跡部蛮の「おもしろ歴史学」

跡部蛮の「おもしろ歴史学」

歴史ファンの皆さんとともに歴史ミステリーにチャレンジし、その謎を解き明かすページです(無断転載禁止)

 「聖なる徳をもつ皇太子」として平安時代になってその尊称を与えられた厩戸皇子(聖徳太子)。

 

 昭和59年(1984)に福沢諭吉(現在は渋沢栄一)へ譲るまで、1万円札の”顔“であり続けました。

 

 今回はそのままズバリ、聖徳太子の「素顔」に迫ってみたいと思います。

 

 1万札の原画になったのは「聖徳太子二王子像」。

 

 笏を持ち、帯刀して立つ太子、その左に弟の 殖栗皇子(えぐりのおうじ)、右に長男の 山背大兄王(やましろのおおえのおう)を描いたとされています。

 

 太子が建立した法隆寺に伝来してきたものです。

 

 明治以降、皇室へ寄贈され、現在は「御物」(ぎょぶつ)になっています。

 

 太子の肖像画として最も有名ものです。

 

 ところが、平安時代から、本当にそれが太子の「素顔」を写し取ったものかどうか疑問視されていたのです。

(つづく)

 

※聖徳太子については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。

今からちょうど10年前の5月。

 

主宰する「江戸ぶら会」の皆さんと奈良の葛城を旅し、「高天原」比定地に着いた瞬間、薄曇りの空から陽光がさしこみ、同時に水田から白鷺が舞い上がる神々しい光景を目の当たりにし、感動した記憶があります。

 

そのときふと「機会があったら天皇について書いてみたい」と思い、それが10年越しで実現しました。

 

新刊書『今さら誰にも聞けない天皇のソボクな疑問』です。

 

したがいまして、本書は高天原の話から書き下ろしています。

 

機会がありましたら、ぜひお手にとっていただければと思います。

 

 

 

 松永久秀には覚慶(のちの将軍足利義昭)を保護する意図がありました。

 

 のちに三好一族は本国阿波で匿っていた足利栄(よしひで)を14代将軍として擁立するので、将軍後継者の一人である覚慶を保護する行為は明らかに三好一族のそれと矛盾します。

 

 久秀の本意が三好一族と別だったことがわかります。

 

 その後、久秀は三好一族や嫡男がおこなった将軍殺害という乱暴な行為の汚名挽回のために朝廷に近づき、工作までしているのです。

 

 ただし、覚慶を保護したことは三好一族の利益と確実に相反するため、やがて三好方から久秀を除く動きがでて両者は対立します。

 

 戦国の梟雄といわれる久秀ですが、その動きからは常識的な思考がみてとれるのです。