主な守護大名が京都を舞台に東軍と西軍にわかれて戦った「応仁・文明の乱」(1467年~1477年)。
この大乱によって幕府の権威は失墜し、この乱をもって戦国時代の幕開けとするのが通説です。
しかし、大乱ののち幕府の屋台骨は揺らぎつつも、まだその体裁は保たれていました。
そこへ、あらたな戦乱のタネを撒く人物が登場します。
その人物こそが、細川政元です。
応仁の乱の渦中、文明五年(1473)に東軍大将・細川勝元(幕府管領)が死去したあと、細川本家の家督を継いだのが政元(勝元の嫡男)でした。
各史料は異口同音に彼の異常な性格をあげつらっています。
まず政元は四十歳のころまで女人と交わりませんでした。
この時代、男色は決してめずらしくありませんが、彼の場合、それがのちに大きな事件を招くのです。
その事件については後述しますが、ほかにも彼には奇矯な振る舞いが多かったようです。
『応仁後記』はこう記しています。
「魔法飯綱の法、愛宕の法を行ひ(中略)経を誦し、陀羅尼を呪し、さながら出家のごとく、山伏のごとくなれば、見る人聞く人、みな身の毛をよだつばかりなり」
政元は修験道にはまり、身の毛もよだつような修法をおこなっていたというのです。
しかも彼は、その魔法によって空へ舞い上がり、「空中に立たん」(『応仁後記』)としたといいます。
まさに乱世の幕開けを告げるに相応しい人物といえるでしょう。
(つづく)
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