跡部蛮の「おもしろ歴史学」

跡部蛮の「おもしろ歴史学」

歴史ファンの皆さんとともに歴史ミステリーにチャレンジし、その謎を解き明かすページです(無断転載禁止)

 壇ノ浦で失われた劔の代わりとして、しばらく御所の清涼殿(天皇が生活する御殿)にあった「御劔」を用いることになります。

 

 そして、第84代順徳天皇が譲位した際、伊勢神宮から劔が天皇家へ進じられ、それを神器の「宝劔に准じる(準ずる)」ことになったのです(『禁秘抄』)。

 

 ここにふたたび「三種の神器」が揃ったわけですが、次のドラマは南北朝時代に生まれます。

 

 元弘元年(1331)、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒のために挙兵し、笠置山(京都府笠置町)へ入りました。

 

 このとき後醍醐は三種の神器を持ち出しています。

 

 ただし、鏡は動かせず、皇居内の内侍所に置いたままだったという説もあります。

 

 なお、内侍所は賢所とも呼ばれます。

 

 神鏡を安置する場所で女官の内侍が守護したところからこの名がつきました。

 

 仮にそうだとしても、劔と神爾は後醍醐とともにありました。

 

(つづく)

※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。

 後鳥羽天皇(安徳天皇の異母弟)の践祚について、持統天皇以来、初めて神器なしで天皇になった例として当時の朝廷で問題となりました。

 

 それどころか、壇ノ浦(山口県下関市)で平家が滅んだ際、清盛の妻の二位尼(時子)が神爾をにはさみ、かつ劔を腰に差し、まだ八歳の安徳天皇とともに入水してしまいました。

 

 また鏡は、平重衡(清盛の五男)の妻がともに入水しようとして失敗に終わり、東国の武者らによって回収されます。

 

 そして二位の尼とともに海中に没したはずの神爾は海上に浮び上がり、それもやはり東国の武者によって拾い上げられるのです。

 

 しかし、劔だけは失われてしまいます。

 

 以上は『平家物語』の有名なシーンですが、より信頼できる当時の公卿の日記(『玉葉』)にも神器が失われたこと、さらには回収された神器が帰洛する予定であることが記載されつつ、劔だけがもどってこないことを遺恨に思うと記されています。

 

 劔がこのときに失われたのは史実といえます。

(つづく)

※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。

 ところで、神器を巡つては、日本史上、多くのドラマが生まれています。

 

 それはまた、受難の物語でもありました。

 

 まず、大河ドラマ『光る君へ』にも登場した平安時代の一条天皇の在位中の話からはじめましょう。

 

 御所が火災に遭い、『日本』によると、「神鏡焼損」、つまり、鏡が激しく焼けてしまい、左大臣藤原道長が「あらためて鋳造すべきかどうか」を下の者に尋ねて、参議藤原行成を伊勢神宮に差し遣わし、神鏡焼損について報告させたといいます。

 

 次に神器受難のときは源平合戦のころにやって来ます。

 

 都落ちした平家一門が京から「三種の神器」を持ちだし、第81代安徳天皇(平清盛の孫)とともに西国へ下ったからです。

 

 したがって第82代鳥羽天皇(安徳の異母弟)は後白河上皇の宣命で践祚しました。

 

 宣命は天皇の命令方法の一つですが、このときは非常措置として上皇の意向という形で践祚するしかなかったのでしょう。

 

 しかし、このときには持統天皇以来、初めて神器なしで天皇になった例として当時の朝廷でそのことが問題となっています。

(つづく)

※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。