天川 彩の こころ日和

天川 彩の こころ日和

作家・自然派プロデューサーである

天川 彩(Tenkawa Aya)が

日々の中で感じたこと、出会ったこと、
見えたものなどを綴る日記です。

作家・自然派プロデューサー 


天川 彩のお仕事については


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我が故郷と言っても過言ではないほど、私にとって身近に感じるホピの大地。

4年ぶりに彼の地へ帰ることができました。



(*写真は今回の旅で見つけたホピのバタフライダンスの時に使うヘッドドレス)



ホピというのは「平和の民」という意味を持つアメリカ先住民で、北平南西部にいるアリゾナ州の北側に住む少数民族の人々のことです。


彼らとの関係が始まったのは今から25年前のこと。

その出会いは、本当に不思議な出来事の繰り返しで、まさに導かれて…という表現が一番しっくり来るのですが…。

1998年3月5日。
天川 彩というペンネームを奈良の天河神社で授かったその日、巫女様から「Hopiって知っていますか?」と聞かれたことが始まりでした。それから次々とHopiというキーワードが目の前に現れ…あっという間にホピの地へ行くことになりました。


その時の出来事などについては、私の著書『HOPI 〜 平和の民から教えてもらったこと〜』(徳間書店)に書いていますが、これまで、どれほど彼の地へ通って来たのか、自分でもわかりません。


98年以降、可能な限り年に一度。2014年には、ホピの文化やアートを日本に繋ぐお店、ホピショップ『Sun&Rain』を開いてからは、平均して年に3回。そして最もホピの大地へ行ったのは、コロナ直前の2019年。なんと一年間に5回も通っていたのです。


ところが2020年。新型コロナが世界的に蔓延し、ホピの大地へ行く道が途絶えてしまいました。


そればかりか、オンラインで届くホピからのニュースには、各村々で感染爆発している様子や村ごとに亡くなっている方々の人数が毎週のように届き、心配が募っていました。


ただいつ何時でもホピの大地へ行ける準備だけは整えていよう、また、日本で唯一となるホピショップも絶対に守ろうと心に決め、その家賃を支払う為にもコロナ禍の中、新たな店舗展開を起こし、頑張ってきたのです。


そして、ようやく…ようやく、今年のゴールデンウィーク明け、現地へ行けるタイミングがやってきました‼️



噂には聞いていましたが、飛行機代やホテル代は恐ろしいほど値上がっていました。更に円安による影響もあり、飛行機代もホテル代も、かつての倍ほど。

その洗礼を受けたのは空港でした。トランジットのロサンゼルス空港で購入した普通の珈琲牛乳1本がなんと5ドル50セント。のど飴1個、3ドル50セント。
日本円にすると、珈琲牛乳1本とのど飴1個だけで1200円もしたのです。


(*レジ前に置いてあった小さなキャンディが日本円で500円以上。さすがに高いですよね…)


ホピでは現金しか使えないアーティストも多く、空港である程度まとまった金額を円からドルに換金しましたが、驚くほどの目減りにビックリ。


でも、そんなことよりも、ホピの大地へ久しぶりに向かうと思うだけで、心ウキウキ。喜びが隠せない状態で現地へ向かいました。


今回は、日本からロスに飛び、そこからニューメキシコのアルバカーキへ入りました。アルバカーキで一泊した後は、ホピの村までレンタカー移動。


運転はこれまで同様、スタッフの享ちゃんが行ってくれました。享ちゃんのアメリカでの運転は本当に安心できるもので、頼りになります。


食事代はとにかく節約できるところなので、移動中のお昼ご飯はとにかく、おにぎり。

ほかの滞在中の食事と、ほとんど日本から準備してきた食材を使い部屋で準備して食べらというのが、私たちの出張スタイルです。


特に今回はアメリカの物価高と円安。

とにかく、カチーナやホピジュエリーを仕入れる為の貴重なお金。無駄遣いは一円たりとてできません。


ホピの村に向かう道は懐かしい真っ直ぐ道。



ホピの友人たちの半数は、メールはもちろんのこと、電話連絡もつかない人々なので、現地行ってからの安否確認になるとは思っていました。


もちろん、行く前に電話やメール。メッセンジャー、LINEなどで連絡が取れていた友人も多かったのですが、ただ一人。これまでメールや電話で連絡がついていたジュエリー作家の友人だけは、連絡取れなくなっていて心配していました。


なので、ホピに着いて真っ先に彼の家に向かいました。

ホピの家はとてもどこも似ていて…時折家を間違ってしまう為、この時も誤って違う家のドアをノックしてしまったのですが、そこで、ジュエリー作家の友人がコロナで亡くなっていたことを知りました。


ホピの友人から紹介してもらった彼。いつも優しい笑顔で歓待してくれていた彼。更にホピジュエリーの半分は、彼にお願いして作ってもらっていたものだったこともあり…。あまりにもセンセーショナルでショックなホピの村での始まりの時となってしまいました。


日本でもコロナにかかった人は沢山いましたが(私はかかっていませんが、家族の半数はかかりました)周囲に誰も亡くなった人はいなかったので、ショックが大きく…。


その後訪問した友人たちからも、信じられないほど多くの人々が亡くなってしまったという話を聞き、ホピでは、どの家族も一人はコロナで大切な家族を亡くしている…との話に、初日は涙が止まりませんでした。


村によってはゲートが今もあり、厳重チェックがある様子でした。スーパーや郵便局など公共の場では、マスク義務があるとのことで、アメリカの中でも特にホピはマスク率が高いような気もしました。


やはり今も感染を恐れているのでしょう。


ただ、ホピの友人たちは、私たちが3年の時を経て再び帰って来たことを皆、大歓迎してくれたのです。


滞在中、親しい友人たちと沢山会い、新たな出会いも多々ありました。




写真を見てもらえば、どれほど素敵な時間を過ごすことができたか、一目瞭然かと思います。


そんな中、今回特別な再会となった出会いもありました。


今から20年ほど前…。

ある時、私はホピの神様から「あなたに、ある人物と出会わせたいので、とにかくこの日にホピのある村に行く様に」という不思議なメッセージを受けとりました。


その頃はまだ、ホピショップの存在もなく、仕事で彼らと出会っていた訳でもなく…。ただただ、平和の民であるホピの人々から大切なことを学んでいただけの頃でしたが、私はその声に素直に従うことにしたのです。


その日、その時、どの村のどの家に向かうべきなのか、誰から聞いたわけでもないのに、道も家もなぜか全てピタリ!と私にはわかりました。

そして、家の前で車を停めてもらうと、一人の少女と目が合いました。が、直ぐに少女は家の中に入ってしまいました。


ふと隣を見ると、隣の家のロジャースさんという女性が声をかけてきてくれたのです。彼女に正直な話をしたところ「多分会うべき人物は、あの少女の曾祖父さんで、マーティン長老という人物だろう…」ということでした。


ロジャースさんは、家の中に入っていった少女に声をかけ、曾祖父さんが畑から帰って来るまで、私たちを村の案内をするよう言ったのです。その少女は、クリスティという名前でした。


夕方、マーティン長老が畑から戻って来た時、クリスティは「私の友達よ」と言って私たちを紹介してくれました。


実は数日前、マーティン長老も、神様から誰かがやって来るから遠くに行かず家にいるようにとのメッセージを受け取っていたそうで、私たちは、この出会いは神様が計画していたことを知ったのです。


そんな最初の出会いから10年あまり。マーティン長老が帰天するまで、私は長老と深い深い付き合いをさせてもらっていました。



何度かクリスティにもお土産を、と思い持って行きましたが、それ以降、彼女に会うこともなく…。


マーティン長老が亡くなった後、私はホピショップを開くこととなり、何人かのカチーナアーティストの友人が、長老が暮らしていたホテビラ村にも何人かできました。長老の孫という人物とも出会いましたが、最初に出会った少女クリスティのことを知っている人は誰もいなく、ずっとわからないままでした。


ところが今回、とにかく4年ぶりにお店を開くということから、沢山のカチーナ作家さんと出会う必要があり…。どのような経緯で繋がったのか覚えていないのですが、Facebookで数年前から知り合っていた、エリックというカチーナ作家さんと会うことに。


聞くと家があるのはホテビラ。そして案内された家は、なんとその昔、最初に行った家だったのです。


エリックが紹介してくれた娘さんの顔を見て、もしや…と思い名前を聞いたら、クリスティというではありませんか!おぉ!クリスティ…と言ったら、名前を紙に書いてくれました。

クリスティではなく彼女の名前はクリシーだったのです。私の聞き間違い、発音違いで探し出せなかったのです。

でも、今回奇跡的に出会うことが叶いました。


*今は亡きマーティン長老の娘、孫、そして曾孫。

嬉しい奇跡の再会と出会い。


その再会の翌日、ホテビラ村でカチーナダンスが行われました。友人に誘われ、一緒に行き夜遅くまでダンスを見ていたのですが、なんだかマーティン長老も儀式の中にいるような、そんな不思議な感覚がありました。



4年ぶりに行ったホピの大地では、他にも、書ききれない沢山の出来事の連続でした。やっぱり、ここは私の魂の故郷に違いありません!


更に25年前に見ていたこと、20年前、10年前、そして4年前とも確かに違うホピの状況を感じました。

ホピの歴史の中で、悲しい歴史の舞台となっていた場所の再生が始まろうともしていました。


コロナで全く時が止まっていたかのような、ホピとの関係。でも、今回行ったことで新たな時計の針が確実に動き始めました。


まもなく、ホピショップも4年ぶりに再オープン。

どんな出会いがまたあるのか、楽しみで仕方がありません。


aya



























居ても立っても居られない久しぶりにそんな感覚になりました。


「九州国立博物館」で特別国際企画展『加耶』が行われていることを知ったのは、会期終了3日前のこと。




更に昨年末には千葉の「国立民俗歴史博物館でも開催されていた、ということも全く知りませんでした。


加耶展の巡回展があるかと思い調べてみたら、これから先は韓国国内を巡るとのこと。さすがにハングルは読めないし。企画展最終日は都内で用事もあるし、残念ながら諦めるしかないかなぁと思った時、ヒラメイタ💡のです!


そうだ!仕事のスケジュールを調整したら、最終日前日なら見に行けるかも!いや、行こう!


そのような訳でその日の夜、即座に飛行機と宿を手配し、翌日には飛行機に乗っていました。


加耶(伽耶)というのは、3世紀頃から6世紀ごろまで古代朝鮮半島南で文化が栄えていた諸国のことです。かつて倭とも大変関係深く、古代日本との繋がりが色濃かった場です。


なぜ、こんなにも私が加耶に惹かれたのか。

それは不思議なご縁が以前からあったからで


加耶は、地理的な範囲は、時期によって移り変わっているようですが、概ね朝鮮半島の南東部にあたるところにあり、現在の慶尚南道(キョムサンナムド)と呼ばれるところを中心に存在していました。


実は、その韓国の慶尚南道の東京事務所の方と私、少しお付き合いがあるのです。


2006年、私が書いた小説『タイヨウのうた』が




後に韓国語版としても翻訳出版されました。



彼の地でもブームになったらしく…2009年、ミュージカル化されるということに。


その時の主催者が慶尚南道の方で、著作権の問題を相談しに現地の行政窓口に行き、そこから慶尚南道東京事務局長さんに話が繋がり、私に連絡があったのです。


著作権の話に関しては出版社に全面お願いすることにして、所長とは日韓関係の話から加耶の話に。


加耶の話を初めて知り、更にかつて加耶の中に任那(みまな)日本府という倭国の一部のような場もあったと聞き驚きました。


ただそれ以上に、韓国と日本の考古学者が共同で発掘調査を行っている最中で、これから謎が解明されつつある、という話しに感激したのです。そんな私に、所長さんは、いつか機会があれば、加耶を舞台にした小説を是非書いて欲しいとも。


以後、慶尚南道東京事務所さんとは、その後も年賀状を送り合う関係だけは続いているのですが、


何はともあれ、それ以来ずっと加耶このとが意識から消えることはありませんでした。


なので、突き動かされるような思いで、見に行ったのです。


それでは、肝心の九州国立博物館で開催されていた特別国際企画展『加耶』のことに触れていきましょう。


加耶は、先に触れたように朝鮮半島南部で概ね3世紀〜6世紀に栄えた諸国を総称した呼び名です。


この企画展では、考古学的に認識可能な、金菅加耶(きんかんかや)、阿羅加耶(あらかや)、小加耶、大加耶の四つの国々が扱われていました。




つまり、かつて日本府が置かれていたともいわれる、任那は考古学的に認識できていないものなのでしょう。それらに関する資料はありませんでした。


ただ、日本列島はちょうど古墳時代にあたる頃。

王陵(王の墓)が盛んに作られているのは、加耶の影響が多分にあったことは、疑う余地もありません。




金菅加耶(きんかんかや)、阿羅加耶(あらかや)、小加耶、大加耶、それぞれの歴史や特徴などはさて置いておくとして、


要するに加耶は、朝鮮半島にあった他の古代国家、高句麗・新羅・百済と戦い、また時に和合しながら、562年に滅亡するまで、古代日本に多大なる影響を及ぼした諸国なのです。


加耶には倭人の痕跡が残り、また日本各地には、加耶からやって来た渡来人たちの痕跡が今も残っています。


4世紀、加耶では日本の糸魚川産の翡翠の勾玉が王の象徴として既に使われはじめ、

その影響で他の朝鮮半島の国々でも黄金の冠についた勾玉が多数発見されています。


(加耶ではありませんが、韓国国宝・新羅王の王冠)


5世紀には、加耶から様々な技術が倭(日本)にもたらされるようになり、


鉄の道具類をはじめ、須恵器や、炊事道具などが加耶から入っています。加耶から馬もやって来たと考えられ、乗馬の技術もその時に入ったそう。




加耶では鉄製の武器や武装具が沢山作られていますが、これは強国に挟まれていることもあり、常に戦いに備えておく必要があったのではないかと考えられています。



また王や有力者の墳墓から、金の装飾品も多数出てきていることから、鉄生産地である利点を生かし、力を蓄えていたことが伺えます。


そんな中、今回加耶の遺跡から発見された銅矛や剣を見た時、出雲歴史博物館で展示されていたものとの類似性に愕然としました。


加耶の遺跡で発掘された銅矛


出雲で発掘された銅矛


加耶の剣


出雲で発掘された剣


思えば、神代の時代とされた時代です。加耶と倭との交流が盛んだったので、当然といえば当然なのでしょうが、


今回、特別国際企画展『加耶』を見たことで、日本の神話が神話の物語ではなく、リアルなものに感じ始めています。



余談ですが、展示されていた土器の中に


「加耶展」で展示されていた「車輪飾り土器」



オフィスTENの事務所で長年飾っている土器にそっくりな土器を見つけ、ビックリしました。



オフィスTENの事務所に20年以上ある「車輪飾り土器」


これは「車輪飾り土器」というもので、二十数年前、韓国・慶州に行った折、たまたま見つけたものです。その独特なフォルムに惹かれ、何に使うのかも不明なまま購入。


ずっと事務所の中に飾ってきました。今回の展示で、この土器の名前もわかりましたが、朝鮮半島南部・独自の祭祀具であることもわかりました。


加耶展に行き、何か新たな目が開いたようなそんな気がしています。


これまで20年以上『縄文』に視線を向け続けてきましたが、ここにきて『弥生』そして『古墳』へと少し視線を向けてみたくなっています。






この映画は絶対に観なくては後悔する!

そう思って仕事の合間を縫って先日、映画館に駆けつけました。

『ミスタームーンライト〜1966 ザ・ビートルズ 武道館公演 みんなで見た夢〜』



ビートルズの音楽はもちろん大好きです。ただ熱狂的なファンというわけでもなく、この映画の主軸となる武道館公演の時はまだ4歳。当然、この公演に行っていた訳でもなく…。

なのに、なぜそこまで掻き立てられ観に行ってきたかというと、私の仕事人生の原点と繋がっているからです。


私の社会人スタートは、1966年にビートルズを招聘した「協同企画」後の「キョードー東京」の傘下であり、北海道地区を担当する「キョードー札幌」という会社だったからです。


物心ついた時には音楽が生活の中にありました。

特にバロック音楽と津軽三味線の高橋竹山が大のお気に入りという、今思うとちょっと変わった子でした。


小学生の時、親に懇願してピアノを買ってもらいましたが、ピアノの先生が怖くてあれほど好きだった音楽が楽しめなくなり、レッスンや発表会も苦痛で…。そんなある日、兄が買ってきたビートルズのレコードにこんな音楽があるのだ!と衝撃を受け、それからは、ビートルズの曲ばかりを弾いていました。


中学生になるとバンドを組み、高校生の時、アルバイト代を貯めてベースギターを購入。また男の子のバンドでキーボードを弾いていたこともあり、常に生活の中心に音楽がありました。自分で作詞や作曲をしたものもあり、いつかはミュージシャンに、なんて淡い夢もあったのですが…。悲しいかな耳が良く?どれほど練習したところで、自分のテクニックや歌声ではプロの域に達することはないと悟ったのは、高校2年の時でした。


では、どうやって音楽の世界で仕事をするのか…。

そう思った時、コンサートの主催者の存在に気がついたのです。


そうだ!コンサートの主催といえば、かつてビートルズを招聘したキョードーで働けたなら、どれほど素敵だろう!


単純な私はキョードー入社を目指して、漠然と、業界に強いのは早稲田ではないかと思い、受験勉強を始めました。そんな高校3年の夏。予備校の夏期講習の帰りに、バンドメンバーの1人と会い、その話を伝えたところ「本当に早稲田を目指すのが正しいのか、直接、会社に確かめた方が良いのでは?」と言うのです。


確かに、その通りだと思った私は、電話帳でキョードーの電話番号を調べ、なんとその場所の近くに会社があることがわかり、直接会社に聞きに行くことに。


アポ無し飛び込みの、怖いもの知らずの女子高校生に、運命の神様は微笑んでくださり…。「早稲田であろうが、東大であろうが、不用な人は採用しないし、大学に行かずとも必要かとあらば採用する。試しに明日からでもアルバイトしてみる?」と社長に言われ、


私は受験勉強をやめて、毎日キョードーに通う高校生になったのです。その年の秋からは昼間はセーラー服を着て学校に通い、夕方からはコンサートの裏方をするという日々を過ごし、翌年春、正式に社員となり働き始めました。


国内外のミュージシャンの音楽を提供する仕事は、天職ではないかと思うほどで、仕事が楽しくて仕方がなかったのですが、ある出来事があり、私は会社を辞めることに。


でも、その時の仕事がその後の私の仕事人生に大きく影響していることは事実で…。今振り返ってみても、キョードーで働いた時間は、私の人生の宝物です。


私は、お会いすることがなかった方ですが、キョードーを作った人物で、日本初のプロモーター永島達司さんがどのような人物で、伝説となっているビートルズのコンサートがどの様な経緯で実現したのか。

そんなことを知りたくて、この映画を観ました。


ビートルズがデビューしたのは、私が生まれた年1962年です。それから僅か2年で世界を圧巻させ、その2年後の1966年。日本でのコンサートは歴史的な出来事として今も語られています。活動はわずか8 年足らず。洋楽黎明期といえる日本において、ビートルズがどのようにして空前の大人気バンドとなったのか。そして、ビートルズが今も世代を超えて愛されるのか理由とは何なのか…。


映画では、時系列でそれらの出来事が、様々な人々の証言により語られています。映画のタイトルにある様に、まさにみんなで見た夢。そのもののでした。


私は、この映画は単にビートルズの日本コンサートの記録というものではなく、音楽業界というものがどの様な世界なのか、プロモーションとはどういうものなのか、というものも垣間見れる作品なのではないかと思いました。


万人受けの映画ではないかもしれませんが、

新たなものを作り出そうとする人々には、是非観てもらいたい映画です。












映画の魅力の一つに、映画音楽が欠かせないものとしてあると思います。特に名作と呼ばれるものには、素晴らしい映画音楽がセットのようにしてありますが、
名作の数々を彩る名音楽を生み出したのが、イタリアが生んだ巨匠エンリオ・モリコーネです。

そんなモリコーネのドキュメンタリー映画を観ました。




私の父はとにかく映画が好きで好きで…。夢は映画監督になることだったそう。
でも家が貧しい上に兄妹も多く、家計を助ける為に映画監督になる夢を諦め、その代わり少しでも似た環境で働きたいということで、放送局で働くようになったのです。

そんな親のもとで育ったので、映画館にはよく連れて行ってもらい沢山の映画を観て育ちました。そんな父の影響もあったのでしょう。30代半ばで脚本学校に2年通い、実は90年代後半、私は脚本家としてデビューを果たしています。

既にその時には父は他界しておりましたが、初めて放送された台本を、母は仏壇の上に乗せて報告してくれた思い出も…。

東京に私が拠点を移した理由の一つに、本格的に脚本の仕事をしたい、ということもあったのですが、ある一件があり、一旦、脚本の仕事からは離れることにしました。

それからかなり長〜い間、脚本の仕事は開店休業中のままとなっていますが(笑)
いつかまたタイミングが整えば脚本を書く日も来るだろうと思っています。

それはさておき、映画の話。

モリコーネを一躍有名にしたのは、マカロニウエスタンと呼ばれる西部劇映画。

『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』など、父と一緒に観た思い出深い映画の音楽も数多く手がけています。他にも書ききれないほど、あの映画音楽、この映画音楽…と名作と共に残る音楽を生み出していますが、

私が一番好きな映画『ニューシネマパラダイス』の音楽もモリコーネが作曲したものです。


© 1998 – Miramax


ジュゼッペ・トルナトーレ監督が脚本も手がけた、まさに名作中の名作ですが、この映画を名作にした要因の一つには、モリコーネの音楽があったから、ということは否めません。

私は、この音楽を聴くだけで映画のシーンが目に浮かびいつも涙が出そうになります。

実は11月にこの映画の試写を観ており、強烈に感動したので、すぐにこの映画のことを書こうと思っていました。

ただ、1月のロードショー公開まで2ヶ月もあったので、公開直前になったら絶対にお知らせしようと心に決めていました。

でも、気がついたら、既にロードショー公開中!

モリコーネが手がけた映画音楽の数は400本以上に渡るそうで、まさに映画の歴史と共にあると言っても過言ではありません。
映画『モリコーネ 映画が恋した作曲家』は、ニューシネマパラダイスの監督、ジュゼッペ・トルナトーレが5年間、モリコーネに密着して撮った作品です。

残念ながら映画公開前に、モリコーネは他界してしまいますが、モリコーネの偉業をトルナトーレ監督が残しこの世に伝えてくれて本当に良かったと思います。

映画🎬を愛する全ての人に、とにかく是非とも観てもらいたい作品です!

予告編
https://youtu.be/Wld0dhuNVZo

上映映画館など詳細は、
GAGA⭐️のホームページから
https://gaga.ne.jp/ennio/

こんな時間が自分の人生の中で巡って来ることになろうとは…。縁と時が積み重なるというのは、言葉にするのも難しいほど凄いことである。


2022年10月9日と10月10日。この二日間のことを、私は生涯忘れることはないだろう。



正直なところ、どこからどのように書き表せばよいのか、また後々この出来事が、更に新たな展開に繋がっていくのか否かもわからない。

ただ、今いまいえることは、全てに感謝の気持ちでいっぱいである、ということだけだ。


40年ほど前、私は細野晴臣さんに手紙を書いた。

叶う事なら、いつか一緒に仕事がしたいと…。


そして20年前。友人であり音楽家の岡野弘幹さんから誘われて『東京サルタヒコ!』というイベントに関わり、私は運営プロデューサーとなったのだが、その催しの監修が細野晴臣さんだった。20年の時を経て思いが成就したと思った。


それから20年経った今年。日本の音楽シーンを50年に渡り牽引されてきた細野さんと、芸能の神様である天河の神様との、再びの縁結びをさせていただいた。

これは、想像を超えたことで、今でも夢を見ているような感覚になる。


1980年代、細野さんは何年にも渡り足繁く天河に通われていたことは、様々な方からよく聞いていた。


この時期に細野さんは、中沢新一さんとの共著

『観光』(角川書店、1985年)を出されている。


この書籍は、二人が日本各地の聖地を巡礼する中で対談をしていくというものだが、天河神社は一番最初に紹介されている。


そして、同じ頃出版されたのが、


『天河』(扶桑社 1986年)という本だ。この本の中に細野さんは次のように寄稿されている。


    *****

天河では、一つの考え方というか、原始的な感じ方、日本人だけじゃなく人間の本来の感覚をよびさまされているという気がしますね。つまり、僕たちが忘れていたことがあるんですよ。

-中略-

それを全部思い出さないと先に行けない時代に来ちゃっていて、その思い出すキッカケとなっているのが天河であって、何かヒントを与えてくれてるんだと思う。

  *****


更に、天河で録音したという『マーキュリックダンス』というCDも出されている。




そしてこの時代、最も大きな祭典となったのが、1989年の天河神社平成の正遷宮である。その前の遷座は287年前の江戸時代初期だったそうで、今の大宮司の人生をかけた一大事業でもあったという。


平成元年に行われた正遷宮の折には、ブライアンイーノや宮下富美男さんなど錚々たるアーティストたちが奉納演奏を行ないにやって来ているのだが、一番最初の奉納演奏者が細野さんだったそうだ。

どれほどのご縁だったのか、それだけでも計り知ることができる。


しかし、その後細野さんは足が遠のいてしまう。


私は天河神社とのご縁が深まるにつけ、大宮司さまや神社の皆さま、そして地元の方々も、どれほど細野さんと再会したい気持ちを持たれているのかを感じらようになっていた。


そして、細野さんご自身も、機会があれば再び訪れたい…という気持ちを持たれていることを、折に触れお話を伺い感じていた。


どうにか、ご縁の結び直しさせていただく機会は無いものかと思っていたそんな時、


天河で長年神事を司っておられた柿坂神酒之祐宮司が宮司から名誉宮司(大宮司)になられるという話を今年の節分祭で伺った。


大宮司さまの年齢は、ちょうど自分の親とほぼ同じ年。もう、それほど事が整う機会をゆっくり待っている時間は無い。


宮司として最後の護摩をされている御姿を見ながら、



私は細野晴臣さんを天河に再びお迎えして、天河の神様と向き合っていただく時間をつくり、そして大宮司さまと対談していただき、後世に残す珠玉の言霊を、お二人に語っていただこう!


私は瞬間的にそう思った。


節分祭が終わった直後、私は新宮司となられる匡孝宮司様と、神酒之祐大宮司様に自分の気持ちを素直に伝えた。



そして、この日ご神事と奉納にいらしていた岡野弘幹さんに、一緒にこの催しを手伝って欲しいと相談した。岡野さんは、天河で長年奉納演奏されており、細野さんとも親しくされている。以前、岡野さんから大宮司様と誰かの対談を私に企画してもらえないか?と言われていたこともあった。


岡野さんは私の提案に大賛成してくださり、すぐに奥様の純子さんと共に動いてくださった。




3月、細野さんのスタジオに岡野さんと共に伺い、

細野晴臣さんが34年ぶりに天河にやって来られることが決まり、

大宮司との対談前日に奉納演奏も決まった。



春が過ぎ夏が終わり、あっという間に季節は秋になった…。奉納演奏には、細野さんと天河でご縁が出来たという笛奏者の雲龍さん、そして細野さんのお孫さんであるYUTAさんも加わることになった。


コロナ禍という状況と、細野さんが静かに天河のでの時間を過ごしたいという思いもあり、対談参加者は70名。奉納演奏は、対談参加者に加え関係者のみとなった。


静かに粛々と準備を重ね、最後は目がまわるほどの日々となったが、

いよいよ、細野さんを天河へお迎えする日がやって来た。



まずは大宮司様がお待ちになっていたご自宅に向かい、嬉しい再会を果たされた後、


10月9日19時よりご神事が行われ、そして奉納演奏が厳粛に始まった。


最も印象的だったのは、ブライアン・イーノが34年前に天河で作られ奉納演奏に使われ、その後、プレゼントされたという楽器を奏でられたことだ。


天河の神殿、拝殿に響き渡る波動は、まるで浄め祓いの音霊の如くだった。


そして、奉納演奏で共に音霊を奏でられた岡野さんと雲龍さんは、まるで日光菩薩、月光菩薩のようで、細野さんの両袖を守られている仏様のようだと私は思った。


細野さんを天河でお迎えするために、共に走り続けてくださった岡野弘幹さん。その音霊は、愛に満ち溢れていて力強く、そして優しく…


雲龍さんの笛の音色はどこまでも深く美しくかった。


お孫さんと共に天河の神様へ奉納。細野さんにとって特別な時間になったに違いない。


この日奉納舞台の司会もさせてもらったのだが、終わりに私は大宮司様をお迎えした。大宮司様から最後に「本当にありがとうね」と握手を求められ、私は泣きそうになった。




翌日10月10日『かんながら対談』の日。

まずは午前10時に拝殿で正式参拝が行われた。

冒頭にも書いたように、ご神殿に向かい細野さんと並ぶことになり、


私の人生の中で、こんな時間が訪れようとは…有難すぎて今も上手く表現できない。


『かんながら対談』の会場は参集殿だった。




対談の前に、細野さんが34年前の正遷宮で奉納演奏された映像が流され…

そして、いよいよ細野晴臣さんと大宮司さまの対談が始まった。司会進行は私が務めさせていただいたのだがこれまでのお二人のこと、音楽のこと、そして未来のこと…。

会話の中に散りばめられた宝石のようなお二人の言霊と叡智は、まさに日本の宝のようだと感じた。








このお二人が笑顔で並ぶ姿を見ているだけで、世の中に平和が訪れるように感じるのは、私だけだろうか。


そして、この特別な2日間を敢行できたのは、様々な方の協力あってのことだ。


全ての皆々様、そして神様に

心の底から、ありがとうございます、と伝えたい。


天川 彩