まず、『日本書紀』が継体天皇を「応神天皇五世の孫」としているのが謎解きのポイントとなります。
「倭の五王」のくだりで述べたとおり、その5代の天皇の間に、実際には応神天皇を祖とする一族から別の一族へ王朝が変わっていますが、『日本書紀』はその断絶を認めず、『釈日本紀』の筆者卜部兼方(鎌倉時代の官人)によって、応神の皇子である稚野毛二派(わかぬけのふたまた)皇子の曾孫を継体として扱い、皇統をつないでいます。
果たして応神天皇の皇子から継体までつながるのでしょうか。
『日本書紀』によると、継体の父彦主人(ひこうし)王は近江高島(滋賀県)に別宅をかまえ、越前の三国から振媛(ふるひめ)という女性を妻に迎えたものの、彦主人王は継体の幼いころに亡くなり、未亡人となった振媛は実家のある越前三国へもどって継体を育てたといいます。
継体の后たちの出自をみると地方豪族の娘が多く、彼自身、越前もしくは近江の豪族出身で、縁戚関係にある豪族に支えられてヤマト入りを図ろうとしたという解釈が成立します。
こうして継体が新たな王朝を開いたという説が登場してくることになったのです。
この流れだと、継体は前王朝との関係を強調するため、事実ではないにもかかわらず、「応神天皇五世の孫」を自称し、ヤマト政権側にも大伴金村のように新王朝の樹立を認める勢力があったことになります。
応神天皇の和風諡号は「ホンダワケノミコト」で、『釈日本紀』の系譜に登場する応神は「凡牟都和希王」と記載され、これを「ホムタワケ王」と読んだため、「凡牟都和希王=応神」と解釈されています。
しかし実際には「ホムツワケ王」と読むべきで、継体天皇が「応神天皇五世の孫」でなかったという新王朝説を後押ししました。
(つづく)
※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。