跡部蛮の「おもしろ歴史学」

跡部蛮の「おもしろ歴史学」

歴史ファンの皆さんとともに歴史ミステリーにチャレンジし、その謎を解き明かすページです(無断転載禁止)

 それでは仮説の内乱とはどのようなものなのでしょうか。

 

 まず『日本書紀』の記述に矛盾があり、継体天皇(欽明天皇の父)の没年が「辛亥」年(531年)と記載されている一方、その次の第27代安閑天皇(欽明天皇の兄)の即位元年を甲寅年、3年後の534年としていること。

 

 つまり、継体と安閑天皇の治世の間に「空白の3年」が生じているわけです。

 

 そして決定的な矛盾は、平安時代に書かれた『上宮聖徳法王帝説』にあります。

 

 この史料によると、欽明天皇の治世は41年の長きにわたり、その没年から逆算した即位年は辛亥年(531年)となっているのです。

 

 『日本書紀』でいう継体天皇の没年にあたります。

 

 これを信じるなら、継体の次に第29代の欽明が即位し、安閑と第28代宣化天皇の治世が飛ばされていることになります。

 

 さらに朝鮮の史料『百済本記』には、辛亥年に日本の政権内で内紛が生じていたと窺える記述があるのです。

(つづく)

※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。

 これまでみてきたとおり、継体天皇は当時の王朝一族と血縁的につながり、まるで別の血族集団によって皇位が継承されたわけではなかった可能性が浮上しています。

 

 そうはいっても、先代の武烈天皇とはかなり遠い血縁関係にあることから、皇統は事実上断絶したといえなくはありません。

 

 その皇統が安定し、親子相続か兄弟相続かは別にして、世襲体制が確立するのは、継体天皇の皇子で磯嶋宮(奈良県桜井市)を皇居とした第29代天皇(539~71年)の時代の6世紀半ばになってからでしょう。

 

 しかし、皇統が安定するには“仮説の内乱”とされる「辛亥の変」を経なければなりません。

 

 “仮説の内乱”というのはいったいどういうことなのでしょうか。

 

 その意味は、いくつかの史料をもとに「内乱があったはずだ」と解釈しつつも、確実に「内乱があった」とは各史料に記されていないからです。

(つづく)

※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。

 応神天皇の和風諡号からの考察が、継体天皇は「応神天皇五世の孫」でなかったという新王朝説を後押ししました。

 

 ところが、ある鏡の銘文によって話は振り出しにもどってきます。

 

 その鏡は隅田八幡神社(和歌山県橋本市)に伝わり、「(みずのとひつじ)年八月」ではじまる四八文字が刻まれています。

 

 「癸未年」を西暦503年とし、銘文の「男弟王」を「ホド王」(『日本書紀』では継体の名を「をほど」と記す)と読むと、503年に百済(朝鮮)が、当時大和の忍坂宮(奈良県桜井市)にいた継体にその鏡を贈ったと理解できます。

 

 ここで問題になるのは癸未年。

 

 その年は武烈天皇の父とされる仁賢天皇の治世です。

 

 しかも、百済の王が外交交渉相手として鏡を贈っているくらいですから、継体はその時点で有力な皇位継承者とみられていたはずです。

 

 だとすると、継体が地方豪族であるはずはなく、現王朝の皇統のどこかにつながる王だったということになるのです。

 

 ただし、皇族の一人とはいえ、傍流に位置し、越前や近江などの地方豪族に養育される立場にあったのではないでしょうか。

 

 仁賢の次に武烈が即位するものの、『日本書紀』に凶暴性が記載されるとおりの天皇であったのだとしたら、早くから、次の天皇として継体に期待がかかり、だからこそ百済の王が彼に接近を図ろうとしたともいえます。

 

 そうして武烈の崩御後、政権内の派閥争いなどがあって皇位継承は順調にいかず、混乱が生じたと結論付けることができます。

(つづく)

※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。