大学の文化系サークルや自治会は、その学校や学生のレベルが高い低いに関わらず多くの場合、活動・運営が左翼的になりやすく構成員が左派的な考えを持ちやすい(あくまで傾向に過ぎず全体ではない。校風や時の世相によって触れ幅は異なる)。
これは戦後55年体制下でサンフランシスコ講和・安保闘争・ベトナム戦争反対・成田空港問題といった保革の対立軸があった過去のことと思いがちだろう。だが、今現在に至るまで彼らのDNAが形を変えつつ潜在的に受け継がれ続いている。表立って出てこないだけだ。
こうしたことは何も日本だけではない。西側諸国共通だ。
フランス第四共和制でド・ゴールをアルジェリア問題で退陣させた5月革命、アメリカの反戦運動・公民権運動、韓国・台湾で軍政独裁と対峙した民主化運動といったもの。
それらの中心は、エリート思考(意識高い系) or 大バカだけでなく「普通」の学生による文化系サークルや自治会に大きく担われていた。
一方の、社会主義の国でも、1989東欧革命において改革に着手した新世代政治家は学生による市民運動をバックボーンにしていた。
本題に入るが、まず活動・運営が左翼的になりやすいというところからだ。
左翼的といっても、共産党のような民主集中制(ようは独裁)のものもあれば、旧社会党のように派閥があれどもその有力者の馴れ合いや最大派閥の一強により決定権がなされるものまで様々だ。
どちらにしてもウィングが狭い&圧倒的支持を得にくいのに特定の組織的基盤から鉄壁の支持を得てしぶとく生きているという共通点がある。そういう事情から寡頭制が生まれやすい。
それと、どのようなものでも巨大化した組織は硬直した官僚制を必然的に生み、ごく少数が主導権を握りやすい組織になるのは鉄則だ。
また、大人の事情になるが、政治団体にとって選挙の際に鶴の一声で動く「組織票」が重要になる。
仮にも経済大国である日本は、既得権益が保守化しやすく保守政党が地方や業界団体の利益配分係となっている以上、それと対峙する革新政党にとっての組織票は「反体制」という役割があるのだ。だからこそ若造を「役に立つバカども」として見て、利用しているに過ぎない。それは学生団体だけでなく広義の市民運動も含む。シールズという連中がかつていましたよね? そういうことなんですよ。
こういう形で見えないようにオルグ(自分たち側への引きずり込み)を起きなっているわけ。
政治で対立軸が発生しないことなどありえない。波風が穏やかならスキャンダルでもなんでも作ればいいのだから。それに市民(自称)を乗っからせたらよい。
あと、構成員が左傾化しやすい原因についても考察しよう。別にヘルメットを被って行進したり暴動を起こすことだけが左派的とは言わない。社会に対する不満を構造転換で変わることに期待すること全般を指す。
大学で学ぶ様々なこと(学問や研究)って性質がやや左翼的であって、それに真剣に取り組むからこそといえるのではないだろうか。
・人権や理性など普遍的に通用することを探究する
・理屈っぽい理想主義
だからこそ、社会問題について介入的なのだ。たとえば、文系でよく出てくる問題として「平和」「人権」「環境問題」「社会保障」がありますやん。これを、市民の団結で上に訴えかけて解決してやろうと。この背景には、自称インテリっぽい人がその問題の解決について制度を理屈っぽく設計すればうまくいくという考え方が存在する。
まぁ、長々と書いてなんですけど、結局は「理想と現実のギャップ」が根幹なんだろうな。これを解消しようと思ったら体制に喧嘩をふっかけて全部ひっくり返して一発逆転してやろうって短絡的な発想に行き着くんですよ。これって古今東西の革命の原理でもあるものだ。
でも、こういうのって結局は好き放題暴れたいだけの口実にすぎないと思うんですよ。一部のガチ勢はともかくとして。昔、東京大学の安田講堂が過激派に占領された時、一番荒らされた場所って、当時わりと学生運動に理解を示していた左翼の丸山眞男教授の研究室だったらしいのよね。主犯曰く、単位くれなかったからだとかなんとか。まぁ、目的と手段が入れ替わる時、それは自分自身が違う自分へと変貌していることを指し示しているだろう。