界遺産登録の20周年企画ならば可能なこと。

また、半年あれば、運営する側としてもギリギリ準備が整えられであろう、とも。


ただ、肝心の三山の宮司様、ご住職様に、どのようにいつ依頼したらよいかしら…というタイミングで、なんと鈴木さんもお付き合いがある東大の先生たちによる、熊野のシンポジウムがあり、三山の宮司様、ご住職が四人揃って東京にお越しになるということがわかりました。


もちろんその時に、直接お願いするのがベスト。でも、なんということか。私はその時、アメリカへ出張中。どうにもこうにも、その場に行くことは出来ず。


そこで、鈴木さんの奥様に一任し、熊野三山の宮司様、ご住職に直接お願いしていただくことに。


ありがたいことに、それぞれの宮司様、ご住職様共にちょうどその時は問題ない、ということで2025年3月に、奉納公演が決定したのです。


そして、予定通り9月には、三山で鈴木啓吾さんによる神歌素謡が奉納され、私も同行させてもらいました。





その時、熊野三山での奉納のお願いを、改めて私からも直接させていただいたのですが、本宮大社の九鬼宮司様から、三山揃ってこのように能楽奉納されるのは、江戸時代以来だろう、という話を伺い、心底驚きました。


そして、この時、三社一寺でそれぞれ奉納された神歌を聴き、私は魂震えら思いになったのです。これまでも、能の鑑賞に行く機会はあり、『翁』の中で神歌は触れはきました。でも、神仏に向かって、真摯に神歌を捧げるということが、これほど凄いことだったとは。



神歌というのは、能にして能にあらず、と言われる「翁」の冒頭に唱えられる言祝ぎの謡。とうとうたらり…。この呪文のような言葉が含まれています。実は奈良の天河神社では、旧暦10月10日に五節句開きのご神事、別名「とうとうたらり神事」とも呼ばれるものが行われます。この神事は十月十日(とつきとおか)で、全てが整い、納め、次に繋がる道が開くという再生であり、蘇りのご神事。

この「とうとうたらり神事」に私もこれまで何度か参列させていただいたこともあり、


この神歌の最も重要なところは、天下泰平、国土安穏、五穀成就を祈念するもの、ということを鈴木さんから教えていただき、なんとも腑に落ちる思いがしたのです。


鈴木さんが神歌をとても大切にされていているのは以前から知っていました。ただ熊野の神様に向けて、純粋に、世の中の平和と、国の安定、人々の日々の暮らしが満ち足りた豊かなものとなるように、という祈りを直に届けている姿を間近で見て、私はいたく感動したのです。


9月の熊野で、その思いをしっかり受け取ったこともあり、鈴木さんと私、鈴木さんの奥様秀子さんと、TENのスタッフ享ちゃんの四人、心一つに、半年後の奉納公演に向けて、本格的に走り出したのです。


実は当初は、経費のこともあり、また、宮司様たちからもご了承いただいたこともあり、有料の催しとして考えていました。しかし、やはり熊野三山という、人々が普通にお参りに来られるところ。

どなたでも、その場に来られた方に自由にご覧いただくのが神様のご本意、ということから無料の催しにすることに。


経費は、この催しに賛同してくださる地元の企業様、個人の方々を募ることにしたのです。


この時、鈴木さんと秀子さんが運営される一般社団法人・一乃会と、私たちの事務所であるオフィスTENの協賛というカタチから「熊野三山奉納公演『能舞』実行委員会」をつくり、事務局はオフィスTENに置くこととしました。


また、この催しを成功させる為には、行政のチカラもお借りすることが絶対に必要だと思った私は、和歌山県、新宮市、田辺市、那智勝浦町に後援を依頼。

全て後援していただけることが決まった時には、本当に小躍りしたことを思い出します。

また、5年前にも計画していた、特別協賛ともなる同行ツアーの企画もTENで行うことになったので、宿選びや行程内容は全て私が考え、ツアー催行そのものは、信頼できる友人でもある、名古屋の旅行会社・タカノ観光サービスの代表・高野久美子さんにお任せすることに。


こうして、協賛のお願いや同行ツアー参加者の呼びかけにも動き始め、秀子さんと手分けして動きました。


もちろん、熊野三山の宮司様、御住職様はじめ、それぞれの神社で担当してくださった方々たちにも、どれほどお世話になったかわかりません。


とにかく全速力で走り続け、年が明けてからは、そのスピードが早くなり、時折、問題も勃発しながら、その度、熊野の友人たちや行政の方々にも助けていただきながら乗り越え、みんなで整えていきました。


開催1ヶ月前となる、2025年2月下旬には、鈴木さんご夫妻と私、タカノ観光サービスの高野さん、さらにはこの催しの直前、3月22日に特番を組んでくださることになった地元のFM局、FMTANABEの大崎さんも一緒に熊野三山へ行き、最後の打ち合わせに。


また、ポスターやパンフレット制作は、全て秀子さんが担当。


実は秀子さん、昔は出版社の編集をされていたという、プロフェッショナルだったのです。



パンフレットには、県知事の言葉も入れてもらったり、国文学者の小林健二先生に、熊野と能について寄稿をいただいたり、もちろん三山一寺の宮司様、住職様に原稿の依頼したりと、編集含めて全て一人でこなしてくださったのです。


私は、催し全体のことから、同行ツアーなことまで、様々なことをあれやこれやとまとめつつ、当日は舞台の上で挨拶をしたり、宮司様たちとの対談などもあることから、舞台衣装もつくることに。

この衣装は、舞台衣装作家であり友人のkuuさんに依頼。


享ちゃんは事務局として、様々な受付や連絡、管理、発送など細かな業務を担当。


現地でスタッフとして動いてくれるメンバーは、私が長年信頼するホスピタリティ溢れ、仕事が出来て、なにより人として尊敬できる人々にお願いしました。


そして、開催まであと2週間となった時、タカノ観光サービスの高野さんと私は再び熊野へ。この時は、ツアーの下見や挨拶まわり、また、完成したポスターやチラシを配りに一泊二日で飛び廻り…。




諸々最後の調整を重ねつつ、あっという間に私たちは、その日を迎えたのです。


              つづく…

















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天河神社には能舞台があります。


天河神社 能舞台

芸能の神様でもある為、能楽はもちろんのこと、様々な催しや奉納が、その能舞台の上で行われています。

私自身、20世紀から21世紀に変わる大晦日から元旦にかけて『世紀を越える奉納』というものを、その能舞台の上で、友人のアーティストたちと共に行わせて頂きました。

21世紀の始まりの日に、私は自分の作品を天河の神様に朗読し奉納する、というありがたい機会を得ることが出来たのです。


奉納とは、己の誠を神様に届け納めること。


天河神社の神様に向け、これまでも数えきれないほど多くの有形無形の奉納が行われてきましたが、中でも特筆すべきものは、能楽の創始者世阿弥も使用し、世阿弥の嫡男・観世十郎元雅が奉納した「阿古父尉(あこぶじょう)」面です。


天河神社HPより


世阿弥がなぜ能楽の創始者になったのか。そして、なぜ天河神社に、世阿弥の息子は面を奉納したのか…。


その話は実は熊野と繋がっていて…。


天河神社は大峯本宮。修験の開祖、役行者が大峯山系にある弥山山頂で感得し祀った天女(弁財天)を、壬申の乱の後、天武天皇の命により里に祀りお宮を作ったのが始まりです。


熊野信仰は、その修験者たちにより発展していくのですが、終末思想が広がった平安末期。天皇や上皇たちの間では、三世(過去世、現世、来世)の救済としての熊野詣で頻繁に行われるようになりました。


中でも、最も多く熊野御幸を行ったのは後白河上皇でした。後白河上皇がまだ天皇だった時代、なかなか熊野へ詣ることが許されず、ご自身がお住まいである京の都にも熊野の神々にお越しいただきたいと、平清盛に命じ土砂材木等を熊野から運搬。神域には那智の浜の小石を敷き詰めさせて、新熊野(いまくまの)神社を建立します。

 

時代は室町に移り変わり、世阿弥がまだ鬼夜叉と称していたころ、父の観世清次と共に、その新熊野神社で勧進興行を行います。世に「今熊野勧進猿楽」と呼ばれるものです。


これを見た将軍・足利義満は二人の芸に感動。彼らを手厚く保護します。後ろ盾を持った世阿弥は、猿楽の芸術をより高め洗練されたものとして能楽が大成させていくのです。

能楽は熊野のご神縁により誕生したと言っても過言ではないかもしれません。


しかし、将軍が変わり、世阿弥の甥にあたる音阿弥が寵愛されるようになると、世阿弥・觀世十郎元雅親子は冷遇されるようになり、命までをも追われる身となってしまうのです。そんな中、伊勢で死を迎える一年前、芸能の神である天河神社を訪れた観世十郎元雅は、復活を祈願して『唐船』を奉納。この時に使われた能面『阿古父尉(あこぶじょう)』面を寄贈しているのです。



天河神社 HPより


阿古父尉の裏面には、元雅自筆で「唐船 奉寄進 弁才天女御寶前仁為 冗之面一面心中所願 成就圓満也 永享二年十一月日 観世十郎 敬白」と書かれています。


そんな世阿弥と十郎元雅の物語が、スーパー能『世阿弥』として、世阿弥生誕650年を記念し、故・梅原猛先生により書き下ろされました。

国立能楽堂で上演された梅原猛先生のスーパー能『世阿弥』


シテは、観世流能楽師であり人間国宝の梅若玄祥さんがつとめられたのですが、このスーパー能が国立能楽堂で行われることが決まった折、公演に向けて、阿古父尉(あこぶじょう)面の写しが作られることになったのです。その写しの面で『世阿弥』が上演されました。


ただ、天河神社で新作『世阿弥』の完成報告祭が行われた時、特別に一度だけ、本物の、元雅が奉納した面が使われることになったのです。


「これは特別な機会で二度と無いことだから、是非、アヤさんもいらっしゃい!」と、天河神社の大宮司様から有り難いお声がけの電話をいただき、私もその場に立ち合わせていただくことができたのです。


この面の存在は前から知ってはいましたが、およそ650年ぶりに天河神社の神様の前で人間国宝の能楽師梅若玄祥さん(2018年梅若実襲名)により、つけられる日が再び来るとは…。

あまりにも凄いことに、心震えました。


この能面を拝見させていただく、という前日。私は元雅が匿われていたという越智という場所に行き、元雅の魂に触れてきました。




そして、コロナで一度は流れた熊野三山奉納公演『能舞』が開催されることが決まった折にも、私は再び越智の里に行き、元雅に、そして世阿弥に、この催しを手掛けさせていただくことを報告させていただいたのです。

    

                つづく…



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熊野の神々からのご依頼により…

熊野三山で『能舞』を開催させていただきました。

熊野本宮大社旧社地「大斎原」で今回奉納された『巻絹』(撮影・小嶋鉄山)


2025年3月25日から27日まで3日間。それはそれは、凄い時間となったのですが、この話は、今後ゆっくり触れていこうと思います。


そもそも、熊野三山とは、紀伊半島の南に位置する「熊野」と呼ばれるエリアにある、信仰の中心地、本宮、新宮、那智のことを指し、それぞれの他に、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社並びに青岸渡寺があります。


熊野本宮大社 Photo by Aya Tenkawa


熊野速玉大社  Photo by Aya Tenkawa


熊野那智大社  Photo by Aya Tenkawa


青岸渡寺   Photo by Aya Tenkawa


この3社1寺を総称して熊野三山と呼ぶのですが、2014年7月には「紀伊山地の霊場と参詣道」として、熊野三山もそれぞれ世界遺産登録されています。


私は熊野が世界遺産になるより前から、およそ30年に渡り、熊野の神様に、そして三山それぞれの宮司さま、住職様にお世話になり、可愛がっていただいており…。


これまでも『熊野 その聖地たる由縁』(彩流社)という書籍や熊野が舞台となる小説『ひ、ふ、み、の空』(PHP出版)を書いたり、『熊野大権現』(評言社)という映像作品を制作したり、他にも数えきれないほどの人々に熊野の魅力を伝え、また繋いで参りました。


自分でも驚いてしまいますが、この30年近くの年月で通算100回以上は東京から熊野へ通い続けているのです。


そんな中、シテ方観世流能楽師の鈴木啓吾さんとの出会いにより、今回、熊野三山奉納公演『能舞』〜日本の伝統芸能と祈り〜を総合プロデュースさせていただきました。




鈴木啓吾さんは、熊野三党(宇井、榎本、鈴木)の中の鈴木氏を持つ方。熊野と深いご縁があり、藤白にある鈴木屋敷の復興に携わられたり、鈴木三郎重家という復曲能を国立能楽堂で行われたり、東日本大震災後から、名取の老女という熊野信仰を東北に繋いだ老女の能に関わられたり…。


ただ、熊野三山とのご縁は、出会った時にはまだ無いということでしたのでお繋ぎしたのが2018年のことでした。


鈴木さんと私のご縁の始まりはその年の秋、明治神社で行われた熊野本宮に関わるシンポジウム会場で奥様の秀子さんと偶然、お隣の席になったことから。その後の直会の会場でも偶然お隣になり、話の流れで、熊野三山ともまだご縁がないということを伺い、これは紹介しなければ!

ということで、直会会場にいらした本宮大社の九鬼家隆宮司様をまずはご紹介させてもらいました。


その後、鈴木さんともお会いして、熊野三山全ての宮司様、住職様を私からご紹介しますよ!ということに。


その時、すでに私には、熊野三山で鈴木さんが能の装束を身につける舞われることがビジョンとして浮かんでいたのです。

私はビジョンに浮かんだことは、カタチになる!と経験上思っているので、「熊野三山で是非、能を行っていただけませんか?」と鈴木さんに伝えてみました。


当初は驚かれていましたが、しばらくして連絡があり「是非、やる方向で動いてみましょう」ということでまずは熊野三山へ一緒。


三山の宮司さまたちもこの企画を喜んでくださったことから、話はトントン拍子に進み2020年5月に開催というところまで決まりました。また、鈴木さんのリクエストから、社中のお弟子さんたちを中心とした熊野三山奉納同行ツアーも企画して欲しい、というこで、2020年1月からは、両方の準備を整えつつ動いていた矢先、コロナが勃発。


当初は延期ということにしたのですが、収束するどころか益々世界中に広がり、とても開催することなど叶わない状況に。


そして、一旦、全ては中止となったのです。


それにしても、なぜ専門家でもない私が、能をプロデュースというカタチで奉納することになったのか。


それは、私が天川 彩(テンカワ アヤ)だからなのではないか、と思うのです。


この名前はペンネームなのですが、奈良の天河神社と深い縁ごありこの名前を大宮司様から授けていただいたことは、以前、ブログや私の書籍『HOPI 〜平和の民から教えてもらったこと〜』などで詳しく書いているので、ここでは省略しますが、


天河神社は、能楽に深く縁のある神社としてもよく知られており…。


                   つづく…