大岡越前は、伊勢山田奉行時代に紀州藩領の松阪との領地争いで名裁きをおこない、当時、紀州藩主だった吉宗の耳にその噂が入ったといいます。
そして、享保元年(1716)に吉宗が将軍になった翌年、忠相を江戸町奉行(南町奉行)へ抜擢したとされています。
ちなみに、このとき忠相は越前守となっています。
忠相、四十一歳の働き盛りのころです。
しかし、のちの大岡裁きのルーツともいえそうな松坂・山田の境界争いもまた、事実ではありません。
山田奉行には、他領(紀州藩)との争いを裁く権限がなかったからです。
どうやらこの話も、吉宗が越前の能力を高く買い、彼を重用した事実から後付けされた話のようです。
元文元年(1736)、越前は大名の役職である寺社奉行に就き、その後、本当に一万石の大名にまでのぼりつめますが、彼が寺社奉行に就くまで十九年間、町奉行の職にありました。
異例の長さといってもいいでしょう。
その間、彼は目安箱への建議にもとづく小石川養生所の開設、町火消制度の創設、関東地域の新田開発などを実現し、「享保の改革」をおこなう将軍吉宗を支えます。
講談や歌舞伎・落語の世界を除き、彼の名奉行ぶりを示す実例は残っていませんが、それだけの間、町奉行の職にあったのはやはり彼の裁きが公正だったからでしょう。
だとしたら、彼を慕う庶民の心が“名奉行大岡越前”を生んだといえるのではないでしょうか。
(つづく)
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