天川 彩の こころ日和

天川 彩の こころ日和

作家・自然派プロデューサーである

天川 彩(Tenkawa Aya)が

日々の中で感じたこと、出会ったこと、
見えたものなどを綴る日記です。

作家・自然派プロデューサー 


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昨日、網走での滞在時間がかなりあったので

オホーツク文化が最初に発見された『モヨロ貝塚』へ行きました。


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この貝塚並びに住居跡などを最初に発見したのは、司馬遼太郎さんから日本のシェリーマンと命名された米村喜男衛さんです。米村さんは理髪業で生計を立てながら生涯、オホーツク文化の研究をされた方です。

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モヨロ貝塚の入り口には、私がこよなく尊敬する金田一京助先生の歌碑がありました。金田一先生が米村さんの研究に胸を熱くする思いが歌から伝わってきます。


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北海道は日本の他の歴史とは表記が異なり、北海道を除く弥生時代を迎えた頃、北海道は続縄文文化という時代が続いていました。そして、飛鳥時代から平安時代が始まる頃まで、オホーツク沿岸ではオホーツク文化と呼ばれる時代を迎えるのです。北海道が擦文文化、そしてアイヌ文化と歴史が移り変わる頃、この文化は無くなっていきますが、モヨロ貝塚の発見から、熊信仰を持っていた人々がオホーツク海を渡ってやって来たことだけはわかっています。


それが後にアイヌの人々の熊送り儀式、イオマンテに繋がっていったとされているようです。


遺跡には、六角の建物の中に熊の頭蓋骨が祭壇のように重ねられ、石で作られた熊の頭も出土しています。


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オホーツク文化を持っていた人々は、長い間、謎のオホーツク人という呼び方がなされてきましたが、近年、サハリンのニブフだという説が主流になり、また北に帰ったのではなく、北海道全道に広がっていったと考えられています。


謎のオホーツク人のことを知ったのが、確か18年ほど前。常呂遺跡で宇田川先生と出会い、その後も、何度か宇田川先生から教えて頂いたオホーツク文化。


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自分のDNAの中に流れる何かを強く感じます。






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北方少数民族ウィルタ族。これまでもblogに幾度か書いてきていますが、世界に僅か数十人となってしまった人々で、今もサハリンに暮らし、また歴史的背景があり日本でもほんの僅かながら暮らしている人々です。またウィルタ族の限らずニブフ族(ギリヤーク)や樺太アイヌといったサハリンの少数民族の人々も同様で、そんな北方少数民族の文化を伝える為に建てられた『ジャッカ・ドフニ』という資料館がかつてありました。

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私は父が樺太(サハリン)出身であることや、他にも諸々縁あって、ウィルタの人々の文化と権利を守る為に設立されたウィルタ協会というものに属しています。友人から「ジャッカ・ドフニ」のかつての展示物が、網走の「北方民族博物館」の中企画展として8年ぶりに公開されると教えてもらいました。せっかく北海道に来ているのだから、この機会を逃したくないな、ということでハードなスケジュールでしたが行ってきました。


久しぶりに目にした、精霊人形のセワ。

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何体も出ていましたが、特にこれまで表に出ることがなかったご神体のセワも表に出ていました。このご神体セワは、ジッカ・ドフニの初代館長だったウィルタのゲンダーヌさんや、二代目館長でゲンダーヌさんの妹だったアイコさんが毎日お参りしていたものだそう。


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さすがにご神体は写せなかったので、その前にイソツツジを使ったプッチェキリと呼ばれるお清めのものを写しました。


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そして、ゲンダーヌさん、アイコさんのお父さん、ゴルゴロさんは、国から文化功労賞も受賞している人物でしたが、元来はシャーマン。


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ウィルタのシャーンドラムや祈祷の時に使っていた鈴がついた腰巻も展示されていて、久々に感じるところがありました。

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これまでウィルタ関係のことは、ウィルタ協会の事務局長をされていた鶴巻さんに連絡をしてお会いしてきましたが、残念ながら体調が優れないとのこと。鶴巻さんから教えていただき、北方民族博物館の学芸主幹、笹倉いる美さんに連絡を取り、お会いしてきました。笹倉さんは、今回の『永遠のジャッカ・ドフニ展』の企画者であり、ウィルタ族の人々とも深く交流されてきた方です。


2時間近くお話をして、これからの現地のウィルタの方々との交流についても話が広がり、

素晴らしい時間を過ごすことが出来ました。











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■『神戸からの祈り (最終回)』


平成10年10月10日。


『神戸からの祈り・東京おひらき祭り』が鎌倉の大仏様の前で繰り広げられた。



民族、国境、宗教を超えた祈りの祭りは、この時大輪が咲いたといっても過言ではないだろう。

東京実行委員会のメンバーが、どの様な取り組み方をして、このイベントを最後まで作り上げていったのか。正直なところ私は、制作も運営も関わっていないのでわからない。でも、このイベントを開催するまでの間、相当な労力を多くの人々が要したことだけはわかる。

会場で多くの東京実行委員会の友人たちのイキイキとした姿を見るだけで、私は誇らしい気持ちになった。

会場には、思いがけず神戸事務局長としての座席も用意され、セレモニーにも登場するプログラムが組まれていた。

東京実行委員会の友人たちの心が嬉しかった。


祈りの時間は、淡路島とは異なるかたちだったが、やはり、様々な宗派のお坊様や天河神社の宮司様、アラスカ先住民族のボブ・サムやアイヌのアシリ・レラさん、アメリカ先住民族のデニス・バンクスなどが一斉に、それぞれの言葉とやり方で、鎌倉大仏を前で祈りを捧げた。

私は、最初のセレモニーと最後のセレモニーに少し登場したくらいで、後はフリーという、とても気楽なポジションにつかせてもらっていた。
東京のスタッフが大忙しで動いている中、私はその時間を十分に堪能することができた。

舞台では細野晴臣氏をはじめ、神戸でも登場した天空オーケストラやチャンプルーズなど、本当に多くのアーティストたちが次々と登場。

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(写真は、天空オーケストラのHPからお借りしました)

平和の祈りのイベントを楽しみながら、神戸の時とは比べものにならない程のスタッフの手際の良さに、ただただ感心するばかりだった。



神戸の実行委員、ヨリちゃんが提案して始まった「五色の布」(赤・青・緑・黄色・白色のリボン状の布に、それぞれの祈りを書いて結び合わせたもの)が、大きな大仏様の胸にかけられた時、私の目には、大仏様がちょっぴり恥ずかしげに照れ笑いしているように見えた。



神戸メリケンパークで行われた満月祭からおよそ2ヶ月。自分の中でも少しずつ「祈りの祭り」について整理ができ始めていた。



鎌倉は、その日爽やかに晴れ渡っていた。



あれは…午後2時ごろだっただろうか。
秋だというのに、まるで真夏のように暑い日差しが照りつけていた頃、人であふれ返っていた会場の中を、私は友人を探して歩いていた。

ふと目の前を見ると、ゲストで来ていたアラスカ・クリンギット族の語り部、ボブ・サムが立っていた。
映画「地球交響曲 第3番」の中で彼が語るワタリガラスの神話を聴いたことから、全てが始まったと言ってもいい。そのボブ・サムが真っ直ぐこっちを見ていたのだ。

「やっと会えた…」

そう思った瞬間、ボブは私の瞳をじっと見たかと思うと、おもむろに近づいてきて、私を強く抱きしめた。
全く一言も語っていないのに、なぜか心が通じあった。

そして、夕方控え室の畳の上で、五色の布を更に繋げる作業をしていた時、隣の部屋にいた外国女性が入ってきた。


互いに見つめあい微笑みあっているうちに、くすぐり合いっこが始まり、私たちは、まるで幼い少女のようにじゃれながらしばらく遊んだ。


しばらく経って、彼女はボブの奥さんドーだと知った。

会場では、様々なパフォーマンスが繰り広げられ『神戸からの祈り・東京お
ひらき祭り』は、全てがひとつの「祈り」となっていた。

私はこの日、完全に思いが成就したり



それから1週間後、記録的な台風が日本列島を襲った。



ボブがその日、神話を奉納すると聞いて私は家族と共に、奈良県の天河神社へ向かった。あれは、台風の目の中だったのだろうか…。

天河神社に着いた時には、ピッタリと風が止まっていた。



車から降りたその時だった。


偶然、宮司様が目の前に現れ「彩さん、これからボブ・サム達と一緒に洞川に行くのですが、一緒に行きますか?」と誘ってくれたのだ。


見ると、ボブやドーが横に立ってニコニコとしている。洞川といえば天河神社が本宮にあたる大峰の麓。

私達は、その日天河の宮司様、ボブ・サムやドーそして家族らと共に、大峰山の麓で静かに静かに、祈りを捧げた。



神戸の震災から始まった私の中の小さな祈り。


それは、やがて私の意志を大きく超えた平和の祈りとなり、様々な繋がりと多くの学びを与えてくれるものとなっていった。



そして『神戸からの祈り』に関わったことで、私は生涯の多くの友を得て、新たなる自分の可能性も知った。

これに関わったことは、神様からの大きな大きなギフトだったのだと今の私にはわかる。

あれから間も無く20年。

神戸実行委員長として共に動いた大重監督。淡路島での祈りの場探しや、鞍馬の山歩きも一緒に楽しんだ東京実行委員会の岡野恵美子さん。そして、神戸のお寺にアブちゃんを奉納した東京実行委員会の吉田美穂子さんは、既に神様のもとに旅立たれてしまった。

でも、あの時に関わった生涯の友として、これからも共に歩み続けてくれることだろう。

そして、今。また新たなる流れが始まっている。

その流れがどの様な展開になっていくのかはわからないが、深く関わるであろう人々は、きっと新たな人生の扉が開き、生涯の友とも出会うはずだ。

私は、そんな人々を応援したいと思っている。





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■『神戸からの祈り (19)』


「これから打ち上げを始めますので、手が空いた方から、こちらに集まって下さい!」

拡声器で誰かが言う声が聞こえる。


まだ、祭り全体の片付けが終わっていないことはわかっていた。だから打ち上げを始めるには、早すぎるのではないかと気にはなったが、雰囲気に水を注すのも違うような気がして、私もとりあえずその場に向かって走った。

ようやく辿り着いた時、ちょうど皆がビールを手に持っている状態だった。
私も慌ててビールを持った。

「乾杯~!!」


簡易的に組まれた大テーブルの上には様々な料理が並び、出演者や舞台関係者、そして辺りにいたスタッフなどが乾杯を交した、まさにその時だった。



「おまえら、何考えているんや!」

少し離れたお祭広場で出店などを仕切っていたスタッフが、走りながらやって来て大声で怒鳴った。

一瞬にして、水を打ったように静まり返る。



「そっちの舞台は終わって、打ち上げが出来る状態かもしれんけど、まだ、あっちで多くの仲間が働いているのがわからないんか!おまえらは気遣いが無さ過ぎるんや!!自分たちだけがよけりゃ、それでいいって訳やないやろ!!」


そこに居た全員が、どのように身を振っていいのかわからなくなり、取りあえず大テーブルをのそのそと片付けて、お祭広場の片付けに向かう。

自分たちがよけりゃそれでいい…。その考えは、私たちが目指す世界平和とは、相反する価値観だ。
私は言葉が無かった。

全員で全ての片付けを行い、改めて打ち上げをする段になった。が、私は打ち上げの場にどうしても行く気になれなくなってしまった。



フラフラとメリケンパークの片隅の水呑場に
向かい、誰にも気付かないようなひっそりとした一角を見つけて身を沈めた。そして、へたり込むように座ると涙が止めどなく溢れ出した。


私は涙を拭うこともなく空を見上げると、また満月が薄雲がかかるながらも、顔を出してくれていた。
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大泣きしている私を、満月だけは見守ってくれているような気がしたが、やはり悲しかった。



あれほど寝食も忘れ、家族や友人も巻き込みながら、この日の為に動いていたことは、何だったのだろう…。
何故、最後になって、こんなに意識がバラバラになった催しになってしまったのだろう…。


簡単に出るはずもない答えを求めながら、ただただ泣いていた。



ややしばらくして、打ち上げの場に私の姿がないことに気がついたサッチャンが、色々探してくれたのだろう。水呑場でへたり込んで泣いている私を見つけ出した。

彼女は、この日、韓国舞踊を舞台上で踊り、その後は救急班の看護婦上として動いていたので、絶対に疲れていたはずだ。


だが、私の姿を見たサッチャンは、何も言わず走って何処へ行き、そしてすぐさま二人分のビールを持って戻ってきてくれた。



「彩、本当にお疲れ。乾杯!!」

私は言葉が出せないまま、手渡された冷えた缶ビールを合わせた。

サッチャンは、その後、言葉が出ない私に語りかけることもなく私の隣に座り、そして一緒に泣きながらビールを飲んでくれた。

この時、枯れ切った喉に流れたビールの味は、涙と混ざって少し塩辛かった。



どれくらい、その水呑場に座り込んでいたのかわからないが、ビールを飲み終えた頃、サッチャンに諭されて私は立ち上がった。

メリケンパークの出口に向かうと、何ヶ月も一緒にこのお祭りに関わっていた、数名の仲間の顔が見えた。
私は、代わる代わる仲間の顔を見た。


その時、鎌田東二さんが私のそばに歩み寄り「本当に長い間お疲れ様…」と言いながら抱きしめてくれた。

それからは、代わる代わる仲間たちに私は強く抱きしめられた。私は安心した子供のよう
に泣きじゃくるばかりだった。



それから、体で何が起ったのか…。私は三日三晩、涙腺が壊れてしまい涙が止まらなくなってしまった。



しばらくして、神戸の地元テレビ局が「神戸からの祈り」の特集番組を放送した。

家で、私と一緒にその番組を最後まで見ていた下の娘が、番組終了後、ポツンと言った。


「あれだけ、ずっと動いていたお母さんなのに、全くテレビに映っていないね。でも、きっとお母さんは、大きなお花の種で根っこだったんだよ。綺麗なお花が咲くためには、土の下でちゃんと種が芽吹いて根っこが張って、ずっと頑張り続けないと綺麗なお花は咲かないから。だから、お母さんが凄く頑張った分、こんなに大きなお花が綺麗に咲いたんだよ」

私は、その言葉でやっと救われたような気がした。

そしてこの日、やっと自分を
自分で褒めてあげようと思った。

     
      つづく…

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■『神戸からの祈り (18)』


1998年8月8日。

神戸からの祈り「満月祭コンサート」当日。



淡路島での祈りの時を終えた私たちは、祭りの会場である神戸メリケンパークに移動。


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(写真はイメージ写真です)

この日、当日飛び入り参加のスタッフも急激に増えて、最終的なスタッフの数は300人を越えていた。

私は、300人以上集まった当日スタッフの人々に、トイレの設置場所や、救護班の場所を説明したり、当日の流れやスタッフの役割分担を、拡声器を使って説明した。

用意してもらっていたスタッフTシャツも当日飛び入り参加の人数があまりに多く、急遽追加作成してもらったりもしながら、刻々と迫っる本番に向けて準備を進めていた。



仮設で設けられた舞台上でのマイクテストが始まり、私は舞台監督をしていた人に、舞台台本を一部本部に置いてもらえるよう話した。



しかし、その舞台監督は苛立っていたのか「あんたら素人が見たってわからないんだから、本部になんか台本必要無いんだよ!!そっちは客の対応だけしておけばいいんだから」と言う。



この日、私を襲った悲劇は、この瞬間から始まったと言っても過言ではない。



正直なところ、以前にも書いたが、私はこのイベントでは舞台関係の仕事を「女性だから分からないだろう」という理由で一切触らせてもらえなかった。


だから、出演者の方との打ち合わせやケア、舞台関係者の方との打ち合わせも男性のスタッフが仕切っていたので、ほとんどわからない状態だったのだ。

私がそれまで長年携わってきた、舞台の企画や演出、台本といった分野に、このイベントでは一切関わらせてもらえなかった為、ギリギリの状態でお手上げで、大変なことが起こっていたなど、知らされもしていなかったのだ。


結局、イベント数日前になって、仕切ることが完全に不可能になった演出担当となったスタッフは、舞台監督をどこかの業者に頼んでしまったのである。


もちろん、当日、業者としてやって来たその舞台監督はそれまでのミーティングにも参加していないし、祈りの時間も当然ながら共有していない。その上、ギャラも発生していた。スタッフ、出演者、全員手弁当でしてきたにも関わらず、である。

結局、舞台を把握出来ないところに本部席が設置されていたこともあり、進行状況が理解できないまま、本番を迎えることになってしまった。



長年、イベント関係の仕事をしていた私にとって、進行状況が理解できないままお客さまを迎えるというのは、底知れぬ不安材料なのだ。


またお祭会場では、開始時間を間違えて早くフリーマーケット広場に来てしまったお客さまが、イライラし始めて文句を本部宛に言ってきた。



あまりに大規模で行われたイベントだったので、それぞれの担当スタッフがどう頑張っていても、細かな問題が続出しはじめていた。


私は、とにかく走り回って、トラブルの処理を行っているうちに、満月祭は始まっていた。



祭りのオープニングを飾る虎舞いや中国の獅子舞も、紆余曲折しながら韓国舞踊を踊ることになった親友サッチャンの晴れ舞台も、結局見ることは出来なかった。

あれだけ、様々な繋がりからやっとの思いで出演してもらうことができたアシリ・レラさんとアイヌの子供たちの歌や踊りも見ることが出来なかった。


些細なところで、細かなトラブルが続く。

その度、謝りに走りまわる。それが私の仕事のようだった。



夕方になり、突然著名人が舞台に登場することになったが、その方々が来ることも、本部席には全く知らされていなかった為、お客様には怒鳴られる。


だから情けない話だが、本部に質問が寄せられても対応することすら出来なかった。

一段落した頃、打ち上げ準備を始めた。

何せ当日参加したスタッフや出演者を含めると想像を絶する人数がいる。私は途方に暮れながらも、何人かのスタッフに協力してもらいながら、とにかく準備を急いだ。

「それにしても何なのだろう…。私は、ここで何をしているのだろう…」

長い時間をかけて、作り上げてきた祈りの祭り。それが目の前で全くエネルギーの違うものに変化していることに、私はやるせなさを感じて、空を見上げた。

満月祭なのに、肝心の月は厚い雲に覆われて姿が見えない。

その時の私は、まだ「なるがまま、あるがまま」という思いには到れず、悲しくなってきてしまった。

舞台がラストに近づき、ようやく舞台をゆっくり見ることが出来た頃、呼びかけ人の一人であった喜納昌吉さんがエイサーと共に演奏。

すると会場を埋め尽くしていた人々が、一斉に踊り出した。

他の出演者も仮設ステージで歌い踊っている。

ほんの一瞬だが、うっすらと満月も雲の合間に顔を出してくれた。

そこで見たものは、集まってきた人々の幸せそうな顔、顔、顔。
(その人々の姿は、翌日の神戸新聞と読売新聞の朝刊1面を飾った。)

これで、いいんだ。みんなが喜んでいるからいいんだ。

私はそれで自分を納得させようと思った。「神戸からの祈り・満月祭コンサート」は大盛り上がりの末、終わった。

しかし、本当の私の悲劇はこの直後起った。




つづく…
   

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