中国の古代・戦国時代は紀元前404年から同221年まで、およそ二〇〇年間続きました。
日本でも、中国より遅れること五〇〇年。当時の日本の文明圏だと考えられる畿内以西において、各地域(国)が戦乱を繰り返していたわけです。
それが「倭国大乱」と呼ばれ、「空白の二世紀」はいわば日本の古代・戦国時代にあたると思われます。
その倭国大乱は、たとえば、「倭国王師升」が生口を後漢に献じた永初元年(107)を起点にすると、七~八〇年たった二世紀の終わりごろ、邪馬台国の卑弥呼の登場によって終焉することになります。
それなら卑弥呼は、中国の戦国時代を統一した秦の始皇帝と同じような存在だったのでしょうか。
大乱のあと、『魏志倭人伝』によりますと、
「共に一女子を立てて」
つまり、諸地域の支配者(首長)層の中から卑弥呼が「共立」される形で連合国家の「女王」に選ばれたことがわかります。
秦の始皇帝のように武力で統一したわけではなかったのです。
当時の「倭国」においては、前述したように有力な諸地域が連合し、その連合国家の名のもと、服従しない地域を征服していった時代でした。
しかし、その連合国家の「王」となった「師升」は男王であり、連合国家を構成する諸地域の首長の中には「師升より我こそが倭国王に相応しい」という野心を抱く者が出てくる可能性はあります。
そこで「ポスト師升」を巡る連合国家内の争いが、戦乱の時代に拍車をかけ、世が乱れてしまったといえないでしょうか。
その意味でいうと、邪馬台国の王は「女王」であり、野心を剥きだしにする男たちの争いを鎮め、「倭」という連合国家を維持するための苦肉の策として「女王卑弥呼」が「共立」されたとも考えられます。
(つづく)
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