後亀山天皇を嵌めた張本人は将軍足利義満だとみるべきでしょう。
天皇が嵯峨野入りする1ヶ月前、その義満が南朝の廷臣阿野実為に申し合わせ状を送っています。
そこには「三種の神器」を北朝方へ渡す際に「譲国の儀式」をおこなうという条件が付されていました。
南朝が北朝へ国を譲るわけですから、国を譲る南朝こそが正当な皇統だと幕府が認めたことになり、ジリ貧の南朝としても面子が保たれます。
しかも、申し合わせ状には「両統迭立」といって、今後北朝と南朝の両統から交互に皇位につかせるという条文がありました。
南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇を養子とする条件もそのための布石でした。
しかし、京まで来てしまってはもはや手遅れです。
結局、明徳三年(1992)閏10月5日、「三種の神器」は幕府の武士らに供奉され、後小松天皇の御所に移されました。
こうして南北朝は合一され、義満は喜んで神楽を催したといいますが、当然、騙し討ちのような“統一劇”にはしこりが残りました。
「譲国の儀」という和議の条件は反故にされ、後亀山天皇には上皇の尊号が与えられたものの、「両統迭立」もまた反故にされました。
応永19年(1412)、後小松天皇の第1皇子が第101代称光天皇として即位したのです。
この旧北朝や幕府への不満から嵯峨を出奔し、ふたたび吉野へ移っていた後亀山上皇の皇統は後世、「後南朝」と呼ばれ、その残党が嘉吉3年(1443)、御所に乱入して劔爾を盗みだす事件も起きています(禁闕の変)。
その劔爾はやがて幕府方によって奪い返されますが、こうして「三種の神器」は数奇な運命をたどりつつ、現在に至っているのです。
(おわり)
※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。