大岡裁きの「虚」と「実」④[吉宗との出会い] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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大岡越前は幕府の中級旗本の家に生まれ、同族の旗本・大岡(ただ)(ざね)(知行は一九〇〇石)の養子となって、元禄十三年(1700)、二十四歳のときに家督を継ぎました。


書院番から元禄大地震復興のための仮奉行などをへて、三六歳のとき、幕府が直轄領支配などのためにもうけた遠国(おんごく)奉行のひとつ伊勢山田奉行に就きます


それから五年、この山田奉行時代に多くの逸話を残しています。


そのひとつが、山田と松坂の境界争い。


ただし、松坂は徳川御三家の紀州藩領です。


したがって歴代の奉行は紀州藩の威光を恐れ、この件に触れませんでした。


ところが、忠相が奉行に就任するや、たった一日で裁断を下します。


松坂側は、自分たちに非があると知りつつ、紀州藩の威光をかり、主張を通そうとしていたと結論付けたのです。


しかも、忠相は松坂側の頭人(とうにん)三人を打ち首に処したといいます。


これに領民が拍手喝采を送らぬはずがありません。


この噂はまだ紀州にいた徳川吉宗の耳に入ります。


 そこで吉宗はその裁断に感心し、その後、享保元年(1716)に吉宗が将軍になった翌年、忠相を江戸町奉行(南町奉行)へ抜擢したというのですが……。

(つづく)


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