天川 彩の こころ日和

天川 彩の こころ日和

作家・自然派プロデューサーである

天川 彩(Tenkawa Aya)が

日々の中で感じたこと、出会ったこと、
見えたものなどを綴る日記です。

作家・自然派プロデューサー 


天川 彩のお仕事については


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(熊野本宮大社 例大祭で4月15日、感謝状をいただきました)


熊野三山奉納公演『能舞』では、総合プロデューサーというのが、私の立ち位置でした。

能の専門家でもない私が、このようなカタチで関わらせていただくことになろうとは、想像すらしていないことでした。


そもそもプロデューサーとは一体何をする者なのか。


一般的には、企画、予算、人材、スケジュールなど、制作プロジェクトのすべての側面を統括し責任を負う役割…ということになりますが、


平たく説明すると、

①「素晴らしい!」と純粋に思える何か(又は人)とであい②こんな風に世の中に繋げたら素敵だろうな!というビジョンを思い描き③その為にはこうしたら良いのではないかな?というアイデアを思い浮かべ④アイデアを実行に移す為の段取りを全て整え実行し⑤ビジョン通り、またはそれ以上の成果を果たす、ということかと思います。


プロデューサーとしてのお仕事の中心は、④からで…更に、

今回、ビジョン以上の成果を果たしたかどうかは神のみぞ知るところでありますが、後々、また何かに繋がっていくのではないかとは思います。


ただ、やはり、今回、日本を代表する古典伝統芸能である能楽の芸を極められ、またお人柄も大変素晴らしい、シテ方観世流能楽師、鈴木啓吾さんとの出会いはとても大きいものでした。


(根津・ハミングバードカフェでの能登支援イベントで)


また、鈴木さんの奥様、秀子さんにもどれほどお世話になったことでしょうか。その昔、出版社の編集のお仕事をされていたとのことで、パンフレットは全てお任せした他、関係各所へ共に出向いたり、本来なら私が一人で頑張らなければならない協賛の取り付けなども一緒に動いてくださり、本当にありがたかったです。


秀子さんのチャーミングな姿をご紹介したかったのですが、写真はNGとのことで、



お二人の仲睦まじい後ろ姿だけ。


またTENのスタッフ浅井は、今回実行委員会の事務局を一手に引き受けてくれただけではなく、本来なら私がやらなくてはならない会社の多くの仕事も任せることになり、かなりの負担をかけたと思うのですが、終始笑顔で乗り切ってくれました。



他にも協賛してくださった企業や個人の皆様や特に特別協賛ということで、全ての正式参拝やご祈祷も含め同行ツアーに参加くださった皆様。同行ツアーのバス手配からアテンドまで全て引き受けてくださった、高野観光サービスの高野さん、各行政関係の皆様、様々なカタチでサポートしてくれた熊野在住の友人たちの存在も大きく、感謝の気持ちでいっぱいです。


今回、私は表舞台にも登場させていただいたのですが、三山それぞれのイメージに合わせた衣装を、舞台衣装作家のkuuさんが作ってくださいました。

kuuさんは当日の衣装担当として、また現場スタッフとして支えてくださり、


(『能舞』那智の滝前で)


(熊野速玉大社『能舞』本番直前 kuuさんチェック中)

(本宮大社・大斎原にてホッと一息)

心強い限りでした。

また、これまでも私が様々なイベントなどを開催する度、当日スタッフとして東京から手伝いに来てくれた友人たちの存在も大きく、今回、会場設置から受付、同行者のサポートなど八面六臂の活躍をしてくれたことも有り難く…。



(心強いスタッフの面々)


最終日三山でのご奉納を終えた夜、軽く打ち上げをしました。



この日「皆さんの打ち上げで飲んでください」と熊野本宮大社の九鬼宮司様より『やたがらす』のお酒をいただき、



熊野の神の遣い、八咫烏。なんてありがたいことでしょう。隅々までのお心遣いに感謝です。


そして奉納全てを終えた早朝。

川湯温泉の露天風呂に入り幸せに浸っていたら、大きな虹がかかってきて、

まるで神様からの祝福の様に感じたのですが、あいにく露天風呂の中。携帯などあるわけもなく…。


と、そんなところに、那智と本宮での『能舞』奉納を見届ける為、わざわざ東京から熊野へ来てくれた、大好きな友人であり日本屈指の絵馬師である、永崎ひまるさんが、その虹の写真を送ってくださったのです。


(撮影 永崎ひまるさん)

(那智の滝の前で、永崎ひまるさんと)

那智でひまるさんの姿が見えた時にも嬉しかったのですが、翌日、本宮・大斎原での雨による諸々準備変更の時には、スタッフと共に動いてくれたこともありがたく…。



友達ってありがたい存在ですね。


そして、『能舞』の奉納が終わっておよそ2週間後。

私は再び熊野へと向かいました。


4月13日〜15日は毎年熊野本宮大社さんの例大祭が行われるのですが、今年は15日のみ参列させていただきました。

もう、かれこれ20年以上ずっと通わせていただいてい|る例大祭ですが、今回、ありがたいことに宮司様から表彰していただき、感謝状をいただきました。



もちろん、能を奉納された鈴木さんもいただいたのですが、

総合プロデュースとして表彰いただけたことは、この上なく嬉しいことです。


賞状と共にいただいたのは、


記念のタテ。

名前が入った世界に一つだけのタテは、生涯の宝物となりました。



熊野の神様とは、本当に長いお付き合いになりますが(笑)、まるで父親のような神様だな、と感じることがあります。


細かなことはイチイチいうことはないけれど、ガツンと怒られるこもあり、でも、どこかで成長を見守ってくれている様な安心感もあって。


熊野の神様がやりなさい、と言っているのだから、きっと出来るだろう…。だから自分を信じようという気持ちにもさせられます。


これからも、精進して自分にできる精一杯をしていこうと思います。




                 完



熊野本宮大社・大斎原。ここは熊野の聖地中の聖地。


(熊野本宮大社・旧社地 大斎原の大鳥居/撮影 天川 彩)


熊野三山『能舞』でのトリとなったのは、熊野本宮での奉納公演でした。


このことに触れる前に、少し本宮大社さんとのご縁から書いていきたいと思います。


思えば最初に熊野三山との縁ができたのは、熊野四半世紀ほど前。当時、熊野本宮大社でご奉職されていた神官さんから九鬼家隆宮司様をご紹介いただいたのがきっかけでした。それまでも、熊野に行ったことはあったのですが、やはりご縁というのは、人と関わりを持つことで出来るものですね。以後、長年に渡り、どれほど九鬼宮司様にお世話になったかわかりません。


(2024年 九鬼家隆宮司 神職身分特級昇進を祝う会 にて)


そして今から7年前。シテ方観世流能楽師・鈴木啓吾さんの奥様、秀子さんと、たまたまシンポジウムで隣り合わせとなったことで知り合い、その後、三山全ての宮司様、御住職様に鈴木啓吾さんご夫妻をご紹介させていただくことになった話は、前にも書いた通りです。


実は、鈴木さんをお繋ぎした時から、熊野三山それぞれの聖地で能奉納されるビジョンが既に私にはありました。そして2020年5月の開催が一旦決まりましたが、コロナで中止に。再び計画が動き出し、本宮での奉納場所は大斎原、演目は『巻絹』となりました。『巻絹』は熊野本宮大社を舞台とした物語なのです。


江戸時代を最後に奉納が途絶えていたという熊野本宮大社での能。それも『巻絹』が令和の世になり大斎原で舞われることが決まり、九鬼宮司様はことのほか喜ばれて奉納一ヶ月前には『巻絹』の絵馬や御朱印もつくられました。


(熊野本宮大社 HPより)


(熊野本宮大社 HPより)


〈巻絹〉あらすじは下記の通りです。


時の帝は霊夢をご覧になり、沢山の巻絹を熊野三山へ奉納するよう命じます。熊野に出向いた勅使は、全国から奉納された巻絹を本宮大社で受け取る中、都の使者が遅れてやって来ます。この使者、途中で音無天神にお参りした折、そこに咲く梅の芳しい香りに心を惹かれ、和歌を一首収めていたというのですが、納品が遅れたことを勅使に責められ縛り上げられてしまいます。そこに音無天神の霊が乗り移った巫女が現れ、使者の和歌に心和らげられたと告げ、勅使にその戒めを解くように命じます。そして使者に詠ませた上の句に、巫女が下の句をつけてその確かさを証したことから、使者は縄を解かれ自由の身に。巫女はその和歌を褒め称え、さらに勅使の願いに応じて祝詞をあげて神楽を舞う、という物語です。

現在、大斎原には二基の石祠があり、左側に中四社下四社を、右側に境内摂末社の御神霊がお祀りされているのですが、その境内摂末社の中に、音無天神が祀られているのです。


(熊野本宮大社・旧社地 大斎原の大鳥居/撮影 天川 彩)


さて、前置きが長くなりましたが、2025年3月27日(木)。『能舞』最終日。この日は午後2時半から熊野本宮大社・社殿で正式参拝と神歌奉納。そして午後4時からいよいよ大斎原での奉納という段取りでした。


しかし昼過ぎから小雨が降り出してきたのです。私たちは当日スタッフとして関わってくれているメンバーと共に、万が一の雨に備えて借りていた『世界遺産センターホール』の会場準備に取り掛かりました。


(和歌山県世界遺産センター HPより)


熊野本宮大社の神官さんたちも、ホールの中で祭壇づくりをはじめたことから、ここで奉納することになるのだろうか、と何度も心の中で思っていました。


そして、午後2時半。小雨が降り続く中、社殿で正式参拝と神歌奉納が行われ、


(熊野本宮大社/ 撮影 小嶋鉄山)

いよいよ残すは『能舞』奉納のみとなりました。


九鬼宮司様と鈴木さん。そして私の三人で、最終的に『能舞』の会場をどこにするか、真剣に話し合いました。


正直なところ、私も宮司様も大斎原で『巻絹』を行って欲しいという気持ちは100%でした。ただ、やはり、能面や能装束を雨に濡らしてはならないということもあり、私たちからお願いすることは出来ないことなので、鈴木さんに決めてもらうことに。


鈴木さんが「通常の公演なら雨なら中止か別会場にするのが常ですが、熊野の神様へのご奉納なので、大斎原でやりましょう」と決断してくださったことから、最終的に大斎原で、ということが決まりました。


神社の方々、『能舞』のスタッフ、同行者の皆さんも皆、大斎原に移動。更には『能舞』最終日の本宮大社での奉納を観に来られた方々が協力してくださり、濡れた椅子を拭いてくださり、



檜舞台に張られたブルーシートも外されて、奉納の時を待つことに。



いよいよ時間となり宮司様と私で、大斎原の神々に玉串奉奠し、『巻絹』を奉納出来ることに感謝し祈りました。


(大斎原の神殿前に九鬼宮司様と玉串を捧げる/撮影 小嶋鉄山)


そして霧煙るまさに幽玄なる大斎原の能舞台に、面と装束をつけた鈴木さんが登場。『巻絹』が始まったのです。


(シテ方観世流能楽師 鈴木啓吾『巻絹』/撮影森武史)


(シテ方観世流能楽師 鈴木啓吾『巻絹』/撮影森武史)


他の能楽師の方々は隣に設置されたテントの中で囃子や謡をされてでしたが、謡と笛、鼓の音色は大斎原全てに響き渡り…。この世とは思えない別次元へと誘われたような感覚になりました。


(シテ方観世流能楽師 鈴木啓吾『巻絹』/撮影小嶋鉄山)


本宮での雨は、私は音無天神様の嬉し涙の様に感じて仕方がありません。

なぜって、雨なのに微かに暖かかったのです。3月だというのに、なんとも不思議な雨でした。


鈴木さんが装束を外し着替えている間、宮司様と対談させていただき、


(九鬼宮司様との対談/撮影 森武史)


最後に鈴木さんを交えお話させていただきましたが、私からのリクエストで、もう一度、最後に大斎原で神歌を奉納していただことに。


とうとうたらり たらりら。

天下泰平 国土安穏 今日のご祈祷なり。

万歳楽。



言霊が熊野の聖地に響き渡り、なんと素晴らしい寿ぎなのだろうと、生涯忘れられないであろう時間となりました。


(全の奉納を終えて。鈴木啓吾さん、九鬼宮司様、そしてワタシ)


                 つづく…























那智の滝。

那智の滝(撮影/天川 彩)


言わずと知れた日本屈指の名瀑です。熊野那智大社の別宮、飛瀧神社の御神体であるこの滝を背中にして、3月26日『能舞』2日目が行われました。


那智の滝といえば、一般的にはこの滝なことを指しますが、実は那智山には「那智四十八滝」と呼ばれる修験の行場があり、この名爆・那智の滝は行者の方々にとっては、一の滝。


今回の『能舞』奉納公演でもお世話になった熊野三山の中の一つ、那智山・青岸渡寺の高木亮英ご住職は、熊野修験を今の世に蘇らせた凄い方なのです。


青岸渡寺・高木亮英住職(撮影/天川 彩)


平安の世から江戸時代まで続いていた神仏習合。しかし明治に入り、日本人の宗教観を大改革するべく、神仏分離令が発令。それに伴い修験道廃止令が出たことで、神仏習合・修験道の中心地でもあった熊野は、大打撃を受け、一度は熊野修験も途絶えてしまうのです。

そんな中、高木亮英住職は若かりし頃、この熊野修験復興を発願。


20年以上前のことになりますが、私が監督・脚本をした『熊野大権現』という映像作品を制作したことがあるのですが、その際、高木亮英ご住職から伺った話しなどをまずはご紹介します。


1987年。先先代であるご住職であったお父様が亡くなり、遺品整理をしていた時、しつけ糸がついたままの真新しい山伏装束を見つけられたそうです。修験復興がお父様の願いだったと知り、翌年にはその装束をご自身が着て、熊野から吉野まで、大峯の山々の道を200キロ踏破。これは、熊野古道の中で最も険しい「大峯奥駆道」と呼ばれる道で、熊野修験の行の一つを、まずは最初に成し遂げられたのです。


次に手がけられたのが、那智山の滝行。行場そのものの復興です。

当時不明とされていた那智四十八滝を古い絵巻から紐解き特定し、1992年には「那智四十八滝回峰行」を復興されました。


実は、かつて映像制作していた折「天川君も同行取材してもらって構わないよ」とお電話いただき、一度だけ途中まで同行させていただいたことがあります。

1月の凍てつくほどの空の下、夜明け前から那智山を駆け、世の平穏を祈り滝行をされる高木亮英住職の祈りの姿は、今も脳裏に焼きついています。


そして、2023年10月。修験道の開祖・役行者を祀る「熊野修験那智山行者堂」を再建されたのです。


青岸渡寺・行者堂(撮影/天川 彩)


いつも和やかな笑顔を絶やさない、優しいご住職ですが、一度行の世界に入られると、それはそれは厳しいお姿に。まさに行者。今生、ご縁ができて本当に良かったと思える方です。


そして、今回青岸渡寺の高木ご住職と共に『能舞』のの那智開演に、全面協力をしてくださったのが、熊野那智大社の男成洋三宮司様。


熊野那智大社・男成洋三宮司(撮影/森 武史


2016年より熊野那智大社の宮司様に就任された方です。前任の故・朝日宮司様にもお世話になっておりましたが、男成宮司様になられてから、より那智が身近に感じられる様になりました。朝日前宮司様の頃より毎年参列させていただいている「那智の火祭り」としても有名な


熊野那智大社・例大祭『扇祭』那智の火祭り (撮影/天川 彩)


那智大社の例大祭。ありがたいことに、毎年、お声がけいただいているのですが、その迫力と美しさは息をのむほどです。


ただ、男成宮司様とのご縁は、宮司様が熊野にいらっしゃる前から実は始まっており…。


男成宮司様は、長い間、明治神宮でご奉職されておりました。二十世紀の終わりに、写真家・故星野道夫さんの友人たちが南東アラスカから神話を語りにやって来た催しが全国であり、私は東京実行委員長となり、明治神宮の大きなホールで開催させていただいたきました。


その折にも…


また、翌年2001年「東京 サルタヒコ!」という催しが行われ、私は運営プロデューサーとして関わったのですが、その折にも、男成宮司様は明治神宮でご奉職されていらしたのです。


当時、いずれも担当してくださったのが、現・明治神宮名誉宮司である中島様でした。男成宮司様熊野那智大社の宮司に就任された折、来賓として来られました。


ありがたいことに、中島様は私のことを覚えていてくださったていました。男成宮司様に私のことを紹介くださったのです。更にお隣に座っておられた熊野本宮大社の九鬼宮司様も、私のことを紹介してくださり…。お二人の重鎮が揃って私のことを紹介くださったことで、一気に男成宮司様との心の距離が近くなりました。以後、折に触れずっとお世話になり続けているのですが、ご縁に感謝するばかりです。


そんな、青岸渡寺の高木ご住職と、熊野那智大社の男成宮司様お二人に全面協力していただき、那智では神仏習合というカタチで『能舞』が行われました。


当日朝、まずは青岸渡寺へ。

那智山・青岸渡寺 (撮影/天川 彩)


熊野修験の法螺貝に合わせてご本堂へ向かい、如意輪観音の前でご住職はじめ、多くのお坊様によるご祈祷や般若心経が唱えられました。なんとも言葉にならないありがたさに包まれ…素晴らしい時間の中、鈴木啓吾さんはじめ謡方の能楽師の方々による神歌の奉納。

そして最後に高木ご住職様に法話をしていただきました。


青岸渡寺・本堂での祈祷・奉納後の法話(撮影/森 武史)


お隣の那智大社でも、拝殿でご祈祷と神歌奉納が行われたのですが、宮司様のご配慮で、内陣まで案内していただきました。


熊野那智大社・男成宮司と鈴木啓吾さんと私(撮影/森 武史)


熊野那智大社・男成宮司並びに奉納者と同行者で(撮影/森 武史)


そして午後3時半。

いよいよ、那智の大瀧の前で『能舞』二日目。那智の舞台のスタートです。

この日の私の衣装は、舞台衣装作家kuuさんが、演目『羽衣』に合わせてイメージして製作してくださったもの。


那智の滝前 天川 彩のご挨拶(撮影/森 武史)


私も天女の羽衣のような美しい青い羽衣を纏わせていただき、天にも舞い上がるほど幸せでした。


とうとうたらり…

鳴ハ瀧の水…

渚乃砂 さくさくとして…

瀧の水 玲々として…


神歌の歌詞の中に、このフレーズがあります。これは、那智滝の情景を指しているのではないか、という話を以前、鈴木さんから伺っていましたが、那智の滝を前に神歌に触れ、感慨深い思いがありました。



那智の滝前  鈴木啓吾さん等による神歌奉納(撮影/森 武史)


このあと、この日、高木御住職様と男成宮司様、そして私の3人で鼎談させていただきました。


高木住職、男成宮司と天川 彩の鼎談(撮影/森 武史)


男成宮司様は、熊野の田楽についてお話しくださり、


ユネスコ無形文化遺産「那智の田楽」(撮影/天川 彩)


高木御住職は、熊野修験についてのお話しを中心に語ってくださいました。


そして『羽衣』上演前に、火入れ式が行われました。那智は神仏習合。熊野修験による法螺貝に合わせて、伊藤禰宜様が両脇の篝火台に火を入れてくださる、という那智山ならではの贅沢なカタチに。


点火式で法螺貝を吹く熊野修験者(撮影/森 武史)


那智大社伊藤禰宜による薪点火(撮影/森 武史)


そして、いよいよシテ方観世流能楽師・鈴木啓吾さんによる『羽衣』の奉納です。


『羽衣』シテ方観世流能楽師・鈴木啓吾氏(撮影/森 武史)


鈴木さんのお話によると、那智の滝はその姿から白龍とされることもあるそうです。

能『羽衣』に登場する人物の名前も白龍。

那智の滝そのものが天女の羽衣の様にも見えて…


『羽衣』シテ方観世流能楽師・鈴木啓吾氏(撮影/森 武史)


那智の滝を背景に、羽衣伝説が舞われる姿は、この世のものとは思えないほど優美なものでした。


そして残すは、本宮大社だけとなり…


                つづく…











新宮市・神倉神社 ゴトビキ岩 (撮影/天川 彩)


明け方、目を覚ますとカーテンの隙間からマジックアワーの青紫の美し空が覗き込んでいました。この日は、雲一つ無い晴天。


2025年3月25日は、熊野三山奉納公演初日。奉納は新宮・速玉大社大社の日です。


熊野三山が平安時代、聖地として整えられていった折、神仏習合により神様に本地仏が重なり権現信仰となるのです。速玉大社大社の本地仏は薬師如来で過去世の救済。那智の本地仏は観音菩薩で現世利益。そして本宮は阿弥陀如来で来世のご加護を祈る場となり、熊野は三山を詣でることに意味があるとされました。


今回の奉納公演は、この過去世、現世、来世の順番で行うことになりました。


前日より一人早入りとして新宮入りしていた私は、ホテルの部屋から美しい空を見て、朝食前に速玉大社の元宮、御神体ゴトビキ岩を祀る神倉神社でお参りすることにしました。


この日は午後2時。最初に鈴木啓吾さんお一人による神歌奉納は、神倉神社の麓の鳥居前、ということは決まっていました。でも、やはりこれから3日間の奉納が上手く行くように、ご挨拶したいと思ったのです。

いや、それ以上にこの日の朝、神様が呼んでくださっているように感じたのです。


ゴトビキとは、地元の言葉でガマガエルのことを言い、街中からも、山中に炊き出した磐座がよく見えるのですが、

熊野権現垂迹縁起の中で、熊野権現が初めて地上に降臨したとされ、初代天皇・神武天皇が天ノ磐盾とも読んだ、熊野の聖地。険しい崖の上にあることから、源頼朝が寄進した五百数十段の石段を登った上にあります。


神倉神社の石段 (撮影/天川 彩)


急勾配の石段が続くので、登るのは楽ではなく、これまでも、数えきれないほどゴトビキ岩にお参りに行きましたが、その都度、いつも少し息があがっていました。

更に、今回は当日までの体調管理も大切な仕事であると思い、無理はしない、と心に決めていたので、ゴトビキ岩まで行く予定は東京を出る時には無く、靴は革靴。あとは、神事用のパンプスか、衣装に合わせた草履。


これまでの経験から言えば、革靴で急勾配の石段を登るなど、通常考えられないのですが…。


この時は迷いはありませんでした。

そして、やはり神様が呼んでくださっていたのでしょう。神様が石段を減らしてくださったのか、石段を低くしてくださったのか。信じられないほど楽々、それも、あったいう間にゴトビキ岩まで辿りついたのです。


ちょうど、朝日が綺麗に神倉山にのぼり


朝日に照らされる神倉神社(撮影/天川 彩)



神倉神社の桜(撮影/天川 彩


桜が風に微かに揺れながら微笑んでいましさ

ありがたいことに、後から登ってこられた方が写真を撮ってくださいました。


そして、ホテルに戻り朝の身支度を整え、いざ、速玉大社へ。


この日は、私だけが午前中から現地入り。鈴木さんはじめ、他のスタッフも午後から速玉大社入りということもあり、地元の友人たちや新宮市役所の方々に全面協力してもらい会場準備となりました。


お昼過ぎ、速玉大社に能舞でシテ(主役)をつとめららる鈴木啓吾さんや事務局、享ちゃんも到着。拝殿前や神社さんが準備してくださった木製の台の上に、鈴木さんは自ら東京から送っていたパンチカーペットを敷き詰めて、能舞台を作られ…。


熊野速玉大社での舞台作り(撮影/天川 彩)


舞台や会場準備完了後、鈴木さんと私は速攻で神倉神社の鳥居前へ。

神倉神社でのお祓い(撮影/小嶋鉄山)


お祓いを受け、鈴木啓吾さんによる最初の神歌奉納が行われました。朝、この石段を登って御神体にお参りしたばかりでしたが、今度は同じ場所でご神事とは、新鮮でした。

そして、速玉大社に戻り正式参拝。そして神歌の奉納がありました。

熊野速玉大社での正式参拝(撮影/小嶋鉄山)


鈴木啓吾氏等による神歌奉納(撮影/小嶋鉄山


そして、いよいよ公式にインフォメーションしている時間となり「熊野三山奉納公演『能舞』」が始まりました。


「能舞」オープニングご挨拶 天川 彩(撮影/小嶋鉄山)


まずは、主催者として、そして総合プロデューサーとしての挨拶をさせていただき、速玉大社で上演される『楊貴妃』の能でのストーリーを紹介。皆様真剣に聞いてくださり、ありがたかったです。私の衣装は、舞台衣装作家のkuuさんが制作してくださったものですが、この日の衣装は、演目『楊貴妃』をイメージして作ってくださったのだそう。


挨拶のあとは、舞台上でも神歌の奉納が行われ、


熊野速玉大社 「能舞」神歌奉納(撮影/天川 彩)


そして、鈴木さんが能装束に着替えている時間、速玉大社の上野顯宮司様に登壇いただき、

熊野速玉大社・上野顯宮司(撮影/小嶋鉄山)


私との対談の中で、熊野と芸能、また速玉大社の歴史についてなど語っていただきました。

上野顯宮司と天川 彩の対談(撮影/小嶋鉄山)


気がつくと大勢のお客様が。

熊野速玉大社・満員のお客様(撮影/小嶋鉄山)


そして準備が整い、速玉大社のご神火が入っての火入れ式が行われ…。

熊野速玉大社の点火式(撮影/小嶋鉄山)


いよいよ能舞・速玉大社さんでの奉納『楊貴妃』上演です。


奉納『楊貴妃』シテ方観世流能楽師・鈴木啓吾氏(撮影/小嶋鉄山)


今回、特別に舞台の上で面(おもて)をつけらました。


奉納『楊貴妃』シテ方観世流能楽師・鈴木啓吾氏(撮影/小嶋鉄山)


速玉大社がある新宮市には、蓬莱山があり徐福伝説があることから、鈴木さんはこの演目『楊貴妃』を選ばれたそうです。

朱色が美しい、速玉大社の社殿を前に繰り広げられた幽玄な世界に、その話いた全ての人たちが引き込まれたのではないでしょうか。



奉納『楊貴妃』シテ方観世流能楽師・鈴木啓吾氏(撮影/小嶋鉄山)


美しい、美しい熊野三山・速玉大社での『能舞』1日目でした。


                   つづく…







全てが動き始めたのは、昨年の初夏のことでした。鈴木さんの奥様、秀子さんから久しぶりに連絡があり「熊野三山とご縁ができたままだったので、コロナも落ち着いたこともあり、熊野で神歌を単独奉納しようと思っています。よければ一緒に行きませんか?」と誘ってくださったのです。


もちろん、喜んで!


と、思いつつ…。

その時、私は同時に思ったのです。9月にお一人で神歌奉納されるのは素晴らしい。けれど、前に計画していた能の奉納はされないのかしら、と。

私がかつて見えていたビジョンは、熊野三山で鈴木さんが能装束や面をつけておられるシテのお姿。


私は素直にその思いを伝えてみたのですが「さすがに、それは事が大き過ぎて、正直なところ、それは難しいかと思う」という返答でした。


ところが数日後。再び電話があり「整うのならば、やりましょう!」という嬉しい連絡をいただいたのです。


私は、翌年3月末がベストだと直ぐに思っていました。なぜなら、本宮大社の九鬼宮司様とその年の春に話しをしていた折、熊野三山を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録20周年は、2025年3月末まで、ということを伺っていたのです。


三山揃った能楽の催しを、世界遺産20周年のファイナルとして開催することが出来たなら、熊野の神様がどれほど喜ばれることだろう。それに、三山の何処か一つではなく、三山揃ってとお願いすることも、世界遺産登録の20周年企画ならば可能なこと。

また、半年あれば、運営する側としてもギリギリ準備が整えられであろう、とも。


ただ、肝心の三山の宮司様、ご住職様に、どのようにいつ依頼したらよいかしら…というタイミングで、なんと鈴木さんもお付き合いがある東大の先生たちによる、熊野のシンポジウムがあり、三山の宮司様、ご住職が四人揃って東京にお越しになるということがわかりました。


もちろんその時に、直接お願いするのがベスト。でも、なんということか。私はその時、アメリカへ出張中。どうにもこうにも、その場に行くことは出来ず。


そこで、鈴木さんの奥様に一任し、熊野三山の宮司様、ご住職に直接お願いしていただくことに。


ありがたいことに、それぞれの宮司様、ご住職様共にちょうどその時は問題ない、ということで2025年3月に、奉納公演が決定したのです。


そして、予定通り9月には、三山で鈴木啓吾さんによる神歌素謡が奉納され、私も同行させてもらいました。


楽師・鈴木啓吾さんと


能楽師・鈴木啓吾さん


その時、熊野三山での奉納のお願いを、改めて私からも直接させていただいたのですが、本宮大社の九鬼宮司様から、三山揃ってこのように能楽奉納されるのは、江戸時代以来だろう、という話を伺い、心底驚きました。


そして、この時、三社一寺でそれぞれ奉納された神歌を聴き、私は魂震えら思いになったのです。これまでも、能の鑑賞に行く機会はあり、『翁』の中で神歌は触れはきました。でも、神仏に向かって、真摯に神歌を捧げるということが、これほど凄いことだったとは。


(2024年11月開催の能登チャリティイベントの折、鈴木啓吾さんが持ってきてくださった翁面)


神歌というのは、能にして能にあらず、と言われる「翁」の冒頭に唱えられる言祝ぎの謡。とうとうたらり…。この呪文のような言葉が含まれています。実は奈良の天河神社では、旧暦10月10日に五節句開きのご神事、別名「とうとうたらり神事」とも呼ばれるものが行われます。この神事は十月十日(とつきとおか)で、全てが整い、納め、次に繋がる道が開くという再生であり、蘇りのご神事。

この「とうとうたらり神事」に私もこれまで何度か参列させていただいたこともあり、


この神歌の最も重要なところは、天下泰平、国土安穏、五穀成就を祈念するもの、ということを鈴木さんから教えていただき、なんとも腑に落ちる思いがしたのです。


鈴木さんが神歌をとても大切にされていているのは以前から知っていました。ただ熊野の神様に向けて、純粋に、世の中の平和と、国の安定、人々の日々の暮らしが満ち足りた豊かなものとなるように、という祈りを直に届けている姿を間近で見て、私はいたく感動したのです。


9月の熊野で、その思いをしっかり受け取ったこともあり、鈴木さんと私、鈴木さんの奥様秀子さんと、TENのスタッフ享ちゃんの四人、心一つに、半年後の奉納公演に向けて、本格的に走り出したのです。


実は当初は、経費のこともあり、また、宮司様たちからもご了承いただいたこともあり、有料の催しとして考えていました。しかし、やはり熊野三山という、人々が普通にお参りに来られるところ。

どなたでも、その場に来られた方に自由にご覧いただくのが神様のご本意、ということから無料の催しにすることに。


経費は、この催しに賛同してくださる地元の企業様、個人の方々を募ることにしたのです。


この時、鈴木さんと秀子さんが運営される一般社団法人・一乃会と、私たちの事務所であるオフィスTENの協賛というカタチから「熊野三山奉納公演『能舞』実行委員会」をつくり、事務局はオフィスTENに置くこととしました。


また、この催しを成功させる為には、行政のチカラもお借りすることが絶対に必要だと思った私は、和歌山県、新宮市、田辺市、那智勝浦町に後援を依頼。

全て後援していただけることが決まった時には、本当に小躍りしたことを思い出します。

また、5年前にも計画していた、特別協賛ともなる同行ツアーの企画もTENで行うことになったので、宿選びや行程内容は全て私が考え、ツアー催行そのものは、信頼できる友人でもある、名古屋の旅行会社・タカノ観光サービスの代表・高野久美子さんにお任せすることに。


こうして、協賛のお願いや同行ツアー参加者の呼びかけにも動き始め、秀子さんと手分けして動きました。


もちろん、熊野三山の宮司様、御住職様はじめ、それぞれの神社で担当してくださった方々たちにも、どれほどお世話になったかわかりません。


とにかく全速力で走り続け、年が明けてからは、そのスピードが早くなり、時折、問題も勃発しながら、その度、熊野の友人たちや行政の方々にも助けていただきながら乗り越え、みんなで整えていきました。


開催1ヶ月前となる、2025年2月下旬には、鈴木さんご夫妻と私、タカノ観光サービスの高野さん、さらにはこの催しの直前、3月22日に特番を組んでくださることになった地元のFM局、FMTANABEの大崎さんも一緒に熊野三山へ行き、最後の打ち合わせに。


また、ポスターやパンフレット制作は、全て秀子さんが担当。


実は秀子さん、昔は出版社の編集をされていたという、プロフェッショナルだったのです。



パンフレットには、県知事の言葉も入れてもらったり、国文学者の小林健二先生に、熊野と能について寄稿をいただいたり、もちろん三山一寺の宮司様、住職様に原稿の依頼したりと、編集含めて全て一人でこなしてくださったのです。


私は、催し全体のことから、同行ツアーなことまで、様々なことをあれやこれやとまとめつつ、当日は舞台の上で挨拶をしたり、宮司様たちとの対談などもあることから、舞台衣装もつくることに。

この衣装は、舞台衣装作家であり友人のkuuさんに依頼。


享ちゃんは事務局として、様々な受付や連絡、管理、発送など細かな業務を担当。


現地でスタッフとして動いてくれるメンバーは、私が長年信頼するホスピタリティ溢れ、仕事が出来て、なにより人として尊敬できる人々にお願いしました。


そして、開催まであと2週間となった時、タカノ観光サービスの高野さんと私は再び熊野へ。この時は、ツアーの下見や挨拶まわり、また、完成したポスターやチラシを配りに一泊二日で飛び廻り…。




諸々最後の調整を重ねつつ、あっという間に私たちは、その日を迎えたのです。


              つづく…