跡部蛮の「おもしろ歴史学」

跡部蛮の「おもしろ歴史学」

歴史ファンの皆さんとともに歴史ミステリーにチャレンジし、その謎を解き明かすページです(無断転載禁止)

 まず、『日本書紀』が継体天皇を「応神天皇五世の孫」としているのが謎解きのポイントとなります。

 

 「倭の五王」のくだりで述べたとおり、その5代の天皇の間に、実際には応神天皇を祖とする一族から別の一族へ王朝が変わっていますが、『日本書紀』はその断絶を認めず、『釈日本紀』の筆者卜部兼方(鎌倉時代の官人)によって、応神の皇子である野毛二派(わかぬけのふたまた)皇子の曾孫を継体として扱い、皇統をつないでいます。

 

 果たして応神天皇の皇子から継体までつながるのでしょうか。

 

 『日本書紀』によると、継体の父彦主人(ひこうし)王は近江高島(滋賀県)に別宅をかまえ、越前の三国から振媛(ふるひめ)という女性を妻に迎えたものの、彦主人王は継体の幼いころに亡くなり、未亡人となった振媛は実家のある越前三国へもどって継体を育てたといいます。

 

 継体の后たちの出自をみると地方豪族の娘が多く、彼自身、越前もしくは近江の豪族出身で、縁戚関係にある豪族に支えられてヤマト入りを図ろうとしたという解釈が成立します。

 

 こうして継体が新たな王朝を開いたという説が登場してくることになったのです。

 

 この流れだと、継体は前王朝との関係を強調するため、事実ではないにもかかわらず、「応神天皇五世の孫」を自称し、ヤマト政権側にも大伴金村のように新王朝の樹立を認める勢力があったことになります。

 

 応神天皇の和風諡号は「ホンダワケノミコト」で、『釈日本紀』の系譜に登場する応神は「凡牟都和希王」と記載され、これを「ホムタワケ王」と読んだため、「凡牟都和希王=応神」と解釈されています。

 

 しかし実際には「ホムツワケ王」と読むべきで、継体天皇が「応神天皇五世の孫」でなかったという新王朝説を後押ししました。

(つづく)

※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。

 「倭の五王」の時代に皇統が断絶したのだとすると、どの天皇の時代に世襲体制が確立したのでしょうか。

 

 そこで第26代継体天皇の素性が次の問題となります。

 

継体天皇から欽明朝の時代へ

 

 継体という漢風諡号には、体制を継ぐという意味合いがあり、その名のとおり、古代ヤマト政権が6世紀に皇統断絶の危機に見舞われた際、皇統をつないだ天皇と理解されています。

 

 まず当時、皇位継承がかなり混乱していた事実は『日本書紀』からも窺がえます。

 

 武烈天皇には后がなく、皇子もいなかったことから、その崩御後、ヤマト政権幹部で大連の大伴金村が群臣に諮り、まず第14代の五世の孫である倭彦王に白羽の矢を立てようとして失敗し、あらためて越前三国(福井県坂井市)にいた応神天皇5世の孫にあたる継体を迎えることになったとあります。

  

 継体は再三にわたって申し出を断りますが、旧知の河内馬飼首荒籠に説得され、河内国樟葉宮(大阪府枚方市)で即位したというのです。

 

 ただ、すぐさまヤマト入りせず、筒城宮(京都府京田辺市)、弟国宮 (同長岡京市)と御所を転々とし、践祚20年にしてようやくヤマトの磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に入りを果たしました。

 

 ヤマト政権を支える有力豪族の中に継体の即位に反対する一派があり、継体擁立派の大伴氏らと争い、内乱状態にあったため、ヤマト入りが遅れたと読み取れます。

(つづく)

※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。

 倭王讃・珍を履中・反正天皇だと考え、その二人に至るまでは『記・紀』の記載どおりだとすると、「応神―仁徳(父子関係)」さらに「仁徳―履中・反正(同)」と繋がります。

 

 そして、反正と次の允恭との関係がはっきりしない以上、「応神天皇」を祖として「仁徳―履中(讃)―反正(珍)」とつづく河内王朝(古市・百舌鳥古墳群を築造した政権)から何らかの事情で血縁関係の異なる允恭天皇(済)へ継承されたことは否定できません。

 

 その允恭天皇は、その陵(天皇の墓)こそ応神・仁徳朝(河内王朝)の拠点である古市古墳群に比定されていますが、その御所はヤマトの地にもどり、遠飛鳥(奈良県明日香村)で営んでいたという伝承があります。

 

 その次の第20代安康天皇の時代になると陵もヤマトの地にもどり、菅原伏見西陵(奈良市)がそれだとされています。

 

 さらに次の雄略天皇の皇居は泊瀬朝倉宮(奈良県桜井市)、その次の第22代清寧天皇は磐余甕栗宮(同橿原市)、第23代顕宗天皇が近飛鳥八釣宮(同明日香村)、第24代仁賢天皇は石上広高宮(同天理市)、第25代武烈天皇が泊瀬列城宮(桜井市)となっています。

 

 この陵や皇居の場所からも、河内王朝が断絶し、ふたたび本拠地をヤマト(三輪を中心とするエリア)とする王朝が誕生したようにみえます。

(つづく)

※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。