跡部蛮の「おもしろ歴史学」

跡部蛮の「おもしろ歴史学」

歴史ファンの皆さんとともに歴史ミステリーにチャレンジし、その謎を解き明かすページです(無断転載禁止)

 武蔵国を本拠にしていた比企一族を排除した後、三代将軍源実朝から武蔵の行政を委ねられ、武蔵守である娘婿の朝雅(ともまさ)と支配を一元化したい北条時政にとって、武蔵国留守所惣検校職(むさしのくに・るすどころ・そうけんぎょうしき)として影響力のある畠山重忠は目障りな存在でした。

 

 源頼朝が挙兵したころ、武蔵の武士たちが参陣するのを待って鎌倉入りしたことからもわかるとおり、関東にとって武蔵は重要な国。

 

 それは政子と義時の姉弟にとっても同じでした。

 

 のちに武蔵国は相模国とともに北条嫡流家領として世襲され、やがて武蔵守は、政子のもう一人の弟時房のものとなります。

 

 比企の乱で武蔵に勢力を伸ばした時政でしたが、その武蔵を巡る争いは父と姉弟の対立に引き継がれた形になったのです。

 

 ともあれ時政は畠山氏を排除しようとしました。

 

 妻(時政の娘)の死後に出家して稲毛荘(川崎市中原区・高津区付近)で隠遁していた稲毛重成が舅(時政)の招きに応じて鎌倉入りし、さらに重成の招きにより、畠山重保が鎌倉に入りました。

 

 重忠も「鎌倉の内で軍兵の蜂起がある」(『吾妻鏡』)という噂で本拠の菅谷館(埼玉県嵐山町)から誘いだされたのです。

 

 すると6月21日になって時政は、義時と時房の兄弟を呼び、畠山父子に謀叛の疑いがあるという話を持ちかけ、討つ意思を伝えました。

 

 重忠は時政の婿の一人(娘は重忠の死後、足利義純=あしかが・よしずみ=へ再婚)で、義時とは昵懇の仲でした。

 

 義時は「どうして(重忠が)叛逆を企てるでしょうか。軽率に誅殺すれば必ず後悔します。謀叛の罪があるか否かの真偽を正してからでも遅くはないでしょう」(『吾妻鏡』)と父の言葉を信じなかったのです。

 

 いったん退席して屋敷へもどりましたが、そこに牧の方の兄弟時親(ときちか)がやってきて、「重忠の謀叛のことは露見しています。それなのにあなたは重忠の悪事を許そうというのですか。継母(牧の方)を憎んでいるからそのようなことを申すのでしょう」と責められ、22日、あきらめて義時は、重忠を討つための軍勢を率い、武蔵へ進発しました。

 

 結局、重忠は葬り去られ、鎌倉の重保も郎党三人を連れただけでうまく由比ヶ浜へおびきだされ、三浦義村に討ち取られました。

 

 しかし義時は、重忠率いる畠山勢がわずか100騎あまりで、重忠自身にも戦意がなかったため、謀叛の疑いは冤罪そのものであると確信したのです。

 

 この畠山事件は、稲毛重成の陰謀だとして彼と弟の榛谷重朝(はんがや・しげとも)が誅されましたが、黒幕が時政であるのは明らかでした。
(つづく)

※記事は『「わきまえない女」だった北条政子』から転載し、一部、表現を変えたものです。

 

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 3代将軍源実朝の正室を京まで迎えに行く使者となったのが北条政範。

 

 時政の末っ子で政子の異母弟。母は牧の方です。

 

 従五位下で左馬権助に任じられ、まだ16歳ですが、将来を嘱望されていました。

 

 というのも、時政は若い後妻の子である政範を可愛がり、彼に自分の跡を継がせようとしていたからです。

 

 つまり、このとき義時は跡取り息子ではなかったのです。

 

 ところが、その政範は上洛の道中に発病し、11月3日、京に到着した後、亡くなってしまいます。その事実を知った牧の方が嘆き悲しんだのはいうまでもありません。

 

 跡取り息子を亡くした牧の方にとって、夫の時政を除き、頼りになるのは娘婿の平賀朝雅(ひらが・ともまさ)だけでした。

 

 彼の父は、源義光(頼朝の高祖父義家の弟)の子孫で武蔵守朝雅。

 

 母は比企尼の三女。父母とともにその血筋は申し分ありません。

 

 まず彼が清和源氏の一流であったこと。

 

 その朝雅は頼朝の猶子となって重用されました。

 

 武蔵守に任じられ、母の一族ながら比企氏の追討に加わり、その後、京都守護として上洛。伊賀・伊勢の平氏残党の乱を鎮め、この年の5月には両国の守護職に補任されていたのです。

 

 そうして牧の方最愛の息子政範が亡くなったころ、有力御家人畠山重忠の嫡男重保(しげやす)が京の六角東洞院にあった平賀朝雅の屋敷へ招かれ、そこで酒宴が催されました。

 

 重保も政範と同じく実朝の正室を迎えにきた使者の一人でした。

 

 その酒宴の席上、原因は不明ですが、重保と朝雅の間で激しい口論が交わされました。

 

 2人は互いに同席した者に宥められて散会しましたが、この諍いは尾を引いたのです。

 

 朝雅が義母の牧の方にこの話を告げたのです。

 

 牧の方にとっては最愛の息子を亡くして傷心のところ、頼りとする朝雅から口論相手の重保の悪口を並べたてられ、重保を政範の仇のように思ったのかもしれません。

 

 最愛の息子と同じように上洛したものの、息子は帰らぬ人となり、かたや、重保は娘婿と口論して無事帰ってきたのです。

 

 明けて元久2年(1205)6月、牧の方は畠山重忠父子を誅殺しようと夫の時政と謀議し、時政もそれに乗ったのです。

 

 ずいぶん時政も軽々しく反応したように思えますが、彼には明確な動機がありました。

 

 むしろ、時政にとって朝雅と重保との口論はいい口実になったといえるでしょう。

 

(つづく)

※記事は『「わきまえない女」だった北条政子』から転載し、一部、表現を変えたものです。

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 北条時政の後妻は『愚管抄』に「時政(政)若き妻をもうけて」とあるとおり、かなりの“年の差婚”でした。

 

 いつごろ牧の方が時政の後妻になったのかは不明ですが、政子が源頼朝に嫁いだことと無関係ではありません。

 

 というのも、後妻の牧の方は頼朝につながる女性だったからです。

 

 池禅尼(平清盛の継母)を中心に牧の方と時政の関係をみていきましょう。

 

 禅尼は頼朝の助命を嘆願した女性として知られ、頼朝にとってはいわば恩人。

 

 よって禅尼の息子(清盛の異母弟)の平頼盛は平氏の都落ちに同道せず、鎌倉へ招かれ、頼朝に厚遇されます。

 

 禅尼の実家は藤原姓の貴族ですが、彼女の兄(牧の方の父)が甥頼盛の所領である駿河国大岡の牧(沼津市)の代官をつとめ、牧宗親と称していました(以上、異説あり)。

 

 つまり、牧の方は池禅尼の姪ということになります。

 

 彼女はどうも実朝の嫁(正室)取りに口をはさんだ疑いがあります。

 

 源実朝が「鎌倉殿」になった翌元久元年(1204)7月に頼家が伊豆修禅寺で殺害され、その翌8月ごろ、足利義兼の娘がその第一候補に浮上しました。

 

 義兼の妻は、政子の同母妹の時子。

 

 実朝の御台所となる女性ですから、政子のコントロールの効く縁者が望ましいはずです。

 

 義兼の娘に白羽の矢が立てたのは政子でしょう。

 

 ところが、「(実朝が)受け入れず、すでに京へ(別の正室候補を)申し入れていた」(『吾妻鏡』)といいます。

 

 その別の正室候補というのは前大納言坊門信清の娘。

 

 実朝はのちに『金槐(きんかい)和歌集』の作者となりますが、彼は和歌に通じ、その文化的素養の高さはつとに有名です。

 

 その背景には京の公卿らの文化への憧れがあり、彼に公卿の娘を正室にしたいという思いがあったのは事実でしょう。

 

 しかし、どうやらそれだけではなさそうです。

 

 『北条政子』の著者渡辺保氏は「政子は義兼の娘を望み、牧の方が坊門信清の息女を選んだ」としています。

 

 信清は後鳥羽上皇の母方の叔父にあたり、信清の子の忠清は牧の方の婿の平賀朝雅の娘を妻にしているという関係です。

 

 つまり、実朝の正室候補は牧の方の縁つながり。

 

 政子としても実朝の意思を無視できませんが、この一件で牧の方への警戒感はますます増したことでしょう。

(つづく)

※記事は『「わきまえない女」だった北条政子』から転載し、一部、表現を変えたものです。

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