信仰心と宗教組織に入って活動するのは似て非なるものです。
信仰心…自分の周囲を仰ぎ観て、信じて生きる
神仰心…苦しい時の神頼み、自分の弱さの隠れ蓑
日本人の場合、信仰心は特別なものではないと思います。日々生きること、朝昼晩の暮らすことそのものです。それができていれば立派に自律できていることになるので政治的色合いの強い宗教という組織、団体に入信することは必要ありません。まして教祖は無用です。
日本人の信仰心は八百万の神々です。朝起きて暮らして夜眠っている間もそれが神々の在る姿です。自分の周りに在るもの、在る人が神的意味をもっています。
そのことを日本人の先祖は知っていたのだと思います。文字言葉が生まれる前から八百万の現象の中に自分を見出だし、生命活動の本質を見出だし、暮らしを見出だし、人と人との関わりを見出だしていたと思います。
自分の想いを自分の言葉で説明し、周囲に伝えます。お互いに伝え合います。それが信仰心=コミュニケーションです。神と対話するように人と会話します。
道具が進歩して食糧の収穫量の増がしていく中で少しずつ忘れ、ある時、天候の激変で飢餓、感染症の現実に狼狽え怯え、特別な想いにおそわれ、自分たち以外の存在にすがった心から生まれたのが今、私たちが考える自己中信仰心ではないでしょうか?
信仰心の原点は自分の想い、行動を自分に説明する行為です。
我思う故に我あり(デカルト)
我思う故に信仰あり(風束)
とりあえずその原点に戻りましょう。
やがて話し言葉が豊かになり意思の疎通ができるようになり、人間関係が潤って、信仰心という自分と他者の関係を説明する新たなコミュニケーションが生まれました。
祈りは特別なものではなく、自分と暮らし、自分と他者、自分と自然を繋ぐ姿勢です。
やがて文字言葉を得て、暮らしの気づき、智慧を押しのけて理屈が前に出て来て、信仰心を悪用して人を支配する輩が出てきます。
次に登場するのはAI教でしょうか?
AIは親であり、友人であり、教師であり、彼氏彼女であり、夫妻であり、情報分析し解説し判断する者であり、医師であり、政治家であり、それを超えたものを求める人にとっては神々になるかもしれません。
人類を助けるのは一神教でなく多神教です。神々です。
神々は家々の神棚でなく、AIの中に引っ越して来て個々人の神殿になります。
ただ、いつかきっと人は神を求めなくなると思います。