橋本元首相が引退するそうだ。ヤミ献金疑惑がらみで苦戦が予想されたから、危ない橋は渡るまいという判断なのだろう。動機がその程度だからそれはそれ。好きにするがよかろう。だが人をなめた話だと思ったのはその次だ。

自民党の岡山県連は岡山4区の代わりの立候補者に橋本元首相の夫人を立てたいのだという。

ここで男女同権の話をしようとは思わない。女性だから、○○夫人だから、政治家の仕事が務まらない、などとは口が裂けても言うまい。

だがあえて問う。本当に、そんなものか。国民を代表するということは。

タダでさえ二世議員の多さには辟易するような世の中である。当の橋本元首相も二世議員だ。そして、今選挙の争点とされているのは郵政民営化の改革路線である。郵便局長が世襲されるような、封建的な因習を打破しようというのが党是ではないのか。それを行おうとする国民の代表が、家庭内で鉢のたらい回しをしていて、果たしてこれを恥としないのか。また、これを当選させてしまったら選挙民も同罪だろう。

まず隗より始めよ、とはまさにこういうときに使う言葉だろう。いっそ政治家も国家試験制度で選別するか。
最近またいろいろと大変な事件も起きた中での20周年となった。

当時自分にとっては坂本九という人は、今使われているのとは違う「偶像」という意味でのアイドルだった。何よりも「新八犬伝」の語り手・黒子というのが先に来て、「見上げてごらん夜の星を」の歌い手としては後で知った。また70年の万博の夜のショーで「世界の国からこんにちは」を生で歌ったのは三波春夫ではなく九ちゃんだった。

今のように若者だけが一時的に大量消費されるのではない、大人の世界としての芸能界にあって、存在感を示していた人だった。

R.I.P.
日航機事故から20年経ったということで、さまざまなニュースが出てきているが、ちょっと気になったことが。

当時の川上慶子さんの担当医が故人になったということで手記が発表されて記事にもなっていて、ある意味当時の生々しい証言として興味深い点もあるのだが、これ、当の川上慶子さんの許可をとって発表しているのだろうか?

こういうものは、被災者のプライバシーに最も注意を払わなければならない性質のものだと思っていて、だからこそ、最近の川上慶子さんの写真すら出さずにいろいろと配慮してきた訳ではないのか。ところが、今回発表されたその手記には、彼女が救出されてからの詳しい病状と、両親の死を告げる場面まで具体的に描写してある。これほどプライベートな性質の記事を、書いた本人は故人だからともかく、書かれている本人の許可をとらずに発表することは、常識だったらありえないだろうと思う。少なくとも自分が事故の当事者だったら勝手に書かれるのは嫌だ。聞かれても公表をオーケーする可能性は低いと思う。

記事の中にも故人と川上さんの交流は途絶えたとあるし、コメントは故人の妻だけからしか取っていないようだ。だから余計心配になる。読んで同じことを感じた人も多いだろうと思う。少なくとも、許可をとったならとったで、そう断ってもいいのと違いますか毎日新聞さん。
世の中には値段がつくことで現実味を帯びる性質のモノもあるが、今度の場合どうだろうか。宇宙旅行が現実のものとしてかんがえられるようになった、という意味では「ああ実現するようになったんだ」という捉え方もできるかもしれない。だが一人当たり110億円、というコストはあってないようなモノだろう。わざわざ発表した、ということは現実にそれに応じる人がいるかも知れない、と思ってのことなのだろうが、しがない庶民としてはかえって夢が遠のいた気にさせられた発表だった。

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以前大阪で仕事をしていたときに、自宅のマンションの下に手作りチーズケーキ屋さんがあった。「りくろーおじさんの店」という名前である。本店は西成区の玉出にあったので、いわゆる下町のケーキ屋さんなのだが、焼き立てのチーズケーキがホールで500円で手に入る。他にもいくつかバリエーションがあって、フレッシュクリーム系のケーキもあり、どれもおいしかったので大のお気に入りであった。大阪では知らない人がいないのではないかと思う。

たしかこのりくろーおじさんは実在する人物ではなかったかと思うが、大阪に6店舗あるだけで、なかなか全国展開、という話にはならないようだ。是非全国各地にこの安くておいしいチーズケーキを広めて欲しいのだが。鮮度が落ちるということなのだろうか。

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島本和彦原作の「逆境ナイン」を見た。予告編からちょっと期待をしながらも、ひょっとしたらものすごくスベっているかも、と恐れての視聴。見たのが21時上映の回で、その時点で観客席には5人…。おいおい。

ところがこれがいいのだ。チーム☆アメリカの数百倍いいのだ。

冒頭の藤岡弘演じる校長が「廃部だ!」と怒鳴るシーンからしてもういいのだ。うれしくてにやにやしてしまうくらいに。

野球の試合がメインであるのに、野球の練習風景を徹底して無視するその描き方。そしてさまざまな特撮の使い方、全力を尽くしてバカバカしいことを表現する、いわゆる「無駄な努力」のあり方は現代のリアリティー指向に真っ向から挑戦状をたたきつけるモノである。なぜ部室の屋根を突き破って「自業自得」と書かれたモノリスが墜落してくるんだ、とは聞くべきではないだろう。映像に夢がなくてどうするんだ。リアルに地味にCG使ってどうするんだ、と島本と羽住の魂は告げるのである。

クラシックの楽曲の場合、いろんな人が演奏して、予測と違うことが展開しても「ああ、こういう手もありか」「これはこういう読みね」と納得がいけばまあ許せることが多い。派手に勘違いした演奏を聴くと「あーあー、そりゃ違うでしょ」と思うケースもある。原作がある映画の場合、これに近い感覚で見ることになるのだが、つまるところ、監督の羽住英一郎が、島本和彦の原作世界を掌握し切って、若い俳優をその世界にノセ切っているのがよくわかるのだ。

そういう意味では玉山鉄二と堀北真希の健闘ぶりは称賛に値する。ツメの垢でも煎じて堤真一と永瀬正敏に飲ませてやりたいほどに。そして、島本和彦の原作以上に島本和彦的な存在感を発揮した藤岡弘を効果的にちりばめた演出をも称えるべきだろう。エンドクレジットで「藤岡弘、」となっていたのにはなにか意味があるのだろうか。

わずかに真ん中のロマンス部分から終盤に欠けてややダレ場があるのだが、トータルで見れば大健闘、大傑作である。ビデオでもいいから見るべし。

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京極夏彦原作・実相寺昭雄監督の「姑獲鳥の夏」を見た。公開前には京極堂シリーズ第1弾などとずいぶん盛り上げていたが封切りされてからはそれほど話題に上った感じがしないので、もしかして出来が良くないのかも、と思い始めていたところだった。しかし公開の終わりも近づいたので、やや慌てて駆け込み視聴。渋谷東急という、昔東邦生命ビルだった所で見た。当日券でも全席指定、それでも十分にいい席がとれたから、入りはやはり良くないようだ。

で、実際に見ての感想を。原作を読んでその魅力に目覚めた人にとってはちょっとがっかりな結果となったのではないだろうかと思った。

個人的には実相寺監督の演出手法、編集スタイルが大好きで、時々大きなテロップを入れたりする断絶効果が、このかなりペダンティックなストーリーテリングにはよくマッチしていたと思う。一部のフラッシュバックのイメージシーンには安っぽさもあったが、それでも十分に効果を上げていて、これは原作の世界を彷彿とさせるものだったと思う。

何が良くなかったか、というとまず最大の敗因はキャスティングだと思う。実相寺演出はカットの凝り方や構図で切り取るので、それだけで映画の大きな要素はでき上がってしまうように錯覚するのだが、実は俳優がそれに負けてしまうと全体が台無しになる。今回もそんな典型的な例だった。

原作のイメージとの隔たり、というのは監督の責任というよりも役者の台本の読み込みによる部分が大きいのではないかというのが個人的な見解だが、堤真一の京極堂(中禅寺秋彦)はまずスマートすぎ、嬉々として喋りすぎる。もともとが「苦虫をかみつぶしたような表情で」「表に出たがらない」のが持ち味のはずが、ペダントリーに捕らわれすぎてただのおしゃべりになってしまっている。それならおまえ最初から出てって事件を解決しろよ、と言いたくなるほどの出しゃばりぶりである。

さらに輪をかけてまずかったのが関口巽役の永瀬正敏である。こんな美形にいくら眼鏡をかけても、あの不器用で内気でコンプレックスの塊のような関口になるわけがない。演技力でそこをカバーしようとするアプローチ自体が間違っているように思われた。内気な性格ゆえの無口のはずが、ただ渋く決めているだけのように見えてしまってはもう致命的だ。

この二人の冒頭の掛け合いで、ほぼこの映画の失敗は明らかになってしまった。大して問題意識を持っているように感じさせない永瀬の関口が、なぜ京極堂を訪ねたのか、なぜ京極堂はそんなに嬉々として姑獲鳥の由来について説明する義理があるのか、二人の人間関係が全く見えないのである。おそらく堤は時代が近いというだけで金田一耕助と勘違いしていた、に一票入れたいぐらいだ。

阿部寛の榎木津礼二郎は惜しい線まで行っていたかも知れない。がハチャメチャさにも、超人的な活力にも欠ける。そういう意味では宮迫の木場修が一番人物的なオーバーラップ効果はあったように思う。

さらに残念賞は中禅寺敦子役の田中麗奈にも差し上げたい。時代がかった専門用語が頻出するこの役のセリフ回し、しかも雑誌記者役は彼女には荷が重すぎた、というのは簡単な話だが、この京極堂シリーズを通じてこの敦子の果たしている役割はもっと清純さと破天荒さの2面を感じさせて欲しいところだ。ただの若々しい跳ねっ返りでは全然物足りない。物語の導入役としてはそこそこだったが、途中からは壁の花になってしまった。

他にも、京極堂の建物が立派すぎて、古書店としても整然としすぎているのも違和感があったり、クライマックスのいいところで音楽(池辺晋一郎作曲…わざわざ委嘱する必要があったかどうか)がうるさすぎたり、といったプロダクション上の欠点はいくつかあるのだが、それもキャストさえもっとよければ見逃せたポイントに違いない。本当にこれが監督希望のキャスティングだったのだろうか。もっといいプランはいくらでも思いつけたぞ。
民主党はいま気が気ではないだろう。今度の衆議院選挙で、蚊帳の外になりそうな勢いだ。もちろん投票日まではまだ時間があるからそう一方的になるかどうかは分からないが、いまの情勢は少なくともそうだ。

どういうことかを説明すると、小泉の言葉通りに郵政民営化法案への反対議員に対してすべての選挙区で対立候補を立てる、ということになった場合に、選挙民の意識が本当に「郵政民営化法案の是非」に向かった場合に、実質的には郵政民営化法案に賛成であれ反対であれ、自民党の候補に投票する可能性はかなりあるのだ。この場合、自民の支持層の間だけで票が二つに割れて共倒れになるのが野党としては理想なのだろうが、実際のところ「郵政民営化反対」の票が野党に流れる確率がどの程度あるのか、というのが読めないのが悩みどころである。

だからこそ、民主党は自民党の対立候補擁立の動きに対して「醜い内輪もめ」と非難することで、自民党のイメージそのものの切り崩しに躍起になっているのである。その非難が当たっているかどうかはこの際構っていられないほどに。

各野党が戦略として今考えるのは、いかに争点を「郵政民営化」から逸らすか、の一点だろう。はたしてそれがうまくいくのか。案外終戦の日前後の国際関係からその材料が出るのかも知れない。

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講談社ノベルスからの新刊「QED~ventus~熊野の残照」を読了した。

後で謝辞を見たら、作者の高田氏、編集者と結婚して新婚さんらしい。おめでとうございます。じゃあ作中での桑原崇さんもいずれは棚旗奈々さんと…。案外そうかも。

この作者のQEDシリーズ、時々西風隆介の「神の系譜」シリーズとかぶってくる時があるのだが、「神の系譜」がもっぱらエンタテインメント性を重視した、善悪の対決風の活劇として描かれているのに対して、もう少し学説論文風なところがある。ただそれが理屈のための理屈にならずに日本史の裏に秘められ謎や真実を生き生きと描き出してくれる。もちろん資料はたくさんあるのだろうが、それをまとめ上げて一つの仮説(これがすべて作者のオリジナルだとしたらまさに驚嘆)に到達する手法はなかなか見事だ。そういえばこの回と鎌倉の回だけventusというサブタイトルがついているのだが何だろう。

「当たり前のことは歴史書には書かれない」ということがある。民衆レベルでの常識になっていることは、あえて歴史書には書かれないので、かえって昔の常識や信仰、歴史認識には失われてしまったものが多いということなのである。同じことはクラシックの楽譜にも言えるかも知れない。演奏の様式・テンポ設定、編成などはいちいち書かれていないから、昔の楽譜を現代の演奏家が演奏する時には変なところでつまづいたりするのである。まあこれは脱線だが。

まあ、それで史実に関する新解釈だけならば、それだけの話で終わりなのだが、このシリーズが非凡なのは、現代に起きるさまざまな事件との接点の持たせ方だろう。熊野に生まれながら故郷を捨てた女性神山禮子の語りを軸にしながら、自らの過去を見る目が変わってゆくようすをドキュメント的に描き、熊野の神々の正体を推理してゆくのである。

今回の趣向として、時間を超えた叙述トリックのようなものもあり、変化を添えている。ネタバレになるが、これは森博嗣の「今はもうない」ともちょっと共通点が…。

出来ればシリーズ全作を通してチャレンジしていただきたい。
50時間ゲームを続けて死んだ人がいたそうだ。何かを50時間し続けて死ぬ、ということはそんなに珍しくはないと思うのだが、これがゲームだ、というところがニュースになるポイントなのか。あとは国が韓国だ、という点か。

しかし詳しいディテールがわからないと言いようがない話だとも思う。これをニュースとして伝えることでのメッセージは果たして何か。ゲームは良くないですよ、ということにはさすがにならないだろう。しかも最近ゲームをする時間を増やすために仕事を辞めたところだったとか。ちょっと同情する気にはならない。